何故 さかのぼれないか
何故 低い方へゆくほかはないか
組曲「水のいのち」第3曲「川」の衝撃的な歌い出しだ。
第2曲「水たまり」とともに、高野喜久雄の既存の詩から作曲家が選びとったのがこの詩である。
先に掲げた拙文でも触れたように『「読む詩」から「きいてわかる詩」になおして』もらったと田三郎は述べている。
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「水のいのち」考
「水のいのち」考(2)...「水たまり」
ではその原詩はどのようなものだったのだろうか。
詩集のページを開いて ─ 私は驚きを隠せなかった。
川
高野喜久雄
何故 さかのぼれないか
何故 低い方へとゆくほかはないか
今日も
川はその河床をえぐり
その岸辺をけずる
川は 川でなくなることを願う
この情熱の 不条理はいつも 美しい
しかし
もっと美しいのは そのかくされた苦しみだ
鋸き割ろうとして ついに
右と左に お前が鋸き割れなかったものは何か
「それは 大地でさえなかった」
いつでも
わたしはそれを考えている
考えながら
同じく苦しい者として お前をよこぎる
お前が流れをくだるとき
必死にうつした 空を見る
雲を見る 鳥を見る
お前が流れをくだるとき
必死に育てた 渦を見る
淵を見る 魚を見る
その空が 何であれ
その魚が 何であれ
お前の問われているものを
わたしは わたしの挫折の中でになう
わたしの胸の岩の中でになう
(高野喜久雄詩集(思潮社刊)〜「存在」所収)
3行目以降が組曲の歌詩と全く異なるのである。『なおした』というレベルにはもはや思えない。
原詩を、「水のいのち」の歌詩にできるだけ“引っ張られないように”注意しつつ読んでみる。
倦むことなく自らの底を、また岸をも削ってゆく川の“自己消滅への運動”に詩人は「美」を見る。
しかしもっと美しいものがある、と。
それは『かくされた苦しみ』、表面にあらわれることのない内なる葛藤である。
川の巨大なエネルギーをもってしても鋸き割れなかったものとは何だろう...
『お前が流れをくだるとき』以降、川は観察対象から共感の存在へと変化する。
(空、渦、淵、魚...ここで歌詩と共通のワードが現れて私は少しほっとするのだ)
『お前の問われているものを/わたしは わたしの挫折の中でになう』...詩の冒頭に掲げられた命題を詩人みずから引き受ける、と力強く宣言してこの詩は終わる。
一息いれて、改めて歌詩を眺める。
すぐに気づくのは『こがれ』という言葉の存在だ。
・こがれ【焦がれ】: こがれること。恋い慕うこと。
(広辞苑 第五版より引用)
原詩にはないこの語が、全17行の歌詩の中で7回も登場するのだ。
田三郎がいかにこの言葉を大切に思っていただろうかに思いを馳せる。
また歌詩の中では、石は『さからう』ものとして、魚は『さかのぼる』ものとしてうたわれている。
たとえ到達せずとも志向することこそが肝要なのだ...これも作曲家からのメッセージであろうか。
最後に、田自身による「川」の解説の一部をここに掲げる。
『(...)川がこがれているのは山であり、その切り立つ峰であり、その彼方の青い空なのだ。川底の石も水の流れに作用されて上流へと転がりのぼり、魚も力強く水中をさかのぼっていく。
それら、川上へのぼろうとするものすべてをみごもっている川が何であるかと尋ねることはもういらない。それは私自身なのだ、と繰り返してこの楽章は結ばれる。』



