きょう9月4日はブルックナーの誕生日(1824年生まれ)。ベートーヴェンと並んで私がもっとも好きな交響曲作曲家です。 おととし9月、(おそらくは生誕200年にちなんで)《サヴァリッシュ ブルックナーを語る》という番組が再放送されました。NHK交響楽団名誉指揮者のヴォルフガング・サヴァリッシュが対談形式で、ときにピアノ演奏を交えながら、第8交響曲を題材としてブルックナーの音楽の真髄を解き明かすという好企画です。(聞き手: 前田昭雄氏、初回放送は1980年) 不肖私は日本語の字幕テロップを追うことしかできませんが、それでもマエストロの一言一句はこの大作曲家への深い愛と敬慕の情に溢れており、受け手の心を震わせる素晴らしいものです。 ここにその言葉を(その目的の半分は私自身の理解のために、ですが)文字にしてみようと思い立ちました。 [括弧付きで掲げた見出しは小澤が考えたものです。そして切れ切れの字幕を読みやすくするため、言葉遣いとその繋がりに最小限の加筆修正を施しました] 【ブルックナーにとっての“神”】 (深く大きなブルックナーの交響曲を受け止め理解するための助言を ─ の問いに対して) まず考えておかなければならないことは、ブルックナーが創作家として全く孤立した存在だということです。前にも後にもつながらない独自の世界の人だったのです。これでもう、この作曲家の偉大さについて決定的な点を言ったことになります。 作品の大きさ、すなわち曲の長さにしても、第1番の交響曲ですでに50分を越える長さです。これは彼がたどった人生、生い立ちと関係があるといえます。生活の静かさ、質素なこと、そして特に重要なのは神に対する態度、宗教的立場です。 これは全く表朴なもので、キリスト教とか教義、神学とか内面の悩みなどといった難しいことではありませんでした。彼にとっては根本的には「神」...それも自然に現われる神、バロックの寺院に現われるような神が重要なのでした。そういう巨大で厳粛な空間、同時に心を落着かせる空間、初めから人生をこういう場だと彼は考えていたのです。 ですから、仕事も自分の力で動かせるものではなく、上から与えられた必然だと考えることが当たり前になる。当然、創作もこの必然に従うことにすぎないのです。 ブルックナーは人生の最初から、この絶対の秩序を認め承服しました。ただ単純に神の偉大さ、全能の力を感じ、認め、感謝の作品を作り上げたのです。 【ブルックナーの交響曲の“息の長さ”】 結局、ブルックナーの交響曲は信じられない程の息をはらんでいて、これを一緒に息することを聴き手にも要求しているのです。前のことも後のことも忘れてただ今起こること...無限の静と大きさのうちに起こることに集中する...これを聴き手に要求しています。 第8交響曲の場合、テーマの出し方がすでにそうです。普通なら2小節か3小節でテーマが出てくるのに、ブルックナーではずっと長い時間を必要とする。テーマを提示するのに時がいるのです。 (第1楽章をピアノ演奏によって解説する) ブルックナーを理解するのに絶対必要なのは「急がせる、せき立てることが音楽にない」ということです。いらいらして駆り立てることがない。この人はそういうことを知らなかった。 ブルックナーはいら立ちや不満を知らない稀な存在です。シューベルトでさえある作品では駆り立てるような要素を持っている。 ブルックナーを聴くときは、現代の忙しさ、性急さを知らなかった人だということをよくわきまえる必要があります。彼は全く表朴で純真だったから、こういうことができたのです。 【聖域へと向かうゼクエンツの“扉”】 ブルックナーが一つの頂点へ向けて弧線を始めるとき、つまり一つの波の端緒につくときには「さあ自分が、この私が」という自負がない。「見せてやる」という気負いがない。全く反対です。 喜びの期待の心に満ちて、扉を一つまた一つと開けて進むようなものです。まず初めの部屋、次はもっと美しい部屋、その次はもっと美しい荘厳な部屋、もっと荘厳な部屋...そして最後は「聖城」になります。 聖域に近づくにつれて、はじめの扉は急いで開けても、進む毎に緊張が高まり、静かに、敬虔になるのです。ブルックナーの音楽の反復ごとに敬虔な集中が高まるのも全く同じことです。 彼は小さなゼクエンツによって次々と新しい扉を通り抜けていく。そしてついにはザラストロの言う「至高の光の中の聖殿」に到るのです。 【内から満たされる音楽の輝き】 心情の内面性について、あの第3楽章アダージォの主題の深みを考えます。しかし、旋律の内面性について話すとなると、全く言葉には表わせないものがあります。 この第8交響曲のアダージォで彼が書いた音楽は他に類をみないようなものです。 (第3楽章第1主題を弾きながら) このような主題は他の誰が書けたでしょう。 はじめの2小節は和音だけ…ただ同じ和音が流れる... そして自分の心を整える。そして流れるのは言い難い何か…この小さな半音のゆれ… これはあまりに深く感じられているので、逆説になりますが「感じられている」とはもういえない。求められて見出された感じではなくて、「こうでなければならない」というものです。 この小さな動機から進んで、あのハープが鳴る...彼の交響曲では初めて使われた天上的なハープです。 (ハープのパッセージを演奏する) これは偽りのパトスが全くない世界です。押しつけることがない、意識的に求めることもしない、全く内面的な心情の流れです。心から沸き出て来るものです。理性から与えられるのではなく、自分はこう書かねばならぬという単純な心の要求です。 この単純さが聴く人の心の中にもあって欲しいと思います。ブルックナーの音楽を聴く内面の準備として... |
2026年09月04日
サヴァリッシュ、ブルックナーを語る
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2026年08月27日
新たな一章
![]() 節目の年を迎えました。 メッセージをお寄せくださったみなさま、ありがとうございます。 一年一年を悔いなく歩んでゆこうと思います。 これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。 2026. 8. 26. 小澤和也 As I begin another chapter of my life, Thank you very much to everyone who has taken the time to send me such warm and thoughtful messages. I intend to continue moving forward, making the most of each and every year, with no regrets. I look forward to your continued support and friendship. August 26, 2026 Kazuya Ozawa |
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2026年08月17日
ペーテル・ブノワの誕生日に

非営利法人 ペーテル・ブノワ財団
第20回記念祭(1926)のパンフレット
きょう8月17日はベルギーの作曲家ペーテル・ブノワの誕生日。
ブラームスやサン=サーンスと同世代、盛期ロマン派の時代を生きたブノワの生涯をコンパクトにまとめました。
【1. 修業時代〜ローマ大賞受賞】
ペーテル・ブノワは1834年8月17日、西フランデレン州の小都市ハレルベーケに生まれました。父から音楽の手ほどきを受けたのちブリュッセル王立音楽院に入学、F.-J.フェティスに作曲を学びました。
卒業後の1857年にカンタータ《アベルの殺害》でベルギー・ローマ大賞を受賞しドイツ諸都市へ留学を果たします。滞在中に《アヴェ・マリア 作品1》や《クリスマスカンタータ》などを書き上げ、作曲家としての歩みを本格化させました。
【2. ブノワのパリ時代】
その後ブノワはオペラ作曲家としての成功を求めて1859年にパリへ移りますが、激しい競争の中で名声を得るには至りませんでした。それでもいくつかのオペラやピアノ曲集《物語とバラッド》、さらに《フルートと管弦楽のための交響詩》《ピアノと管弦楽のための交響詩》(彼は協奏曲をこのように呼びました) などを生み出し、故郷の伝説を題材とする独自の表現を試みました。
オッフェンバック主宰のブフ・パリジャン劇場の指揮者として活動するかたわら《荘厳ミサ》《テ・デウム》《レクイエム》を相次いで作曲します。これらの宗教曲はブリュッセルで高く評価され「ベルギーで最も有望な作曲家」として注目を集めました。
【3. フランデレン文化の復権を目指して】
1863年に帰国したブノワは、詩人エマニュエル・ヒールとの交流を通じ次第に民族主義的音楽理念を育んで行きます。オラトリオ《リュシフェル》で国内的名声を確立し、翌1867年にはアントウェルペンに設立された音楽学校の校長に就任しました。ここで彼は教育活動に尽力し、母語であるフラマン語と民謡とを音楽教育の中心的モットーに据えたのでした。オラトリオ《スヘルデ川》はさながらフランデレンの歴史絵巻を見るような壮大な美しさをもった佳作です。
【4. 作風の大転換】
1870年代前半には反戦オラトリオ《戦争》や歌曲集《愛の悲劇》など、前衛的な和声を多く用いた神秘的・主観的な作品が発表されますが、やがて彼の作風はより大衆的な方向へと大きく転換し、ネーデルラントの歴史的人物や事件を題材とした大規模なカンタータに結実しました...その代表が《ルーベンスカンタータ》です。合唱、大管弦楽、直管トランペット、さらにはカリヨンを加える壮大な編成のこの曲はフランデレン人の誇りを示す象徴的作品となりました。
【5. 栄光に満ちた晩年】
ブノワはフランデレン歌劇場を設立、そして1897年には自らの音楽学校が王立フランデレン音楽院へと昇格します。かくして首都ブリュッセルと並ぶ音楽的地位がここにようやく築かれました。
1901年3月8日、アントウェルペンにてペーテル・ブノワ死去。
彼の生涯は、芸術活動と教育を通じてフランデレン文化の自立とアイデンティティ確立に捧げられたものでした。
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2026年07月31日
ブノワを知る10曲 (9)

歌曲集《人生における愛》
【ブノワとフラマン語歌曲】
パリから帰国したブノワは、自由主義詩人のエマヌエル・ヒールから影響を受けてフラマン語(=フランデレン地域で話されるオランダ語)をテキストとする作品を書き始めました。
1865年の《3つの歌曲》では村の若い男女が愛をささやき、陽気な老人が人生の徳を説いて聞かせます。ほのぼのとした牧歌的な作品です。
その翌年には《リュシフェル》、1868年には《スヘルデ川》とオラトリオの大作を続けざまに発表しました。
〜詩人ヒールについて、この頃のブノワの活動についてはこちらも〜
ブノワを知る10曲(5) 《スヘルデ川》
kazuyaozawa.com/s/article/191030165.html
1870年、ヒールは61編の詩を収めた詩集『人生における愛』を出版します。ブノワはこの中から10あまりの詩に曲をつけました。
【歌曲集《人生における愛》】
《私の心はこれほどに揺れ動く》《小さなバラはやさしい香りを放ち》《おお、来ておくれ、愛しい人よ》《歓びと苦しみの夢》《母》《傷ついた心は安らぎを求める》etc.
これらのタイトルからも分かるように、ブノワ&ヒールによるこの歌曲集は、人生における「さまざまな愛のかたち」を描いています。
初期のフラマン語歌曲と同様に有節歌曲の形式(例: シューベルト《のばら》)で朗らかに歌われる作品がある一方で、よりロマンティックな、物語の展開に寄り添うバラード的な通作歌曲の形(例: 同《魔王》を持つものも多く見られます。
特に後者は、のちに書かれる歌曲集《愛の悲劇》やオラトリオ《戦争》に見られる前衛的な和声を多く用いた神秘的・主観的なスタイル、1870年代前半のブノワの新たな作風へと繋がってゆくようにも思われます。
【拙訳《母》】
これを書いている今、私の心にもっとも響いている歌曲《母》の日本語訳を以下に掲げます。
男女の恋愛感情が母性愛というより大きなそれへと包み込まれ超克されるものとして描かれています。
《母》
おお、その前では情欲も沈黙するそなたよ
乳のしずくがそなたの乳房を伝い
愛という布を染みとおるように流れ
幼子の渇きを潤すそのとき、
そなたは何と美しく喜びに満ちていることか!
甘やかなる何かがそなたの夢見るような瞳を包み、
そなたが幸福に満ちていることを物語っている。
それはまるで、
澄んだ水面に映し出された己の姿を
喜びをもって見つめるガゼルの瞳のようだ。
そなたはその愛らしい幼子の
すでに清らかな愛の宿る
その無垢でいたいけな顔のなかに
泉に映るそなた自身の面影を見てはいないだろうか?
私はもはやそなたの心から消えてしまったと感じる。
それでも私の心は嘆きはしない。
ひとりの幼子がそなたの膝に抱かれ、
そなたはいっそう深くその子を慈しむであろう。
男の愛がそなたにもたらした
燃え立つ情欲の激しい嵐よりも。
おお、神聖なる、三たび神聖なる存在よ、
肉なる生命がそこからかくもみずみずしく生まれ出る。
おお、そなたのまなざしの中に
そなたの魂を養うよろこびを読み取らせたまえ、
美しいこの世界への愛によって。
その間にもそなたの乳房には
乳が真珠のように、このうえなく清らかに滴り、
幼子はその胸で身をよじっている。
そしてそなたは優しく、しかし心の奥深くで感じるに違いない。
母であること、それこそが不滅なのだと。
【参考音源】
ウェルナー・ファン・メヘレン(バリトン)、ヨゼフ・デ・ベーンハウウェル(ピアノ)
(2001年録音)
Phaedra 92026/2
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2026年07月16日
ブノワを知る10曲 (8)
![]() 抒情劇《ヘントの和約》 完成: 1876年7月、アントウェルペン 初演: 1876年9月3日、ヘント市立劇場 出版: ペーテル・ブノワ財団 【ヘントの和約とは?】 スペインと八十年戦争 (1568-1648) を戦っていたネーデルラント17州は、フェリペ2世および総督アルバ公による圧政に対抗し、1576年にヘントにおいて歴史的な協定を結びます。これはカトリック対プロテスタントの宗教対立を一時的に棚上げし、スペイン軍の撤退と諸州の団結を目指したもので、後のネーデルラント独立運動の重要な転機となりました。 この和約は3年後の分裂によって事実上失効しますが、19世紀後半のフランデレンにおいては民族的統一の象徴として神話的な評価を受けるようになっていました。 【作品成立の経緯】 1876年、ヘント市が和約300周年を祝う式典を開催しました。同市出身の作家エミール・ファン・フーテムは5幕8場からなる長大な歴史劇を書き、ブノワがそれに音楽を付けました。彼はこの作品を“Lyrisch Drama”(抒情劇) と呼び、以後抒情劇はブノワの創作における主要なジャンルのひとつとなります。 【物語と音楽】 劇台本はおおむね史実に基づき、そこにカトリック貴族の青年ヨーリスと彼の恋人アンナ、ヨーリスの父ダニエルによる架空の物語が織り込まれつつ進んでいきます。 音楽は序曲と5つの場面が出版されています。 (1) 序曲 [16世紀、ネーデルラントの貴族と民衆によるスペインの暴政への闘争] 冒頭、ティンパニとバスによる減五度の不吉なモティーフと、弦楽器のうねるような半音階進行の不気味な響きで始まります。2分の3拍子、内在するサラバンドのリズムはスペインを暗示しています。 次いで4分の12拍子に変わり、崇高さの中に哀愁をたたえた新しいメロディ (和約のモティーフ) が現れます。有名な「モルダウの主題」や「フィンランディア讃歌」に匹敵する、美しく印象深い旋律です。 (2) アンナとヨーリスの愛の場面 第2幕への前奏曲。甘美な愛のメロディがはじめ管楽器で、のちにチェロやヴァイオリンも加わり綿々と歌われます。 (3) オラニエ公ウィレムの肖像 [祖国愛、苦難、高貴さ、そして英雄的精神] 第4幕への前奏曲。ヘントの和約の中心人物である沈黙王ウィレムの決意と苦悩が巧みに描かれています。 オラニエ公の主題はオラトリオ《スヘルデ川》でも用いられたもので、後に新たに詞がつけられ《フランデレン人の歌 (Het Lied der Vlamingen)》の題名で愛唱歌となりました。 (4) アルバ公のブリュッセル入城 第2幕の幕切れ、プロテスタント弾圧政策を進めるアルバ公がブリュッセルへと進攻する場面の音楽。 ファンファーレと太鼓に続いて、スペイン兵の合唱が 『フランデレンの自由に死を!』 と声高に叫びます。 (5) 乞食党の歌 第1幕の大詰め、ネーデルラント貴族たちの集会の場。 スペイン総督の側近が自分たちを「あの乞食ども」と呼んだことを知った貴族たちは、この蔑称を敢えて自らの誇り高き組織名として用い、“Geuzen (ヘーゼン)“=乞食党を名乗ると決めます。 『粗末な食卓で塩とパンを分け合いながら 乞食党は死ぬまで互いを助け 忠誠を尽くすことを誓った 喜びの日にも、悲しみの日にも』 (6) 和約の祝典 ─ 民衆の祭り [貴族たちの行列、ギルドおよび修辞家団体の行進〜彼らに随行する笛吹きたちと道化師たち〜民衆の歓喜] 一転して、祝賀のムードにあふれた華やかな音楽が鳴り響きます。 民衆の歌声: 『自由!そして解放! スペイン人を追い払え! 祖国は救われた!』 『ネーデルラントよ、歓喜せよ 常に主なる神に感謝せよ 神は大いなる恵みをもって 天より甘き平和を授け われらの民を祝福したもう』 【参考音源】 ファンデンブルーク指揮、VRTフィル (1996年録音) Marco Polo 8.225100 「乞食党の歌」を除く5曲を収録、また第4曲および終曲の合唱も省かれています。 |
posted by 小澤和也 at 19:10| Comment(0)
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