2025年10月25日

ヨハン・シュトラウス生誕200年


1825年、今からちょうど200年前の10月25日 ─
「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス、ウィーンに生まれる。

私が最初に(6-7歳頃だっただろうか)大好きになった作曲家である。父にせがんでシュトラウスのレコードをかけてもらったことをよく憶えている。ボスコフスキー&ウィーンフィル、特製の青い樹脂ケースに収められた2枚組のLP盤であった。

彼の音楽を『母乳のようなもの』と評したのは志鳥栄八郎だったか。私にとっても真にそうである。私を音楽の道へと(ベートーヴェンやモーツァルトよりも先に)いざなってくれたのは、シュトラウスの柔らかく心地よい肌触りのメロディだったのだ。

彼の作品から一曲だけ選べと言われたら、私は迷わず「南国のばら」を挙げる。ロマンティックかつ絢爛たる序奏部、溢れる気品のなかに微かに憂いを含んだワルツ主題たち、そしてコーダ最終盤において主調(ヘ長調)にて回帰する第4ワルツ後半の旋律の高揚感...どれもがこのうえなく私の心を震わせるのだ。
オーケストレーションのセンスも忘れてはならない。とりわけホルン、ハープおよびトライアングルの用法の素晴らしさはいわゆる「実用音楽」の域をはるかに凌駕していると思う。

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小澤和也 音楽ノート より
「母乳のような音楽」 (2012/8/7)
posted by 小澤和也 at 23:37| Comment(0) | 日記

2025年10月04日

「水のいのち」考

私が田三郎の「くちなし」と初めて出会ったのは2020年秋のことである。やわらかく美しい旋律線、そして厳しくも一途な高野喜久雄の詩が私の心を強く打った。
また、歌曲の歌詩と高野の原詩との微妙な差異に気づくなかで、この作曲家が詩の “佇まい” にいかにこだわったかを改めて認識するとともに、このコンビによる不朽の名作、合唱組曲「水のいのち」においてすでに二人の間で同じようなやり取りが行われていたことを知る。
(「水のいのち」の詩についてもその変遷をじっくりと味わいたい...)
と、そのときの私は思ったのだった。

拙ブログ (小澤和也 音楽ノート) より
《3つの「くちなし」》

そして ─
その機会がようやく訪れた。
来春の演奏会に向け、御殿場市の合唱団「富士山コール・アニバーサリー」のみなさんと「水のいのち」を手がけることになったのだ。


1964年の初め、田三郎はある雑誌を介して高野喜久雄の「海」と出会う。

『みなさい
  これを  見なさい  と云いたげに
最後の二行を読んだ時、私は、「これではないかな?」と思った。
「待っていた言葉はこれか?」
「これでいいか?」
私は、繰り返しくりかえし読んでみた。』
(田三郎著: 随想集「くいなは飛ばずに」〜「ある出会い」より引用)

田はこの
みなさい/これを 見なさい
を、われわれ人間に対する海からの永遠の問い掛けの言葉として聞いた。

『〜それらすべてをこめて私は、ある音型をこのことばにあたえ、また、その音型をハミングにより曲の最初から使用することにした。波の音を暗示するものとして。』
(同上)


こうしてまず「海」が作曲された。
その後、田のもとに合唱組曲作曲のオファーが訪れる。
彼は高野の詩から「水たまり」「川」を選んで付曲し、さらに「雨」「海よ」を新たに書き下ろしてもらい、ここに組曲「水のいのち」の姿が立ち現れることとなる。


以下の詩は1966年刊行の「高野喜久雄詩集」に収められているものである。
語句の変更はないが、仮名遣いや改行、一文字余白の置きかたは「水のいのち」楽譜巻末に掲げられたものと若干異なっている。
詩の佇まいへの二人の “こだわり”、そして彫琢の痕跡をここに見ることができる。


高野喜久雄

空を うつそうとして
波ひとつ無く 凪ぐこともある
岩と 混じれなくて
ひねもす たけり狂うこともある

しかし 凡ての川はみな
そなたを指して 常に流れた
底に 沈むべきものは沈め
空に 返すべきものは空に返した

人でさえ 行けなくなれば
そなたを 指して行く
そなたの中の 一人の母を指して行く
そして そなたは
時経てから 充ち足りた死を
そっと 岸辺に打ち上げる
見なさい
これを見なさい と言いたげに
posted by 小澤和也 at 08:35| Comment(0) | 音楽雑記帳

2025年09月27日

ブノワ「レクイエム」、始動

ペーテル・ブノワ
 「レクイエム」日本初演

来春の演奏会へ向けてのプローベが始まった。
途方もなく長かった構想の日々、力強い協力者を得てからの入念な準備期間を経て、これまた最高の仲間たちとともにこの日を迎えられたことに心からの感謝を。

第1曲「レクイエム」冒頭の男声合唱は神秘的に、ときに虚ろに響く。続く“Kyrie”(主よ憐れみたまえ)での大小コーラスの交唱はこれと対照的に、深い慈愛の情をもって滔々と流れゆく。ブノワが好んで用いた二重合唱による筆致が早くも活かされる場面だ。

─ とは言えプローベはまだ始まったばかり。はやる気持ちを抑えつつ前へ進む。

第2曲「怒りの日」はモーツァルトやヴェルディがそうしたように、叩きつけるような激しい楽想で始まる。この章では二重合唱によるポリフォニーの綾とともに、ユニゾン(斉唱)が不気味な効果をあげるのだ。
音楽は中間部に差し掛かる。全曲中で私のもっとも愛する“Recordare”(思い出したまえ)、無伴奏のコラール主題を聴く。
(ああ...ブノワの響きがする...)
思わず頬が緩んだ。

〜Recordare冒頭、こちらからお聴きいただけます〜

これから半年をかけ、ブノワが音で描いた「神の世界」へ一歩一歩近づいていきたいと思う。


PBIヴォーカルアンサンブル 第2回演奏会
PETER BENOIT
REQUIEM 〜レクイエム〜
2026年3月20日(金・祝) 14時開演
たましんRISURUホール(立川市市民会館)大ホール
posted by 小澤和也 at 10:04| Comment(0) | 日記

2025年09月10日

演奏会のごあんない

来年3月に立川にてペーテル・ブノワ作品による演奏会を開催いたします。

ペーテル・ブノワ(1834-1901)はベルギー、フランダース地方出身の作曲家です。今回取り上げる「レクイエム」は大小二群の混声合唱を用いた立体的な音響を特徴とする佳作で、今回が日本初演となります。


PBIヴォーカルアンサンブル 第2回演奏会
PETER BENOIT
REQUIEM 〜レクイエム〜

2026年3月20日(金・祝)
14:00開演
たましんRISURUホール(立川市市民会館) 大ホール

プログラム:
レクイエム(日本初演)
フルートと管弦楽のための交響詩 作品43a(日本初演)
アヴェ・マリア 作品1
以上 すべてペーテル・ブノワ作曲

出演:
PBIヴォーカル・アンサンブル
PBI管弦楽団2026
岩下智子(フルート)
小澤和也(指揮)

チケット: 
全席自由 3000円 (未就学児入場不可)
主催: 
ペーテル・ブノワ研究会(Peter Benoit Instituut)
お問い合わせ: 
ペーテル・ブノワ研究会事務局
pbi340817@gmail.com


おひとりでも多くの皆さまにペーテル・ブノワとその作品を知っていただけますよう願ってやみません。
皆さまのご来場を心よりお待ち申し上げます。
posted by 小澤和也 at 14:58| Comment(0) | 演奏会情報

2025年08月17日

1000文字(とちょっと)で読む 「ペーテル・ブノワの生涯」

我がライフワークであるペーテル・ブノワの誕生日に寄せて、1000文字強で彼の生涯について書いてみました。


ベルギーの作曲家ペーテル・ブノワは、フランデレン音楽史において極めて重要な存在です。彼は1834年8月17日、ベルギー西部のハレルベーケに生まれました。父から音楽の手ほどきを受けたのち、1851年にブリュッセル王立音楽院に入学、F.-J.フェティスに作曲を学びました。
卒業後の1857年にカンタータ「アベルの殺害」でベルギー・ローマ大賞を受賞しドイツ諸都市へ留学を果たします。滞在中に「アヴェ・マリア」(作品1) や「クリスマス・カンタータ」などを書き上げ、作曲家としての歩みを本格化させました。

その後ブノワはオペラ作曲家としての成功を求めて1859年にパリへ移りますが、激しい競争の中で名声を得るには至りませんでした。それでもいくつかのオペラやピアノ曲集「物語とバラッド」、さらにフルートやピアノのための交響詩 (彼は協奏曲をこのように呼びました) を生み出し、故郷の伝説を題材とする独自の表現を試みました。
1862年にはオッフェンバック主宰のブフ・パリジャン劇場の指揮者となり、その傍ら「荘厳ミサ」「テ・デウム」「レクイエム」などを相次いで作曲します。これらの宗教曲はブリュッセルで高く評価され「ベルギーで最も有望な作曲家」として注目を集めました。

1863年に帰国したブノワは、詩人エマニュエル・ヒールとの交流を通じ次第に民族主義的音楽理念を育んで行きます。1866年作曲のオラトリオ「リュシフェル」で国内的名声を確立し、翌1867年にはアントウェルペンに設立された音楽学校の校長に就任しました。ここで彼は教育活動に尽力し、母語であるフラマン語と民謡とを音楽教育の中心的モットーに据えたのでした。1869年初演のオラトリオ「スヘルデ川」はさながらフランデレンの歴史絵巻を見るような壮大な美しさをもった佳作です。

1870年代前半には反戦オラトリオ「戦争」や歌曲集「愛の悲劇」など、前衛的な和声を多く用いた神秘的・主観的な作品が発表されますが、やがて彼の作風はより大衆的な方向へと大きく転換し、歴史的人物や事件を題材とした大規模なカンタータに結実しました...その代表が「ルーベンス・カンタータ」(1877年) です。合唱、大管弦楽、直管トランペット、さらにはカリヨンを加える壮大な編成のこの曲はフランデレン人の誇りを示す象徴的作品となりました。

ブノワは1893年にフランデレン歌劇場を設立、そして1897年には自らの音楽学校が王立フランデレン音楽院へと昇格します。かくして首都ブリュッセルと並ぶ音楽的地位がここにようやく築かれました。
1901年3月8日、アントウェルペンにてペーテル・ブノワ死去。
彼の生涯は、芸術活動と教育を通じてフランデレン文化の自立とアイデンティティ確立に捧げられたものでした。

(完)
posted by 小澤和也 at 22:51| Comment(0) | 日記