今日1月25日は、僕の敬愛する大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの誕生日にあたる(1886年生)。 仕事から帰ったら、久しぶりにじっくり腰を据えて何か聴こう… などと考えながら一日を過ごす。 そして夕方。 自室にて「WFバースデーコンサート」、開催! まず1曲目は… ヴェーバー/「魔弾の射手」序曲 (BPO,'35年録音) しなやかな歌、そして自在なオーケストラコントロールが見事。 WFを論ずる際に必ず出てくる 〈"有機体" としての音楽〉 という言葉(氏自身も用いていたか)とその概念が実にしっくりくる、そんな演奏。 実に真っすぐで健康的なドイツ・ロマンの調べ、深い森の音楽だ。 2曲目に選んだのは、 モーツァルト/交響曲第40番ト短調K.550 (VPO,'48-’49年録音) 第1楽章の冷徹なる疾走に鳥肌… セピア色の甘い旋律美とは程遠い。 (実に、作曲者の指定はMolto allegroである) "宿命" を超えて、死の予感さえ覚える痛切なト短調の響き。 続く第2楽章にも、安らぎの瞬間はついぞ現れない… あるのは哀しみと諦念。 切り立つ絶壁の如きメヌエットを経て、フィナーレへ。 第2主題、何かに思い焦がれるようなオーボエの音色が艶かしい。 (WFはこの曲では第1版を使用) この指揮者の心の奥底から湧き上がる暗く熱い気質と、楽曲の持つ性格が素晴らしく一致した名演だと思う。 休憩を挟んで、後半のプログラムへ。 3曲目は… シューマン/交響曲第4番ニ短調 (BPO,’53年録音) むせ返るような浪漫の香り。 スコアに様々な手を加え、ここまで濃密なシューマンの音世界を描き切ることのできた「時代」というものに対し、半ばジェラシーにも似た羨望を覚える。 (現代においては…ここまでやるにはリスクが少なくないのではないか) 60年前のモノラル録音から、オーケストラの無限の色彩が浮かび上がるのだ! 惜しむらくは、第1〜第2楽章間の無音が長いように思えるところ。 WFのオリジナルの解釈なのか、LP編集時に生じたものなのか。 第1楽章最後のニ長調の力強い全合奏の和音から、次の楽章の寂しげなニ短調の和音(管楽器のみ)へ… ここにこそ「有機的繋がり」が必要なのではないかしら? 今日も、そしてこれからも、フルトヴェングラーの音楽・音による思想は、僕に無限の示唆を与えてくれることだろう。 (追記) ここまで書いてしまってから、2012年の今日のBlogを見てみた。 やはり、フルトヴェングラー・コンサートをやっているではないか! セレクトした曲が重なっていないから、まあ良しとしようか。 |