§第3章
[ペーテル・ブノワは勉強する]
(前回からの続き)
こうして彼は、自身をさらに成長させるためブリュッセルの音楽院へ入学する。
当時の音楽院院長は F.J.フェティスであった。
父ブノワは息子を院長に引き合わせる。
ペーテル少年は既に作曲していた一連の作品を携えていた…それらの多くはモテット、ミサ、テデウムなどの教会音楽だった。
フェティスはそれらの作品に驚嘆し、この少年に個人レッスンを行うことにする。
彼はブノワにピアノと和声、次いで作曲法を教授した。
短期間のうちにこの若者は、自らの仕事に精通し、またあらゆる困難にもうち勝てるような作曲家へと成長する。
ブノワが音楽院で学んだ3年の間、贅沢な暮らしをしていたなどと考えてはいけない。
それどころか、学校の外では彼は懸命に働かなければならなかった…なぜなら、彼は経済的に自立すると同時に、レッスン料を支払うための金を稼がねばならなかったからである。
ある時期には、彼は一日に0.35フランしか使わなかったという。
(父親への手紙より)
彼はブリュッセルで職を探す。
ブノワの教師の一人、C.ハンセンスは彼にモネ劇場のオーケストラの「トライアングル奏者」の席を世話してやった。
しかし、ここで思いがけない変化が訪れる。
ブノワはブリュッセル・フラームス劇場の支配人 J.カッツの訪問を受けた。
カッツは彼をこの劇場のオーケストラの指揮者として招いたのだ。
このオファーはブノワの心を喜びで満たした。
このフラームス劇場は、パルク劇場の中に創設されたものである。
そこでは何が上演されていたか?
たいていは道化芝居かメロドラマであった。
一座は6年間にわたり、木曜と日曜の週二回出演を続ける。
さて、ここでのブノワの仕事はどのようなものだったか?
彼は劇場の小さなオーケストラを指揮するだけでなく、劇を伴奏するための(それらは激しく物々しい芝居だった)音楽を書かなければならなかった。
彼は在職中に少なくとも12の、この種の音楽を提供したのだった。
それにもかかわらず、この仕事は彼の充実した、そして全力でなしとげた研究を妨げることはなかった。
その最良の証明が…
1853-54年、彼はあらゆる科目で一等となり音楽院での首席の座を獲得した、という事実であろう。
さらにその一年後、ブノワは再び名をあげる。
1855年(ブノワ21歳)、彼は「ローマ大賞」に応募し、佳作賞を受賞したのだった。
(第3章 完)