2015年04月28日

ブノワ (34):オラトリオ『スヘルデ』[4]

 
 
 
【第3部・前半】
 
スコアの冒頭には速度記号・表情記号の代わりに
 "Een schoone frissche zomermorgen"
(美しく爽やかなある夏の朝)
と記されている。
ここで僕らは改めて気付く…
詩的で牧歌的な第1部は夕刻を、暗澹たる戦いの歴史を描いたドラマティックな第2部は夜の情景を示唆していたのだと。
 
 
第1部冒頭の和声進行
(スヘルデ和音)
 
第1部と同様に美しい「スヘルデ和音」で始まる第3部では、まず詩人が再び登場し哲学的ともいえるバラードを歌う。
 
「実在する魂を理解する者、
物質世界の意味を知る者、
それは物質から理想へと向かう、
その理想は精神と感覚とを高揚させ洗練させるのだ。
それはやってくる、薔薇色の陽の光が
スヘルデの川面に黄金の輝きを発するとき、
悦楽の白い波が
緑の岸辺で舞い踊るとき、
愛しい人に呼びかける妖精のように、
歌いながら真珠の涙をじっと見つめる葦の穂のように。
それはやってくる!…そして素早く姿を見せる、
善き人の姿がスヘルデの川面から、微笑みながら。」
 
[それ=善き人の姿、すなわち人間としてあるべき姿、であろうか。詩人はスヘルデの流れの中にその反映を見たのだ]
 
二人の恋人たちは心の動揺から少しずつ立ち直ってゆく。
「アイリスの光に囲まれた
青白いユリの花のように
僕の愛しい人は陽の輝きの中で悲しんでいる」
「なぜ亡霊が夜毎
スヘルデの上をさまようのでしょう?
ああ、私は身震いします!」
「泣くのはおよし、遠くに目をやろう、
川の上に帆船が浮かんでいる、
白鳥のように。
船乗りたちの歌が僕たちを
心から迎えてくれる!」etc.
 
そこへ、スヘルデやその周辺で生業を営む職業集団の姿が次々と登場する。
 
出航する水夫たち
「マストを立てよ、
出帆の準備だ!
万歳!
風はささやき告げる、
波立つ泡を通して、
私は歌いながらお前を連れていく…と。
万歳!」
 
二人
「ああ、暗闇の後から…」
「光と輝きがやってくる!」etc.
 
漁師たち
「星々の震えるような輝きのもとで
我らは網を投げる、
やさしく、静かに、やさしく!
魚たちよ、恋に落ちた愚か者のように
我が身を網の中へ投げかけよ、
やさしく、静かに、やさしく!」
 
すると二人は、なぜか突然に愛を語り合うのだ。
「神よ、恋とはなんと盲目なのでしょう…」
「神聖な愛が子孫をもたらすのです」
「愛が始まりました、
無上の喜びをもって、
それは涙のうちに終わることはありません…」
「愛しい人よ、僕の胸に、
もう一度、僕に口づけを!」etc.
 
なんとも唐突である。
 
貿易商たち
「花々の間を飛び交う蜜蜂のように、
船たちは波間をすべるように進む、
遠い異国の地へと!
船たちは多くの品々をもたらす、
遠い異国の地より!
船たちは絆を結ぶ、
人類愛と平和の、
遠い異国の地において!
すべての労働にとって、
船たちは繁栄をもたらす、
遠い異国の地より!」
 
二人
「スヘルデの川岸の小さな家、
腕の中には小さな赤ちゃん、
それは私の望み!」
「魂の救い主よ、僕の生命よ!」
「愛しい人よ、僕の/私の胸に…」etc.
 
やはり唐突である。
 
漁師たち
「ヘイ!我らの積荷はなんて大きいんだ!」
 
と、いささか取り留めなく物語は進んで行く。
 
次いで詩人に代わって芸術家が登場するのだが…後半は改めて。
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:13| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年04月25日

まつきり三郎&SBB@南与野

 
 
まつきり三郎とスイングバイ・ブラザーズ 20回記念ライブへ。
(24日、café jazzmal)
 
 
 
彼らを聴くのはこの日で3回目。
昨年のベルギービールウィークエンドで初めて耳にし、いっぺんでファンになってしまったのだ。
 
 
 
PA無しのアコースティックな響きが、かえって音楽そのものをストレートに伝えていて力強い。
ドラムを用いないというのもこのユニットの大きな個性。
ベース&ギターの存在感がいっそう際立つ。
 
 
 
3本の管楽器のソロ、ユニゾン、そしてハーモニーがピタリと決まる。
アレンジの妙。
 
 
 
親密な空間で、ハートランドを飲みながら味わう「幸せな音楽」。
まつきさん、みなさん、
佳い時間をありがとうございました。
 
 
 
posted by 小澤和也 at 13:11| Comment(0) | 日記

2015年04月22日

ブノワ (33):オラトリオ『スヘルデ』[3]

 
 
(オラニエ公ウィレムの霊魂の主題)
 
【第2部・後半】
前回と同様、オラトリオのテキストを紹介する前に、当時のフランデレン史についてざっと触れておこう。
 
15世紀末、フランデレンの地はスペイン・ハプスブルク家の領地となった。
この時期、フランデレンの呼び名は姿を消し、現在のオランダと合わせて「ネーデルラント」と称された。
その後、ドイツで興った宗教改革の流れを受け、16世紀後半よりスペインによるネーデルラント地域への圧政が目に余るようになる。
そこで立ち上がったのが、オラニエ公ウィレムを中心とした貴族たちであった。
彼らはスペイン陣営側から「乞食たち」と呼ばれ、また自らもそのように名乗っていたという。
オラニエ公は反スペイン勢力の中心的存在となり、のちのネーデルラント独立の礎となった。
 
 
第2部後半は、戦火に怯える少女と青年の会話から始まる。
「川面があんなにもかき乱れて!
ああ、私は怯えています!」
「臆病にならないで…
愛があなたを導くように
ただ祝福のみがあなたを待っています!」
「ああ、そこに死が、薪束、断頭台、絞首台とともに渦巻いている!」
「あれは流れに映る朝霧、
風に揺れるアシがざわざわと立てる音。」
「聞いて、なんという雷鳴!」
「ああっ!」etc.
 
ここでオラニエ公ウィレムの霊魂が現れる。
「民は苦しんでいる、
妄信の束縛が彼らを抑圧する!
来たまえ、ともに闘おう!
耳を貸さぬものはいるか?」
 
これに男声の二重合唱が力強く応える。
森の乞食党
「我らはゆく、馬でゆく
平原を駆け抜けて勇敢に!」
海の乞食党
「ああ!哀れな民の流した涙が血のようだ。
しかし、ネーデルラントは連帯する!」
乞食党
「我らは街を、そして港を解放する!
スペインの激しい暴政から!
前進せよ!我らは勝利する!」etc.
 
そして結びは壮大な男声合唱による賛歌となる。
「ヴィルヘルムス・ファン・ナッソウエ(=オラニエ公を指す)よ、
我らはネーデルラントの血統、
我らは祖国に忠誠を誓う、
神が永遠に護りたもう祖国に、
自由のための、真理の救済のための
聖域のごとき祖国に。
そして我らは喜びに満ちた歓声を上げる、
幸いなるかな、ネーデルラント!」
 
 
現代の我々から見れば多分に国粋主義的な内容とも取れるが、当時の、常に外圧と闘ってきたフランデレンの人々にとってはこれが偽らざる心境であったのだろうと思えてならないのだ。
そして〜繰り返しになるが〜ここでブノワの書いた音楽はほんとうに素晴らしい。
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 12:16| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年04月18日

世界遺産を見る

 
 
高崎から上信電鉄で約40分、上州富岡へ。
向かうは世界遺産・富岡製糸場。
 
 
 
正面入口を進むとまず見えるのが木骨煉瓦造の東繭倉庫である。
その1階内部にある展示スペースで行われていた「座繰り製糸」の実演。
 
 
 
手前の鍋で繭を煮ながら巧みに糸を巻き取ってゆく。
 
 
富岡市のイメージキャラクター「お富ちゃん」。
「永遠の14歳」なのだそうだ。
 
 
操糸場内部。
三角形に組んだ骨組みを基本とした「トラス構造」を小屋組に用いている。
これにより、柱の本数を減らし広い空間を確保できたのだそう。
建物の長さ約140m、当時世界最大規模の製糸工場であったとのことである。
 
 
設立にあたり工場建設の指導者として招かれたのがフランス人ポール・ブリュナ。
その住居として建てられたのがこのブリュナ館。
 
思いのほかこじんまりとしたこれらの施設。
ぱっと目を引くような派手なものではなかったが、明治維新からの日本の近代化の歩みを象徴するこれら一連の建造物はとても貴重なものであるのだろう。
 
静かな感動を覚えつつ、すがすがしい気分で帰路につく。
天候にも恵まれ、実に佳い時間であった。
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:58| Comment(0) | 日記

2015年04月16日

ケルテスの命日に

 
今日4月16日は、ハンガリーの指揮者イシュトヴァン・ケルテスの命日。
(1973年没)
そこで、久しぶりに彼の指揮するマーラー『復活』のディスクを聴く。
クリーヴランド管との'68年ライヴ録音だ。
(これも非正規盤と思われるが、遺された録音の少ないケルテスに免じておゆるし願えればと思う。)
 
 
第1楽章ではスコアにある起伏の激しさを忠実に再現しながらも、いわゆる「葬送行進曲」風の雰囲気を醸し出さない。
バーンスタインやテンシュテットのようにアウフタクトを粘らないからだろう。
なお当盤では、楽章最後の2小節(=最弱音の2つのハ音)が欠落しており、不自然な編集の痕跡とともに唐突に第2楽章が始まる…これは大いに残念だ。
 
その第2楽章は実に端正なレントラー。
テンポはここでもやや速めに取られ、ケルテスはことさら回顧録風な表現には走らない。
続く第3楽章スケルツォも、原型の歌曲「魚に説教する聖アントニウス」に見られるようなアイロニー、パロディ的表現はほとんど無く、純音楽としての "無窮動" として捉えられているように感じる。
 
第4楽章『原初の光』。
独唱はビルギット・フィニラ。
ひそやかで深く素朴な歌、それを決して飛び越えることのない管弦楽。
そして長大な第5楽章へ。
部分最適を取ろうとし過ぎると却って散漫な印象となる長大な前半部分を、ケルテスはやや速めのテンポとだれない間合いでがっちりと結び付けている。
「復活のコラール」では深い祈りを聴かせてくれるケルテス、それでも終盤のクライマックスに向けては前進する力を少しも失わない…もしかしたら即興的なテンポ変化もあっただろうか(合唱が置いていかれそうになる瞬間が時折ある)。
終わってみれば颯爽としたいつものケルテス節であった。
 
ライヴ特有の疵は多いが、オケと指揮者の親和性はこの演奏から強く感じることができる。
もしもセルの後任が(マゼールでなく)ケルテスであったら、世の音楽情勢はどのようになっていただろう…一ファンとして想像は尽きない。
 
posted by 小澤和也 at 23:51| Comment(0) | 日記