2015年04月16日

ケルテスの命日に

 
今日4月16日は、ハンガリーの指揮者イシュトヴァン・ケルテスの命日。
(1973年没)
そこで、久しぶりに彼の指揮するマーラー『復活』のディスクを聴く。
クリーヴランド管との'68年ライヴ録音だ。
(これも非正規盤と思われるが、遺された録音の少ないケルテスに免じておゆるし願えればと思う。)
 
 
第1楽章ではスコアにある起伏の激しさを忠実に再現しながらも、いわゆる「葬送行進曲」風の雰囲気を醸し出さない。
バーンスタインやテンシュテットのようにアウフタクトを粘らないからだろう。
なお当盤では、楽章最後の2小節(=最弱音の2つのハ音)が欠落しており、不自然な編集の痕跡とともに唐突に第2楽章が始まる…これは大いに残念だ。
 
その第2楽章は実に端正なレントラー。
テンポはここでもやや速めに取られ、ケルテスはことさら回顧録風な表現には走らない。
続く第3楽章スケルツォも、原型の歌曲「魚に説教する聖アントニウス」に見られるようなアイロニー、パロディ的表現はほとんど無く、純音楽としての "無窮動" として捉えられているように感じる。
 
第4楽章『原初の光』。
独唱はビルギット・フィニラ。
ひそやかで深く素朴な歌、それを決して飛び越えることのない管弦楽。
そして長大な第5楽章へ。
部分最適を取ろうとし過ぎると却って散漫な印象となる長大な前半部分を、ケルテスはやや速めのテンポとだれない間合いでがっちりと結び付けている。
「復活のコラール」では深い祈りを聴かせてくれるケルテス、それでも終盤のクライマックスに向けては前進する力を少しも失わない…もしかしたら即興的なテンポ変化もあっただろうか(合唱が置いていかれそうになる瞬間が時折ある)。
終わってみれば颯爽としたいつものケルテス節であった。
 
ライヴ特有の疵は多いが、オケと指揮者の親和性はこの演奏から強く感じることができる。
もしもセルの後任が(マゼールでなく)ケルテスであったら、世の音楽情勢はどのようになっていただろう…一ファンとして想像は尽きない。
 
posted by 小澤和也 at 23:51| Comment(0) | 日記