![]() §第5章 [ドイツでのブノワ]
いよいよ、留学のときがブノワを待ち受けていた。
行き先はローマ?イタリア?
これまで長い間、イタリアの作曲家がヨーロッパ音楽の動向をリードしていた。
イタリアの楽派は全世界で大きな影響を及ぼし、この国の巨匠たちの指導や作品が唯一無二の優れたモデルであるとほぼ無条件に見なされていたのだ。
しかしながら、ドイツ・オーストリアは次第にその束縛から離れ、作曲家たちはドイツ的な形式と内容をもったこの国独自の音楽作品を創造することを目指して努力を続ける。
国内のムーブメントは力を増してゆき、まもなくイタリア楽派はドイツ国内から押し出されることとなった…ドイツは音楽的潮流の先頭に立ったのである。
バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの大作曲家たちは、ドイツ音楽の名声を確立するために力を尽くした。
ブノワにとって、ドイツは無限大の価値と魅力を有する国であった。
彼はライプツィヒ、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘン他、多くの都市を訪ね、偉大な先人たちの作品研究に注力する。
ブリュッセル音楽院長フェティスの勧めによって、ブノワはまずライプツィヒへと旅立った。
短い滞在ではあったが彼はここで新しい音楽の活況をこの目で確かめる…その勢いとは1843年、メンデルスゾーンが音楽院を設立して以来現れ出ていたものであった。
ブノワは1858年の夏をドレスデンで過ごし、その後プラハ、ベルリン、ミュンヘンを訪れる。
この間のブノワは研究だけでなく作曲もし、ある合唱曲をベルリンで演奏する機会を得た。
それは8声(訳注:二重混声四部合唱)で書かれた『アヴェ・マリア』で、大聖堂の合唱隊によって歌われたのだった。
「ローマ大賞」受賞によって、ブノワはベルギー王立アカデミーに対して新作を提出する義務を負っていた。
そこで彼は『クリスマス小カンタータ』をもってその責任を果たす。
そしてこの作品もまた、よい印象を聴衆に残した。
またこのときブノワは、フランデレンに自国の音楽芸術が存在しないこと、そして外国の音楽が自国のそれを押しのけているという現状についても熟考する。
誰もがみな自国の芸術に温かみを感じ、芸術家たちが民族精神の意をくんで考え、創造するドイツのような国と比べ、状況はなんと対照的であろうか。
ドイツにおいては、全国民が誇りとする輝かしく堅固な音楽の殿堂が高く立ち現れていた…この点、フランデレンではあらゆるものが未だ始まったばかりであった…
この問題に関してブノワは長大な論文を書き、『クリスマス小カンタータ』とともにベルギー王立アカデミーへ送る。
この論文(「フランデレンの音楽学校とその未来」とフランス語で記されている)の中で、ブノワは自己の行動指針を述べた。
そして彼は後年、そのプリンシプルを強い熱意と粘り強さとで守り抜き、現実のものとしたのである。 (第5章 完) |
2015年08月18日
伝記 ペーテル・ブノワ(9)
posted by 小澤和也 at 23:51| Comment(0)
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