2015年09月30日

二冊の歌集のナゾ

 
地元の図書館にて、装丁のそっくりな二冊の歌集を発見。

 
その名も「決定版 世界名歌集」と「決定版 世界の愛唱歌集」。
あまりに似通った趣向に思えたので、何が違うのかを見較べてみることに。
 
すると…
まず、出版社と出版年月は同じ。
(まあ、シリーズものとして刊行されたのなら当然か)
 
んん?総ページ数も同じだぞ。
巻頭の目次をざっと眺めると、同じ曲名がどんどん目に飛び込んでくる。
菩提樹、歌の翼に、ロンドンデリーetc.
(いくら定番曲が多いとはいえここまで同じとは)
 
結局、中身(収録曲)も両者同じであった。
違ったのは…
なんと収録の順序だけ!
「世界名歌集」は国/地域&作曲家別に、
もう一方の「世界の愛唱歌集」は曲タイトルの五十音順に配列されている。

なにゆえわざわざこんなことを…?
 
使いやすいと感じる方をお求めください、ということかしら。
前者は、例えばシューベルトならばシューベルト、フォスターならばフォスターが並んで収められているので見ていてしっくりくる。
 
片や五十音順のほうは、とにかく曲名さえ分かっていればたどり着けるわけだ。
ただ…
このテの本に当然載っているであろう『オー・ソレ・ミオ』が "あ行" のところに見つからない。
そう、この曲集ではタイトルが『私の太陽』、すなわち "わ行"、いちばん後ろに収められているのだ。
そんなわけで、使い勝手は一長一短な気がする。
 
それとも…まさか…
あわよくば両方とも買っていただこう!という出版社の魂胆、もとい思惑なのだろうか。
(現にこの図書館には両方置かれていた)
 
なんとも不思議な二冊の「決定版」である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 21:49| Comment(0) | 日記

2015年09月25日

ダバダ〜〜♪

 
都内某所、雑居ビルの二階にあるお気に入りの喫茶店にて小休止。
 
 
静かで落ち着いた店内は読書や考えごとにもってこいである。
 
 
カウンター席ならではのうれしい風景。
 
 
マンデリンをお代わり。
このお店は2杯目からがリーズナブルなのだ。
 
 
家で飲むコーヒーも美味しいけれど、綺麗なカップを愛でたり、居心地そのものを楽しむことのできる喫茶店もいいものだ。
 
ダバダ〜〜♪
 
posted by 小澤和也 at 21:42| Comment(0) | 日記

2015年09月21日

至福の昼飲み

 
 
ベルギービールウィークエンド東京2015 へ。
(六本木ヒルズ・アリーナ)
 
 
Mooi weer︎(いい天気!)
 
 
連休だからだろうか、
いやとにかくスゴイ人出!
空いたテーブルを見つけるのにもひと苦労だった。
 
今日飲んだのは
Chimay White, 
Gouden Carolus Classic,
Poperings Hommel Bier,
そして 
Wolf Dryhopp Weekend...
どれも樽生。
 
 
 
 
Joy Wellboy のライヴ。
 
 
コインが1枚だけ余ったので
最後にベルギーワッフルを。
 
 
今年も美味しくいただきました!
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:11| Comment(0) | 日記

2015年09月15日

健康の秋、そして食欲の秋

 
先日受診した、年に一度の人間ドック。
その所見と詳しい説明を伺いに、近所のA病院へ出向く。
今回も特に変わりなく、「異常なし」あるいは「現状維持=経過観察」とのことだった。
まずはひと安心!
健康でいられることの有り難さを改めて噛みしめる。
 
ところが、先生からひとつ宿題が。
『減量…したほうがいいですね』
ああ、やっぱり。
 
仕事中は脳みそフル回転。
だから、けっこうエネルギーを使っているんだろうと感じているのだ。
実際、稽古後の食事はほんとうに美味しい!
いくらでも食べられる気がする。
だがおそらくは、自分で思っているほどカロリーを消費してはいないのかもしれない。
(確かに…立って棒振ってるだけだものな)
 
これからは、仕事上がりのエキサイトした脳をよしよし…となだめつつ、量をしっかり加減しながらいただくこととしよう。
 
posted by 小澤和也 at 22:33| Comment(0) | 日記

2015年09月09日

伝記 ペーテル・ブノワ(11)

 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
(前回からのつづき)
 
この仕事は経済上の理由だけでなく、芸術的な観点からも彼にとって興味をひくものだった。
なぜならばブノワは、海外に滞在しそこで新しい経験を積むこと、それ以上のことを求めなかったからである。
そしてフランスの首都パリは、その機会を充分に提供する場所であった。
 
当時のパリはオペラにとって大きな重要性を持つ都市だった。
パリはその作品の命運を決定していた…パリで上演されない作品、パリの聴衆に価値ありと見なされない作品が世界的に有名となることはなかった。
この首都において、ブノワは多くのことを学び続けた…それはここがヨーロッパにおけるすべての音楽的動向の反映される場所であったからである。
 
「ブフ・パリジャン」劇場は当時、オッフェンバックによって運営されていたが、彼はすぐにブノワの並外れた才能に気づく。結果、このフランデレン人作曲家はコンサートマスターのポストを得たのである。
パリにおいてブノワはいわば「二重の」生活を送る。
ひとつは「ブフ・パリジャン」での職務、そしてもうひとつは自身の理念に対する奉仕だ。
彼は劇場のために日中はリハーサル、夜は公演を指揮する。
また空き時間や劇場の中休み、また公演の後など少しでも時間があれば作曲をする。
さしあたって彼は、歌劇『ハンノキの王』の改訂の仕事に着手した。
この作品は新しい形によって、1861年に「テアトル・リリーク」にて上演されることになったのだが、その約束は実現されなかった。
まもなくブノワはこのオペラを取り下げ、序曲のみを残すと決めたのだった。
 
新たな気力をもって、ひとつの作品がブノワを駆り立てる。
そして『宗教曲四部作』第三部(スパーク2(キラリマーク)︎)としての『レクイエム』が次第に姿を現した。
星1︎訳注:原文の"第三部" は誤り。正しくは第四部である]
ここで不思議な共同作業の機会が訪れる。
「ブフ・パリジャン」の音楽家たちと親密な繋がりをもっていたブノワは、彼らにある頼みを聞いてもらうことができた…彼らは幕間に、またしばしば公演後に、自分たちの指揮者の新作の試演も行ってくれたのだ。
これはブノワにとって大きな助けとなる。
彼はそのおかげで、自分の作品の価値や意図した効果について判断することができたのであった。
これらの試みのため、ブノワはたいてい劇場の地下室にこもっていた。
 
あるとき支配人オッフェンバックは、いつものようにオーケストラと一緒にいるブノワを見つける。
『レクイエム』の厳粛で暗い響きは、その人生をまったく異なるジャンルの音楽[訳注:オペレッタ]に捧げてきたオッフェンバックに驚くべき感銘を与えたものと思われる。
 
 
(第6章 つづく)
 
 
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posted by 小澤和也 at 23:56| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年09月04日

専フィル生たちとの音楽の対話

 
 
専修大学フィルの合宿へ。
(3-4日、河口湖)
 
読譜をひと通り終え、いよいよこれから音楽創りに入るというこの時期。
正味5時間半、3曲をじっくりと合奏する。
 
弾き込むと同時に、それぞれの作品の演奏に求められるものをメンバーに託してゆく。
「ナブッコ」ではリズム構造の把握、「抒情組曲」では音色に対する意識、そしてチャイコフスキー第5では如何にしてスコアの指示へ回帰するか、など。
 
これは師の言葉の受け売りだが、
『餌を与えるのでなく、餌の捕り方を伝える』という姿勢。
 
 
今回は家からコーヒーセット一式を持参した。
毎食後、部屋で豆を挽きマンデリンを淹れる。
リラックスタイム♪
 
 
夜の合奏の後は恒例のアンサンブル大会。
新入部員が大勢入り充実のチェロパートが八重奏を披露…壮観!
クラリネットアンサンブルや金管八重奏もなかなかよい演奏だった。
 
 
山頂までくっきりと。
今朝の富士山、綺麗だった。
 
専フィルのみんな、お疲れさまでした。
年末の演奏会へ向けて、さらに音楽を練り上げていってほしいと切に願う。
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 20:52| Comment(0) | 日記

2015年09月02日

伝記 ペーテル・ブノワ(10)

 
 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
4年後、ブノワはドイツから戻る。
留学によって多くの新鮮な影響を受け、大いなる理想を抱いたこの若き芸術家はどこへ定住するか?
アントウェルペンだろうか?
あるいはブリュッセル?
 
否、素朴な美しさをもった生地の村は彼の心を惹きつける…
ハレルベーケのこの快活な若者は忘れられることのない足跡を残し、また喜ばしいことに彼は愛する家族の、打ちとけた村の仲間たちの、そして親愛なるレイエ川のほとりに帰ってくる…
 
ハレルベーケの地は新作『晩祷』の初演(この機会に90人以上の歌手が求められた)を聴くという恩恵をも享受する。
この作品によってブノワはふたたび注目されることとなり、当時の(1859年)音楽雑誌のひとつにおいて次のような批評が掲載された。
「ブノワ氏はこの作品をもって、将来を有望視される宗教音楽作曲家としての地位を確立するだろう」
 
それでもブノワにとって、都会からあまりに離れたハレルベーケに留まるのは不可能なことであり、彼は結局ブリュッセルへ移り住んだ。
ほどなくしてこの地で、彼がドイツから携えてきた『アヴェ・マリア』が演奏される。
また別の作品、より規模の大きな『荘厳ミサ』も演奏され、ブリュッセル、そしてヘントにおいてもセンセーションを巻き起こした。
 
1859〜60年はブノワにとって実り多い年となる。
1859年、ブリュッセルの "Casino des Galaries" で一幕物の伝説『ハンノキの王』が上演された。
(その序曲は現在もしばしばコンサートで演奏されている)
そして1860年には、管弦楽、独唱と二重合唱(星1︎)のための『クリスマスカンタータ』が初演された。
星1︎訳注:原文の"二重合唱" は誤り。正しくは通常の混声合唱である]
ブノワの元教師、他ならぬフェティスはこの作品のもっている作曲家固有の独特な響きについて言及し、この芸術家を高く評価した。
ブノワはまた、ピアノのための『大ソナタ』もこの年に仕上げた。
 
さらに1861年7月21日、混声合唱とテノール独唱、大管弦楽、オルガン、ハープのための『ミサ曲(荘厳ミサ)』がブリュッセルの聖ヒュデュラ教会で初演された。
この『ミサ曲』は前述の『クリスマスカンタータ』、そして他の2作品(『テ・デウム』および『レクイエム』)と共に同一の精神をもったシリーズとして構成され、一般に『宗教曲四部作』と見なされている。
 
ブリュッセルのショット社はこのミサ曲の出版を予定する。
その費用はできるだけ安く抑えられることとなり、この事業で出版社はほとんど利益を得られず、ただこの若き巨匠と作品の名を世に広める助けとなるものであった。
しかし、出版価格が一冊あたりわずか20フランと決められたにもかかわらず、ショット社はその計画を断念しなければならなかった。
一般大衆の関心の不足が原因であった。
 
ブノワは結果を求めていた。
そんな彼のもとに好都合な申し出が届く…
彼は「ブフ・パリジャン」劇場の指揮者となったのである。
 
 
(第6章  つづく)
 
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posted by 小澤和也 at 00:38| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年09月01日

「シュティムング」体験

 
 
シュトックハウゼンの『シュティムング』を聴く。
(8月29日、サントリーホール・ブルーローズ)
 
シュティムング【Stimmung】とは、辞書によれば
「気分、機嫌」「雰囲気、趣き」「楽器の調律、ピッチ」など様々な意味を持つ言葉である。
当然ながら「声 Stimme」とも関連しているであろう。
副題に「6人のヴォーカリストのための」とあるように、ソプラノ&テノール各2名、アルト、バスの皆さんによって歌われる。
(しかも70分、休憩なし!)
 
6人の歌手はそれぞれ、指定の単音を倍音を豊かに含んだノンヴィヴラートで、様々な母音あるいは音を微妙にかつ緻密に変化させつつ歌い続ける。
場面の転換は、きっかけとなる言葉(作曲家はこれをマジックネームと呼んでいる)あるいは歌手同士で交わす合図によってなされる。
所々で詩 "のようなもの" も語られる。
このようにして、ほぼ途切れることなく刻々と遷移してゆく響きを聴衆は「体験」するのだ。
 
 
(いずれも、公演プログラムに掲載されていたスコアの一部分)
 
 
その響きは儀式風であり、あるいは祈りやおどろおどろしい呪術のようにも感じられた。
その一方で、まだ言葉を持たない乳幼児が発する声(アウアウアウ…、ダーダーダー…etc.)のような、無邪気さや遊びごころを感じさせてくれる瞬間も。
旋律の美しさや物語性を楽しむのとは違い、人間の声そのものの美しさを味わう特異な、しかし貴重な体験であった。
 
日本での上演は45年ぶりだったとのこと。
さて、次回はいつだろうか…
(意外と直ぐだったりして!?)
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:25| Comment(0) | 日記