2015年10月30日

「歌いたい」スイッチ

 
ご縁があって、とある混声合唱団に数ヶ月前から加わりモーツァルト/レクイエムを歌っている。
何年ぶりだろう…とても楽しい!
おかしな表現だが、指揮者になる前、趣味でコーラスをやっていたときよりも楽しいかもしれない。
 
話は突然飛んで…
明け方に見た夢のこと。
場面は音楽大学の大学院。
僕はなぜかチェロを専攻している。
そしてちょうど、弦楽四重奏科への編入試験を受け(そのようなクラスが実際にあるのかどうかは知らないが)、結果の発表をワクワクしながら待っている…
というところで目が覚めたのだった。
なんでまた、こんな夢を見たのだろう?
 
さっき、部屋でスコアを読んでいてふと思いついた。
《自分、いまモーレツに "歌いたい" "奏でたい" スイッチが入ってるんじゃないかしら》
確かに、指揮者は自分で音を出さない(&出せない)もの。
僕は声楽は修めていないけれど、たまには歌う側に立つのもいいかな…
そんなことを考えた。
 
そのモーツァルト/レクイエム、
明日がゲネプロ、週明けには本番だ。
佳い時間にしたい。
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:31| Comment(0) | 日記

2015年10月27日

瀧廉太郎の『月』

 
今夜は満月。
 
買い物の帰り、雲間に見え隠れする月を見上げながら、瀧廉太郎の『月』の旋律をふと思い出していた。
 
組歌「四季」の中の第3曲。
明治33年(廉太郎21歳)作曲、同年11月に出版。
作歌(作詞)も瀧廉太郎自身による。
(余談だが、誰もが知っている『花』《春のうらゝの隅田川...》はこの組歌の第1曲にあたる)
 
のちに山田耕筰が独唱歌曲として編曲した『秋の月』が有名だが、僕が好きなのはオリジナルの無伴奏混声四部合唱のヴァージョンだ。
 
『月』
 
山田耕筰編曲『秋の月』
 
オリジナルはハ短調、一方の『秋の月』では半音下げてロ短調を採っているのが興味深い。
(僕の中ではロ短調のほうがより「人間の情に迫り来る」調性に思える)
山田耕筰が加えたピアノ伴奏も、聴くものの琴線により働きかけるものとなっている。
それに対しオリジナルの『月』では、淡々と静やかに、うっすらと蒼白い光そのものが描かれているようだ。
そして…
楽曲のラストに大きな違いがやってくる。
廉太郎のオリジナルでは、最後の和音が同主調の長調=ハ長調で終わるのだ。
対して山田耕筰はこの部分を主調=ロ短調のままで結ぶ。
 
 
これは単に様式の差異でもあろうし好みはそれぞれであろうから、どちらが正しいor正しくないという話ではもちろんない。
ただ…
廉太郎は長調で結んだのである。
 
 
瀧廉太郎、月、とくると必然的に『荒城の月』が連想されてしまうわけだが、こちらの『月』も響きの美しさでは負けていない。
(詩はさすがに土井晩翠のもののほうが格が上だろうけれども...)
 
 
『月』    作歌:瀧廉太郎
 
ひかりはいつも かはらぬものを
ことさらあきの 月のかげは
などか人に ものを思はする
などかひとに ものを思はする
あゝなくむしも おなじこゝろか
あゝなく虫も おなじこゝろか
こゑのかなしき
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:58| Comment(0) | 日記

2015年10月23日

ラ・ボエーム本格始動

 
 
立川市民オペラ公演『ラ・ボエーム』、
合唱団はこの春から音楽稽古をスタート。
いよいよ今月より立ち稽古も始まりました。
 
 
 
以下、公演の概略です。
 
【プッチーニ/歌劇「ラ・ボエーム」】

日時:2016年3月12日(土)、13日(日)
会場:たましんRISURUホール(立川市市民会館)大ホール
指揮:古谷誠一
演出:澤田康子
合唱:立川市民オペラ合唱団  
合唱指揮:小澤和也
 
主なキャスト:
ミミ……………宮澤 尚子、佐田山 千恵
ロドルフォ……大澤 一彰、笛田 博昭
ムゼッタ………保科 瑠衣、別府 美沙子
マルチェッロ…岡 昭宏、須藤 慎吾
 
 
みなさま、ぜひおはこびください。
 
posted by 小澤和也 at 23:53| Comment(0) | 演奏会情報

2015年10月20日

15回目の合唱祭

 
 
 
第37回 江戸川区合唱祭に参加。
(18日、船堀タワーホール)
 
合唱団あしべ、今年はオリジナルの合唱作品に取り組んだ。
 
§花のかず/木下牧子
§だれも いそがない村/信長貴富
§うたをうたうのはわすれても/津田元
 
いずれも岸田衿子の詩による作品。
しっとりと柔らかく、ときに読む者を不思議な空間へと誘うような岸田さんのことばを共通の軸とし、結果的に作曲家の個性が際立つかたちとなった今回の選曲。
会場のお客さまにも楽しんでいただけたのではないかと思う。
 
「うたをうたうのはわすれても」は、無伴奏混声四部合唱がオリジナルであったものを、津田さんにお願いしてあしべのために女声二部とピアノのために編んでいただいたもので、この日が初演となった。
 
 
年明け早々から練習を重ね、大切に歌い込んできた歌たち。
いつものことではあるが、ステージでの本番はそれに比べれば一瞬のできごとである。
終わってみれば...
今回はとにかく曲との相性が良かった気がする。
とても充実した10分間のステージであった。
あしべのみなさんの達成感に満ち溢れたお顔を見ることができ、僕も幸せな気分に。
合唱祭終演後、みなさんと交わした祝杯の美味しかったこと!
 
思えば今年、合唱団あしべにとってひとつの大きな出来事が。
30年の長きにわたってあしべを支えてくださった浅野先生に代わり、この7月から新たに平岡祐子先生をピアニストとしてお迎えしたのだ。
よって、この日は平岡先生との記念すべき初共演ということに。
僕はといえば...数えてみたらあしべとの15回目の合唱祭であった。
(いつの間に!)というのが実感である。
 
あしべと僕との「うたの旅」、
まだまだこれから続いてゆく。
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:07| Comment(0) | 日記

2015年10月17日

仲間とうたう 大好きな校歌

 
 
第10回 青春かながわ校歌祭に参加。
今年の会場は秦野市文化会館。
明け方まで雨模様だったが、ホール入りの頃には青空に。
 
 
同窓の先輩方・仲間たちによる混声四部合唱、総勢約30名。
声を合わせて、母校の校歌と応援歌をうたう。
 
 
 
終演後の打ち上げパーティの席で、メンバーの皆さんからメッセージカードをいただく。
嬉しさ、そして(校歌祭終わっちゃったな)という淋しさとが相まって、ちょっぴりしんみりとした気分に。
 
 
また来年!
みんなで楽しく歌いたい。
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:50| Comment(0) | 日記

2015年10月12日

ブロムシュテットさんのベートーヴェン

 
尊敬するマエストロ、ヘルベルト・ブロムシュテットさんがN響を指揮したコンサートをTVで視聴する。
(11日、NHKE・クラシック音楽館)
 
 
プログラム前半はベートーヴェン/交響曲第2番。
'70〜'80年代にかけてレコーディングされたシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏を思い出し、頭の中で比較しながら聴き進める。
全体に、今回のN響とのもののほうが鮮烈な印象を受けた。
疾走するテンポ、鋭く打ち込まれるアクセントやスフォルツァンド etc.
とても御歳88の棒には見えない!
 
実は、ブロムシュテットさんのベートーヴェン第2ということでちょっぴり注目していたポイントがある。
終始オーソドックスな解釈のSKDとのセッション録音のなかで、終楽章コーダ大詰め、いちばん最後のppのところだけテンポが急激に緩められていたのだ。
 
(この画像のラスト3小節で急ブレーキがかかる)
 
これが実に不思議だったのだが…
今回はどのように演奏されるのだろう、と。
 
その結果は…
レコードの演奏ほどではないけれど、それでもスーッと緩めたように聴こえた。
この部分のルバート、すっかりブロムシュテットさんの "語り口" となっているのだなと改めて納得。
 
 
さて、演奏会後半はピアノ協奏曲第5番、いわゆる『皇帝』協奏曲。
独奏はティル・フェルナー、圧倒的なヴィルトゥオジティを発揮するというよりは端正な打鍵と音楽性で聴かせるタイプのピアニストのようだ。
 
変わらず勇壮で力強いブロムシュテットさんの棒を見ながらゆったりとした気分で聴いていた。
…と、第1楽章のラストで不思議な響きが!
最後の音(ピアノと全管弦楽による主和音の強打!)が消えた…と思ったら、ピアノの音だけ余韻が残されていたのだ。
ハッとしてスコアを広げる。
 
 
大詰め、独奏ピアノが分散和音を華やかに奏でる場面に「sempre Ped.」(常にペダルを使用して)と書かれている。
 
そして最後の小節はこう。
 
 
小節の終わりの部分に「(*)」(ペダルを離す)の指示が。
今の演奏、この「ペダル解除」のタイミングを、まさにスコアの通り、小節の最後に持ってきたということになろうか。
(聴き返すと確かに、およそ4拍ぶん延ばしている)
なんと新鮮な解釈だろう!
 
耳慣れた名曲であったが、まだまだ新たに気づかされることがあるのだなあ、と感じた次第である。
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:35| Comment(0) | 日記

2015年10月07日

作曲家が僕に語ること


ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス、シベリウスの作品は我がバイブルである。
なかでも、彼らの交響曲を究めることは僕にとってのライフワークだ。

よく知られているようにベートーヴェンは9曲、ブルックナーは10曲(いわゆる第0、および未完の第9を数に入れて)、ブラームスは4曲、そしてシベリウスは(クレルヴォを含めれば)8曲の交響曲を遺した。
それらひとつひとつが卓越した愛すべき作品であることはいうまでもないが、彼らの第一作から最後の曲までのすべてを俯瞰し、年代を追ってとらえたときに見えてくる風景 〜連綿と続くやまなみのような〜 にはまた格別の味わいがある。

彼らの交響曲はなぜこれほどに僕の心を惹きつけるのだろう?
それらが語りかけてくるものとは何か?
僕なりの結論はこうだ。

§ベートーヴェンが僕に語ること=人間精神への畏敬
§ブルックナーが僕に語ること=神への畏敬
§シベリウスが僕に語ること=自然への畏敬

では…ブラームスは?
これがなかなか浮かばないのだ。
その代わりということでもないが、彼について述べた吉田秀和氏の文章をふと思い出した。

『ブラームスは、(...)音楽をもう一度、(...)音に造形された構成の芸術にもどそうとする。といって、(...)彼も、また、骨の髄から時代の子、つまりロマン的芸術家なのだ。ただ、彼は無形体に耐えられなかった。ブラームスの偉大と悲劇 ー退屈という人もあるかもしれないー は、ここに胚胎する。』
(「名曲三〇〇選」より自由に引用)

そう、ブラームスは創作するにあたって「時代とたたかう」必要があったのだ。
彼にとっての畏敬の対象は先人の遺した様式美であったと思う…否、その心情は畏敬というよりも「あこがれ」に近かったのかもしれない。
そうしてブラームスは(そして彼の作品も)良い意味で後ろ向きかつ内向的なものとなっていった。

最後に、改めて僕なりの答えを述べるならば

§ブラームスが僕に語ること=古典への憧憬
ということになろうか。
posted by 小澤和也 at 23:39| Comment(0) | 日記

2015年10月04日

青春かながわ校歌祭

 
 
「青春かながわ校歌祭」のための練習へ。
(3日、戸塚区民センター)
 
県内各所で毎秋開催されている校歌祭。
我が母校でも有志が集い、このイベントに参加している。
歌うのは校歌、そして応援歌の2曲。
同窓の先輩・仲間達とともに声を合わせる喜び。
 
 
この日は地元CATVの取材が入り、メンバーも気合十分。
それにしても…
こんな至近距離で撮られているとは気づかなかった(笑)
 
 
(稽古風景の画像はメンバーのお一人、Aさんからお借りしました)
 
 
今年の校歌祭は10月17日(土)、秦野市文化会館にて。
光陵高校の出番は12:40頃。
当日の飛び入り参加も大歓迎です。
同窓のみなさま、ぜひ!
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 09:43| Comment(0) | 日記