2015年12月30日

年の瀬に聴くベートーヴェン

 
 
 
もろもろの用事を済ませ、大掃除もほぼ完了。
‎⁦‪一年の締めくくりにベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲を順に辿りながら過ごす。

変ホ長調op.127からスタート。
イ短調op.132〜変ロ長調op.130と進み、先ほど嬰ハ短調のop.131を聴き終えたところ。
ベートーヴェンの融通無碍な世界。
ゆったりとした時間が流れる。
 
 
おともは頂戴物の大吟醸。
ちびりちびりと。
さあ、これから最後のヘ長調op.135を聴こうか。
 
...あ、金箔。
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:42| Comment(0) | 日記

2015年12月24日

Vrolijk kerstfeest!!

 
お気に入りのクリスマスツリー。
ペーテル・ブノワおじさんと一緒に。
 
 
立川市民オペラ合唱団の稽古へ。
『ラ・ボエーム』、年内最後の練習だ。
第2幕の舞台はまさに18xx年のクリスマスイヴ。
 
(待てよ...みんな練習に来るかしら?)という不安も一瞬頭をよぎったが、予想はよい方向に外れてくれた。
今日は動きを付けながらの音楽稽古。
繰り返すうちに所々「おおっ!」と思わせる佳い響きも聞こえてきた。
 
 
練習終了後は慌ただしくしていて伝えそびれてしまったが、自身の歌唱はもちろんのこと、合唱団員の動きに気を配りつつ必要に応じSoliパートも歌ってくださったコーラスサポートの皆さんに心からの感謝を。
 
 
休憩時間に戴いたお菓子。
 
 
そして帰宅後は...
とっておきのPauwel Kwakで乾杯。
Vrolijk kerstfeest!!(メリークリスマス︎)
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:43| Comment(0) | 日記

2015年12月22日

伝記 ペーテル・ブノワ(14)

 
§第8章
 
[ブノワ最初のフランデレン語歌曲]
 
1863年6月、ブノワはこの年の『ローマ大賞』審査員に任命される。
私はここで、ブノワがパリで作曲した2つの大作、『テ・デウム」『レクイエム』について皆さんに関心を向けていただきたいのだ。
 
この年の7月21日、ベルギー国王レオポルド1世の即位32周年に際しブリュッセルで『テ・デウム』は演奏される。
この作品は聴衆に大きな感銘をもたらした。
この会に列席していたファンデンペルボーム大臣は賞賛の意を述べるとともに、ブノワが望むものを尋ねた。
ブノワの答えは明快であった。
彼は、その当時西フランデレンの小さな村の収税吏兼水門管理者だった父親のためによりよい職を請願したのである。
大臣はその謙虚な申し出に対して、有利な処遇を快く施したのだった。
そしてこの出来事は、ブノワの高潔な側面を表すものとして知られることとなる。
 
2年あまりをかけて、ブノワは『レクイエム』を作曲・完成させる。
これは混声合唱、管弦楽とハープのための大規模な楽曲となった。
1830年[訳注:ベルギー独立の年]の戦士への回想として、このレクイエムは1863年9月23日にブリュッセルの聖ヘデュラ教会において初演された。
音楽形式的にも、また着想としてもまったく新しく、強い個性をもったこの作品は、『テ・デウム』のときと同様、聴く者に大きな感動を与えたのだった。
 
ここでひとつの例えを引用することをお許しいただこう。
それはブリュッセルの画家ヴィールツによるもので、彼はこの『宗教的四部作』を次のように描写したのだった。
《『クリスマスカンタータ』は細流であるー『荘厳ミサ』は小川ー『テ・デウム』は大河ーそして『レクイエム』は大洋である!》と。
 
『テ・デウム』と『レクイエム』が準備され演奏される間、ブノワはフランデレン史上の3人の英雄たち(アンビオリクス、ディルク・ファン・デン・エルザス、ウィレム沈黙王)と、フランデレン民族の存在を表す擬人化された3つの時代による、オペラ劇場のための大規模な国民的三部作を作曲する計画を着想する。
しかしながら、多くの困難がこの決意を遂行することを妨げるのだった。
 
1863年12月、ブノワはレオポルド1世の生誕73周年に際して作曲したカンタータをリエージュにて指揮、その3ヶ月後(1864年3月)には擲弾兵連隊のためのカンタータを書き終える。
そして彼はブリュッセル、リエージュ、アントウェルペンで演奏会の準備を整えた。
それらの演目はほぼ彼自身の作品であったといわれている。
 
彼はまたヘントにおいて、1864年に王立合唱協会の指揮者として出演する。
そこでの心のこもった歓待を受けて、ブノワはその後まもなくこの協会のために男声合唱曲『収穫者たち』を書いた。
テキストはヘントの詩人ナポレオン・デスタンベルフによるもので、この作品は今なお広く合唱界においてポピュラーな作品である。
1865年には新たにブリュッセルで彼自身の作品による演奏会が、そしてもう一度ヘントでも演奏会が開かれた。
 
 
(第8章 つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 14:11| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年12月17日

伝記 ペーテル・ブノワ(13)

 
 
§第7章
 
[ブノワはフランデレン芸術のために努力する]
 
 
当時、二人のフランデレン芸術家がペーテル・ブノワを、そして彼の試みを支持していた。
ヘンドリク・コンシェンスとエマニュエル・ヒールである。
(訳注:H.コンシェンス(写真左/1812-83)はベルギーの作家。フランデレン圏におけるフラマン語文学の先駆。
E.ヒール(写真右/1834-99)はベルギーの詩人。ブノワらとともにフランデレン運動に参加。)
 
ヒールは、ブノワが渡独する以前からの友人である。
情熱と信念とをもって、ヒールはブノワの心の中にあるフランデレン人としての自覚をより強める働きをした。
二人の共同作業は1866年に始まった...この年、ブノワはオラトリオ「リュシフェル」を作曲する。
 
またこの頃、ブノワと最も近かったのはコンシェンスである。
二人は仲が良く、共通の理想を掲げ歩んでいた。
彼らはその意義とフランデレン民族の再興において、不滅の信念を育んでいたのだ。
また彼らは、自己犠牲の精神を持っていた...
それはこの戦いを素晴らしい結果へと導くために必要なものであった。
 
フランデレンはかつて、中世においてはヨーロッパ音楽の潮流の中心的存在であったのだった...
ああ、なんと長い沈黙!
ブノワはこの眠れる力を再び甦らせようとする。
彼はその人生において、独自のフランデレン音楽を呼び求めようと努め、彼の創作のエネルギーのすべてはその目的へと向けられた。
そして彼は、絶え間ない創作によってその目的を達成したのだ...
彼は私たちフランデレン国民音楽の創始者となった。
 
ブノワがこの戦いを始めたとき、同様な必死の試みがヨーロッパ各地で巻き起こっていた。
彼に対し見下した評価をなした者に向かって、彼は次のような言葉を返したのだった。
 
私の祖国は私にとって決して小さくはない。
私たちの芸術が今なお慎ましく、
他国の芸術よりも遥か低位にあろうとも、
私たちの芸術が表現できるもの、表現すべきもの、
それは私たちのものであり、その喜びを受け取るのは私たちなのだ。
 
 
(第7章 完)
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 08:45| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年12月12日

乾いた街で見た人情

 
11月某日。
近所にある小さな飲み屋さん(入ったことはない)のシャッターにこんな張り紙が。
 
 
最後の一行「申し訳ない」に無念さが滲み出ているよう。
いやいや、かえって心配です...
どうぞおだいじに。
 
その十日後。
 
 
びっくり!
リハビリですか?!
てっきり、過労あるいはちょっとした怪我かと勝手に想像していたので。
どうか早く良くなりますように。
 
(顔見知りでもなんでもないのだけれど、なぜだか妙に気になる存在になってきた)
 
そして今日。
張り紙はそのままだったが、近づいてよく見ると...
 
 
「早く帰ってこいよー」
「カムバック ◯◯マン」の文字が!
常連さんだろうか。
 
思わずグッときてしまった。
 
営業再開したら行ってみようかな...
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:59| Comment(0) | 日記

2015年12月08日

愛聴盤(35)渡邉暁雄のシベリウス

 
§シベリウス/交響曲第1番ホ短調
  渡邉暁雄指揮 ヘルシンキpo
  ('82年ライヴ録音)
 
実に久しぶりの「愛聴盤」投稿である。
ジャン・シベリウスは今からちょうど150年前のきょう(12月8日)、フィンランド・ハメーンリンナに生まれた。
これにちなんで、今日はシベリウスのディスクをあれこれ引っ張り出して聴いている。
 
まずは彼にとっての記念碑的傑作である第5交響曲。
その初演はシベリウス50歳の誕生日に行われた...すなわち1915年12月8日、ちょうど100年前のことである。
 
次に、5分ほどの小品だが実に味わい深い『鶴のいる情景』。
薄く広がる弦楽器の響きが冷たく澄んだ北欧の大気を感じさせる。
そこに突如現れる、胸に突き刺さるような鶴の声は2本のクラリネットで。
劇音楽『クオレマ(死)』中の音楽。
 
そして...
最近ほとんど聴いていなかった第1交響曲になぜか手が伸びた。
実は僕の中でこの曲は、もうこの演奏でキマリなのである。
初めて聴いたのは高校生の頃、FMで流れたヘルシンキpo初来日・シベリウスツィクルスの放送だ。
同行したフィンランドの指揮者オッコ・カムが第2、3、5&6を、そして渡邉暁雄が第1、4&7というふうに分担して振ったのだったと記憶する。
曲冒頭のクラリネット独奏から、フィナーレ大詰めの弦の死に絶えるようなピツィカートまで、鳴り渡るサウンドのすべてが僕にとってのシベリウス作品のイメージ形成に大きな影響を与え、作品の魅力を教えてくれたのだ。
やや暗い、弦のザラっとした響きは深い森のざわめき、その中を風の音のように通り抜けてゆく木管の歌、そして金管とティンパニの強奏は大地の咆哮だろうか。
 
初来日ということでヘルシンキpoも気合い十分であったことだろう。
そのオーケストラが隅々まで知り尽くしているシベリウス作品、加えてフィンランドに所縁の深いマエストロ渡邉のタクト...
様々な要素が重なり合って、このような実に濃密な演奏が実現したのではないだろうか。
 
こうして久しぶりに聴いたわけだが、30数年前の感動がほとんどそのままの色彩で蘇ってきた。
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 21:10| Comment(0) | 愛聴盤

2015年12月06日

『ラ・ボエーム』Tシャツ

 
 
立川市民オペラ合唱団謹製
2016『ラ・ボエーム』Tシャツ。
団員さんによるデザインです。
 
コーラスのいちばんの見せどころ・聴かせどころは第2幕、舞台はクリスマスイヴ、大賑わいのカルティエ・ラタン(ラテン街)。
...ということで背面のデザインはこれ。
 
 
よーく見ると
なにかが隠れているような...
 
先日の練習風景。
(撮影:宮ア京子先生)
 
 
立ち稽古にも熱が入っています。
 
 
公演は来年3月12&13日。
どうぞご期待ください!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 01:09| Comment(0) | 日記

2015年12月04日

伝記 ペーテル・ブノワ(12)

 
 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
(前回からのつづき)
 
ブノワはパリで、『テ・デウム』(『宗教曲四部作』第四部として[訳注:正しくは第三部として])といくつかの小品を作曲した。
それらの中で特に記憶されるべき12曲[訳注:正しくは15曲]からなる『物語とバラッド集』は、ブノワの全ピアノ作品のうちの最良のものに属し、その評価はフランデレンをほぼ征服した。
以前は繰り返し演奏されたのだが、現在では〜残念なことに〜その機会は少なくなっている。
『弦楽四重奏曲』『フルートと管弦楽のための協奏曲』もこの時期の作品だ。
 
次いでブノワは、2つの仕事に出会う。
彼は新聞や雑誌のために記事を書き、その中で数多くのコンサートや音楽イベントの批評を執筆した。
また同時に、パリ在住のベルギー人からなる合唱団「Les Enfants de la Belgique」の指導者として、パリやその周辺都市において多くの公演を行った。
そして彼はさらに「ブフ・パリジャン」との楽旅に出る。
フランス各都市での上演が準備され、1863年にはブリュッセルやウィーンでも公演が行われた。
 
これらの機会はブノワに、熱心にそしてたゆまず仕事を続ける日々をもたらすとともに、ブノワの才能を成熟させ、また彼の芸術的見識を拡げ洗練させるのを助けた。
彼は芸術家として進むべき方向を見出しただけでなく、フランデレン人としての自己のライフワークが明確になったことに気付いたのである。
諸外国〜ドイツ各都市およびパリ〜との接触は、彼の個性をより強いものにした。
彼はフランデレンの人々のもとへ戻り、精魂をこめて彼らに奉仕しようと考えたのだった。
 
彼は旧名「ピエール・L. L. ブノワ」を捨て、以降の作品では「ペーテル・ブノワ」として登場する。
1863年3月、ブノワは「ブフ・パリジャン」を離れた。彼のここでの仕事は1年足らずであったが、その日々は彼に多くの知識と経験を与えた。
数ヶ月後、彼はブリュッセルへ戻り、そしてまもなくこの祖国において自由な創作の領域を見いだすのである。
 
 
(第6章 完)
 
 
 
 
 
 
 
 
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posted by 小澤和也 at 08:38| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年12月02日

【読書ノート】「美を求める心」

小林秀雄「考えるヒント 3」(文春文庫) 所収。
その中から、最近読み返し改めて心に響いた言葉をランダムにピックアップしてみた。
まず、「絵画や音楽はどうすれば "解る" のか?」という問いかけから、この評論は始まる。

『見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。(中略) 見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。』

『物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさだとか、を見るという事、謂わば、ただ物を見るために物を見る、そういうふうに眼を働かすという事が、どんなに少いかにすぐ気が附くでしょう。』

『見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。』

『画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。』

『美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わう事に他なりません。』

そして話題は "詩作" の領域へと移ってゆく。

『言うに言われぬものを、どうしたら言葉によって現すことが出来るかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した人を詩人と言うのです。』

ここで小林は、山部赤人の歌
「田児の浦ゆ打出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」
を例に挙げ、このように続ける。

『歌人は、言い現し難い感動を、絵かきが色を、音楽家が音を使うのと同じ意味合いで、言葉を使って現そうと工夫するのです。(中略) 歌人は、そういう日常の言葉を、綿密に選択して、これを様々に組合せて、はっきりとした歌の姿を、詩の型を作り上げるのです。すると、日常の言葉は、この姿、形のなかで、日常、まるで持たなかった力を得てくるのです。』

『歌や詩は、わからぬものなのか。そうです。わからぬものなのです。(中略) 歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、ということをよく心に留めて下さい。』

『赤人は、富士を見た時の (中略) 感動に、言葉によって、姿を与えたと言った方がいいのです。(中略) そういう強いが不安定な感動を、言葉を使って整えて、安定した動かぬ姿にしたと言った方がいいのです。』

そして筆はいよいよ核心に迫りゆく。

『美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じます。』

『今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするようになるのです。物の性質を知る様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。』

『立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時も教えているものなのです。』

"美" に携わる一人の人間として、長く心に留めておきたい言葉である。
posted by 小澤和也 at 23:30| Comment(0) | 日記