また三好達治の詩について触れる機会ができた。
『鷗』、昭和21年7月刊行の詩集「砂の砦」(臼井書房)所収のものである。
鷗
つひに自由は彼らのものだ
彼ら空で戀(こい)をして
雲を彼らの臥床とする
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
太陽を東の壁にかけ
海が夜明けの食堂だ
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
太陽を西の窓にかけ
海が日暮れの舞踏室だ
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳墓
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
一つの星をすみかとし
一つの言葉でことたりる
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
朝やけを朝(あした)の歌とし
夕やけを夕べの歌とす
つひに自由は彼らのものだ
(三好達治詩全集U(筑摩書房刊)より引用)
疎開先の北陸で終戦を迎えた達治。
翌昭和21年、『故郷の花』に続いて出された『砂の砦』では、敗戦の衝撃から立ち直るかのような明るさ、若々しさを感じさせる詩が多く生まれている。
この『鷗』でも、ようやく到来した「自由」の気分がすべての行にあふれ出ているようだ。
河盛好蔵氏もこのように述べている。
「...これまでの鷗の詩とちがって、詩人の躍動する心臓の動悸が感じられる。精神の健康の恢復が感じられる」
(三好達治詩集(新潮文庫)の巻末解説より)
以前に拙ブログでも少し触れた、達治の『鷗どり』(戦前の作品である)という詩と比べても、同じ対象物にこめた詩人の思いのコントラストが浮かび上がってくる。
(「『海寄せ』に寄せて 5」、2015年7月27日の記事参照)
かぐろい波の起き伏しする
ああこのさみしい國のはて
季節にはやい烈風にもまれもまれて
何をもとめてとぶ鷗
(かつて私も彼らのやうなものであつた)
[一部抜粋]
今年の夏、東京農工大学グリークラブの皆さんとこの『鷗』(木下牧子作曲) を演奏する。
明るく清々しい、美しい歌だ。
さて久しぶりにスコアを開き、詩集を繰っていくうちに、ある思いが脳裏をよぎった。
「ついに自由は彼らのものだ」
当然ながら 彼ら=鷗 である。
では、鷗=... なんだろう?
空にいて、自由に羽ばたくもの...
こんなことも考えつつ、グリーメンと音楽を創っていこうと思う。