2016年05月21日

伝記 ペーテル・ブノワ(15)

 
§第8章
 
[ブノワ最初のフランデレン語歌曲]
 
(前回からのつづき)
 
ブノワは次の仕事に着手する。
彼はここフランデレンにおいて、ドイツに倣った定期的な音楽祭のための準備を試みた。
そのために彼は、Neder-Rijn(ネーデルライン)地方における音楽祭の開催について行政に報告書を提出する。
その文書は次のように締めくくられた。
 
『こうした年毎の音楽祭は、ベルギーにとって真に恩恵となるでしょう。
ドイツにおいてこれらの祝祭は、これまでイタリアやフランスの音楽に慣れ親しんできた多くの国民に、自国の音楽を大いなる知的充足感をもって浸透させました。
ベルギーの芸術はこの清らかな湧き水(=音楽祭)にふれることによって若返るでしょう。
それは急速に発展し、そしてすぐにも、世界的名声を互いに競い合う高等教育によって、生気に満ちた華やかさをもって光り輝くでしょう。』
 
ブノワはさらに2つめのレポートを大臣へ送る。
その中で彼は、ベルギー国内でドイツを模範とした音楽祭を準備するための方法について述べたのだった。
 
これら2つの報告書の結果はどうであったか?
まずブリュッセルでは、ほどなくして女声のための声楽サークルが設立され、その翌年にはファンデンペーレボーム大臣が、作曲家フェティスを座長とする委員会を置いた。
その委員会では、全国の声楽協会の協力のもとでの音楽祭開催の可能性が検討された。
 
 
[訳注]フランソワ=ジョゼフ・フェティス (1784-1871)
ベルギーの作曲家、音楽教師。
ブノワの師でもある。
 
1866年、再びアントウェルペンで、そしてブリュッセルでも演奏会が開かれる。
なかでもアントウェルペンでは「アヴェ・マリア」「レクイエム」抜粋、次いで「ピアノ協奏曲」「フルート協奏曲」が演奏された。
 
ブノワの合唱作品に対する批判から生じる問題のひとつは、演奏に必要な人員を集めることの難しさだった。
その困難を軽視する者はいなかったのだが、ブノワはそれをどうしても必要なことと考え、誰も、また何事も彼の考えを転換させることはなかった。
彼は夢見たものを実際に見ようとしたのだ。
 
時の経過は彼が正しかったということを証明する。
なぜならば、優れた演奏家たちが数え切れないほどの聴衆、それまでブノワの作品に興味を示したことのなかった人々をも魅了してきたからである。
 
1865年以後、ブノワはフランデレン語のテキストによる歌曲を書く。
この年の10月には『ハネスとトリーンチェン』『彼らは笑った』『小作人ヤン』が出版された。
これらの歌曲は生き生きとして健全な、そして独特な発想で書かれており、その響きは驚くべき斬新さをもっている。
 
 
(第8章 完)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:38| Comment(0) | 音楽雑記帳