2016年07月30日

メリメの『カルメン』

 
 
ビゼーのオペラ『カルメン』の原作であるメリメの同名中編小説を読む。
(平岡篤頼訳、講談社文芸文庫)
 
プロスペル・メリメ (1803-1870) はフランスの作家。
広辞苑によれば「史学・考古学・言語学にも学殖が深く〜」とある。
そして彼の『カルメン』は、考古学者である「私」がアンダルシア地方へ調査旅行へ赴いた際に偶然出会ったドン・ホセからカルメンとの愛憎劇を聞き、それを回想のように語ってゆく...という形で書かれているのだ。
よって、オペラの『カルメン』があれほどドラマティックな場面の連続であるのに対し、メリメの文体は実に客観的だ。
平岡氏も巻末の解説で「...作者の筆致のそっけないくらいの簡潔さと冷静さに愕く...」と述べている。
 
当然ながら (オペラ用に脚色された) ビゼーの『カルメン』とは設定がいろいろと異なっている。
まず、メリメの原作 (以下Mと記す) にはミカエラは登場しない。
またMにはフラスキータ&メルセデスもいない。
よって女性はカルメン一人ということになる。
 
闘牛士エスカミーリオは、Mにおいてはルカスという名前である。
そして物語中で実際に姿を現すのは、最後の闘牛場のシーンのみだ...オペラに比べればいささか地味な存在であろう。
 
逆にMにしか登場しない人物も。
盗賊仲間で隻眼の男ガルシア、彼はカルメンのロム (夫、あるいは情夫) である。
彼は相当の悪党として描かれており、仕事中に襲われて傷を負った部下のレメンダードを足手まといだからとその場で惨殺してしまうほどであった。
 
カルメンとホセの出会いからホセが恋に落ちてゆく一連のストーリーの流れは大筋で共通している。
あるときホセは、カルメンと共に姿を見せた彼の上官ともみ合いになり、はずみで彼を刺殺してしまう。
これがきっかけで盗賊団に加わることとなったホセの前に現れたのが、脱獄し合流してきた上記ガルシアである。
すでにカルメンと深い仲であったホセはまたも激しい嫉妬を覚え、ガルシアに決闘を挑んだ末に短刀で彼を殺める。
 
その後、二人の間に微妙な溝が生じてくるのもオペラとMとでほぼ同じだ。
「あんたには分ってるかしら、(...) あんたがほんとにあたしのロムになってから、あたしのミンチョーロ [恋人] だった時ほど好きでなくなってしまったのよ。(...) あたしの望んでるのは、自由であること、自分の好きなようにすることなのよ。あたしをとことんまで追い詰めないように気をつけて。」
 
物語の幕切れ近く。
生活を変えよう、俺について来てくれと懇願するホセに向けた、同じくカルメンの言葉。
「死ぬならついて行くわ、そうよ、でもあんたとはもう一緒に生きたくない。」
「あたしを殺したいのよね、顔にかいてあるわ、(...) そうなる定めなのね、でもあたしの気持を変えさせようとしてもむだよ。」
 
そしてラストシーン。
「私は彼女を二度突きました。(...)彼女は二突き目に、叫びも挙げずに倒れました。今でも私は、彼女の黒い大きな眼がじっと私を見詰めていたのが眼に浮かびます。」
 
メリメの、このうえなく醒めた筆。
しかしそれがかえってカルメンとホセ、それぞれの生来の気質を克明に描写しているように、僕には思われる。
posted by 小澤和也 at 00:51| Comment(0) | 日記

2016年07月26日

続:「魔王」と「ハンノキの王」

 
 
ひと月ほど前にこのブログで触れた「魔王」と「ハンノキの王」のちょっとした謎。
知り合いのピアニストYさんより、これについてより詳しく書かれた文献の所在を教えていただいた。
実に明快、すっと腑に落ちる内容であるので、ここに引用させていただこうと思う。
 
『ことばと解釈ーディトリヒ・フィッシャー=ディスカウのこと』
「みすず」2012年8月号所収、著者は三上かーりんさん。
お二人の対談がこのエッセイの主題であるが、それに先立って、歌曲における詩の、そしてその解釈の大切さを示す例として、三上さんが『野ばら』とともにこの『魔王』を挙げられている。
 
〜以下引用〜
 
詩はゲーテの〈Erlkönig〉(エルケーニヒ) です。
ゲーテはヘルダーがヨーロッパ各国の民謡を集めた詩集からこの着想を得ました。その詩集でヘルダーはデンマーク語の Ellerkonge (妖精の王) を Erlkönig (はんの木の王) と訳してしまった。
ところがヘルダーのこの誤訳の「はんの木の精霊」というイメージが広く受け入れられてしまう。ゲーテは、そのイメージに助けられて、木に憑りつく【原文ママ】精霊の像をふくらませていったのです。木の精ですからじっと動かない。枝を広げて子どもの乗る馬を待ち構えている。子どもには木の精が見えるのに、父親にははんの木にしか見えない。
日本では Erlkönig をもとのデンマーク語に近い「魔王」と訳しました。これではゲーテの木から精霊が浮かぶというイメージが抜け落ちてしまう。精霊が木にしか見えない父親の現実主義と、その精霊に向かってゆく子どもの恐怖というコントラストがすっぽり抜け落ちてしまう。魔王が空を飛んで子供【原文ママ】を追いかける訳ではありません。
 
〜引用ここまで〜
(改行は小澤が適宜施しました)
 
ヘルダーの仕事を「誤訳」と断じていらっしゃる...やはりそうなのだろうな。
しかし結果として、ゲーテにこれだけのインスピレーションを与えたわけであるから、実に「怪我の功名」だったことになる。
 
 
この話題、もしかしたらあとちょっと続きを書くかもしれません...
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:51| Comment(0) | 日記

2016年07月18日

校歌祭始動

 
久しぶりの母校へ。
「青春かながわ校歌祭」参加のためのキックオフミーティングに出席する。
 
 
キャンパスは昔と変わらぬたたずまい。
 
 
昨年に続き指揮を担当することに。
「光陵高校の歌」をこよなく愛する同窓のメンバーと歌える喜びを今年も味わう。
 
各役職や練習スケジュールなどを決定してから、今日の参加メンバーで校歌&応援歌の歌い初め。
 
(Aさん撮影の画像をお借りしました)
 
 
今年の「第11回 青春かながわ校歌祭」は
2016年10月15日(土)、県立青少年センターにて開催されます。
同窓の皆さん、ぜひご一緒に!
在校生の皆さんも大歓迎です。
 
 
posted by 小澤和也 at 23:24| Comment(0) | 日記

2016年07月15日

テューバ×パーカッション×ピアノ

 
ピアノの平野裕樹子さんにご案内いただいた室内楽のコンサートを聴く。
(千葉市文化センター スタジオ)
 
 
出演は他に
水中豊太郎さん(テューバ)、
野本洋介さん(パーカッション/作曲)。
 
プログラム前半ではやはりヒンデミット/テューバソナタが白眉であった。
全編これリズムの細胞でできているようなこの曲、水中さんの確かなテクニックと美しい音色にただただ惹かれてゆく。
(それにしても...なんとピアニスト泣かせの作品であることよ。特に第3楽章)
 
そして後半。
はじめに演奏されたスパーク/イーナの歌(テューバ&ピアノ)も素晴らしかったが、次いで演奏されたブキティーヌの2曲、「至上の愛の思い出」「無言歌、人もなく、何もなく」が個人的にはとても良かった。
オリジナルはこれもテューバ&ピアノのための作品なのだそうだが、そこへ即興的に絡み、刺さり、纏わりつくような野本さんの打楽器が実にチャーミング!
おそらくは会場の響きや僕のリスニングポイントのせいであろう、ところどころバランスが崩れ不明瞭になる瞬間があったが、それを差し引いても「ボーダーを越えた室内楽の醍醐味」を存分に味わえるものであった。
 
プログラムの最後にはなんと、ビル・エヴァンスのスタンダードナンバー "Peri's Scope" "Waltz for Debby"が!
冴え渡るドラム、ウッドベースを完璧に置き換えたテューバ、そして端正なピアノ(個人的にはもっとハジけてもよいかなと感じたが)...
ビル好きでテューバ好きの僕にとっては、聴いていてニヤニヤが止まらないひとときであった。
 
ご出演の皆さん、お疲れさまでした。
そして平野さん...
どうもありがとうございます!
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:32| Comment(0) | 日記

2016年07月13日

夜廻り猫

 
久しぶりにコミック本を購入した。
タイトルは『夜廻り猫』。
作者は深谷かほるさん。
 
 
主人公は、夜ごと涙の匂いを察知し人々の心にそっと寄り添う猫・遠藤平蔵。
 
 
Twitterで掲載されているのを偶然見かけたのが "平さん" との出会いのキッカケ。
バックナンバーから最新作まで一気に読み、あっという間にファンになってしまった。
ほどなくしてネット上でも大いに話題となり、先月ついに書籍化!
 
 
第22話。
時はクリスマス。
将来の生活を案じ憔悴しきったシングルマザーとその娘さん。
娘さんはサンタさんにこんな手紙を。
 
 
「ほしいものはママのしあわせです
わたしのしあわせをぜんぶ
ママにあげてください」
 
何度読んでもグッときてしまう。
 
 
この第35話も好き。
「うん そうだよ」
「赤の他人で 親子なんだよ」
 
 
継子である娘さんから「私たちは赤の他人なの?」と訊かれたときの、ご両親の答えの素敵なこと!
 
 
少しずつ少しずつ、味わいながら読んでいこう...と思ったのもつかの間、あっという間に全ページを読み終えてしまった。
適度な重み、ページを繰るときのザラッとした手触りとほのかな温もり...
やっぱり紙の本はいい。
 
Twitterへのアップは今も続いている。
第2巻の登場が楽しみだ!
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 08:42| Comment(0) | 日記

2016年07月04日

ご来場御礼

 
 
東京農工大学グリークラブ 第36回演奏会、おかげさまで盛況のうちに無事終演。
 
都立多摩社会教育会館は、農工グリーにとってはじめての会場。
ホールの響きを確認するため、各ステージ毎に入念にリハーサルを行う。
 
 
 
出演者向けに配布される「リサイタル広報」。
当日の持ち物の項にある
「気合、情熱、うたごころ」
...実はこれ、毎年記されているのだけれど、見るたびにいつも嬉しくなってしまうのだ。
 
 
短い準備期間 (特に新入生にとっては実質2ヶ月!) の中で、在校生の皆はよくやったと思う。
個人的には、わが国の男声合唱音楽の原点といえる清水脩の『日本民謡曲集』を取り上げることができ、また混声オムニバスステージという新たな試みが実現できたという点でまずまず満足のいく結果であった。
 
課題としては...
音楽をさらに深く練り上げるための練習時間の創出、そしてやはり発声テクニックのさらなる向上だろう。
学生の本分は勉強であるというのは重々承知であるが、そのうえでメンバーにはぜひ「半歩先」を目指していってほしいものだ。
 
2人の学生指揮者Kさん、Y君はじめ在校生の皆さん、おつかれさまでした...そしておめでとう。
酷暑のなかご来場くださり、よき聴き手となってくださいました皆さまにも厚く御礼申し上げます。
 
次回演奏会は
2017年7月2日(日) 宮地楽器ホール
(JR武蔵小金井駅下車) です。
どうぞよろしく!
 
posted by 小澤和也 at 15:59| Comment(0) | 日記

2016年07月02日

伝記 ペーテル・ブノワ(17)

 
 
§第10章
 
[ペーテル・ブノワ、音楽学校の校長としてアントウェルペンへ赴く〜
王立フランデレン音楽院の創立へ]
 
 
1867年はペーテル・ブノワにとって重要な年となった。
アントウェルペン市当局は8月、ファンデンペーレボーム大臣の助言と支援のもと、アントウェルペン音楽学校の校長としてこのフランデレンの作曲家を任命する。
ブノワはこの学校が名実ともにフランデレン人の、そしてフラマン語による組織機構となることを条件に、このポストへの着任を受諾した。
同年11月のアントウェルペン音楽学校の開校、それはこの勇気ある男に大きな達成感をもたらしたに違いない。
ついに彼は、成功のための機会を活かし、熱意をもって働くことのできる職を手に入れたのだ。
まだ33歳の若さであったにもかかわらず、ブノワはすでに多くの業績を成し遂げており、またすべての人から積極的な人格の持ち主とみなされていた。
 
それでも彼は、単なる「音楽学校」を設立するという考えには同意できなかった...彼は当初から壮大な計画を抱いていたのだ。
彼によれば...
ー音楽学校とは、少年少女がソルフェージュや楽器演奏をただ学ぶという目的をもつだけでなく、彼らがフランデレンにおける音楽活動の中心人物となるための、いわばフランデレン音楽のための単科大学のようなものだ。
ーすべての科目はフランデレン語で教えられるべきである...ドイツ、ロシア、ボヘミア、ノルウェー、フィンランド、スペインなどの諸外国がそうであるように。
ー音楽は民族的伝統の中に、その最も美しく力強い価値を見い出すものである。
そのようにしてフランデレン音楽もまた、貴重な財産の中から引き出されるのだ...その財産とは、私たちフランデレン人の古い歌や舞曲である。
彼は、フランデレン独自の個性をそなえた音楽学校をこの地に与えようとしたのだ。
 
しかし当然ながら、対立や抵抗なくすべて事が運ぶということはなかった。
1879年11月 (この時点ですでにブノワは12年間にわたって彼の音楽学校のために尽力していた)、フランスの作曲家グノーは次のような手紙をブノワへ送る。
『フランスの音楽教育はフランス語で、ドイツではドイツ語で、イタリアにはイタリア語で行われています。
したがってフランデレン地域では、それはフランデレン語でなされるべきです。
これはきわめて理にかなったことです。
母国語を除外しての言語研究、また国外のそれのみによる音楽研究などというものは成立しません...この立場に反するいかなる論証も私は知りません。
私はこの問題、あなたの才能と誠実さが不屈の勇気と粘り強さをもってこれほどまで長く奉仕してきた問題が最終的に、理性をもって公正になされることを心から願っています...幸運を祈ります。』
 
周囲の様々な反対にもかかわらず、ブノワは自らの意向をかなえていった。
数多くの文書の中で、彼は熱意と信念をもって自身の主張を擁護している。
そして最終的に、敵対者は彼の前に屈せざるを得なかったのだった。
 
 
(第10章 つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 01:58| Comment(0) | 音楽雑記帳