2016年09月19日

40年ぶりに聴くモーツァルト

 
 
メータの『モーツァルト/40番』、
やっぱりこんなに美しい演奏だったのか...
 
 
僕がクラシック音楽を聴くようになったキッカケは、当時家にあった父所有の数枚のLP、そして十数本のエアチェックテープであった。
レコードはシュトラウス一家のワルツ集、ヴィヴァルディの『四季』、『運命/未完成』が表裏に収められた定番中の定"盤"、ムソルグスキーの『展覧会の絵』など。
 
エアチェックテープの中では、「ベートーベン/第7」とだけ父の手書きの文字で記されたカセットに録音されていた曲が大好きだった。
なぜこんな言い方をするかというと...
なんとそのテープには第3&第4楽章しか収録されていなかったからである。
(交響曲の楽章形式など知るはずもない当時の和也少年は、唐突に始まるスケルツォと怒涛の如きフィナーレが「第7」のすべてだとずっと思っていたのだった)
 
それともう一本、モーツァルト/交響曲第40番の入ったお気に入りのテープがあった。
(父の好きな曲でもあったらしい)
おそらくは僕が生まれてはじめて聴いたK.550...もしかしたらはじめてのモーツァルト体験だったかもしれない。
「なんてきれいな音なんだろう!...オーケストラってすごい!」
確かそう思ったはずだ。
インデックスカードには、FM誌の番組表を丁寧に切り抜いたものが貼られていた。
曲名の後には『(指)ズービン・メータ/イスラエル・フィル』と書かれていた。
自分でレコードを買いレコード誌を読むようになり、ワルターやベームの名を知るようになるまで、僕にとって「40番」といえばこの演奏だったのだ。
 
 
僕にモーツァルトの素晴らしさ、オーケストラの美しさを教えてくれたこの演奏をまた聴きたい、
そう思い始めてどれだけ経っただろうか...
今月ようやく初CD化された輸入盤をさっそくゲット。
ドキドキしながら我が家のプレーヤーにセットする。
 
極めて純度の高いモーツァルトである。
「ト短調」という調性の持つ悲壮的、宿命的な性格も、作曲当時のモーツァルトが抱いていたであろう暗く屈折した心情も、楽曲の中に「解釈」として盛り込まれることはない。
旋律もバスも隅々まで歌い抜かれ、弦楽器を主体としたオーケストラのサウンドは常にキラキラと輝かしい...イスラエル・フィルの機能美!
 
昔聴いたときの、あの感触がかすかに、だが確かに蘇ってくる。
当時、知識を持たぬゆえにかえって余計なバイアスを感じることなく、無心に音楽と戯れることのできた自分。
そして今日、終楽章を聴き終えた瞬間...
モーツァルトの微笑みが見えたような気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 01:13| Comment(0) | 日記