『珠数かけ鳩』 唐画 珠数かけ鳩はむきむきに 落ちし杏(あんず)をつつくなり。 しめりまだ乾(ひ)ぬ土のうへ、 杏(あんず)はあかし、そこここに。 珠数かけ鳩の虔(つつ)ましさ、 脚(あし)にひろひぬ。飛び飛びに。 空に杏(あんず)の葉はにほひ、 羽根に雫の色涼し。 珠数かけ鳩は行き過ぎて、 あかき杏(あんず)につまづきぬ。 『白き花鳥図』全18編中、12番めの詩。 題名の傍らにやや小さな活字で「唐画」と記されている。 本詩集の中にはこの『珠数かけ鳩』を含め、同じように副題が添えられているものがある。 『辛夷』唐画 (5) 『蓮の実』唐画 (10) 『鵲』唐画 (11) 『珠数かけ鳩』唐画 (12) 『鳩』元画 (13) 『黎明』印度画趣 (14) (カッコ) 内の数字は収録順 『辛夷』とともに歌われているのは黄鳥 (コウライウグイス)、同様に『蓮の実』にカワセミ、『鵲』に車前草 (オオバコ)... たしかに、大陸の趣を感じなくもないか。 珠数掛鳩はシラコバトの別称。 数羽の鳩たちが思い思いに、熟して落ちた杏の実をついばんでいるさまを愛らしく描く。 一貫した7+5文字のリズム、また "むきむきに" "そこここに" "飛び飛びに" といった弾むような語感も読んでいて心地よい。 "脚にひろひぬ"、意味を掴みづらいのだがおそらくは "拾い足" (道の比較的よい所を選んで歩くこと) を指すのだと思う。 杏の実を踏まぬよう慎重に脚を運ぶ珠数かけ鳩、それでもときおり歩幅を誤って躓いてしまう... そんなユーモラスな情景が目に浮かぶようだ。 この詩は前述のように、組曲の第2曲として置かれている。 モティーフの繰り返しを多く用いるとともに、単語のイントネーションとそこに充てられた旋律線が美しく調和しており、素朴で温かみのある「語り」をゆったりと聴いているような気分を醸し出す。 (つづく) |
2017年04月23日
白秋の『白き花鳥図』〈4〉
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2017年04月22日
白秋の『白き花鳥図』〈3〉
『鮎鷹』 鮎鷹は多摩の千鳥よ、 梨の果(み)の雫(しづ)く切口、 ちちら、ちち、白う飛ぶそな。 鮎の子は澄みてさばしり、 調布(たづくり)の瀬瀬(せぜ)のかみしも、 砧うち、 砧うつそな。 鮎鷹は初夜に眼の冴え、 夜をひと夜、あさりするそな。 ちちら、ちち、 鮎の若鮎。 水の色、香(かを)る泡沫(うたかた)、 眉引のをさな月夜を ああ、誰か、 影にうかがふ。 註 多摩川のほとりには梨畑多し ・鮎鷹...コアジサシ。チドリ目カモメ科。 ・澄む...曇りがなく明るく見える。 ・砧...槌で布を打ちやわらげ、つやを出すのに用いる木または石の台。また、それを打つこと。 ・初夜...古くは前日夜半〜その日の朝。のちには夕方〜夜半まで。 ・ひと夜...夜じゅう。 ・あさり...動物が餌を探し求めること。 『白き花鳥図』全18編中、9番めの詩。 夜の静けさ、張りつめた空気の中に鮎鷹の動き回る気配とかすかな鳴き声が淡いタッチで描かれている。 言葉のリズム(終始5+7で運ばれてゆく)が実に心地よい...ここでも白秋の言葉の選択の確かさを味わうことができる。 "ちちら、ちち" と "砧うち"、また "夜をひと夜" と "鮎の若鮎" といった軽妙な語感の対比も面白い。 加えて、季節の表現に詩人の遊びごころを感じるのは僕だけではないだろう。 梨の切り口から果汁が滴る、といえばやはり実りの秋。 一方、砧打ちは晩秋から冬にかけての夜なべのイメージ。 そして若鮎は春に川をさかのぼる元気の良い鮎だ。 時の経過をもさりげなく詩に織り込んでいるかのよう。 多田武彦はまず、ピアノ伴奏付き同声三部合唱の形で組曲『白き花鳥図』を書いた。 1964年のことである。 ただしこのときの構成は、選んだ詩・曲順ともに現在知られる形とは異なっていた。 すなわち、 1. 黎明 2. 白鷺 3. 白牡丹 4. 鮎鷹 5. 柳鷺 の全5曲であった。 その後「柳鷺」を省くとともに「数珠かけ鳩」「老鶏」の二編を加え、無伴奏混声合唱組曲として再構成する。 新たな曲順は以下の通り。 1. 黎明 2. 数珠かけ鳩 3.白牡丹 4. 鮎鷹 5. 老鶏 6. 白鷺 以降この形がベースとなり、男声合唱版 (今回農工グリーが歌うのがこれである)、さらには女声合唱版 (再びピアノ伴奏付き!) が編まれ現在に至る。 「黎明」はポリフォニックな要素を含んだ堂々たる急速楽章、「白牡丹」は軽やかにはばたく中間部を伴う神秘的な緩徐楽章、「老鶏」は烈しいスケルツォ、そして宗教的な気分を湛えたアダージョ=フィナーレの「白鷺」といった有機的な楽曲配置を見ることができる。 「数珠かけ鳩」と今回の「鮎鷹」は素朴で抒情的な間奏曲といったところか。 (つづく) |
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2017年04月16日
白秋の『白き花鳥図』〈2〉
『白牡丹』
白牡丹(はくぼたん)、大き籠(こ)に満ち、
照り層(かさ)む内紫(うちむさらき)、
豊かなり、芬華(かがやき)の奥、
とどろきぬ、閑(しづ)けき春に。
蝶は超ゆ、この現(うつつ)より、
うつら舞ふ髭長(ひげなが)の影。
昼闌(た)けぬ。花びらの外(そと)、
歎かじな、雲の驕溢(おごり)を。
白牡丹(はくぼたん)、宇宙なり。
また 薫(かを)す、専(もはら)なる白。
この坐(すわり)、ふたつなし、ただ。
位のみ。ああ、にほひのみ。
・内紫...ウチムラサキガイ。殻の表は灰黄白色で密な輪脈がある。
・芬華...派手に飾り立てること。
・闌ける...真っ盛りになる。盛りが過ぎる。
・驕溢...おごりたかぶって分に過ぎること。
・坐...物体の安定度、おちつきぐあい。
・ふたつなし...くらべるものがない。すぐれている。
・位...品位、品格。
前掲『白鷺』に続いて収められている詩。
白秋の言葉の選び方はここでも精緻を極め、もはやこれ以上動かしようがないという域にまで達しているように思える。
そして前作同様、一行12文字(5+7)でほぼ統一された言葉のリズムも美しい。
この『白牡丹』は、詩集『海豹と雲』に纏められる2年前 (1927年) に、他二編の詩とともに初めて発表されている。
その初出ヴァージョンと読み比べると、ある部分では語句が微妙に置き換えられ、また別の箇所では全く新しいものに変更されているのだ。
例えば冒頭の二行、初出ではこのようになっていた。
>白牡丹花籠に咲き、
>地の富を象徴す。
ここだけを取り出しても表現の深さ、そして読む者の心に投げかけるイメージの広がりと色彩感がまるで違うのがわかる
さらに詩の第二連、初出ではこうである。
>蝶は超ゆ、この世界より、
>また深き秘所(ひそ)へ舞ひつつ、
>昼闌けぬ、花びらのうら、
>照り満ちぬ、そよとも揺れず。
世界→現(うつつ)、うら→外 への推敲、"髭長の影" "雲の驕溢" といった鮮烈な言葉選び、それでいて "照る" "満つる" は決して捨てられたのではなく第一連の中に生きている...
こうした白秋の構成力とセンスにはただただ感服するのみである。
多田武彦は、組曲の第3曲にこの詩を選んでいる。
白秋の描いた白牡丹の比類なき美しさ、静寂の中にある圧倒的な存在感を余すところなく音楽にしていると思う。
(つづく)
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2017年04月12日
宮沢賢治の芸術論
NHKテレビの「100分de名著」、宮沢賢治スペシャルを観る。 その最終回で紹介された『農民芸術概論綱要』の中の文章がにわかに僕の心をとらえた。 1926年春、29歳の賢治はそれまで就いていた教員の職を辞し自給自足の生活をスタートさせ、同年夏に私塾を開く。(羅須地人協会) そこでは地元農民を対象にした自然科学や語学の講義とともに、レコードコンサートや童話の読み聞かせなども催されたのだとか。 賢治は上記の他、自らが提唱する「農民芸術」というものについても講義を行った。 そのテキストとして書かれたのが『農民芸術概論綱要』なのだ。 「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい」 という書き出しからも分かるように、この綱要は当時の地元農民を主語とした内容である。 しかしながらこれは、現代のすべての人々にもピタリと当てはまるものなのではないか、と改めて思うのである。 この機会に全文を読んだ。 以下、番組で紹介されなかった部分も含め、はたと膝を打った箇所を自由に引用してみよう。 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」 「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」 ("序論" より) 求道すでに道である... これにまずグッと来た。 「曾てわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである 宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い 芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した」 ("農民芸術の興隆" より) 現代にもそのまま当てはまるであろう厳しい指摘。 先人たちの時代においては生活と宗教、芸術、科学が一体のものであった、と。 「いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ 芸術をもてあの灰色の労働を燃せ ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある」 (同前) 「芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する 人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する 芸術としての人生は老年期中に完成する」 ("農民芸術の(諸)主義" より) 難解だが含蓄に富む。 「強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ」 「なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ 風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」 ("農民芸術の制作" より) 対象は自然の中にある、ということか。 「われらの前途は輝きながら嶮峻である 嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる 詩人は苦痛をも享楽する 永久の未完成これ完成である」 ("結論" より) 永久の未完成これ完成である... これも名言だ。 求道すでに道である、の一文とともにひとつの大きな円環をなしているように思われる。 誰のための、何のための芸術であるか/あるべきか? 音楽に携わる者として、折にふれ考え続けていきたい言葉たちだ。 番組中でもうひとつ、『マリヴロンと少女』という短編が取り上げられていた。 こちらもなかなか面白い... 機会があったらこれについても触れてみよう。 (追記) 先に引用した 「世界がぜんたい幸福に〜」のくだり、どこかで見たことがある文章だなあ、とキーボードを打ちながらしばし考えて... 思い出した。 石巻市立大川小学校の跡地にて。 (2013年11月撮影) 校舎、もしくは施設の壁面に描かれたものだろうか。 (平成13年度卒業制作とある) これを見たときのことは...言葉にならない。 |
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| 日記
2017年04月07日
白秋の『白き花鳥図』〈1〉
この7月に農工大グリークラブと演奏する多田武彦/男声合唱組曲『白き花鳥図』。
北原白秋による同名の詩集 (厳密には詩集『海豹と雲』の中に『白き花鳥図』という題でまとめられた18の詩) から6編を選び付曲されている。
以下、それらの詩についてのメモを、僕自身の備忘録も兼ねて気ままに書いていこうと思う。
『白鷺』
白鷺は、その一羽、
睡蓮の花を食(は)み、
水を食(は)み、
かうかうとありくなり。
白鷺は貴くて、
身のほそり煙るなり、
冠毛(かむりげ)の払子(ほっす)曳く白、
へうとして、空にあるなり。
白鷺はまじろがず、
日をあさり、おのれ啼くなり、
幽(かす)かなり、脚(あし)のひとつに
蓮の実を超えて立つなり。
『白き花鳥図』中、第3編の詩。
多田武彦は、全6曲からなる組曲の終曲としてこれを用いている。
・かうかう...漢字で書くならば「皓皓」だろうか。あるいは耿耿?浩浩?行行?
・ありく...あちこち移動する意。動き回る。往来する。
・煙る...ぼうっとかすんで見える。
・払子...長い獣毛を束ね、これに柄を付けた法具。禅僧が煩悩・障碍を払う標識として用いる。
・へうとして...剽?あるいは漂?
・まじろぐ...まばたきする。
・日をあさり...昼間に餌を探しもとめる。
・おのれ...自然と。ひとりでに。
・幽か...物の形・色・音・匂いなどがわずかに認められるさま。さみしいさま。
全体を通して、静けさ、そして落ち着き払った高貴なたたずまいを感じさせる一編。
ほぼ全ての行が10文字(5+5)、もしくは12文字(5+7)で構成されており、言葉のリズム的にも揺るぎない安定感をもつ。
白秋は短歌でも白鷺を詠んだものをいくつか遺している。
例えば、
白鷺はくちばし黝(くろ)しうつぶくとうしろしみみにそよぐ冠毛(かむりげ) (動物園所見)
春はまだ寒き水曲(みわた)を行きありく白鷺の脚のほそくかしこさ
〜いずれも歌集『白南風(しらはえ)』所収
これら二首、実に『白鷺』と響き合っているではないか。
白秋は、こうした白鷺の姿に神々しさを感じ取っていたように思える。
(つづく)
posted by 小澤和也 at 23:59| Comment(0)
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