2017年05月27日

人形語り

 
 
「せいこミニ個展 人形語り」を観る。
(ぼらん・どぉる@上板橋)
 
学生時代からの友人 (合唱団仲間) である人形作家、せいこさんの "お子さん" たち。
僕は創作人形について何の知識も鑑賞眼も持ち合わせていないけれど、ごくシンプルに "かたちがあって" "美しい" もの、という視点でじっくりと拝見する。
 
(これ...なんとなくいいかも...) と直感したいくつかの作品。
 
"Die Vorleserin"
 
Vorleserinとは朗読者のこと。
本棚に住んでいるのだそう。
 
 
 
"water lily"
 
写真では分かりづらいが
オッドアイがチャームポイント。
 
「のすたるじあ」
 
Cool beauty...
 
 
折しも在廊されていたせいこさん、そしてギャラリーのご主人と楽しくおしゃべり。
幻想的な物語の世界に触れることのできる、ゆったりとした時間でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:36| Comment(0) | 日記

2017年05月22日

備忘録 /ノットのブルックナー

 
ジョナサン・ノットの指揮するブルックナー/第5交響曲を聴く。
(東京交響楽団・川崎定期演奏会 第60回
21日@ミューザ川崎)
 
第1楽章は想像していたよりもやや遅めのテンポ。
一点一画をも疎かにしない、意志の力をひしひしと感じさせる演奏。
3つの主題それぞれの性格がしっかりと描き分けられ、楽曲のテクスチュアが手に取るようにわかる。
また、しばしば現れるゲネラルパウゼを端折ることなく、拍どおりに間をしっかりと取って次段へと運んでゆくノットの構成感覚に好感。
 
続く第2楽章、その冒頭は弦のピツィカートによる6/4拍子的な音形の上でオーボエが4/4拍子の旋律を奏でるという複雑なリズムパターン。
(総譜に記された拍子記号は2/2である...なんと無頓着なブルックナーのスコアリング!)
指揮者によって振り方が様々に異なるこの部分 (朝比奈御大はとある対談で「ここはずっと6つで」と仰っている) を、ノットは4拍子で振る。
その結果ピツィカート音形は粘りと重さを帯び、じっくりと歩を進める音楽に。
 
第3楽章は一転して颯爽と流れるスケルツォ。
始まってすぐに現れる "Bedeutend Langsamer"(かなり遅く) の部分でもノットはさほどテンポを緩めない。
(個人的にはこの箇所、レントラー舞曲風にゆったりと踊りたいところであるが...)
 
そして最終楽章。
ノットのアプローチは第1楽章と同様、オーケストラを締め上げるようにしてすべてのモティーフを慎重に形にしてゆく。
Coda (練習記号Z)、あるいはその先の583小節 (いわゆる改訂版でバンダが追加される箇所) でテンポを落とす演奏が多いなか、逆にギアを上げ一気呵成に駆け抜けたノットの解釈に新鮮な驚きを覚える。
 
佳いブルックナーを味わうことができた。
至福の時間であった。
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:59| Comment(0) | 日記

2017年05月12日

中世の響きを味わう

 
 
第13回 小金井音楽談話室
騎士と貴婦人
〜中世イタリアとフランスの宮廷舞曲
を聴く。
(10日、宮地楽器ホール 小ホール)
 
クラヴィシンバルム、中世ゴシックハープ、オルガネット etc.
これらはすべて楽器の名称。
中世音楽にはまったく明るくない僕にとっては (何が聴けるんだろう...?) といった不思議な、そして新鮮な気分で出かけたコンサートである。
 
演奏は古楽のスペシャリスト、西山まりえさんとコリーナ・マルティさん。
開演前のステージに置かれていた楽器たちにまず惹かれる。
 
 
上:ゴシック・ハープ (メムリンク)
下:ゴシック・ハープ (ボッシュ)
 
 
どちらも中世の絵画に描かれていた楽器の姿をもとに復元されたものだそう。
(メムリンク、ボッシュはそれらの画家の名前)
 
 
上:クラヴィシンバルム および
下:その鍵盤部分
 
 
14c末〜15c前半の文献資料により復元された、"チェンバロの祖先" に当たる楽器。
(それまでは16cイタリアのものが最古のチェンバロと言われていたとのこと)
 
 
オルガネット。
ポルタティフ (可搬型)・オルガンで、膝の上に乗せ左腕で "ふいご" を操作しながら右手で鍵盤状のボタンを押すというもの。
 
これらの楽器 (他にリコーダーも) を用い、デュエットで、時に独奏で往時の雅な宮廷舞曲や歌曲の器楽編曲作品が次々と奏でられてゆく。
楽曲はロンドンやファエンツァなどヨーロッパ各地の図書館に所蔵される13〜15cの写本に収められたもの。
楽譜の読み解きにもさぞ途方もない苦労があったことであろう。
 
なんといっても各楽器の音色の美しさに心を奪われた。
聴きながら、あたかも中世にタイムトリップし、その時代の楽士たちの息遣いを間近で味わっているような気分に。
 
終演後、いても立ってもいられず (大げさだがこのときはほんとうにそんな心境だった) ロビーでCDを購入。
(こんなことは滅多にないのだけれど)
 
 
《中世の四季/西山まりえ コリーナ・マルティ》
Oasis Music Factory KCD-2056
 
この日会場で味わった聴体験をずっと思い出させてくれそうな、美しい演奏と録音である。
(一般にはこれからリリースされるそうだ)
 
このような素敵なコンサートを企画され、ご案内くださった小金井音楽談話室ディレクターの足立優司さん...今回もありがとうございました。
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 08:11| Comment(0) | 日記

2017年05月07日

専修大学フィルと

 
専修大学フィルの春合宿@岩井海岸 へ。
 
 
この駅に降り立つのはちょうど一年ぶり。
跨線橋からの眺望が懐かしい。
 
 
 
今回のお宿は、以前にたびたび横浜の吹奏楽団ホルツ・ブラス・カペーレとともにお世話になった大謙館さん。
 
 
曲目はスッペ/軽騎兵序曲、マスネ/絵のような風景、そしてベートーヴェンの第5交響曲。
 
 
他の作曲家の作品が簡単、というわけではもちろんないけれど、やはりベートーヴェンの演奏に求められる深い思慮と集中力は別格だ。
奏者ひとりひとりが正しくしかも美しい音を究め続けなければならない。
細かいパッセージやフレーズを取り出し、じっくりと時間をかけてそのことをメンバーに伝える。
この先の進化に期待。
 
専フィルのみなさん、お疲れさまでした。
また会いましょう!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:58| Comment(0) | 日記

2017年05月03日

白秋の『白き花鳥図』〈5〉

 
 
『黎明』
 
印度画趣
 
白き鷺、空に闘ひ、
沛然と雨はしるなり。
 
時は夏、青しののめ、
濛濛と雨はしるなり。
 
早や空(むな)し、かの蓮華色(れんげしょく)。
二塊(ふたくれ)の、夢に似る雲。
 
くつがへせ、地軸はめぐる。
凄まじき銀と緑に。
 
白き鷺空に飛び連れ、
濛濛と雨はしるなり。
 
 
・黎明(れいめい)...よあけ。物事の始まり。
・沛然(はいぜん)...雨のさかんに降るさま。
・濛濛(もうもう)...霧や小雨などで薄暗いさま。
・凄まじい...色などさめきって白っぽい。
 
 
『白き花鳥図』全18編中、14番めの詩。
多田武彦はこの『黎明』を組曲の第1曲に選んでいる。
"闘ひ" "雨はしる" "くつがへせ" など、力や勢い、はやさや厳しさを想起させる語句が並ぶこの一編 (特に "雨はしる" は三度にわたり用いられている) は実際、作品の冒頭を飾るに相応しいと思う。
 
題名の傍らには「印度画趣」と添えられている。
白秋の見た (想像した) 画がインド風のそれであったのか、あるいは "蓮華色"=朝焼けの空の色からハチスの花が連想されたのだろうか。
 
これまでにも述べてきたが、白秋の 「言葉の選び方へのこだわり」がこの『黎明』においても強く感じられる。
この詩の初出は昭和2年4月 (詩集としてまとめられる2年前) だが、それと読み比べるとほとんどの行が推敲され書き換えられているのに気付く。
長くなるが、以下に全文を掲げてみよう。
 
 
『黎明』
 
白き鷺空に闘ひ、
沛然と雨はしるなり。
 
時は夏、青しののめ、
瀉(かた)はいま雨はしるなり。
 
現(うつゝ)なり、善きも悪しきも、
超えよ、かの夢に似るもの。
 
くつがへせ、地球はめぐる、
水天の幻と帆と。
 
蜃気楼(かいやぐら)、紫の市、
たちまちに雨はしるなり。
 
 
※原文には全ての漢字にルビが振られているが、煩雑となるため一部を除き省略した。
 
 
以下はあくまで個人的な感想だが、初出版を目にしてから改めて最終形を読み込むと、洗練の度が格段に高くなっているのがわかる。
"かの蓮華色" が後に足されたものである、という点がやはり最大のインパクトであろうか。
(したがって副題の "印度画趣" も初出版にはない)
これも新たに加えられた "凄まじき銀と緑" と互いに響き合って、暗さや青白さが支配的な驟雨の風景の中にあって差し色のような効果を生んでいるように思える。
 
"沛然と" に呼応する "濛濛と" も良いし、"夢に似るもの"→"夢に似る雲"、あるいは "地球はめぐる"→"地軸はめぐる" への改変も、表現の輪郭をより鮮明に浮き上がらせている。
一方で、"蜃気楼、紫の市" という魅力的な一行を敢えて外した詩人の潔さにも感嘆するばかりだ。
最終連がこのような形になったことで、あたかも音楽における「主題回帰」「ソナタ形式における再現部」のようなフォルムの美しさを感じずにはいられない。
 
 
(つづく)
 
 
posted by 小澤和也 at 16:31| Comment(0) | 音楽雑記帳