2018年05月04日

多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち〈2〉

 
 
こほろぎ
 
こほろこほろと鳴く虫の
秋の夜のさびしさよ。
日ごろわすれし愁(うれひ)さへ
思ひ出さるるはかなさに
袋戸棚かきさがし、
箱の塵はらひ落して、
棹もついて見たれども、
あはれ思へば、隣の人もきくやらむ、
つたなき音は立てじとて、その儘におく。
月はいよいよ冱(さ)えわたり
悲みいとど加はんぬ。
昼はかくれて夜は鳴く
蟋蟀(こほろぎ)の虫のあはれさよ、
しばしとぎれてまた低く
こほろこほろと夜もすがら。
 
 
【第一書房版『木下杢太カ詩集』(昭和5年刊) より引用。原文においてはほぼすべての漢字にルビが振られているが、ここではその大半を省略。また旧漢字は現行のものに改めた】
 
・袋戸棚...床の間、書院などの脇の上部に設けた戸棚。
・棹...三味線。
・いとど...いよいよ。ますます。さらにいっそう。
 
初出は明治43年12月『昴』。
「竹枝集」の総題のもとに別の詩とともに発表されている。
このときの署名は彼の別号である「きしのあかしや」。
 
明るく活気に満ちた前掲の作「両国」から一転、静かな秋の夜のおもむきを歌った哀愁漂う詩である。
全15行のうちの大半が 7+5、またはそれに近い言葉のリズムを持っているが、その単調な繰り返しがしっとりとした “重さ” を醸しているように思える。
虫の音を聞きながらふと思い立って三味線を手に取る...
何とも風雅な趣味、時の流れである。
(でもあまり上手ではなかったのかしら)
 
詩の味わいからは少し離れるが...
「冱える」という字を今回初めて知った。
我々がふだんよく目にする「冴」は「冱」の俗字であるとのこと。
また「となり」という字も「隣」ではなく「鄰」が正字なのだそうだ。
 
漢字の世界も奥が深い。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 14:07| Comment(0) | 音楽雑記帳