こほろぎ こほろこほろと鳴く虫の 秋の夜のさびしさよ。 日ごろわすれし愁(うれひ)さへ 思ひ出さるるはかなさに 袋戸棚かきさがし、 箱の塵はらひ落して、 棹もついて見たれども、 あはれ思へば、隣の人もきくやらむ、 つたなき音は立てじとて、その儘におく。 月はいよいよ冱(さ)えわたり 悲みいとど加はんぬ。 昼はかくれて夜は鳴く 蟋蟀(こほろぎ)の虫のあはれさよ、 しばしとぎれてまた低く こほろこほろと夜もすがら。 【第一書房版『木下杢太カ詩集』(昭和5年刊) より引用。原文においてはほぼすべての漢字にルビが振られているが、ここではその大半を省略。また旧漢字は現行のものに改めた】 ・袋戸棚...床の間、書院などの脇の上部に設けた戸棚。 ・棹...三味線。 ・いとど...いよいよ。ますます。さらにいっそう。 初出は明治43年12月『昴』。 「竹枝集」の総題のもとに別の詩とともに発表されている。 このときの署名は彼の別号である「きしのあかしや」。 明るく活気に満ちた前掲の作「両国」から一転、静かな秋の夜のおもむきを歌った哀愁漂う詩である。 全15行のうちの大半が 7+5、またはそれに近い言葉のリズムを持っているが、その単調な繰り返しがしっとりとした “重さ” を醸しているように思える。 虫の音を聞きながらふと思い立って三味線を手に取る... 何とも風雅な趣味、時の流れである。 (でもあまり上手ではなかったのかしら) 詩の味わいからは少し離れるが... 「冱える」という字を今回初めて知った。 我々がふだんよく目にする「冴」は「冱」の俗字であるとのこと。 また「となり」という字も「隣」ではなく「鄰」が正字なのだそうだ。 漢字の世界も奥が深い。 (つづく) |
2018年05月04日
多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち〈2〉
posted by 小澤和也 at 14:07| Comment(0)
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