2019年02月28日

恒例 春の鎌倉訪問

 
今年もローソクを頂戴しました。
 
 
東日本大震災追悼・復興祈願祭の
「特別祈願ローソク」。
ここ鎌倉・カトリック雪ノ下教会において神道・仏教・キリスト教の三宗教合同で加持祈祷、祝福したものだとのこと。
 
 
この教会を訪れるのはもちろん初めて。
少し迷って写真左側の建物に向かうとそこが聖堂でした。
入ってすぐ左手に小さな売店が。
用件を告げると、応対してくださった小柄なご婦人から歓迎と感謝の言葉を何度もいただきました。
『(復興祈願ローソクというプロジェクトは) とても素晴らしいことだと思います。これによって皆さんが (あの震災を) ずっと忘れずにいてくだされば』
 
聖堂内は白を基調としたシンプルで清潔感のある空間。
見学させていただこうかとも思ったのだけど、何やらけっこう大掛かりな清掃作業(?)中だったので今回は断念。
 
 
教会へ行く前、
長谷寺にお参りしました。
 
 
今年の初詣の際に拝観した観音さまがあまりに美しくて...
(もう一度拝みたい!)と。
 
 
観音堂。
 
 
本尊・十一面観世音菩薩像。
静かなる佇まい、尊い御顔。
堂内は撮影禁止ゆえ、その御姿をしっかりと目と心に焼き付けました。
 
 
春はもうすぐ。
 
 
posted by 小澤和也 at 12:31| Comment(0) | 日記

2019年02月20日

見て、聴いて、考えて、感じる音楽の愉しみ

 
第17回 小金井音楽談話室
ヴィルタス・クヮルテットの演奏会へ。
(15日、宮地楽器ホール 小ホール)
 
談話室へ出かけるのはおよそ2年ぶり、
ヴィルタス〜を拝聴するのはなんと2016年の秋以来だ。
(あのベートーヴェンからそんなに経ってしまったのか...)
 
【過去ログ】
小金井音楽談話室でのベートーヴェン体験:2016/9/28
 
 
プログラムは
ショスタコーヴィチ/四重奏曲第3番ヘ長調 op.73
ベートーヴェン/四重奏曲第13番変ロ長調op.130
(終楽章〈大フーガ〉版)
という実に魅力的なもの。
 
窓口でチケット精算、開場前に頂戴したパンフレットに目を通す。
コンサートのディレクターである足立優司さんによるプログラムノートがほんとうに素晴らしい!
これを拝読できただけでもう、(きょう来てよかった!) と思うほどであった。
 
 
ショスタコーヴィチ/第3番は1946年の作である。
足立さんのノートによれば「戦勝気分に席巻される社会に対してシニカルな視線が注がれ」た曲。
この作品の実演に触れたのはこの日が初めてであった。
これまで正直なところ聴きやすい音楽ではなかったが...この日は違った。
奏者の方々から3mほどの距離で体験するショスタコーヴィチ。
四つの楽器から放たれる音の飛ぶさまが見える。
呼吸が、リズムが、休符すら見える。
これには魂を抉られない訳がない。
 
(この距離で聴きました)
 
 
そして後半のベートーヴェンへ。
アダージョ〜アレグロ、ソナタ形式の第1楽章、疾走するプレスト第2楽章、ポーコ・スケルツォーソと題されたアンダンテの第3楽章、ドイツ舞曲風の第4楽章、美しいカヴァティーナの第5楽章アダージョ...これらに続いて作曲者の脳裡で当初鳴り響いていたのは「巨大なフーガ」であった。
ところが初演の後の出版にあたり、この終楽章は別の音楽に差し替えられ、この〈大フーガ〉は独立した楽曲として新たな作品番号 (Op.133) を与えられる。
 
この日のヴィルタス・クヮルテットの演奏は初演時の構成に立ち返ったものであった。
僕にとってもよく耳に馴染んだ名曲であるがゆえ、ところどころ (あっ...) と思う瞬間も無くはなかったが、ベートーヴェンの原初の理念に沿った形であの深遠なカヴァティーナに続けて〈大フーガ〉を聴くことができたというのはやはり貴重な、そして圧倒的な体験であった。
 
聴きながら、次のような言葉を思い出していた。
「第三期の特徴は矛盾するものや対立的なものの綜合であり、それらの平然たる混在にあるが、若しもこの大フーゲが変ロ長調四重奏曲の終楽章に置かれて居たならば、この四重奏曲こそその様な特徴を最も明確に現はして居たものであらう。」
(諸井三郎著『ベートーヴェン絃楽四重奏曲』より)
 
 
〈大フーガ〉が終わる。
鳴り止まぬ拍手...時計の針はとうに9時を回っている。
微かに、ほんのかすかに (アンコールにOp.130の第6楽章を) と期待していたのだが...
その希望が、叶った。
〈大フーガ〉よりずっと軽妙なロンド形式のアレグロ。
実質的にベートーヴェンが生涯の最後に書いた曲である。
 
ヴィルタス・クヮルテットの皆さま、そして足立さんに改めて感謝を。
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:13| Comment(0) | 日記

2019年02月06日

まるむし帳

 
 
さくらももこの詩画集「まるむし帳」を読んでいる。
きっかけは合唱曲『ぜんぶ』との出会い。
 
大切なことは
ぜんぶここにある。
泣くこと  笑うこと
怒ること  喜ぶこと  
...etc.
 
やわらかな言葉で綴られた「青春の応援歌」のような詩である。
 
 
さくらさんといえば「ちびまる子ちゃん」、ちびまる子ちゃんといえば「ピーヒャラピーヒャラ、パッパパラパー」、少なくとも僕の中ではこれらが全てであった。
この詩画集も飄々とおちゃらけた、お気楽ユーモア路線なのかと思いきや...
 
 
長い長い線路の終点に
線路は無くて
長く長く線路が始まるところにも
線路は無くて
...etc.
(『果て』より)
 
ここにいてもいいって
いつだれに言われたもでもないのにね。
ここに  こうして  わたしはいるよ。
...etc.
(『こうしていよう』より)
 
ほんわかとした語調で紡がれる哲学的な思索、
あらゆる生・あらゆる感情の全面的な肯定、
そしていきものや自然現象へ向けられる優しい眼差し...
それらがさくらさん独特の “まあるい文体” で語られてゆく。
そのさまが実に心地よいのだ。
 
 
所収の50編余りの詩の中で、いま僕がいちばん好きなのはこれ。
(全文引用させていただきます)
 
『空の子』
 
いつか小さい私が抱いていた夢を
空が覚えていてくれた。
わたしは毎日漫画を描き
あの日の空に描いたあの子が
わたしを忘れずいてくれて
空からあの子が降ってきた。
丸い顔のおかっぱのあの子。
 
 
〜そう、
この「まるむし帳」には哲学やユーモアのみならず “遠い記憶=ノスタルジー” の香りがそこここに立ちこめているような気がするのだ。
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:39| Comment(0) | 日記