2019年04月30日

ケルテスのラスト・セッション

 
久しぶりにイシュトヴァン・ケルテスの新しい音源を入手した (ロンドン交響楽団との1964年東京ライヴ) のを機に彼の録音データについていろいろと調べていたところ、こんな資料を見つけた。
 
“The LSO Discography”
 
“The Vienna Philharmonic on Decca
 
これらを見ると、ケルテスがいかに精力的に両オーケストラとレコーディングを行ってきたかが手に取るように分かる。
 
データをあれこれ眺めつつ、僕の興味は自ずと彼の「最後の録音」のことに。
ご存じのとおりケルテスは1973年4月16日、不慮の事故により43歳の若さで突然この世を去った。
その結果ブラームスの録音の一部が未完となり、オーケストラが遺された部分を録音したというエピソードがある。
CD解説等に書かれているのは「ハイドン変奏曲」なのだが、「第4交響曲の終楽章である」という説もあって、そのあたりのことが何となく気になっていたのだ。
 
ディスコグラフィには次のようにある:
 
 
1973年2月26日〜3月1日にウィーン・フィルとブラームス第1&第3交響曲、そして「ハイドンの主題による変奏曲」を録音していることが分かった。
そして最終行には
「ケルテスの死を受けて、ハイドン変奏曲が指揮者なしで完成された」とも。
 
 
もう少し調べているうちに、1975年リリースの第3交響曲&ハイドン変奏曲のLPレコード (London Records CS6837) のジャケット裏面にケルテスへの追悼文があることに偶然気付いた。
 
↑CS6837のジャケット
↓“His Last Recording”との記載がある
 
↑ジャケット裏面
↓右下部分
(これらの画像はネット上にあったものを拝借しました)
 
デッカのマネージャー、Terence A. McEwen氏のよるものだった。
以下、その拙訳を掲げる。
やはりハイドン変奏曲の、おそらくはあのパッサカリア風のフィナーレが遺されたものと思われる。
 
 
その早すぎる死の少し前、イシュトヴァン・ケルテスは第1、第3および第4、それに既存の第2の録音を加えてブラームスの交響曲全集を完成させました。第3交響曲はレコード1枚の分量に満たないので、“ハイドンの主題による変奏曲” が加えられることが決定されました。録音セッションが完了する前に時間切れとなりましたが、すぐ後に再びウィーンに戻ってさらなるレコーディングを行う予定であったため、ハイドン変奏曲の終結部はその機会へと持ち越されました。
そして運命は並外れた感性を持つこの若い指揮者を現世から奪い去ったのです。
ウィーン・フィルはケルテスと多くのレコードを制作しました。彼らは周知のとおり指揮者にとっては手強いオーケストラであるのですが、ケルテスが亡くなるとすぐ、高く評価するその指揮者に対しある特別な行為によって敬意を表したいという彼らの願望を我々の会社に伝えてくれました。リスペクトと愛に溢れた雰囲気の中、ウィーン・フィルは指揮者無しでこの若きマエストロの最後のレコーディングを完成させました。
これは私がこれまで体験した中でも類のない賛辞であります。そして同時に我々ロンドン・レコードは、その卓越した美的規範が西洋諸国において賞賛された、また多くの素晴らしい録音によって決して忘れられることのないであろうひとりの音楽家に最後の敬意を表するものであります。
 
T. A. McEwen
Vice President 
Manager - Classical Division
 
 
“To pay homage to the conductor it so much esteemed by means of a very special gesture.”...
ケルテスがウィーン・フィルにどれほど愛されていたかがひしひしと感じられる文章だ。
posted by 小澤和也 at 21:55| Comment(0) | 日記

2019年04月28日

『湖国うた紀行』紀行

 
この夏に東京農工大学グリークラブ女声メンバーと手がける『湖国うた紀行』(松下耕)。
その世界に少しでも近づけたらと思い、夜行バスを使って滋賀まで0泊3日の旅に出かけた。
 
早朝、南草津駅に到着...あいにくの雨。
結局この日は残念ながらずっと降られっぱなしだった。
 
 
レンタカーを借り、まず向かったのは彦根。
夏の風物詩「きせない行列」の地元を訪ねる。
 
青龍山大雲寺。
こちらのご住職が「きせない」を復活させた。
 
 
 
お隣が保育園、すぐ脇の細い路地を入ると...
 
 
 
割烹やスナックの並ぶエリアが見える。
かつて袋町と呼ばれたこの辺りは県内でも有数の歓楽街であったそうな。
 
彦根城へ向かって少し歩いてみた。
 
 
時が止まったかのような街並み。
 
 
 
彦根城もぜひ観たかったのだけれど、時間に限りがあるため断念...
犬上郡甲良町へ向かう。
 
 
甲良神社。
人影もなく濡れそぼった境内はどこかさびしい。
 
 
 
続いて訪れたのが町立図書館&歴史資料館。
総檜造りの旧小学校校舎を活用しているとのこと。
 
 
 
 
資料室の窓から見える美しい風景に心も和む。
 
 
甲良町・長寺地区へ車で向かう。
楽譜によれば、ここが『甲良の子守歌』発祥の地らしい。
民家もより少なく、田畑よりも空き地 (荒地) が目立つように感じられたのは気のせいだろうか。
 
 
ねんねしてくれ 寝る子はかわいーィ
起きて泣く子は 面(つら)にくいーィ
 
良い娘嫁入(よめり)する 悪い娘は残るーゥ
嫁入せん娘は わしひとりーィ
 
子守歌 (寝させ歌) というよりは「守り子歌」、一種の労働歌である...それもおそらくは10歳前後の少女たちの。
自身の境遇の辛さ、裕福な家への羨望のようなものが歌詞にあらわれていると思う。
そしてこの地区がいわゆる被差別部落のひとつであったこととも無関係ではないだろう。
 
次の目的地は近江八幡。
『まゆとり歌』について何かしら知ることができたらと思ったのだが、事前の調べではどの辺りで養蚕業が営まれていたのかよく分からぬままであった。
(旧安土町の繖山桑實寺は天候不良のため断念)
 
移動の途中、末広町に歴史資料館があることを知り、訪ねてみることに。
その施設は広く一般に公開している様子ではなかったのだが、アポイント無しで押しかけたにもかかわらず職員の方々は親切に応対してくださった。そして...
 
 
この地域にも被差別部落としての不幸な歴史があることを知る。
かつては食肉業・皮革加工業が産業の中心であったとのこと。
それでも、館内に展示されていた末広地区の古い地図には桑畑の記号があちらこちらに見られた...きっと養蚕が盛んに行われた時代もあったのだろう。
 
最後の目的地は大津市・堅田。
琵琶湖大橋を渡って湖の西岸へ。
『船おろし歌』のルーツを訪ねたかったのだけれど、調査不足そして時間切れのため叶わず。
唯一期待を寄せていた「湖族乃郷資料館」、なんとこの日は休館日!
 
 
気を取り直して...海門山満月寺の浮御堂へ。
 
 
 
 
晴れていたら琵琶湖はこの何十倍も綺麗だったことだろう。
 
 
南草津へ戻り、レンタカーを返して夕食。
店を出た頃、ようやく雨が上がっていた。
 
 
 
走行距離190km、およそ10時間の旅。
歌の核心に迫ることのできた瞬間は多くなかったけれど、「湖国」の風景は深く僕の心に残った。
来月からのグリーメンとの練習が楽しみだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年04月21日

きせない

 

松下耕さんの『湖国うた紀行』。
琵琶湖周辺の各地に伝わる仕事歌やわらべ歌を素材とした「合唱のためのコンポジション」である。
作品は次の4曲からなる。
 
まゆとり歌 (近江八幡市末広町)
きせない (彦根旧市街)
甲良の子守歌 (犬上郡甲良町長寺)
船おろし歌 (大津市今堅田町)
 
このなかでまず気になったのが「きせない」。
曲中では囃し言葉のように「キセナイ、キセナイ」と繰り返し歌われる。
「きせない」とは何ぞや?
少し調べてみた。
 
 
時は江戸時代、八朔盆に際して幼年〜10代前半くらいの女の子らが着飾って町内を練り歩く夏の行事があったそうな。
 
「(...)日の暮れ方になると、組邸や町の娘子(じょうし)はサッと一風呂浴び、髪をきれいに結い、ビラビラと光る花簪を挿し、コッテリと白粉を白壁のように塗り、首筋に三本の白い足を描き、絽や縮緬のきれいな着物を着飾り(...)、年の順、背丈の順に並び、互いに手を繋ぎ合って、きせないきせない、の唄を合唱し乍ら京都の舞妓の様な風で町を練って歩く。(...)」
(「彦根藩士族の歳時記 高橋敬吉」藤野滋編著 より引用)
 
天のばたばた ばたついてこけて
去(い)んでおっ母さんに 叱られて
ノウヤッサイ きせないきせない
(松下作品 1番の歌詞)
 
「天の “ばたばた”」がずっと分からなかったのだが、複数の資料から “七夕” の転訛であるらしいことが判明...大いに納得。
 
以下、
天の星さま 数えてみれば
九千九つ 八つ七つ
 
彦根よいとこ お城は山に
前の湖水に 竹生島
 
といったふうに5番まで歌詞が選ばれ付曲されているが、本家「きせない」には20以上の歌詞がある。
それらのなかにはかなりキワドイものも見受けられるようだ。
例えば
 
あいつどこん子じゃ 蹴っつらかせ転がせ
槍で突きたや細槍で
(仲間に加えてもらえないからと行列の邪魔を仕掛けるわんぱくな男児たちに向けて歌ったか)
 
彦根袋町 尾のない狐
人をだまして 金をとる
(袋町は現在の河原町1〜2丁目あたりとのこと。明治〜昭和初期まで花街があったそう)
 
この風習は明治の終わり頃 (大正期とする資料も) に途絶えてしまうが、戦後新たにこれを復活させる動きがあり現在に至るとのこと。
 
きせない行列
(彦根市のサイトにあった資料から画像をお借りしました)
 
 
「きせない」という掛け声の語源についてもさまざまな説があるようだが、以下に引用する説明が僕にはいちばんしっくりくる。
 
「きせないの語源については、鬼債無いとか、飢歳無い、鬼斎無いなどもっともらしい字をあてていろいろと論議されているようであるが、こうした民俗的な風習は(...)大抵偶然の機会にできたものが、行事に発展したのが多いようである。
(...)借金を盆に済まして、あとは鬼債が無いとて「きせない」といったとか、天保の大飢饉にこりごりした領民が、飢ゆる年のない様にとて、飢歳無いといったとか説明されてもいるが、結局は大人が後からこじつけた屁理屈ではなかろうか。
歌の意味にもあるように、盆の晴れ着を着て、ばたついてこけて、着ものを汚したら叱られる。もう着せないといわれよう。といったことを純真に子供たちが口ずさんだもので、むつかしい字をあてるより「着せない、着せない」でよいのではなかろうか。(...)」
(「彦根史話」宮田思洋著 より)
 
 
§参考資料 (上記以外)
日本民謡大観 近畿篇 (日本放送協会編)
日本わらべ歌全集 14下 滋賀のわらべ歌 (右田伊佐雄著)
日本のわらべうた 歳時・季節歌編 (尾原昭夫編著)
 
 
この8月11日(日)に行われる
東京農工大学グリークラブ 第39回演奏会
(小金井宮地楽器ホール)
にて、『湖国うた紀行』を演奏します。
 
皆さまぜひお運びください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:20| Comment(0) | 日記

2019年04月03日

パナマ・ゲイシャを飲んでみた!

 
 
その希少性と豊かな味わいによってこの十数年のうちに “最高級銘柄” と呼ばれるようになった「ゲイシャ (Geisha)」。
 
とうとう飲むことができた!
 
行きつけのカフェのマスターから留守電が入っていたのは数日前のこと。
「Sさんのお店 (珈琲豆の仕入れ先) になんとゲイシャがありました。買ってきました...さてどうしましょう⁈」
どうするもこうするもないではないか!
〜その日のうちにカフェへ。
 
 
ゲイシャはエチオピア原産の比較的新しい種なのだそうな。
標高や気候などの制約から栽培が難しいとされ、注目されることもなく数十年が経過。
しかし今世紀に入りパナマで上質な豆が生産されるようになり、以来常に高値で取り引きされる最高級品になったとのこと。
 
 
挽いた豆を少量の湯で蒸らす。
むんとした濃厚な香りが鼻にまとわりつく。
口に含むと、まろやかな果実系の酸味が広がる。
そしてややとろりとした、ハチミツのような後味も。
ただし甘みはほんの微かに感じる程度。
 
あらゆる刺激 (苦みを除いて) が、僕がこれまで飲んだコーヒーのどれよりも強烈、しかしそれらの全てが絶妙なバランスの中にある。
これはぬるめに淹れたほうが絶対に楽しめると感じた。
 
ちなみに豆のお値段は...
Sさんのお店の他の銘柄のおよそ4倍。
(それでもゲイシャの価格設定としてはかなり良心的ではないかしら?)
では他の銘柄の4倍美味しいのか?と問われるとソコはソコで微妙なところだが。
 
 
“普段飲み(?)” にするわけにはなかなかいかないけれど、一度は体験しておいて損はない味だと思う。
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:46| Comment(0) | 日記

2019年04月01日

令和

 

4月1日、
新しい元号が『令和』に決まった。

その出典は万葉集・巻五、
「梅花の歌三十二首」の序文より。
 
〜初春の令月、気淑(うるは)しく風和らぐ。梅は鏡前の粉(こ)に披(ひら)き、蘭は佩後(はいご)の香に薫る。〜
 
[初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前の白粉のような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋のあとにただよう香に薫っている。]
 
(岩波文庫「万葉集(二)」より引用)
 
 
はじめ、音と文字だけを見聞きした際には今ひとつぴんと来なかったのだけれど、出典を知りその意味を理解してゆくにつれ (美しい元号だなあ) と率直に思えるようになった。
 
 
こんなことを書くと「今さら何を」と言われそうだが...
実は先々週くらいから、新元号には “和” の文字が入るような気がしてならなかったのだ。
ごく最近、平成の一つ前の元号にも使われていたにもかかわらず、である。
だから『令和』と聞いた瞬間はしばらくドキドキが止まらなかった。
 
 
日常生活の中で僕はもっぱら西暦を用いている。
それでも、「平成◯◯年」といった呼びならわし方をももつ現在の日本の暦のありかたは嫌いではないな。
 
うまく説明できないけれど。
 
 
自分の名前の漢字を (電話などで) 相手に伝える際にはこれまでずっと
「“かず” は...昭和の和です」
と言っていた。
これからは「令和の和です」と得意顔で説明することにしよう。
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 22:54| Comment(0) | 日記