2019年11月30日

フルトヴェングラーの命日に

 
 
きょう11月30日はフルトヴェングラーの命日。
亡くなったのは1954年であるから、没後65年ということになる。
僕がクラシックのレコードを本格的に聴き始めた頃、音楽雑誌やレコード店には「フルトヴェングラー  没後30年企画」なる言葉が躍っており、僕はその世界へさっそくのめり込んだのだった。
〜しかるに、僕はかれこれ35年も彼の音楽を飽きずに聴いているのか... Time flies.
 
 
第二次大戦後の演奏活動禁止処分が解けた1947年、この年にフルトヴェングラーが行ったセッション録音は次の6作品である。
(すべてSP録音)
 
§ベートーヴェン: ヴァイオリン協奏曲/メニューヒン、ルツェルン祝祭管 (8/28,29)
§ヴァーグナー: ローエングリン第1幕前奏曲/ルツェルン祝祭管 (8/30)
§モーツァルト: グランパルティータ/ウィーンpo (11/10,19,26&12/3)
§ベートーヴェン: 交響曲第3番/ウィーンpo (11/10-17)
§ブラームス: 交響曲第1番/ウィーンpo (11/17-20,25)
§ベートーヴェン: コリオラン序曲/ウィーンpo (11/25)
 
これらの中でモーツァルト以外は複数の録音が遺されており、特に協奏曲、ローエングリンそしてエロイカは後年のより音質良好なレコーディングの陰に隠れてしまっているのが実情だ。
ことにエロイカは同じウィーンpoと行った有名な’52年録音の名盤のおかげで全く顧みられないといっても過言でないほど。
 
 
なぜ長々とこんなことを書いたかというとー
きょう久しぶりに手に取ったこの’47年エロイカ、録音のハンデを差し引けばとても充実した演奏に感じられたからだ。
第1楽章の出だしが慎重なのは彼のセッション録音ではよくあることである...これを「生気に欠ける」「フルトヴェングラーはライヴでないと“燃えない”から」と評する向きがあるようだが僕はそうは思わない。
呈示部終盤からは知と情のバランスが実に見事な音楽が展開されているし、第2楽章以降はSPの針音の向こう側から表現意欲に満ちた、うねるようなフルトヴェングラーのベートーヴェンが聞こえてくる。
 
それは (上手く言葉にできないが) ライヴでの羽目を外したような熱狂とも、晩年の枯れた味わいの中に時折見える青白い炎とも異なる「この時期のフルトヴェングラーの健全な充実」なのだと思う。
同じ頃に録音されたメニューヒンとのベートーヴェン協奏曲、またローエングリン前奏曲を聴くとその想いはさらに強くなる...フルトヴェングラーはルツェルンの音楽祭オーケストラから
このうえなく豊かな、力感としなやかさを兼ね備えたサウンドを引き出している。
 
この時期 (’47〜’50年頃) のフルトヴェングラーのセッション録音、(音質的には恵まれないけれど) 僕は大好きだ。
 
 
posted by 小澤和也 at 23:36| Comment(0) | 日記

2019年11月21日

我が懐かしの「月下の一群」<2>

 
 
単行本としての「月下の一群」は発刊以来幾度となく版を重ね、大學はその折々に詩に手を加えている。
主なものを挙げると、
 
1. 初版: 第一書房、1925年刊
2. 新編 月下の一群: 第一書房、1928年刊
=1.の増補改編
3. 白水社版: 白水社、1952年刊
=1.の全面改訳
4. 新潮文庫版: 新潮社、1955年刊
=3.に若干の加朱
 
ちなみに「男声合唱曲集・月下の一群」作曲にあたって南弘明氏が用いたテキストは主に「白水社版」である。
 
 
『輪踊り』  ポオル・フォル
 
世界ぢゆうの娘さんたちがみんな
手をつなぎ合ふ気にさへなつたら、
海をめぐつて輪踊りを、
踊る事さへ出来ように。
 
世界ぢゆうの若者たちがみんな
船乗りになる気にさへなつたら、
海に綺麗な舟橋を、
かけることさへ出来ように。
 
世界ぢゆうの人たちがみんな、
手を握り合ふ気にさへなったら、
地球をめぐつて輪踊りを、
踊る事さへ出来ように。
 
【白水社版「月下の一群」(1952年刊) を主たる底本とした講談社文芸文庫 (1996年刊) より引用。原文においては第3行『輪踊(わをど)り』のみルビが振られている】
 
 
今回はじめて「初版」と読み比べて、その余りの違いに驚いた。
白水社版がまさに「全面改訳」だったことが分かる。
以下にその全文を挙げてみよう。
 
 
『輪踊り』  ポオル・フオル
 
世の中の女の子たちが悉く
手をつなぎ合ふその時は、
海をめぐつて輪踊りを
踊る事さへ出来ませう。
 
世の中の男の子たちが悉く
船乗となるその時は
海に綺麗な舟橋を
かけ渡すことが出来ませう。
 
世の人たちが悉く
手を握り合ふその時は、
地球をめぐつて輪踊りを
踊る事さへ出来ませう。
 
【ルビの振り方は白水社版と同じ。旧漢字は現行のものに改めている】
 
 
世の中の→世界ぢゆう
悉く→みんな
その時は→気にさへなったら
出来ませう→出来ように  etc.
 
繰り返し用いられるこれらの語句の置き換えにより詩全体のイメージが大きく変化している。
特に「その時は〜出来ませう」から「気にさへなつたら〜出来ように」への変更は、読み手の心をよりダイナミックに揺さぶる。
それは “叶わぬ願望” のニュアンスの表出であろうか、あるいは “行動しようよ、きっとできるさ” といった、未来を見据えた強いメッセージなのかもしれない。
 
 
この詩は「月下の一群」初版に先立って彼の処女訳詩集「昨日の花」(1918年、籾山書店刊) に収められた。
詩の言葉は初版と概ね同じなのだが、行組みの扱いが異なるため印象がかなり変わってくる。
堀口大學全集にある解説に従って再現するとこのようになる...第三連はなんと一行だった!
 
 
ここにも詩人のこだわりを感じ取ることができよう。
(「昨日の花」と初版「月下の一群」での語句の違いは次の2点のみ。第1行「握り合ふ」および第3行「船乗り」)
 
 
個人的にはよくこなれた新しい訳 (白水社版) を断然支持するが、この詩にこうした「原型」があると知ることができたのは大きな収穫であった。
posted by 小澤和也 at 13:13| Comment(1) | 音楽雑記帳

2019年11月18日

ブロムシュテットxステンハンマルxブラームス

 
NHK交響楽団 
第1925回定期演奏会を聴く。
(16日、NHKホール)
 
§ステンハンマル: ピアノ協奏曲第2番ニ短調 Op.23
§ブラームス: 交響曲第3番ヘ長調 Op.90
 
10月初旬に飛び込んできたソリスト&曲目変更の報には正直なところやや面喰った。
巨匠の域に到達したピーター・ゼルキンのピアノはぜひとも聴いてみたかったし、演目も彼の父ルドルフの十八番であったマックス・レーガーであったから。
 
 
ヴィルヘルム・ステンハンマル (1871-1927) はスウェーデンの作曲家・ピアニスト・指揮者。
北欧における後期ロマン派に属する音楽家である。
【参考】
グリーグ (ノルウェー)...1843-1907
ニールセン (デンマーク)...1865-1931
シベリウス (フィンランド)...1865-1957
 
 
4つの楽章は切れ目なく演奏される。
第3楽章からフィナーレへと向かうattaccaはシューマンの第4交響曲を、ピアノの音の重ね方はブラームスの響きを連想させた。
また一方で金管の用法はシベリウス風な瞬間を、弦のうねるような幅広いユニゾンではラフマニノフの “華麗なる土臭さ” を感じた。
 
N響との初共演を果たしたマルティン・ステュルフェルトは繊細で美しい音色の持ち主。
ところどころ先走りしそうになる箇所もあったが、ブロムシュテットさんの厚いサポートに守られつつこの演奏機会に恵まれない作品に申し分なく光を当てていた。
アンコールでこの作曲家の小品を聴くことができたのもうれしかった。
(3つの幻想曲Op.11〜第3曲)
 
 
 
いよいよ...後半のブラームス。
「そのお齢からは想像できないような、推進力でぐいぐいと運んでゆく演奏」を勝手にイメージしていたのだが、その予測はみごとに覆された。
第1楽章冒頭より、一音一句をゆるがせにしない明確なフレージングおよびダイナミクスの処理。
「知」にしっかりと裏付けされた、心の奥底から湧き上がるアゴーギク。
そして思わず (これだ!) と膝を打ったのが「管と弦との絶妙な音量バランス」であった。
この曲でブロムシュテットさんは弦セクションに「意味なく大きな音」を決して求めていなかった気がする。
そこに現れたのは...
管楽器のすべての音の軌跡、ブラームスが書き遺した筆のあとであった。
この先すべての楽章を通して、fとff、pとppの違いがはっきりと描き分けられるのだ。
 
第2〜第3〜第4楽章がほぼ切れ間なく演奏されたのも印象的であった。
[これは2013年にN響とこの交響曲を演奏した際にも行われていたので新機軸というわけではないが]
第2楽章でのクラリネット&ファゴットの内面的な響き、第3楽章での素晴らしいホルンおよびオーボエのソロの音色が忘れられない。
ブロムシュテットさんのタクトは真実を語り、哀しさ、寂しさ、愛しさ、懐かしさetc....聴く者それぞれの心に普遍的に届く感情を「“美”をもって」表出していた。
 
フィナーレ最後の音が静かに消え (第3交響曲はすべての楽章が弱音で終わる)、訪れた長い静寂...そしてあたたかな拍手喝采。
ブロムシュテットさんがコンサートマスターへしきりに促すも、オーケストラは誰一人立ち上がらず聴衆と共にマエストロへ拍手を送り続ける。
これがいつ果てるともなく続く...と思いきや、ブロムシュテットさんが突然指揮台に上がりながら指で“3”の合図を。
第3楽章がアンコールされたのだ。
(定期公演ではまず行われないことではないかしら)
 
熱いものが頬を伝わるのをそのままに、僕はブロムシュテットさんの背中と右手をじっと見ていた。
このうえなく豊かな、音楽による心の対話の時間であった。
 
posted by 小澤和也 at 00:15| Comment(0) | 日記

2019年11月15日

我が懐かしの「月下の一群」<1>

 
「月下の一群」は、フランス近代詩人66名の詩340編が収められた、堀口大學 (1892-1981) による訳詩集 (初版は第一書房より、1925年刊) である。
昭和初期の日本において多くの若い詩人に大きな影響を与えた傑作だ。
 
僕がこの作品のことを知ったのは、詩集を実際に手に取るよりもはるか以前、学生時代に歌ったある合唱曲によってであった。
南弘明作曲「フランスの詩による男声合唱曲集・月下の一群(第1集)」である。
当時まだ二十歳そこそこであった僕には詩の鑑賞というものに対する興味も知識も全くといってよいほどなかったが、それでもこの曲を初めて歌った時に感じた、これらの詩のもつ西欧風の肌触り、さらにそこから美しく置き換えられた日本語の味わいは今でもよく覚えている。
 
この曲集には以下の5編の詩が用いられている。
1. 小曲 (シャヴァネックス)
2. 輪踊り (フォール)
3. 人の言うことを信じるな (ジャム)
4. 海よ (スピール)
5. 秋の歌 (ヴェルレーヌ)
(これらの表記は「月下の一群」楽譜に準拠)
 
僕にとって懐かしいこれらの詩について、30年ぶりに感じたり考えたりしたことを気ままに綴ってみようと思う。
 
 
『小曲』  フィリップ・シャヴァネックス
 
目を開くと
私には景色が見える、
目を閉すと
私にはお前の顔が見える。
 
【白水社版「月下の一群」(1952年刊) を主たる底本とした講談社文芸文庫 (1996年刊) より引用。原文においては『開(ひら)く』および『閉(とざ)す』にのみルビが振られている】
 
 
この詩は「月下の一群」初版に先立ち、「月夜の園 附刊 仏蘭西近代抒情小曲集」(1922年、玄文社刊) という単行本に収められている。
そこでは、第1行『ひらく』および第3行『とざす』がそれぞれひらがなで記されているそうである。
 
「月下の一群」初版においては、本文は白水社版と同じだが、2行目および4行目に句読点が付されていない。
(下の画像参照)
 
 
大學が折にふれて細部のかたちにこだわり続けた様子が見て取れる。
 
 
(詩の内容そのものについてではないのだが) 今回いくつかの版を見比べていてちょっと面白いことに気づいた...大學による作詩者名の表記である。
 
「月夜の園」...フェリックス・シャバネエス
「月下〜」初版...フイリツプ・シヤヴアネエ
「キユピドの箙」...フイリップ・シャヴアネ
白水社版「月下〜」...フィリップ・シャヴァネックス
 
と微妙に揺れているのだ。
(“フェリックス”とはどうしたことだろう...)
スペルは Philippe Chabaneix であるから、“シャバネー”“シャバネクス”あたりが近いのではないかと個人的には思うのだが。
海外の人名のカナ表記が昔から如何に難しいものであったかということなのだろう。
 
 
原題は “Présence”(存在)。
たった4行の短い作品だが、その中に優しい甘さと深い愛がこめられている。
大好きな詩だ。
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:33| Comment(0) | 音楽雑記帳

2019年11月06日

演奏会のごあんない

 
 
専修大学フィルのメンバー達、一歩一歩、ゆっくりだけれど確実にカリンニコフの志向した音世界へと近づいています。
ビゼー&ヴェルディも佳い響きになってきました。
 
みなさま、どうぞお出かけくださいませ。
 
 
専修大学フィルハーモニー管弦楽団
第47回定期演奏会
 
2019年12月13日(金) 18:00開演
カルッツかわさき (川崎市スポーツ・文化総合センター) ホール
[川崎駅/京急川崎駅 下車]
全自由席・入場無料
 
ヴェルディ/歌劇「ナブッコ」序曲
ビゼー/「アルルの女」第2組曲
カリンニコフ/交響曲第1番
 
専修大学フィルハーモニー管弦楽団
小澤和也 (指揮)
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 22:46| Comment(0) | 演奏会情報