2020年02月18日

佳境のトゥーランドット

 
 
立川市民オペラ公演『トゥーランドット』、
来月の本番へ向けプローベ絶賛進行中!
 
合唱団は例年にもまして元気いっぱい。
〜見よ、この真剣な眼差し!
 
 
キャストの皆さんも素晴らしい声を聴かせてくださっています。
先日の音楽稽古では振りながら至福のひとときを味わいました。
 
 
こちらは立ち稽古終了後の一コマ。
皆さん、根っからの “表現者” であります。
 
 
姫と王子の居並ぶ “華の最前列” に
なぜか紛れ込んでしまった副指揮1名。
 
 
(稽古風景の画像は合唱指導・宮崎京子先生撮影のものをお借りしています)
 
大河の流れのような古谷マエストロの音楽。
どの瞬間も溢れんばかりの愛に満ち満ちた直井先生の演出。
ご期待ください!
 
 
立川市民オペラ公演2020
プッチーニ『トゥーランドット』
2020年3月21日(土)/22日(日)
いずれも 14:00開演
たましんRISURUホール
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 08:24| Comment(0) | 日記

2020年02月06日

ペーテル・ブノワのバイオグラフィ

 
 
ペーテル・ブノワはベルギー、フランデレン地方に生まれた作曲家・指揮者・教育者である。
後半生をアントウェルペンでの音楽教育に捧げたため、作曲家としてはほとんど知られていない。
 
ここに彼のバイオグラフィを紹介する。
著者はベルギーの音楽学者ヤン・デウィルデ氏、フランデレンの19世紀ロマン派音楽を専門とするペーテル・ブノワ研究の第一人者である。
 
 
ペーテル・ブノワ Peter Benoit
(1834.8.17. ハレルベーケ〜1901.3.8. アントウェルペン)
 
バイオグラフィ
ヤン・デウィルデ Jan Dewilde 
小澤和也: 訳編
 
 
ペーテル・ブノワは最初の音楽レッスンを父ペトリュスより受ける。
彼の父はハレルベーケにおいて教会の聖歌隊やオーケストラ、吹奏楽団で活躍する多才な音楽家であった。
若きブノワは地元の聖救世主教会の聖歌隊員となりそこで宗教音楽を知る。1847-51年、彼はデッセルヘムのピアニスト/オルガニストであるピーテル・カルリエルに学び、またコルトレイクの作曲家ピーテル・ファンデルヒンステおよびヨアネス・ファンデウィーレらとも接点をもった。
 
1851年にブノワはブリュッセルの音楽院へ進み、ピアノをジャン=バティスト・ミシュロ、和声学をシャルル・ボスレ、さらに対位法、フーガおよび作曲法を院長フランソワ=ジョゼフ・フェティスに師事する。
彼の勉学はさまざまな金銭的、肉体的、精神的な問題によって妨げられるが、それでも彼は3年後に音楽院を修了した。
そしてブノワは当時のベルギー音楽界で最も力を持っていたフェティスの助力を得る。
彼は作曲に関する国家的な賞であるローマ賞の準備のためブリュッセルにとどまった。
この時期にブノワは交響曲、宗教音楽、オランダ語あるいはフランス語による歌曲、そしてヤコブ・カッツ (1804-86) の “国民文化劇場” のためにフランデレン語のジングシュピールを作曲している。
 
 
1855年にブノワはローマ賞佳作賞を獲得、その2年後にはカンタータ『アベルの殺害』で大賞受賞者となる。
これにより得た奨学金で彼はまずドイツ主要音楽都市へ留学、その後1859年5月から1863年3月までの間パリに住んだ。
他の多くの作曲家と同様にブノワはパリでオペラ上演の機会を得ようとしたが、その試みは成功しなかった。
ピアノ曲集『物語とバラッド』(1861) は出版され、頻繁に演奏され好意的に評される。
当時のパリにおいて多くのヴィルトゥオーゾたちが独自のピアノ作品で成功していたのとは対照的に、ブノワは内面的な曲を書いた。
音楽評論は彼の生誕地の民族的伝承への強い関心を指摘し 〜それは音楽におけるナショナリズムの兆しである〜、そしてブノワはピアノ作品の中で独創的な手法を確立していった。
 
奨学金が終了した後、彼はパリでジャック・オッフェンバックの主宰するブフ・パリジャン・オペレッタ劇場の指揮者として、またウィーン、ブリュッセルおよびアムステルダムにも出演して生計を立てた。
その間にブノワは自身の『宗教的四部作』がブリュッセルで大成功を収めたことを知る。
そしてベルギー帰国時には将来を約束されたベルギー人作曲家のひとりと見なされるようになった。
彼は『ピアノと管弦楽のための交響詩』 (1864) および『フルートと管弦楽のための交響詩』(1865)、そしてとりわけオラトリオ『リュシフェル』(1866) によってその名声を確固たるものとする。
詩人エマニュエル・ヒールとの長い共同作業の始まりを告げるこの作品は、オラトリオ『スヘルデ』(1869) とともにブノワの全作品の中でも大きな象徴的意義を持つものとなった。
なぜならば、それは彼の国民主義的時代、すなわち彼の音楽作品にとっての公用語として最終的に自国語を用いようとした時代の始まりと考えられているからである。
 
ブノワは以前より、カッツの台本による2つのジングシュピール『山なみの村』(1854) や『ベルギー国民』(1856) のようなフランデレン語をテキストとする作品を書いている。
そして彼は『ピアノと管弦楽のための交響詩』において民謡を素材として用いた。
すなわちブノワは「傑出したベルギー人作曲家ピエール・ブノワ」から回心し「フランデレンの民衆に歌うことを教えたペーテル・ブノワ」として再び立ち上がったのだった。
彼の国民主義的理念はすでにブリュッセル音楽院での学生時代より、モネ劇場の指揮者でもありベルギー国創立のためにオラニエ家支持的思想を抱いていた作曲家カレル・ローデウィク・ハンセンスや、反教権主義で社会運動に傾倒していたフランデレン主義派の舞台演出家カッツとの接触を通じてゆっくりと熟成されていく。
 
 
ベルギー帰国ののち、彼の国民主義的理念はとりわけヒールの影響のもとに結晶化してゆく。
そして1867年6月3日、アントウェルペン音楽学校の校長に任命されたブノワは、即座にその理念を実践的に適用することができたのだった。
“音楽におけるナショナリズム” のヨーロッパにおける潮流の中に身を置く最初の一人として、彼は “音楽におけるナショナリズム” および教育と音楽生活のプラクティカルな実現化についての彼の理論を、心を打つ一連の論文や言葉で提示した。
それらはしばしばヨハン・ゴットフリート・ヘルダーのようなドイツロマン派の作家や哲学者の知的遺産の影響を受けている。
 
1868年、ブノワはフランデレンの新しい音楽動向についての基礎論説を発表した。
「学校教育とは、芸術を少しずつ育てていきながら新たな形式を導入してその領域を拡大し、それぞれ固有の特質によって作品が関係づけられていくような、同じ民族によるひと続きのものである。
その点で、それらの作品は芸術を豊かにするすべての形式から生ずる生命の源であり、論理的で首尾一貫した発展の比類ない基盤であるので、継続的に自らを再生一新させるのである」
外国の影響を受けない、フランデレン独自の音楽言語を実現するために、彼は民謡および母国語 (フランデレン語) の再興を説いた。
彼は数々の民謡を「民族音楽の先駆け」とみなした。
それらは自然な、しかし隠された根源であり、その中に個々の音楽の本質的な特質が備わっている。
 
ブノワは彼の教育法の中で民謡を集約統合し、彼の作品の中でもそれを扱った。
音楽教育や実践学習においてフランス語が用いられること、また教会音楽においてラテン語 (久しく姿を消した、価値の薄れた遺物) が用いられることに対し、彼は母国語 〜民族の特徴の基礎〜 を使用することにより音楽芸術はより人間的なものになり得るのだと明言した。
「彼ら固有の言語を話さない民族は独創的で音楽的な芸術の型を創り出すことは決してない」
フランデレン語のテキストで作曲するということは当時のベルギーの国家体制下においては大きな象徴的価値を持っていた。
 
ローマ賞の候補者がカンタータの作曲にフランデレン語を用いることができるようになるのはようやく1865年になってからである。
1846年、ティユー (リエージュにあるワロン自治区) の主務大臣はこのように言明した。
「我々の国においてより普及した言語、そして音楽教育に用いられる言語はフランス語しかない、ということを示すのに多くの言葉はいらない」
ブノワは自国語で作曲した最初の人物ではないが、1866年以来彼は固い意志をもってそれに専念した。
 
さらにブノワは統合された、一般の人々やアマチュアに対してと同様にプロの音楽家へも向けられ、小さな村から都市部に至る音楽生活をすべて包括した教育制度を発展させた。
彼の音楽教育の最終目的はヴィルトゥオーゾを作り上げることではなく、民衆の中心に立つ “考える力を持った人間” を育てることであった (実際、ブノワは男女共学の教育を導入した)。
「偉大な芸術家は彼ら自身からなるものではなく、また彼ら自身によって存続するものでもない」
作曲家も演奏家も国民 〜彼らにとっての聴衆〜 の中心にいなければならない。
その社会的重要性はブノワが講義を通して大衆に伝えようとした教育からも明らかである。
ブノワには作曲家から演奏者を経由して必然的に聴衆へと流れる一本の線が見えていた。
彼はこの繋がりを「その結びつきが断たれる、あるいは存在しないときには全ての美的均衡が消え失せる、それほどに深いもの」と見なした。
それゆえ、作曲家としてのブノワにとって、正統的な演奏とは同じ国民性をもった音楽家によってこそ密に取り組まれるものであった。
 
 
アントウェルペン音楽学校校長に任命された頃には国内外の批評家によって独創的・現代的と烙印を押されていたその表現スタイルを、ブノワは伝える者と受け取る側との強い結びつきのため一般大衆の理解度に適合するよう抜本的に単純化することを決める。
フランデレン解放への闘争の中で、彼は音楽を「宣伝活動としての最強の武器のひとつ」と見ていた。
しかし、大衆の理解の難しい音楽の言葉を用いて彼らの心をどのように高揚させることができるだろうか?
自身の理念をできるだけ広く普及させるため、ブノワは大衆に向けて否応なく訴えかける音楽を書こうとする。
こうした作風の変化はすでにオラトリオ『スヘルデ川』(1869) において目立っているが、それにもかかわらず1870年代の彼は『愛の悲劇・海辺にて』(1872) や『戦争』(1873) といった非常に主観的な作品を作曲していた。
 
『ルーベンスカンタータ』(1877年、ユリウス・デ・ヘイテルの台本) 以来、ブノワは特に歌曲や合唱曲、そして野外での上演のために企画されたカンタータ作品において強い自己表出をおこなった。
これらの作品は国家的・歴史的人物に敬意を表し (『レイスウェイクカンタータ』『レーデハンクカンタータ』)、あるいは祖国に平和・幸福・繁栄をもたらすような人間的創造性を賛美するものである (『美に寄せる賛歌』『発展への賛歌』)。
一般大衆へ向けた音楽形式として、彼は平易でありながら聴く者を魅了するメロディ、劇的効果、圧倒的なホモフォニーの合唱、多くのユニゾン、大規模な編成、そして色彩豊かなオーケストレーションによって親しみやすく理解の容易な書法を用いた。
それは大衆の文化的向上を目指して書かれた、明快で分かりやすいメッセージを伝えることを目指した共同体芸術である。
そのうえ、彼は教育的な立場から自分の作品に可能な限り演奏者を増員した。
それによって召集されるオーケストラの総員はしばしば大規模なものとなった。
 
これはやはり音楽の歴史の中では独特の事象である。
その作曲家は自身の芸術的才能を彼の社会的・文化的責務よりも下位に置いたのだった。
 
 
フランデレンの文化的自律に向けての尽力によって生まれた彼の国民主義的音楽理論の中にはより急進的、観念的な要素があった。
この理想は師フェティス、およびフランソワ=オーギュスト・ヘヴァールトやアドルフ・サミュエルらコスモポリタン志向の作曲家たちによって反対される。彼らはベルギーを音楽的に極微の地と見なし、ラテンおよびゲルマンの影響の交差点と考えており、国民主義的音楽の流派を拒絶していた。なぜならば、彼らにとって整然とした普遍性こそが優れた音楽の特質であったからである。
彼の音楽学校が他の都市の王立音楽院と同列視されているとブノワがはっきりと認識できたのは1898年のことだった。
 
その「一般大衆へ向けた」音楽作品により、彼は多くの人々の耳目を集めることに成功する。
しかし、フランデレンの音楽動向の先導者としての彼の影響力は絶大であった。
それは国民主義的潮流の外側に身を置く作曲家には居場所がほとんどないほどであった。
さらに、多くのブノワ信奉者らは目的と手段とを混同し、彼の国民主義的共同体芸術を全てのフランデレン音楽制作における試金石と見なした。
フランデレン音楽のために完全には身を置こうとしなかった、また同時代のヨーロッパの潮流に乗るべく自主独立の音楽芸術を主張した作曲家たちはブノワの模倣者らによってしばしば攻撃される。
 
しかしながら、現代都市社会の観点からすればブノワが狭量なナショナリストであると非難されることはない。
彼はそれぞれの国民の自決権のために弁護をした。
彼のナショナリズムは解放運動から発しているものであり、ある国民が他の国民と比較して優れているという立場はとらない。
それはまさに個性であり、人間性の充実に寄与するあらゆる国民の多様性である。
もしもある国民が個性を獲得したならば、彼らは他の国民と対話の中で歩んで行けるのだ。
ブノワは指揮者として他の楽派の作曲家、ワロン人 (グレトリー、フェティス、ラドゥ) の多くの作品、そして 〜彼の “フランデレンのフランス語話者” への嫌悪にもかかわらず〜 フランスの作曲家 (ベルリオーズ、グノー、サン=サーンス) の作品も演奏した。
 
ブノワは一般聴衆やアマチュア音楽愛好家がプロの音楽家と同等に扱われるような統合された音楽生活をも構想していたが、それは充分な実現には至らなかった。
しかし、アントウェルペン音楽学校の王立フランデレン音楽院への昇格や、ネーデルラント・リリック劇場 (フランデレン歌劇場の前身) の設立により彼の理念は実行され今日まで生き続けている。
 
ペーテル・ブノワの生涯と作品は、彼のもっとも名高い歌曲『我が母国語』(1889) の中にきわめて象徴的に表されている。
 
 
ー 完 ー
 
 
 
posted by 小澤和也 at 09:40| Comment(0) | 音楽雑記帳

2020年02月02日

音楽ノート 10周年を迎えて

 
 
拙ブログ『音楽ノート』をスタートさせてから、本日で満10年となりました。
 
ブログをご覧くださっているみなさま、またコメントをお寄せくださるみなさま、「見ましたよ!」とお言葉をかけてくださる皆さま方のあたたかな応援に励まされ、ここまで続けることができています。
 
 
私にとっての “バイブル” であるベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス&シベリウスの作品をはじめ折々に私の心を震わせてくれる作曲家とその音楽、また我がライフワークであるペーテル・ブノワについて、これからも発信し続けていきたいと思います。
 
 
 
そして音楽の愉しみと悦びをみなさまと分かち合えますよう、今後いっそうの努力を重ねてまいります。
 
今後とも小澤和也と『音楽ノート』をよろしくお願い申し上げます。
 
 
2020.2.2.
 
小澤和也
posted by 小澤和也 at 22:16| Comment(0) | 日記