先日出かけた田三郎歌曲リサイタルの余韻が僕の中でいまだに漂っている。 なかでも最後に聴いた「ひとりの対話」... これが脳裏から離れない。 高野喜久雄の紡いだ重く、深くそして厳しい言葉たち、それらに呼応して痛切・峻烈を極めた田三郎の音楽。 その終曲「くちなし」が単独で取り上げられることの多い名曲であることを僕は不覚にも知らなかった。 前奏がゆったりと流れ出した瞬間に会場の空気がふわっと和らいだ、あの驚きと動揺も忘れ難い。 このときの思いを追体験するために、田三郎歌曲集の楽譜をさっそく購入。 楽譜の風景は実に美しかった。 巻末に収められている詩をここに引用させていただく。 くちなし 高野喜久雄 詩/田三郎 曲 荒れていた庭 片隅に 亡き父が植えたくちなし 年ごとに かおり高く 花はふえ 今年は十九の実がついた くちなしの木に くちなしの花が咲き 実がついた ただ それだけのことなのに ふるえる ふるえるわたしのこころ 「ごらん くちなしの実を ごらん 熟しても 口をひらかぬ くちなしの実だ」 とある日の 父のことば 父の祈り くちなしの実よ くちなしの実のように 待ちこがれつつ ひたすらに こがれ生きよ と父はいう 今も どこかで父はいう 〜歌曲集『ひとりの対話』より どうしても彼の詩集を手元におきたくなり、比較的入手の容易な自選詩集を古書サイトで購入。 さっそく「くちなし」のページを開いて... ハッとした。 詩の “たたずまい” がまるで違うのだ。 くちなし くちなしの木に くちなしの花が咲き 実がついた ただそれだけのこと なのに心は 鳴り出して もう鳴り止まぬハープのようだ 「ごらん くちなしの実をごらん 熟しても 口をひらかぬ くちなしの実だ」 とある日の 父の声までそれにまじって 〜詩集「二重の行為」より 現代詩文庫 40 高野喜久雄 (思潮社刊、1971年) 所収 全部で四連からなる歌詩のうち第一および第四連がすべて省かれている。 かつて庭にくちなしを植え、“わたし” に生きざまを説いた父の姿はここには描かれない。 一方で、生命の力と神秘に感嘆した “わたし” の心のふるえるさまを鳴り止まないハープの響きにたとえている点がどことなく面白い。 ともあれ、歌詩の第四連の存在を既に知っており「ひたすらに こがれ生きよ」という父のメッセージがこの詩のエッセンスであると思っていた僕は、この現代詩文庫版「くちなし」の良さをまだ味わえていないのが正直なところだ。 こうなってくるともう、詩集「二重の行為」の初出の版である1966年刊行の「高野喜久雄詩集」を見るしかないではないか! 〜ということでふたたび、古書店の通販サイトをあれこれ探し回ることに。 (この項つづく) 余談ですが... 現代詩文庫版を購入した際、とっても素敵な一筆が添えられていました。 幾度となく古書のネット通販を利用しているけれどこんなことは初めて!
じんわりとあたたかな気持ちになりました。 |
2020年09月30日
3つの「くちなし」(1)
posted by 小澤和也 at 22:48| Comment(0)
| 日記
2020年09月12日
半年ぶりの音楽会
《日本歌曲の今 田三郎・没後20年の今 [T]》 を聴く。 (9月10日、音楽の友ホール) 最後に足を運んだのがいつだったか、にわかに思い出せないほどに久しぶりの演奏会。 出演者のおひとりからご案内をいただき、なんとなく閃くものもあって出かけることに。 客席数は間引かれ、左右4つの扉は演奏中も開放されるなど、新型コロナ感染予防のためにしっかりと対策が取られていた。 (この演奏会を挙行するんだ) という関係者の方々の強い意志が感じられた。 僕にとって田三郎といえばなんといっても「水のいのち」をはじめとする合唱曲の神様のような存在であり〜恥ずかしながらそれが全て。 氏の歌曲については「パリ旅情」の中のどれかを聴いたことがある (ような気がする) だけ... 予備知識ほぼゼロで臨んだリサイタルだったわけだが、作品・歌唱そしてピアノ、これらのすべてが素晴らしく、遅まきながら新しい世界をまた一つ知ることができた。 §パリ旅情 (詩: 深尾須磨子) さすらい/売子/パリの冬/街頭の果物屋/降誕節前夜/市の花屋/冬の森/すずらんの祭 斉藤京子(Sop)、小原孝(pf) 1959-60年作曲。 この日聴いた4つの曲集のなかでもっとも色彩的・絵画的な作品。 目にも鮮やかな果物たち、灰色の空、すずらんの花の香り、石の壁の冷たさ etc. これらを描く豊かな言葉たちをそっくりそのまま音楽に置き換えたような歌とピアノ。 ことに「降誕節前夜」で聞かれる教会の鐘の音とオルガンの響きのリアリティ! §啄木短歌集 (歌: 石川啄木) やわらかに/頬につとう/いのちなき/病のごと/不来方の/ふるさとを/はずれまで/あめつちに 金子美香(Msop)、塚田佳男(pf) 1956年作曲。 三十一文字のコンパクトな世界になんとこれまたシンプルな、それでいて陰影に富んだ音楽を付けたことだろう。 ある歌は繰り返され、また別の歌は一度うたわれるだけであっさりと終わる...その呼吸と配列までもが美しい。 ふるさとを出でて五年(いつとせ)、 病をえて、 かの閑古鳥を夢にきけるかな。 曲の結び、ピアノが小さく奏でる「カッコウ」の声に思わずはっとした。 §水と草木 (詩: 北川冬彦) 滝/坐像/水蓮/大樹/雑草 原田圭(Br)、小原孝(pf) 1960-62年作曲。 この詩人の名は不覚にも初めて知った。 彼について少し調べるとダダイズム、シュルレアリスム、ネオリアリズムなどさまざまなワードが出てくるが、ここで作曲家が選んだ5編の詩はいずれも溢れんばかりのプリミティヴな生命力が、そして詩人の冷静な観察眼が感じられるものである。 〜そしてそこに付けられた音楽も。 §ひとりの対話 (詩: 高野喜久雄) いのち/縄/鏡/蝋燭/遠くの空で/くちなし 廣澤敦子(Msop)、塚田佳男(pf) 1965-71年作曲。 高野喜久雄はもちろんあの「水のいのち」の詩人。 テキストの重さ、深さそして厳しさが上記三作とは隔絶したスケール感をもつ。 (詩の優劣とはもちろん無関係である) 当然ながらその音楽もひたすらに自問自答を繰り返すかのような痛切・峻烈な響きである。 そこへゆったりと現れ出る「くちなし」の前奏...張り詰めた会場の空気も一変したような気がした。 単独で取り上げられることも多いというこの「くちなし」だが、今回初めて聴くにあたって “チクルスの終曲として” 味わうことができたのは実に幸運であったと思う。 全編を通して、ベーゼンドルファーの重厚な音色をもって語られるピアノパートの存在感と説得力に圧倒された。 そして4名の歌手の皆さんの美しくまた誠実な歌唱にも終始心が震えっぱなしであった。 (余計なお世話だけれど...扉の開放によって変化したであろう響きや聴感上のバランスにはさぞ御苦労されたのではないかしら) 演奏のみならず、会全体の進行役や詩の朗読までを務められた塚田先生のお元気そうな姿も印象的であった。 お言葉のそこここにコンサートを開ける喜びと安堵感のようなものが現れており、それはこの場にいた全員に伝わっていたのではないかと感じた。 僕にとって久々のライヴ聴体験がこの演奏会でほんとうによかったと心から思う。 ご案内くださった廣澤さん、ありがとうございました。 |
posted by 小澤和也 at 23:31| Comment(0)
| 日記
2020年09月08日
生きた楽の音
9月6日、日曜日
湘南アマデウス合奏団のプローベへ。
7ヶ月ぶりに “生きた楽の音” を聴く。
週に一度
めいめい楽器を携え集まり
大好きな音楽を奏で
ともにそのよろこびを語らう
そんな「ごく当たり前の日常」だと思っていたことが当たり前でなくなった現在。
この日練習したバッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番の響きを僕はきっと忘れない。
posted by 小澤和也 at 22:44| Comment(0)
| 日記