2020年10月07日

3つの「くちなし」(2)

 
 
前項でも触れたが、「高野喜久雄詩集」は2種類ある。
それらの出版および田三郎の歌曲「くちなし」の成立時期等を年代順に整理すると次のようになる。
 
・(歌曲「くちなし」作曲: 1965-66年頃)
・歌曲「くちなし」初演: 1966.1.24.
・高野喜久雄詩集 (思潮社) 出版: 1966.10.1.
・現代詩文庫40/高野喜久雄詩集 (思潮社) 出版: 1971.3.15.
【初演日は「田三郎歌曲集 (音楽之友社刊)」巻末資料より引用、また作曲時期については歌曲集「ひとりの対話」が1965-71年にかけて書かれたとのデータから類推した。ちなみに楽譜には「コピーライトマーク️1966」とある】
 
歌曲「くちなし」の歌詩と現代詩文庫版に収められている詩とではそのフォルムも味わいも大きく異なっていた。
そこで、詩集「二重の行為」の初出となった1966年刊行の「高野喜久雄詩集」を入手。
さっそく「くちなし」を一読する。
 
 
くちなし 
高野喜久雄
 
焼け跡の瓦礫の庭に
亡き父が植えたくちなし
年ごとにかおりは高く
花はふえ
今年は十九の実をつけた
 
くちなしの木に
くちなしの花が咲き  実がついた
ただそれだけのことなのだ
けれどふるえる
ふるえる心
 
「ごらん  くちなしの実をごらん
  熟しても  口をひらかぬくちなしの実だ」
とある日の父のことば  わかります
しみじみと今わかります
その願い  わかります
 
くちなし
くちなし
くちなしの実よ
それのよう
こがれて生きよと父はいう
きびしく生きよと父はいう
今もどこかで父はいう
 
〜詩集「二重の行為」より
高野喜久雄詩集 (思潮社刊、1966年) 所収
 
 
詩としての “かたち” は歌曲のそれとほぼ同じ。
ただし選ばれている言葉たち、そしてそれらの織りなすリズムはかなり異なっている。
全体的に「詩集」のほうが説明的、描写的でやや硬めの手ざわり、対して「歌曲」の詩句はより抽象度が高く、語調も丸みを帯び柔らかな印象を読み手に与えるのだ。
【こうして両者を比較したうえで改めて「現代詩文庫」の「くちなし」を読むと、こちらは5年後の高野喜久雄による新たなコンポジションのようにさえ思えてくる】
 
歌曲の歌詩 および 現代詩文庫版「くちなし」はこちらを参照:
小澤和也 音楽ノート〜3つの「くちなし」(1)
 
 
ここで僕の中にひとつの素朴な疑問が。
上に挙げたように、歌曲が初演された後に詩集が出版されたわけであるが、高野はほんとうに「歌曲の歌詩を手直しして「詩集」を完成させた」のだろうか...?
より抽象度の高い『荒れていた庭  片隅に』を描写的な『焼け跡の瓦礫の庭に』へと改め、
『ふるえるわたしのこころ』から “わたし” を削除し、
『わかります』(第三連) や『くちなし』(第四連) のリフレインを後から加えたのだろうか?
 
 
これは何の根拠もない個人的な仮想なのだが...
〜 原型としての詩「くちなし」が先にあって、それを歌曲作曲の際に改めた (田三郎の求めに応じて、あるいは自発的に)...そして詩集出版にあたってはその “原型” を再掲したのではないか 〜
と思えてならないのだ。
 
 
そう考えるようになったのは、ネット上で見つけたとあるブログがきっかけである。
そこには合唱組曲「水のいのち」誕生の経緯についてふれられており、次のように記されていた。
『田三郎が高野喜久雄の詩「水たまり・川・海」を読んでいて、それらを「読む詩」から「きいてわかる詩」になおしてもらうことを頼んだ。高野さんは田三郎の構想に従い...(以下略)』
 
[「元高校教師のブログ」〜「読む詩と歌う詩(歌詞)との違い--高野喜久雄が遺した答え」から引用させていただきました]
 
 
確かに「水たまり」「川」の原詩と歌詩とを比較すると、細かな相違点あるいは大規模な改作の跡が見て取れる。
これは詩の優劣の問題ではなく、上記引用の通り「読んで味わうか聴いて理解するか」の違いであろう。
これと同じようなやりとりが「くちなし」でもあったのではないだろうか。
その前提に立って改めて両者を照合すると
・祈り
・待ちこがれつつ
・ひたすらに
などの語句が作曲家によって差し替え (加え) られたことが分かる。
まさに “田三郎的ワード” だ。
 
 
これら3つの (現代詩文庫版もこの際加えよう)「くちなし」は僕にとって、互いに補完しあって詩のイメージ/歌のイメージを膨らませてくれる素晴らしい存在となった。
そしていずれまた「水のいのち」を手がける機会があれば、「読む詩」と「歌う詩」とをじっくり比べつつ味わってみたいと思う。
 
(完)
posted by 小澤和也 at 12:30| Comment(0) | 日記