江戸川区 第44回中央地域まつり、
新型コロナ禍を乗り越え4年ぶりに開催。
(28日、東小松川公園)
合唱団あしべも出演しました。
ステージに先立つ式典では、開会に際して江戸川区歌を斉唱、私も指揮を仰せつかりました。
正直なところ4年のブランクは小さくなく、メンバーからも「歌えるかしら」と不安の声がありましたが...
いざステージに立つと、皆さんすっかり “歌い手の顔” に。
(本番ではマスクを外すことができたのもよかったです)
『茶摘』『フニクリフニクラ』『心の瞳』の3曲を晴れやかな表情で聞かせてくださいました。
これまで当たり前のことと思っていた「集うたのしみ」そして「歌えるよろこび」をしみじみと味わうことのできた一日でした。
2023年05月31日
久々の「春の歌声」
posted by 小澤和也 at 21:24| Comment(0)
| 日記
2023年05月07日
音楽事典で見る『ペーテル・ブノワの生涯』
西洋音楽を扱った世界最大の参考文献のひとつである「ニューグローヴ世界音楽大事典」。
この中でペーテル・ブノワがどのように取り上げられているか、以下に拙訳を試みた。
※一文ごとの改行、および段落毎に適宜施した空白行は小澤によるものである
※本文の後に記載された「主要作品一覧」他は省略した
ペーテル・(レオナルト・レオポルト・) ブノワ (1834年8月17日 ハレルベーケ生まれ〜1901年3月8日 アントワープにて没)
はベルギーの作曲家、指揮者、教育者。
彼は父親から最初の音楽レッスンを受け、その後ピアノとオルガンをP. カルリエル (デッセルヘムの堂守、オルガニスト) に学んだ。
1851年にブリュッセル音楽院の生徒となり、ピアノ・和声・対位法・フーガおよび作曲を受講、1854年に和声と作曲で一等賞を受賞する。
彼の主任教師は校長のフランソワ=ジョセフ・フェティスであった。
音楽院での勉強を終えた後、彼はC.-L. ハンセンス (モネ劇場の指揮者) のもとで勉強を続ける。
この頃のブノワはやむなくモネのオーケストラの追加トライアングル奏者となるほどに厳しい経済的苦境にあった。
その後1856年に彼はブリュッセルのパルク劇場の指揮者となる。
ブノワは1857年にカンタータ『アベルの殺害』(仏語のテキストによる。当時の政府によってそのように規定されていた) でベルギーのローマ賞を受賞した。
フェティスのアドバイスにより彼は賞金をドイツ楽旅の費用に充て、ケルン、ドレスデン、ベルリン、ミュンヘン、およびプラハにて過ごす。
帰国後ブノワはパリへ移り、1862年にブフ=パリジャン劇場の指揮者となった。
しかし1863年に彼は辞任しベルギーへ戻り、はじめブリュッセルに、次いで1867年にアントワープに定住、そこでフランドル音楽学校を設立する。
短期間のうちにこの学校はフランドルにおける音楽教育を確立するための困難な闘争の、またフランドルの人々の文化的発展のためのより大きな運動の重要な要素となった。
ブノワのたゆまぬ努力はベルギー政府が学校を承認したばかりでなく1898年にベルギーの仏語圏の音楽院と同じ権利を持つ王立フランドル音楽院にその地位を引き上げたことにより報われる。
ブノワはさらに、アントワープにおけるフラマン語の歌劇場の必要性を主張した。
1890年にネーデルランド・リリック劇場が設立され、1893年にこれがフランダース歌劇場となった。
作曲家としてブノワはフランドルの音楽に新しい命を吹き込んだ。
彼はフランドルの人々に彼らの芸術への信念を与え、彼自身の創造的な実例を通して他の者たちが作曲することを奨励した。
彼の主な目的は、フランドルの音楽生活を一般的なヨーロッパ文化のレベルに引き上げ、ベルリオーズやリスト、ワーグナーらによって示された規範に合わせることであったが、フランドルの国民意識運動とも関連していた。
彼の作品のこれらの2つの側面は、その画家の生きた時代のアントワープを描いた『ルーベンスカンタータ』の中に見られる。
様式のうえで彼の作品は19世紀のロマン主義に属している。
当初、フェティスの影響による彼の書法はフランス楽派のそれに近かった。
初期作品ではベートーヴェン、メンデルスゾーン、リスト、ショパン、ウェーバーからの影響を受ける。
しかし、彼のスタイルが発展するにつれ、ベルリオーズやマイアベーアの様式へ傾いていった。
創作力の最盛期において彼はワーグナーを思わせる劇的効果とともに大胆で非古典的な和声を用いた。
ブノワは主に声楽曲の作曲家であり、大規模な合唱ミサ曲への際立った熟達の力を持っていた。
彼は意識的に自身の芸術をフランドルの人々の中に根ざした道徳的感覚の支配下に置く。
彼の第一の作曲の目的は大衆によって演奏され理解されることであり、そのために彼は後期作品のスタイルを意図的に平易なものとした。
彼は伝統的な民俗音楽や芸術音楽のメロディとリズムの中に国民性を探し求める。
キャリアの初期において彼は既存の作品を用い、また子供のためのカンタータを考案した。
彼が採用した最も独創的な形式は、俳優がリズムで話し、全体を通してオーケストラが伴奏する形の音楽劇であった。
ブノワは国際的な知的資質を持った教育者であり、その音楽院のカリキュラムは時代をはるかに超えるものであった。
(ここまで)
西洋音楽を扱った世界最大の参考文献のひとつである「ニューグローヴ世界音楽大事典」。
この中でペーテル・ブノワがどのように取り上げられているか、以下に拙訳を試みた。
※一文ごとの改行、および段落毎に適宜施した空白行は小澤によるものである
※本文の後に記載された「主要作品一覧」他は省略した
ペーテル・(レオナルト・レオポルト・) ブノワ (1834年8月17日 ハレルベーケ生まれ〜1901年3月8日 アントワープにて没)
はベルギーの作曲家、指揮者、教育者。
彼は父親から最初の音楽レッスンを受け、その後ピアノとオルガンをP. カルリエル (デッセルヘムの堂守、オルガニスト) に学んだ。
1851年にブリュッセル音楽院の生徒となり、ピアノ・和声・対位法・フーガおよび作曲を受講、1854年に和声と作曲で一等賞を受賞する。
彼の主任教師は校長のフランソワ=ジョセフ・フェティスであった。
音楽院での勉強を終えた後、彼はC.-L. ハンセンス (モネ劇場の指揮者) のもとで勉強を続ける。
この頃のブノワはやむなくモネのオーケストラの追加トライアングル奏者となるほどに厳しい経済的苦境にあった。
その後1856年に彼はブリュッセルのパルク劇場の指揮者となる。
ブノワは1857年にカンタータ『アベルの殺害』(仏語のテキストによる。当時の政府によってそのように規定されていた) でベルギーのローマ賞を受賞した。
フェティスのアドバイスにより彼は賞金をドイツ楽旅の費用に充て、ケルン、ドレスデン、ベルリン、ミュンヘン、およびプラハにて過ごす。
帰国後ブノワはパリへ移り、1862年にブフ=パリジャン劇場の指揮者となった。
しかし1863年に彼は辞任しベルギーへ戻り、はじめブリュッセルに、次いで1867年にアントワープに定住、そこでフランドル音楽学校を設立する。
短期間のうちにこの学校はフランドルにおける音楽教育を確立するための困難な闘争の、またフランドルの人々の文化的発展のためのより大きな運動の重要な要素となった。
ブノワのたゆまぬ努力はベルギー政府が学校を承認したばかりでなく1898年にベルギーの仏語圏の音楽院と同じ権利を持つ王立フランドル音楽院にその地位を引き上げたことにより報われる。
ブノワはさらに、アントワープにおけるフラマン語の歌劇場の必要性を主張した。
1890年にネーデルランド・リリック劇場が設立され、1893年にこれがフランダース歌劇場となった。
作曲家としてブノワはフランドルの音楽に新しい命を吹き込んだ。
彼はフランドルの人々に彼らの芸術への信念を与え、彼自身の創造的な実例を通して他の者たちが作曲することを奨励した。
彼の主な目的は、フランドルの音楽生活を一般的なヨーロッパ文化のレベルに引き上げ、ベルリオーズやリスト、ワーグナーらによって示された規範に合わせることであったが、フランドルの国民意識運動とも関連していた。
彼の作品のこれらの2つの側面は、その画家の生きた時代のアントワープを描いた『ルーベンスカンタータ』の中に見られる。
様式のうえで彼の作品は19世紀のロマン主義に属している。
当初、フェティスの影響による彼の書法はフランス楽派のそれに近かった。
初期作品ではベートーヴェン、メンデルスゾーン、リスト、ショパン、ウェーバーからの影響を受ける。
しかし、彼のスタイルが発展するにつれ、ベルリオーズやマイアベーアの様式へ傾いていった。
創作力の最盛期において彼はワーグナーを思わせる劇的効果とともに大胆で非古典的な和声を用いた。
ブノワは主に声楽曲の作曲家であり、大規模な合唱ミサ曲への際立った熟達の力を持っていた。
彼は意識的に自身の芸術をフランドルの人々の中に根ざした道徳的感覚の支配下に置く。
彼の第一の作曲の目的は大衆によって演奏され理解されることであり、そのために彼は後期作品のスタイルを意図的に平易なものとした。
彼は伝統的な民俗音楽や芸術音楽のメロディとリズムの中に国民性を探し求める。
キャリアの初期において彼は既存の作品を用い、また子供のためのカンタータを考案した。
彼が採用した最も独創的な形式は、俳優がリズムで話し、全体を通してオーケストラが伴奏する形の音楽劇であった。
ブノワは国際的な知的資質を持った教育者であり、その音楽院のカリキュラムは時代をはるかに超えるものであった。
(ここまで)
posted by 小澤和也 at 18:15| Comment(0)
| 音楽雑記帳