直前のお知らせとなってしまいましたが... 2年ぶりに湘南アマデウス合奏団の皆さまとご一緒することになりました。 私は第1部 (14:00〜) に出演します。 §歌劇「ドン・ジョヴァンニ」KV527 序曲 言わずと知れた名曲中の名曲。 作曲家自身による演奏会用コーダのついた版で演奏します。 §交響曲ニ長調 KV204 いわゆるナンバリング (ジュピター=第41番、のような) がされていない、かなり珍しい作品です。 全7楽章からなるセレナードKV204をベースにモーツァルトが交響曲として編み直しました。 私自身今回はじめて知ったのですが... なんてチャーミングな曲! 惚れました! 《湘南アマデウス合奏団 第53回定期演奏会》 (合唱団・合奏団合同 第25回定期演奏会) 2023年10月15日(日) 14:00開演 藤沢市民会館 大ホール 全席自由 1000円 詳細は合奏団ホームページをご覧ください。 https://shonan-amadeus.com/next/ みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げます。 |
2023年10月14日
演奏会のごあんない
2023年10月12日
ブルックナーの命日に
10月11日はブルックナーの亡くなった日。
(1896年没)
何かCDを聴こうかとも思ったのだけれど、昨日の『ブロムシュテットさん来日見合わせ=N響とのブルックナー公演中止』の報が未だ胸に重くのしかかり、今ひとつ気分がのらない。
その代わりにこちらを聴くことにした。
NHK-FM
《大作曲家の時間 ブルックナー》
最終回
(Youtubeにアップされている音声)
番組前半
https://m.youtube.com/watch?v=O_yoRr9gEkQ
番組後半
https://m.youtube.com/watch?v=hrP5Hv9x7A8
全31回にわたってオンエアされたシリーズ最終回は第9交響曲の第3楽章を、土田英三郎氏の綿密な解説とともに聴くものであった。
(当時はこのような専門的・学術的な内容の番組がリスナーにおもねることなく放送されていたのだと思うと感慨深い)
前半ではアダージォの全編にわたる解説ののちシューリヒト&ウィーン・フィルの名録音が流され、後半は未完に終わった第4楽章のスケッチをこの放送のためのピアノ演奏 (pf: 草野裕子) を用いて紹介してゆくという実に貴重な記録︎
録音を聴きながら改めて調べてみると...
この《大作曲家の時間 ブルックナー》は1983年9月〜翌年3月の放送だったようだ。
土曜朝の番組だった記憶がある。
当時僕は高校生、毎週オーディオタイマーをセットして登校、帰宅してから貪るようにエアチェックを聴いていた。
この最終回も部分的にではあるがよく憶えている。
上述の第4楽章フィナーレスケッチのピアノ演奏があたかも「最後の審判」の場面のように僕の心をえぐったのだ。
第1楽章のそれ以上に激しく厳しい第1主題、少しも歌謡的でない第2主題、壮麗な呈示部結尾のコラール主題と順に聴き進みつつ、(ブルックナーがいかに巨大なフィナーレを構想していたか) に思いを馳せる。
さらに第1主題モティーフによるフーガの主題が紹介された後、コラール主題の再現が18小節にわたって鳴り響き...
演奏は突如停止。
「(これで) ブルックナーの楽譜は終わっています...これ以後はコーダを含めてまったく書かれていません」
(土田氏のナレーション)
ブルックナーの筆が止まった瞬間...
この部分を繰り返し聴いてはいつも泣きそうになっていたおかしな少年だったことをここに告白する。
あれから40年経った今でもいわゆる「第4楽章の補筆完成版」に一向に食指が動かないのは、この体験が原因かもしれないな、と思ったりもする。
そしてもし...
「愛する神」がブルックナーにこのフィナーレを書き上げるだけの時間をお与えになっていたら...
2023年10月05日
守るべきもの、そして「よき聴き手」であること
第22回 小金井音楽談話室
ヴィルタス・クヮルテット定期演奏会
を聴く。
(10月4日、宮地楽器ホール 小ホール)
前回公演 (メンデルスゾーン&ツェムリンスキー) が昨年11月であったと記憶しているのでほぼ一年ぶり。
このシリーズの素敵な点はまず何といっても “演奏者との距離感” である。
ヴィルタスの皆さんの息遣いや視線のやり取りがひしひしと伝わってくるのだ。
そしてもうひとつの魅力がこのコンサートのディレクターでご案内役を務められている足立優司さんの楽曲解説だ...そう感じているのは僕一人ではないはず。
この日のプログラムは
モーツァルト: ニ長調KV499
バーバー: ロ短調Op.11
ブラームス: イ短調Op.51-2
という幸福感あふれるもの。
いわゆる「ハイドン・セット」全6曲ばかりが注目されとかく影の薄い印象のあるこの四重奏曲だが、ヴィルタス・クヮルテットの演奏はしなやかさと力強さを併せもった実に見事なモーツァルト解釈であった。
続くバーバーはやはり中間楽章モルト・アダージォが白眉。
僕の愛聴ディスクであるクロノス・カルテットの演奏がついつい脳裏をよぎってしまった(コンサートのきき手として決して褒められた態度ではない) のだが、静謐感を前面に出したクロノスのアプローチに対し、この日の演奏はあたかも作曲当時のバーバーの心情にとことんまで共感し尽くしたような熱い音楽であった。
悲痛なクライマックスから突然の静寂を経たのちに回帰する主題、ここでは冒頭と異なりヴァイオリンに加えてヴィオラがユニゾンで加わるのだが、心もち強く奏されたその1オクターヴ下の、すべてを包み込むような深い響きに打たれた。
そしてブラームス。
交響曲と同様、「偉大過ぎた先人」のあとに何ができるのかという苦悩にも似た重圧とそれに対するブラームスの見事な解答をしっかりと音化した演奏を存分に堪能した。
さらには、全曲を通して ”すべてあるべき箇所にピタリと決まった“ 内声を聴かせてくださった2ndヴァイオリン・對馬佳祐さんに心からの “ブラーヴォ!” をお送りしたい。
帰途、電車の中でプログラムノートに改めて目を通す。
『〜いつの頃からかそれ [=音楽文化] は守り伝えていくものではなく ”消費“ される対象となり、かつて文化の最も洗練された姿のひとつであった芸術がその身にまとっていた輝き (アウラ) も、既に失われて久しい』
『音楽が美しく作曲され、演奏されたとしてもそこに聴き手がいなければ、音楽は「目的」を持ち得ない』
足立さんの紡ぐ言葉の数々に、この日の演奏に劣らぬほどの感銘を覚えたのだった。
(プログラムノートより引用させていただきました)
佳い時間でした。
ヴィルタス・クヮルテットの皆さん、足立さん、ありがとうございます。