2024年11月30日

フルトヴェングラーのセッション録音 - 1949年 -

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11月30日はフルトヴェングラーの命日。
亡くなったのが1954(昭和29)年であるから没後70年になる。

私は10代の頃からフルトヴェングラーのレコードのファンであるが、ここ最近はもっぱら彼の(戦後の)セッション録音ばかり聴いている。
「フルトヴェングラーの芸術の真髄はライヴにこそある」「スタジオでのフルトヴェングラーは不完全燃焼」などと巷では言われているようだ。
私もその例にもれず、入門はいわゆる「バイロイトの第九」であり、戦時中の鬼気迫る実況録音盤の数々であった。
それらの演奏には確かに聴く者を否応なく彼の音楽世界へと引きずりこむような不思議な力がある。

では ─ 
彼のセッション録音には音楽的な魅力がないのか?
もちろん「No」である。
熱狂や閃きの代わりに、そこにあるのは緻密な思索の音楽だ。
そして現在の私はそれを聴くことにこのうえない喜びを覚えているのだ。

〜過去の投稿はこちら〜
音楽ノート/フルトヴェングラーの命日に(1947年のセッション録音)
2019.11.30. 記
音楽ノート/フルトヴェングラーのセッション録音 -1948年 -
2020.12.1. 記


引き続き、1949年のスタジオ録音を以下に挙げる。
すべてSP録音である。

§メンデルスゾーン: フィンガルの洞窟 (2/15)
§ヴァーグナー: ジークフリート牧歌 (2/16,17)
§ヴァーグナー: タンホイザー序曲 (2/17,22)
§ヴァーグナー: 「神々の黄昏」より「ジークフリートのラインへの旅」 (2/23)
§ヴァーグナー: さまよえるオランダ人序曲 (3/30,31)
§ブラームス: ハイドン変奏曲 (3/30,4/2)
§ヴァーグナー: ヴァルキューレの騎行 (3/31)
§ベルリオーズ: ラコッツィ行進曲 (3/31)
§モーツァルト: アイネ・クライネ・ナハトムジーク (4/1)
§ヴァーグナー: マイスタージンガー第1幕前奏曲 (4/1,4)
§ブラームス: ハンガリー舞曲第3,10&1番 (4/4)
§ヴァーグナー: 「マイスタージンガー」より「徒弟たちの踊り」 (4/4)
§ブラームス: ヴァイオリン協奏曲/メニューヒン、ルツェルン祝祭管(8/29-31)

メニューヒンとのブラームスを除いてオーケストラはすべてウィーンpo、2月および3月下旬〜4月初旬に集中的に組まれたセッションにおける録音である。
この年は交響曲の録音がひとつもなく、半数以上がヴァーグナーというのが面白い。
フルトヴェングラーがそれを望んだのか、それともEMI(レコード会社)の意向だったのだろうか...
また、上記ヴァーグナー7タイトルのうち「タンホイザー」と「ラインへの旅」はそれぞれ1952年、1954年に同じウィーンpoと再録音しており、録音が良いこともあって一般的にはそちらの方が知られている。

これらの中から今回じっくりと聴いたのはブラームスの2曲。
協奏曲は独奏者への評価が今ひとつというのもあり話題に上がることの少ない録音だが、フルトヴェングラーのタクトにぴったりと寄り添うルツェルン祝祭管の
ときに厚く、ときに繊細な(第2楽章アダージォの美しさ!)響きからは、47年録音の第1交響曲や次に挙げるハイドン・ヴァリエーションとともにフルトヴェングラーの「ブラームス観」の一端を感じることができる。

ハイドン・ヴァリエーションはおそらくフルトヴェングラーの十八番だったのだろう、私の知る限り7種類の演奏がレコード化されている。
(うちセッション録音は2種類、残りの5つはすべてライヴ収録である)
冒頭の変奏曲主題(いわゆる「聖アントニー・コラール」)が鳴り始めたその瞬間から、ウィーン・フィル独特のオーボエの古雅な音色が私の心を捉えて離さない。
加えてこの独奏を支えるホルンやファゴットらのブレンドされた響きも実に味わい深い。
このほんの2分ほどの音楽を聴きながら、原曲 (伝ハイドン/ディヴェルティメントHob.ll:46) が管楽アンサンブル曲であったことが改めて強く思い起こされるのだ。
続く各変奏曲も、管弦のバランスのとれた明瞭な録音のおかげもあって、美しい画集を1ページずつ繰ってゆくような愉しみと歓びがある。
そして終曲へ...この壮麗なパッサカリアにおいていよいよフルトヴェングラーの熱いパッションが“過不足なく”発揮され大団円となる。


この年の他の録音のなかではヴァーグナー「ジークフリート牧歌」が個人的には大好きである。
紛れもなくヴァーグナーでありながら室内楽的な細やかさをもったその筆の運び、ウィーン・フィルの名人芸、そしてフルトヴェングラーの語り口、これらのすべてが完璧なバランスで音化されている...
『これぞ芸術である』と言わんばかりに。

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posted by 小澤和也 at 21:01| Comment(0) | 日記

2024年11月29日

牧野正人先生


日本を代表するバリトン歌手・牧野正人さんの訃報をSNSで知りました。
闘病されているのは以前から存じ上げていましたが...まさか...こんなに早く...


牧野先生に初めてお目にかかったのは1987年でした。
私が当時所属していた大学サークル合唱団の記念演奏会にご出演いただいたのです。
フォーレ「レクイエム」で素晴らしい“Libera me”を聴かせてくださいました。
牧野先生の堂々たるお姿を私はステージ後方から眩しく見つめていました。

そんな“神様”のようなお方が終演後のレセプションで
『それではナポリ民謡“Santa Lucia”を歌います!』
(一同大歓声と拍手)

ところが、聞こえてきた詞は「黒田節」だったのです。

酒は飲めのめ 飲むならば
日の本一の この槍を
...

状況が飲み込めず呆気に取られて聴いていると、牧野先生は指を一本、二本と出しながら
『一(いち)樽、二(に)樽...』
そしてニヤリと笑って
『サンタ〜〜・ルチーア!』

一瞬の静寂ののち...
会場が嵐のような喝采に包まれたあの光景を今でも昨日のことのように思い出すことができます。

それから十余年が経過し、オペラの現場で牧野先生とふたたびご一緒できることになろうとは...
マルチェッロ(ラ・ボエーム)、アモナズロ(アイーダ)、そして何といってもジェルモン(ラ・トラヴィアータ)...!
すべてが宝物のような時間でした。

(あの時の学生指揮者が私であったことなど、先生は決して憶えていらっしゃらないだろうな...次にお会いしたらお話ししなければ...)

ずっと思っていたのですが...
叶いませんでした。


牧野先生の声とその姿から、私は多くのものを学びました。
ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
どうぞ安らかに。
posted by 小澤和也 at 11:59| Comment(0) | 日記

2024年11月14日

「三行で撃つ」との一ヶ月

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この一ヶ月間、自分でも驚くほど集中して「ある本」を読んだ。
これほどに熱を帯びた読書体験は最近ではほとんど記憶がない。

日々のメモ、そしてSNSへの呟きを振り返ると、やはりこの本についての言及が多かった。
そこで、まったく個人的な興味からであるがそれらを改めて並べてみることにした。
私自身の記憶、しかもたかだか一ヶ月前のことであるのに...憶えていないものである。
こうしてみずからの言葉や思考を俯瞰し客観視するのは楽しい作業であった。


『Twitter 24/10/06
きょう届いた本、延べ3.5hかけて #読了。
その内容とは関係なく「あ、これ読みたい!」と思った時の心の“温度”が冷めぬうちに一気に読み切れたことに対し脳から快楽物質が出てきて自分でもびっくり...そしてその物質がこれほどに気持イイものだとは!』

一連のきっかけとなったのはこのツイートである。
「きょう届いた本」というのは勝田茅生さんのヴィクトール・フランクルについてのテキスト本であり、「ある本」とは別のものだ。
(“X”のことを私は今でも“Twitter”と呼びならわしているので、ここでもそのとおりにします)

『Twitter 24/10/07
‎数日中にまた本が2冊届く予定。
‎きょうのやり方で味を占めた...』

その翌日、夜遅くに仕事から帰るとその本が届いていたのだった。
そして...

『10月8日【読書メモ】
三行で撃つ 近藤康太郎 著
26時少し前から読み始め30時半過ぎに読了。
無茶で馬鹿なことをしたものだと思うが、そうしたかったのだから仕方ない。
(例によって眠くはならなかった)
ともかくも読み終えた。
実践する。
「書くこと」に真剣に取り組む。』
(以下、本文を読みながらのメモ書きが続く)

「ある本」との出会いはこうして訪れた。
直前の“一気読み”成功体験に便乗するかたちで私は「三行で撃つ」をのべ5時間ほどで”トラック1周目・完走“したのだった。

『10月9日の日記
夜更かしして「三行で撃つ」一気に読了。(その代わり午前中はダウン)』

「三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾」
近藤康太郎著(CCCメディアハウス刊)
タイトルにもあるようにこれは「文章の書き方、その実用書」(「はじめに」より引用)である。

『Twitter 24/10/10
今からでも
「書く人」になれるだろうか。』

近藤さんの本にさっそく感化されている... “撃たれて”いる。
日記によれば、私はこの日から【読書ノート】を取り始めている。

『Twitter 24/10/13
近藤康太郎著「三行で撃つ」、熱に浮かされるように一気に読了し、いまトラック2周目に入っている。読みながら(今からでも「書く人」になれるだろうか)などと考え始めた自分に驚いている。近藤さんの文章はクールで、しかも熱い。メモを取る私の指先も熱くなる。
(ツイートのつづき)
近藤さんのお名前は寡聞にして存じ上げなかった。TwitterのTLで偶然この本のことを知り、気づけば何かに導かれるように手に取っていた。もし書名が「三行で撃て!」だったら“通り過ぎて”いたかもしれない。
良書との出会いに感謝。』

『10月13日の日記
6am 起床
三行で撃つ 読書ノート進める
編集者さんとTwitterで繋がる。嬉しい』

上のツイートに対して本書の編集者である「編集Lily」さんが返信をくださった。
思わず声が出る。
欲しかったおもちゃを買ってもらえた子供のようにうれしかった。

『10月16日の日記
書く決心を固める。
近藤康太郎さんの「三行で撃つ」が背中を押してくれたと思う。』

そう、
私には書きたいものがあったのだ。
これについてはいずれまた触れたいと思っている。

『Twitter 24/10/16
トラック2周目、絶賛進行中。
「早く進みたい」「一言一句漏らさず読み取りたい」「このままずっと終わってほしくない」...これら三つの思いが交錯する。この本に完全に魅せられている。』

『Twitter 24/10/26
「目の前が広々と開けること、周囲が明るくなることを、古来、日本人は「おもしろい」と表現してきた。「おもしろし」とは、本来、そういう意味だったのだ。」
〜近藤康太郎著「三行で撃つ」より』

『Twitter 24/10/27
ある本に惚れ込んで、抜き書きを始めた。うまくまとめられたときは気持ちがよかった。いい感じで抜き書きを続けていた...途中までは。
ある章から急にそれができなくなった。抜きようがなくなった。すべてが大切なメッセージに思えてきたのだ。
(ツイートのつづき)
抜き出すのをやめた。ひたすら読む。読んで考える。しばらく置く。薄れる。また読み返す...その繰り返しになった。
きっとこれでいいんだ。硬いアスファルトの路面に大型車の轍ができていくように。
そのくらいこの本に惚れ込んだのだ。』

この頃には一日に一度かならずこの本を手に取ること、じっくりと味わいながら少しずつ読み返していくことが日々のルーティンになっていた。

『Twitter 24/11/04
抜き書きの必要性とその効用について論じた、私がいまこの本の中でもっとも激しく“撃たれている”項を読みながら抜き書きをしている。
快感、だ。』

『Twitter 24/11/06
1時間の #読書 タイム。
今朝はこのうえない達成感を覚えた。
(仕事したわけでもないのに)とは言わないでおこう...

『Twitter 24/11/11
タイマーをセットして30分だけ読書した。バッハの短いオルガン・コラールをエンドレスで小さくかけながら。
捗った。
脳が喜んでいるのがわかる。
この感覚、忘れないでいたい。』

同じ日のツイート。
『「文章を書いて生きる人間になれたのは、自分の努力などではない。その確信が、自分の手のうちに、ありありとして、在る。」
私がいまいちばん好きな本の中の文章。
烏滸がましい物言いだが、“文章を書いて”を“音楽をして”に置き換えると私自身の心境にぴたりと当てはまる。
(ツイートつづき)
同じ本からの引用。
「書き言葉は生命を持ち得る(...)新しい意味が付け加わっていく。新しい読み方、解釈、ときには創造的な誤読がなされる」
この部分を読んで咄嗟に「フルトヴェングラーのベートーヴェン演奏」が頭に浮かんだ。
書き手の想いに沿って、いつしかそれを超えて鳴り響く「創造物」。』

ここで近藤さんのおっしゃっている
「(書き言葉においては) ときには創造的な誤読がなされる」
のくだりが僕にはしばらく難解であった。
しかし何回目だっただろうか、読み返していて、昔読んだ本にあった
「演奏とは(...)いわば“追創造”とも称すべき行為である」
という丸山眞男の言葉を思い出すともに近藤さんの論旨の一端が理解できた気がしたのだった。
創造的な誤読とは...
作者(作曲家)の意図をも超えた優れた解釈のことなのだな、と。

この日最後のツイート。
『「三行で撃つ」、二度目の読了。
ノートを取りながらのトラック2周目はキツかった。でも楽しかった。
何かが私の中で啓いた。
良書との出会いに改めて感謝。』

『11月11日の日記
三行で撃つ 読書ノートを書き終える』


ジャンルは異なれど、同じ表現者の端くれとして今回の読書体験は実に刺激的だった。
猛烈に(書きたい!)と思う自分がここにいる。
これからも、善く生きて、mojoを引き寄せ、創作の女神と交信するためにいっそう精進したい。
そして...
「三行で撃つ」と一緒に届いた本(結局一ヶ月間“積ん読”にしてしまった)、同じく近藤康太郎さんの「百冊で耕す」を読むのが今からとても楽しみなのである。
posted by 小澤和也 at 12:46| Comment(0) | 日記