2024年11月14日

「三行で撃つ」との一ヶ月

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この一ヶ月間、自分でも驚くほど集中して「ある本」を読んだ。
これほどに熱を帯びた読書体験は最近ではほとんど記憶がない。

日々のメモ、そしてSNSへの呟きを振り返ると、やはりこの本についての言及が多かった。
そこで、まったく個人的な興味からであるがそれらを改めて並べてみることにした。
私自身の記憶、しかもたかだか一ヶ月前のことであるのに...憶えていないものである。
こうしてみずからの言葉や思考を俯瞰し客観視するのは楽しい作業であった。


『Twitter 24/10/06
きょう届いた本、延べ3.5hかけて #読了。
その内容とは関係なく「あ、これ読みたい!」と思った時の心の“温度”が冷めぬうちに一気に読み切れたことに対し脳から快楽物質が出てきて自分でもびっくり...そしてその物質がこれほどに気持イイものだとは!』

一連のきっかけとなったのはこのツイートである。
「きょう届いた本」というのは勝田茅生さんのヴィクトール・フランクルについてのテキスト本であり、「ある本」とは別のものだ。
(“X”のことを私は今でも“Twitter”と呼びならわしているので、ここでもそのとおりにします)

『Twitter 24/10/07
‎数日中にまた本が2冊届く予定。
‎きょうのやり方で味を占めた...』

その翌日、夜遅くに仕事から帰るとその本が届いていたのだった。
そして...

『10月8日【読書メモ】
三行で撃つ 近藤康太郎 著
26時少し前から読み始め30時半過ぎに読了。
無茶で馬鹿なことをしたものだと思うが、そうしたかったのだから仕方ない。
(例によって眠くはならなかった)
ともかくも読み終えた。
実践する。
「書くこと」に真剣に取り組む。』
(以下、本文を読みながらのメモ書きが続く)

「ある本」との出会いはこうして訪れた。
直前の“一気読み”成功体験に便乗するかたちで私は「三行で撃つ」をのべ5時間ほどで”トラック1周目・完走“したのだった。

『10月9日の日記
夜更かしして「三行で撃つ」一気に読了。(その代わり午前中はダウン)』

「三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾」
近藤康太郎著(CCCメディアハウス刊)
タイトルにもあるようにこれは「文章の書き方、その実用書」(「はじめに」より引用)である。

『Twitter 24/10/10
今からでも
「書く人」になれるだろうか。』

近藤さんの本にさっそく感化されている... “撃たれて”いる。
日記によれば、私はこの日から【読書ノート】を取り始めている。

『Twitter 24/10/13
近藤康太郎著「三行で撃つ」、熱に浮かされるように一気に読了し、いまトラック2周目に入っている。読みながら(今からでも「書く人」になれるだろうか)などと考え始めた自分に驚いている。近藤さんの文章はクールで、しかも熱い。メモを取る私の指先も熱くなる。
(ツイートのつづき)
近藤さんのお名前は寡聞にして存じ上げなかった。TwitterのTLで偶然この本のことを知り、気づけば何かに導かれるように手に取っていた。もし書名が「三行で撃て!」だったら“通り過ぎて”いたかもしれない。
良書との出会いに感謝。』

『10月13日の日記
6am 起床
三行で撃つ 読書ノート進める
編集者さんとTwitterで繋がる。嬉しい』

上のツイートに対して本書の編集者である「編集Lily」さんが返信をくださった。
思わず声が出る。
欲しかったおもちゃを買ってもらえた子供のようにうれしかった。

『10月16日の日記
書く決心を固める。
近藤康太郎さんの「三行で撃つ」が背中を押してくれたと思う。』

そう、
私には書きたいものがあったのだ。
これについてはいずれまた触れたいと思っている。

『Twitter 24/10/16
トラック2周目、絶賛進行中。
「早く進みたい」「一言一句漏らさず読み取りたい」「このままずっと終わってほしくない」...これら三つの思いが交錯する。この本に完全に魅せられている。』

『Twitter 24/10/26
「目の前が広々と開けること、周囲が明るくなることを、古来、日本人は「おもしろい」と表現してきた。「おもしろし」とは、本来、そういう意味だったのだ。」
〜近藤康太郎著「三行で撃つ」より』

『Twitter 24/10/27
ある本に惚れ込んで、抜き書きを始めた。うまくまとめられたときは気持ちがよかった。いい感じで抜き書きを続けていた...途中までは。
ある章から急にそれができなくなった。抜きようがなくなった。すべてが大切なメッセージに思えてきたのだ。
(ツイートのつづき)
抜き出すのをやめた。ひたすら読む。読んで考える。しばらく置く。薄れる。また読み返す...その繰り返しになった。
きっとこれでいいんだ。硬いアスファルトの路面に大型車の轍ができていくように。
そのくらいこの本に惚れ込んだのだ。』

この頃には一日に一度かならずこの本を手に取ること、じっくりと味わいながら少しずつ読み返していくことが日々のルーティンになっていた。

『Twitter 24/11/04
抜き書きの必要性とその効用について論じた、私がいまこの本の中でもっとも激しく“撃たれている”項を読みながら抜き書きをしている。
快感、だ。』

『Twitter 24/11/06
1時間の #読書 タイム。
今朝はこのうえない達成感を覚えた。
(仕事したわけでもないのに)とは言わないでおこう...

『Twitter 24/11/11
タイマーをセットして30分だけ読書した。バッハの短いオルガン・コラールをエンドレスで小さくかけながら。
捗った。
脳が喜んでいるのがわかる。
この感覚、忘れないでいたい。』

同じ日のツイート。
『「文章を書いて生きる人間になれたのは、自分の努力などではない。その確信が、自分の手のうちに、ありありとして、在る。」
私がいまいちばん好きな本の中の文章。
烏滸がましい物言いだが、“文章を書いて”を“音楽をして”に置き換えると私自身の心境にぴたりと当てはまる。
(ツイートつづき)
同じ本からの引用。
「書き言葉は生命を持ち得る(...)新しい意味が付け加わっていく。新しい読み方、解釈、ときには創造的な誤読がなされる」
この部分を読んで咄嗟に「フルトヴェングラーのベートーヴェン演奏」が頭に浮かんだ。
書き手の想いに沿って、いつしかそれを超えて鳴り響く「創造物」。』

ここで近藤さんのおっしゃっている
「(書き言葉においては) ときには創造的な誤読がなされる」
のくだりが僕にはしばらく難解であった。
しかし何回目だっただろうか、読み返していて、昔読んだ本にあった
「演奏とは(...)いわば“追創造”とも称すべき行為である」
という丸山眞男の言葉を思い出すともに近藤さんの論旨の一端が理解できた気がしたのだった。
創造的な誤読とは...
作者(作曲家)の意図をも超えた優れた解釈のことなのだな、と。

この日最後のツイート。
『「三行で撃つ」、二度目の読了。
ノートを取りながらのトラック2周目はキツかった。でも楽しかった。
何かが私の中で啓いた。
良書との出会いに改めて感謝。』

『11月11日の日記
三行で撃つ 読書ノートを書き終える』


ジャンルは異なれど、同じ表現者の端くれとして今回の読書体験は実に刺激的だった。
猛烈に(書きたい!)と思う自分がここにいる。
これからも、善く生きて、mojoを引き寄せ、創作の女神と交信するためにいっそう精進したい。
そして...
「三行で撃つ」と一緒に届いた本(結局一ヶ月間“積ん読”にしてしまった)、同じく近藤康太郎さんの「百冊で耕す」を読むのが今からとても楽しみなのである。
posted by 小澤和也 at 12:46| Comment(0) | 日記