2025年08月17日

1000文字(とちょっと)で読む 「ペーテル・ブノワの生涯」

我がライフワークであるペーテル・ブノワの誕生日に寄せて、1000文字強で彼の生涯について書いてみました。


ベルギーの作曲家ペーテル・ブノワは、フランデレン音楽史において極めて重要な存在です。彼は1834年8月17日、ベルギー西部のハレルベーケに生まれました。父から音楽の手ほどきを受けたのち、1851年にブリュッセル王立音楽院に入学、F.-J.フェティスに作曲を学びました。
卒業後の1857年にカンタータ「アベルの殺害」でベルギー・ローマ大賞を受賞しドイツ諸都市へ留学を果たします。滞在中に「アヴェ・マリア」(作品1) や「クリスマス・カンタータ」などを書き上げ、作曲家としての歩みを本格化させました。

その後ブノワはオペラ作曲家としての成功を求めて1859年にパリへ移りますが、激しい競争の中で名声を得るには至りませんでした。それでもいくつかのオペラやピアノ曲集「物語とバラッド」、さらにフルートやピアノのための交響詩 (彼は協奏曲をこのように呼びました) を生み出し、故郷の伝説を題材とする独自の表現を試みました。
1862年にはオッフェンバック主宰のブフ・パリジャン劇場の指揮者となり、その傍ら「荘厳ミサ」「テ・デウム」「レクイエム」などを相次いで作曲します。これらの宗教曲はブリュッセルで高く評価され「ベルギーで最も有望な作曲家」として注目を集めました。

1863年に帰国したブノワは、詩人エマニュエル・ヒールとの交流を通じ次第に民族主義的音楽理念を育んで行きます。1866年作曲のオラトリオ「リュシフェル」で国内的名声を確立し、翌1867年にはアントウェルペンに設立された音楽学校の校長に就任しました。ここで彼は教育活動に尽力し、母語であるフラマン語と民謡とを音楽教育の中心的モットーに据えたのでした。1869年初演のオラトリオ「スヘルデ川」はさながらフランデレンの歴史絵巻を見るような壮大な美しさをもった佳作です。

1870年代前半には反戦オラトリオ「戦争」や歌曲集「愛の悲劇」など、前衛的な和声を多く用いた神秘的・主観的な作品が発表されますが、やがて彼の作風はより大衆的な方向へと大きく転換し、歴史的人物や事件を題材とした大規模なカンタータに結実しました...その代表が「ルーベンス・カンタータ」(1877年) です。合唱、大管弦楽、直管トランペット、さらにはカリヨンを加える壮大な編成のこの曲はフランデレン人の誇りを示す象徴的作品となりました。

ブノワは1893年にフランデレン歌劇場を設立、そして1897年には自らの音楽学校が王立フランデレン音楽院へと昇格します。かくして首都ブリュッセルと並ぶ音楽的地位がここにようやく築かれました。
1901年3月8日、アントウェルペンにてペーテル・ブノワ死去。
彼の生涯は、芸術活動と教育を通じてフランデレン文化の自立とアイデンティティ確立に捧げられたものでした。

(完)
posted by 小澤和也 at 22:51| Comment(0) | 日記

2025年08月01日

8月

所用があり久しぶりに立川駅に降り立つ。
少し時間に余裕があったのでコーヒーショップで涼むことに。
ブレンドと小さなワッフルを買い求め、座席に腰をおろしたその瞬間 ─

なぜか突然にコレペティ菊ちゃん(立川オペラで長年ご一緒したピアニスト、今野菊子さん)のお顔がふっと脳裡に浮かんだ。

びっくりした。
この店に菊ちゃんと来た記憶はないのだけれど...
(一緒となるときまって稽古後の居酒屋ばかりだったからね)

そして気づく...きょうから8月か。

(たまには思い出してよね〜、わっはっはっ♪)
と、あの人懐っこい声で笑いかけてくれたんだね。
向こうでも元気に弾いたり飲んだり笑ったりしているだろうか。

─ 菊ちゃん、調子はどう?
posted by 小澤和也 at 22:46| Comment(0) | 日記