2016年07月02日

伝記 ペーテル・ブノワ(17)

 
 
§第10章
 
[ペーテル・ブノワ、音楽学校の校長としてアントウェルペンへ赴く〜
王立フランデレン音楽院の創立へ]
 
 
1867年はペーテル・ブノワにとって重要な年となった。
アントウェルペン市当局は8月、ファンデンペーレボーム大臣の助言と支援のもと、アントウェルペン音楽学校の校長としてこのフランデレンの作曲家を任命する。
ブノワはこの学校が名実ともにフランデレン人の、そしてフラマン語による組織機構となることを条件に、このポストへの着任を受諾した。
同年11月のアントウェルペン音楽学校の開校、それはこの勇気ある男に大きな達成感をもたらしたに違いない。
ついに彼は、成功のための機会を活かし、熱意をもって働くことのできる職を手に入れたのだ。
まだ33歳の若さであったにもかかわらず、ブノワはすでに多くの業績を成し遂げており、またすべての人から積極的な人格の持ち主とみなされていた。
 
それでも彼は、単なる「音楽学校」を設立するという考えには同意できなかった...彼は当初から壮大な計画を抱いていたのだ。
彼によれば...
ー音楽学校とは、少年少女がソルフェージュや楽器演奏をただ学ぶという目的をもつだけでなく、彼らがフランデレンにおける音楽活動の中心人物となるための、いわばフランデレン音楽のための単科大学のようなものだ。
ーすべての科目はフランデレン語で教えられるべきである...ドイツ、ロシア、ボヘミア、ノルウェー、フィンランド、スペインなどの諸外国がそうであるように。
ー音楽は民族的伝統の中に、その最も美しく力強い価値を見い出すものである。
そのようにしてフランデレン音楽もまた、貴重な財産の中から引き出されるのだ...その財産とは、私たちフランデレン人の古い歌や舞曲である。
彼は、フランデレン独自の個性をそなえた音楽学校をこの地に与えようとしたのだ。
 
しかし当然ながら、対立や抵抗なくすべて事が運ぶということはなかった。
1879年11月 (この時点ですでにブノワは12年間にわたって彼の音楽学校のために尽力していた)、フランスの作曲家グノーは次のような手紙をブノワへ送る。
『フランスの音楽教育はフランス語で、ドイツではドイツ語で、イタリアにはイタリア語で行われています。
したがってフランデレン地域では、それはフランデレン語でなされるべきです。
これはきわめて理にかなったことです。
母国語を除外しての言語研究、また国外のそれのみによる音楽研究などというものは成立しません...この立場に反するいかなる論証も私は知りません。
私はこの問題、あなたの才能と誠実さが不屈の勇気と粘り強さをもってこれほどまで長く奉仕してきた問題が最終的に、理性をもって公正になされることを心から願っています...幸運を祈ります。』
 
周囲の様々な反対にもかかわらず、ブノワは自らの意向をかなえていった。
数多くの文書の中で、彼は熱意と信念をもって自身の主張を擁護している。
そして最終的に、敵対者は彼の前に屈せざるを得なかったのだった。
 
 
(第10章 つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 01:58| Comment(0) | 音楽雑記帳
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