2017年07月30日

【音楽雑記帳】シューベルト/弦楽四重奏曲考

 
(画像:ホ長調D353冒頭)
 
シューベルトの弦楽四重奏曲といえば、一般にはどのようなイメージを持たれているのだろう。
真っ先に思い出されるのはやはりニックネームを持つ2曲、『ロザムンデ』(イ短調D804) と『死と乙女』(ニ短調D810)、さらには晩年の大作、ト長調D887あたりということになろうか。
 
『ロザムンデ』『死と乙女』が作曲されたのはいずれも1824年。
自らの脳裡に溢れる豊かな楽想とロマン的激情...対してそれらを受け止めまとめあげるだけの構成力、筆の力が及ばないという精神のアンバランスに苦悩した1820-23年頃の "危機" を乗り越え、いわゆる「後期様式のシューベルト」に差し掛かる時期にあたる。
そしてト長調D887はその2年後、1826年の作品だ。
これら以外の四重奏曲は知名度も演奏される頻度も極端に低い、というのが実情であろう。
 
 
最近、ふとしたことからシューベルトの初期作品について調べる機会を持った。
彼の幼少時代を時系列でざっと振り返ると以下のようになる。
 
1803...父、兄より音楽教育を受け始める (ヴァイオリン、ピアノ)
1804...ホルツァーに音楽理論、歌唱法、オルガンを師事
1808...宮廷礼拝堂児童合唱団入団、同時にコンヴィクト (寄宿制神学校) 入学、オーケストラではヴァイオリンを担当
1810...作曲活動開始、第一作は4手ピアノのための幻想曲
1811...歌曲の作曲開始、この頃より弦楽四重奏作品を作曲、サリエリのレッスン開始
この年、(未完作品含め) 弦楽四重奏曲を3曲/歌曲を3曲作曲
 
以降、コンヴィクトを離れるまでの間、
1812...(未完作品含め) 弦楽四重奏曲を3曲/歌曲および重唱曲を計5曲
1813...同 8曲/同 計27曲
 
このように、作曲家シューベルトのキャリア形成上注目すべきジャンルは歌曲と弦楽四重奏曲だったのである。
1812年秋より家庭内 (ヴァイオリン=二人の兄、ヴィオラ=フランツ少年、チェロ=父) で四重奏を楽しむようになったのも、彼がこのジャンルに力を注ぐ契機となったことであろう。
 
コンヴィクト退学までの間に書かれた弦楽四重奏曲の完成作品 (7曲) では未だ習作的な要素を強く残しているように思われるが、1813年秋、コンヴィクト期の集大成として作曲された第1交響曲 (ニ長調D82) をひとつのきっかけとして、シューベルトの弦楽四重奏曲は次第に充実の度を増してゆく。
そして以下に示すように、彼のあのチャーミングな初期交響曲群と歩を同じくして、弦楽四重奏曲も書き進められていったのだった。
 
(1813/10:第1交響曲ニ長調D82)
 1813/11:弦楽四重奏曲変ホ長調D87
 1814/09:弦楽四重奏曲変ロ長調D112
(1815/03:第2交響曲変ロ長調D125)
 1815/04:弦楽四重奏曲ト短調D173
(1815/07:第3交響曲ニ長調D200)
 1816/??:弦楽四重奏曲ホ長調D353
(1816/04:第4交響曲ハ短調D417)
(1816/10:第5交響曲変ロ長調D485)
 
上に挙げた四重奏曲4曲は (もちろん後期の作品ほどの深みには達していないにせよ)、古典的様式の鋳型の中にシューベルトの個性【美しい旋律と表情豊かな転調】を盛り込んだ佳品たちである。
第1楽章は例外なくソナタ形式。
続く緩やかな第2楽章では二つないし三つの楽想が自在に組み合わされ、ソナタともロンドとも異なる独自の形式がみられる。
第3楽章はいずれもメヌエットとトリオ。
主題は純音楽的なかっちりとしたものもあれば、レントラー舞曲のようなどこかひなびた旋律も。
(変ホ長調D87のみ、中間二楽章が入れ替わっていて、第2楽章:スケルツォとトリオ、第3楽章:三部形式のアダージョとなっている)
そして終楽章はソナタ形式もしくはロンド形式に自由さを取り込んだ独特なスタイル。
ところどころに置かれたゲネラルパウぜ (全休止) があの『グレイト』交響曲の同じ楽章を、ひいてはブルックナー休止をも想起させる。
 
 
「ベートーヴェンの後で、何ができるだろう」
常々このように語っていたというシューベルトの、彼なりの "第一の" 答えが、これら初期作品の中で既にしっかりと述べられている...改めてそう実感させられた今回の "知る旅" であった。
posted by 小澤和也 at 01:22| Comment(0) | 音楽雑記帳
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