2018年04月07日

多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち〈1〉

 
多田武彦/男声合唱組曲『木下杢太カの詩から』。
この作品が書き下ろされたのは1960年、多田が「東京に移り住んで4年目、江戸情緒に心酔しきった頃」(“作曲者のことば” より) のことである。
このときは『両国』『こほろぎ』『雪中の葬列』『市場所見』の全4曲構成であった。
後に『柑子』を第3曲として追加、既存の曲にも改訂が施され現在われわれが知る形の組曲となる。
(改訂版の初演は1983年)
 
これら5つの詩について、感じたことや考えたことを少しずつ、自由に綴っていこうと思う。
 
 
両国
 
両国の橋の下へかかりや
大船は檣(はしら)を倒すよ、
やあれそれ船頭が懸声をするよ。
五月五日のしつとりと
肌に冷き河の風、
四ツ目から来る早船の緩やかな艪拍子(ろびやうし)や、
牡丹を染めた袢纏の蝶々が波にもまるる。
 
灘の美酒、菊正宗、
薄玻璃(うすばり)の杯へなつかしい香を盛って
西洋料理舗(レストラント)の二階から
ぼんやりとした入日空、
夢の国技館の円屋根こえて
遠く飛ぶ鳥の、夕鳥の影を見れば
なぜか心のみだるる。
 
 
【第一書房版『木下杢太カ詩集』(昭和5年刊) より引用。原文においてはほぼすべての漢字にルビが振られているが、ここではその大半を省略。また旧漢字は現行のものに改めた】
 
・檣...本来の読みは「ほばしら」。船に立てて帆をかかげる柱。
・四ツ目...墨田区本所付近の旧い地名。本所四ツ目芍薬(牡丹)園という花園が有名だったそう。
・玻璃...ガラスの別称。
 
初出は明治43年7月『三田文学』。
両国橋 (当時のものは現在の橋よりも20mほど下流に架かっていたとのこと) の下を流れる隅田川、行き交う船、そして夕暮れの空...
古き良き “江戸の粋” を詩のそこここに感じ取ることができる。
「レストラントの二階から」のくだりがはじめのうちやや唐突に思えたのだが、彼の創作活動について調べるうちに少しずつ様子が飲み込めてきた。
 
明治の末期、若い文人や美術家たちによる懇談の集い「パンの会」が結成される。
新しい芸術について語り合うという趣旨の、パリにおけるいわゆる ”カフェの文化“ に倣ったものであろう。
杢太カは友人北原白秋らとともにこの会のメンバーであった。
その最初の会場が両国橋にほど近い西洋料理店「第一やまと」だったそうな。
 
また、杢太カの『築地の渡し 竝序』という詩の中に次のようなフレーズがある。
「...永代橋を渡つての袂(たもと)に、その頃永代亭となん呼(よべ)る西洋料理屋ありき。その二階の窓より眺むるに、春月の宵などには川の面鍍金(めつき)したるが如く銀白に〜」
料理屋の上階から景色を眺めつつ一献傾けるのが彼にとってよほどお気に入りだったに違いない。
 
さて、上記『木下杢太カ詩集』(以下S5と略記する) に先立って大正8年に出版された彼の第一詩集『食後の唄』(T8と略記) にもこの詩が収められているが、T8とS5では若干の相違がある。
そのうちの2つを挙げておきたい。
 
まず10行目。
 
S5:西洋料理舗(レストラント)の二階から
に対し
T8:旗亭(レストウラント)の二階から
 
という表記になっている。
料理屋や居酒屋、旅館を表す「旗亭(きてい)」という言葉は中国由来のもの。
大正5年、杢太カは医学校の教授として瀋陽に赴任している...そのことと関係しているかもしれない。
 
もう1つは最後の行。
 
S5:なぜか心のみだるる。
に対し
T8:なぜか心のこがるる。
 
「こがるる」(切に思う、恋い慕う、思い悩む etc.) のほうがより多彩なニュアンスを内包しているように感じられるのだが...
 
以前、白秋の詩を読んだ際にも思ったことだが、語句の入れ替えから句読点の有無、改行の調整などに至る細かな推敲訂正の歩みには真に興味深いものがある。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 10:03| Comment(3) | 音楽雑記帳
この記事へのコメント
「市場所見」について知りたいのですが、(つづく)以降の記事が読めなくて往生しています。何処を探したら「市場所見」に関するコメントが読めるでしょうか?お教え頂ければ幸いです。
Posted by 八巻良和 at 2020年09月13日 16:19
9月13日16:19に「市場所見」について質問をしましたが、その後、多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち(5)の記載を見つけることができました。それを読ませて頂いてもまだ疑問が残っていますので、どなたかお教え頂けないでしょうか? 第4節の、「橋の下より罷りいづ」の橋とは足元の海運橋の事でしょうか、あるいは日本橋川から楓川に入ってすぐの兜橋の事でしょうか?海運橋だとすれば、陰惨として水底に重く沈んで聲もない、雲にかくれし青き日 を揺るがすべく(蹴散らすべく)橋の下より突如現れた蜜柑船を描写しているとすれば、もの凄い驚きが感じられます。この場合、「時しもあれや蜜柑船」ではなく、「時しもこれや蜜柑船」となっていたのではないでしょうか? もし、兜橋の下に蜜柑船が現れたのだとすると、暗い沖合に白帆が見えた蜜柑船が漸く蜜柑問屋の近くまで辿り着いたという気持ちが感じられます。そうすると、冒頭の、「沖の暗いのに〜蜜柑船」は単なる引用ではなく、どこかで実際に目にしていたという事になるのでしょうか?でも、時間経過に矛盾が生じそうです。考えれば考える程訳が分からなくなります。素人のたわ言にお付き合い頂けるのでしたら幸甚に存じます。
Posted by 八巻良和 at 2020年09月13日 19:44
八巻様
「音楽ノート」をご覧くださり、またコメントをお寄せくださりありがとうございます。
お返事が遅くなり失礼いたしました。
ご質問の橋の件、結論から申し上げますと海運橋から見て川下にかかる橋、おそらくは新場橋かと思われます。
拙文 “『木下杢太郎の詩から』の詩たち(5)” の文中でも触れました林廣親氏の講演を文章化した冊子を改めて読んだところ次のような記述がありました。
『(...)まさにその時、蜜柑船が川下の橋をくぐって現れます。この目撃に関わる「時しもあれや蜜柑船、/橋の下より罷りいづ」という表現は文字通りに目覚ましい。(以下略)』
そしてこの船の目的地は楓川を遡って海運橋、さらに兜橋、江戸橋をくぐった先にある四日市河岸(第一連で歌われた蜜柑問屋のある市場)であるとのことです。
したがいまして、冒頭二行はやはり「かっぽれ」の詞の一部の引用ということで問題なさそうです。

以上取り急ぎ。
乱筆乱文ご容赦くださいませ。

Posted by ozawa at 2020年10月07日 18:34
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