2019年12月07日

我が懐かしの「月下の一群」<3>

 
 
今回取り上げるのはフランシス・ジャム (1868-1938) の『人の云ふことを信じるな』。
 
 
その前に...前回の投稿の訂正から。
11/21にアップした拙文中、
 
>「男声合唱曲集・月下の一群」作曲にあたって
>南弘明氏が用いたテキストは主に「白水社版」
>である。
 
と記したのだが、正しくは
“(...)南弘明氏が用いたテキストは「新潮文庫版」である。” である。
【新潮文庫版の内容をつぶさに確認しなかったのが原因...白水社版をそのまま文庫化したものであろう、という油断もあった】
 
ここからは同版を引用させていただくこととする。
 
 
『人の云ふことを信じるな』  フランシス・ジャム
 
人の云ふことを信じるな、乙女よ。
戀をたづねて行かぬがよい、戀はないのだから。
男は片意地で、男は醜く、さうして早晩、
お前の内氣な美質は彼等の下劣な欲求を嫌ふだらう。
 
男は嘘ばつかりを云ふ。男はお前を殘すだらう、
世話のやける子供と一緒に圍爐裏の側に。
さうして晩飯の時刻になつても男の歸って來ない日には
お前は感じるだらう、自分が祖母のやうに年老いたと。
 
戀があるなぞと信じるな、おお、乙女よ、
さうして青空で上が一ぱいな果樹園へ行つて
一番によく茂つた薔薇の木の中に
一人で網を張つて、一人で生きてゐるあの蜘蛛を見るがよい。
 
【原文においては第6行『側(そば)』、第8行『祖母(そぼ)』、第9行『乙女(をとめ)』にルビが振られている】
 
 
自然や鳥獣、そして少女を好んで詩の題材にしていたというジャムらしい作品。
詩の言葉どおりに (恋なんてものは...)(男なんて...) と若い女性に向けて説く教訓譚のようであり、一方で (そうは言っても恋をしてしまうのが人間さ...) と皮肉っぽく語っているようでもある。
 
 
この詩がはじめて発表されたのは1921年「三田文学」誌上であり、その後「月下〜」初版、フランシス・ジヤム詩抄、白水社版「月下〜」、新潮文庫版「月下〜」などに収められている。
「初版」と前掲の新潮文庫版とではいくつかの言葉の細かな違いがあるだけで、全体としてはさほど変わりがない。
主な差異を挙げると、
 
題名: 人の云ふことを信ずるな
(同様に第1行および第9行も「信ずるな」となっている)
第1行: 少女よ (第9行も同様、ただしルビはやはり「をとめ」)
第7行: 帰って来ぬ日には
第8行: お前は感ずる
同: お前が祖母のやうに
第12行: 一人で綱を張り
 
印象が大きく変わる箇所は
お前が祖母のやうに→自分が祖母のやうに
一人で綱を張り→一人で網を張つて
くらいであろうか。
 
 
フランシス・ジヤム詩抄 (第一書房、1928年刊) およびジャム詩集(新潮文庫、1951年刊) でも次の二点を除き「月下〜」初版と同じであった。
題名: 人の云ふ事を信ずるな......
第5行: 男は僞りばつかりを
 
 
最後に、自筆原稿として遺された「新訳ジャム詩集」(1977年脱稿) の中の同じ詩を引用する。
80歳代の大學の紡いだ言葉である...あまりの劇的な変化にただ驚くばかりだ。
 
 
『人の言葉を信じるな』
 
人の言葉を信じるな、少女よ。
恋を探す気になぞなるな、恋なんか無いのだから。
男は片意地で醜悪、早晩、
君のしとやかさは下劣な男の情慾に飽きられる。
 
男は矢鱈に嘘をつく。男は君を置き去りにする、
世話のやける幼児を君におしつけて。
晩の食事の時刻に男の帰宅しない日は、
君は感じる、祖母にもまさる身の老いを。
 
恋が存在するなぞと考えるな、少女よ。
青空が降るほどの果樹園へ行くがよい
そして鮮やかな緑のばらの刈込みの中ほどに
独居の巣を張って生きるあの銀いろの蜘蛛を眺めて暮らすがよい。
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:42| Comment(0) | 音楽雑記帳
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