![]() 《日本歌曲の今 田三郎・没後20年の今 [T]》 を聴く。 (9月10日、音楽の友ホール) 最後に足を運んだのがいつだったか、にわかに思い出せないほどに久しぶりの演奏会。 出演者のおひとりからご案内をいただき、なんとなく閃くものもあって出かけることに。 客席数は間引かれ、左右4つの扉は演奏中も開放されるなど、新型コロナ感染予防のためにしっかりと対策が取られていた。 (この演奏会を挙行するんだ) という関係者の方々の強い意志が感じられた。 僕にとって田三郎といえばなんといっても「水のいのち」をはじめとする合唱曲の神様のような存在であり〜恥ずかしながらそれが全て。 氏の歌曲については「パリ旅情」の中のどれかを聴いたことがある (ような気がする) だけ... 予備知識ほぼゼロで臨んだリサイタルだったわけだが、作品・歌唱そしてピアノ、これらのすべてが素晴らしく、遅まきながら新しい世界をまた一つ知ることができた。 §パリ旅情 (詩: 深尾須磨子) さすらい/売子/パリの冬/街頭の果物屋/降誕節前夜/市の花屋/冬の森/すずらんの祭 斉藤京子(Sop)、小原孝(pf) 1959-60年作曲。 この日聴いた4つの曲集のなかでもっとも色彩的・絵画的な作品。 目にも鮮やかな果物たち、灰色の空、すずらんの花の香り、石の壁の冷たさ etc. これらを描く豊かな言葉たちをそっくりそのまま音楽に置き換えたような歌とピアノ。 ことに「降誕節前夜」で聞かれる教会の鐘の音とオルガンの響きのリアリティ! §啄木短歌集 (歌: 石川啄木) やわらかに/頬につとう/いのちなき/病のごと/不来方の/ふるさとを/はずれまで/あめつちに 金子美香(Msop)、塚田佳男(pf) 1956年作曲。 三十一文字のコンパクトな世界になんとこれまたシンプルな、それでいて陰影に富んだ音楽を付けたことだろう。 ある歌は繰り返され、また別の歌は一度うたわれるだけであっさりと終わる...その呼吸と配列までもが美しい。 ふるさとを出でて五年(いつとせ)、 病をえて、 かの閑古鳥を夢にきけるかな。 曲の結び、ピアノが小さく奏でる「カッコウ」の声に思わずはっとした。 §水と草木 (詩: 北川冬彦) 滝/坐像/水蓮/大樹/雑草 原田圭(Br)、小原孝(pf) 1960-62年作曲。 この詩人の名は不覚にも初めて知った。 彼について少し調べるとダダイズム、シュルレアリスム、ネオリアリズムなどさまざまなワードが出てくるが、ここで作曲家が選んだ5編の詩はいずれも溢れんばかりのプリミティヴな生命力が、そして詩人の冷静な観察眼が感じられるものである。 〜そしてそこに付けられた音楽も。 §ひとりの対話 (詩: 高野喜久雄) いのち/縄/鏡/蝋燭/遠くの空で/くちなし 廣澤敦子(Msop)、塚田佳男(pf) 1965-71年作曲。 高野喜久雄はもちろんあの「水のいのち」の詩人。 テキストの重さ、深さそして厳しさが上記三作とは隔絶したスケール感をもつ。 (詩の優劣とはもちろん無関係である) 当然ながらその音楽もひたすらに自問自答を繰り返すかのような痛切・峻烈な響きである。 そこへゆったりと現れ出る「くちなし」の前奏...張り詰めた会場の空気も一変したような気がした。 単独で取り上げられることも多いというこの「くちなし」だが、今回初めて聴くにあたって “チクルスの終曲として” 味わうことができたのは実に幸運であったと思う。 ![]() 全編を通して、ベーゼンドルファーの重厚な音色をもって語られるピアノパートの存在感と説得力に圧倒された。 そして4名の歌手の皆さんの美しくまた誠実な歌唱にも終始心が震えっぱなしであった。 (余計なお世話だけれど...扉の開放によって変化したであろう響きや聴感上のバランスにはさぞ御苦労されたのではないかしら) 演奏のみならず、会全体の進行役や詩の朗読までを務められた塚田先生のお元気そうな姿も印象的であった。 お言葉のそこここにコンサートを開ける喜びと安堵感のようなものが現れており、それはこの場にいた全員に伝わっていたのではないかと感じた。 僕にとって久々のライヴ聴体験がこの演奏会でほんとうによかったと心から思う。 ご案内くださった廣澤さん、ありがとうございました。 |
2020年09月12日
半年ぶりの音楽会
posted by 小澤和也 at 23:31| Comment(0)
| 日記
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