田三郎による不朽の名作、組曲「水のいのち」成立のいきさつについては少し前に拙ブログで触れた。
小澤和也『音楽ノート』より
《「水のいのち」考》
彼が「海」に続いて付曲したのは、同じ詩人による「水たまり」、そして「川」であった。田は次のように述べている:
『私は高野喜久雄さんに電話し、私の考えを話し、彼の詩集「存在」の中から、すでに狙いをつけていた<水たまり>と<川>を「読む詩」から「きいてわかる詩」になおしてもらうことを頼んだのであった。』
以下に「高野喜久雄詩集」(1966年刊)に収められている「水たまり」を掲げる。
田三郎の曲をよく知る方にはその佇まいの違いにすぐ気づかれることと思う。
水たまり
高野喜久雄
轍のくぼみ 小さな
どこにでもある 水たまり
ぼくらは まさにそれに肖ている
流れて行く めあてはなくて
埋めるものも 更にない
どこにでもある 水たまり
ぼくらの深さ それは泥の深さだ
ぼくらの言葉 それは泥の言葉だ
泥の契り 泥の団欒 泥の頷き
泥のetc
しかし
ぼくらにしても いのちはないか
空に向かう いのちはないか
あの 水たまりのにごった水が
空をうつそうと する程の
ささやかな
しかし一途な いのちはないか
うつした空の 青さのように
澄もうと苦しむ 小さなこころ
うつした空の 高さのままに
在ろうと苦しむ 小さなこころ
第一連。
言わんとすることはほぼ同じなのだが、選ばれた言葉やその流れは付曲にあたって大きく変更されている。
田が加えた語句のなかで私が特に印象深く感じたのは
・たまる(溜まる)
・消え失せる
の2つだ。
曲の中ではこのように歌われる。
『くぼみにたまる/水たまり』
『ただ/だまって/たまるほかはない』
『やがて/消え失せてゆく/水たまり』
この作曲家にとって水たまりとはまず「(意に反して)たまり、そして消え失せる(運命にある)」ものなのだろう。
続く第二連では「団欒」が「まどい(円居)」に置き換えられているのが目を引く。
円居とは親しく集まり合うことでありもちろん団欒と同義だが、歌われるべき言葉としてはこちらのほうがはるかに相応しいと思う。
以下、作曲家の言葉:
『ついでながら、この詩に出てくる「やまとことば」の「ちぎり」あるいは「まどい」などを私たちは大切にしたいものである。
これらこそ、聞いてわかる、そして詩情に満ちた美しいことばだからである。』
第三連も詩の大意としては違いはないが、両者を比べて(なるほど!)感じたことが二つある。
詩の5行目
『空をうつそうと する程の』
この「程の」が歌詞の中では削られているのだ。
これはあくまで個人的な思いであるが...
そのためにこれまで私はこの曲を歌っていて
『あの水たまりの にごった水が/空をうつそうとする』
までで段落の区切りを覚えてしまい、その先の
『ささやかな/けれどもいちずな〜』
以降との繋がりをうまく感じられなかったのである。
今回原詩に当たってみて、「〜する程の」を読むことができ、この部分がようやく腹に落ちた。
もう一つは直後の7行目。
ここを田は
『けれどもいちずないのちはないのか』
とする。
この「ないか→ないのか」への変更も私の中では大きかった。
(いのちは“ないのか”......いや、そんなことはない、きっとあるはずだ!)
こんな声がどこからか聞こえてきたような気がしたのだ。
「読む詩」と「きいてわかる詩」。
これらは車の両輪のようなもので、詩の深い理解のためにはどちらも欠かせないものだと改めて思う。

