2026年08月17日

ペーテル・ブノワの誕生日に

image0.jpeg

非営利法人 ペーテル・ブノワ財団
第20回記念祭(1926)のパンフレット


きょう8月17日はベルギーの作曲家ペーテル・ブノワの誕生日。
ブラームスやサン=サーンスと同世代、盛期ロマン派の時代を生きたブノワの生涯をコンパクトにまとめました。


【1. 修業時代〜ローマ大賞受賞】
ペーテル・ブノワは1834年8月17日、西フランデレン州の小都市ハレルベーケに生まれました。父から音楽の手ほどきを受けたのちブリュッセル王立音楽院に入学、F.-J.フェティスに作曲を学びました。
卒業後の1857年にカンタータ《アベルの殺害》でベルギー・ローマ大賞を受賞しドイツ諸都市へ留学を果たします。滞在中に《アヴェ・マリア 作品1》や《クリスマスカンタータ》などを書き上げ、作曲家としての歩みを本格化させました。

【2. ブノワのパリ時代】
その後ブノワはオペラ作曲家としての成功を求めて1859年にパリへ移りますが、激しい競争の中で名声を得るには至りませんでした。それでもいくつかのオペラやピアノ曲集《物語とバラッド》、さらに《フルートと管弦楽のための交響詩》《ピアノと管弦楽のための交響詩》(彼は協奏曲をこのように呼びました) などを生み出し、故郷の伝説を題材とする独自の表現を試みました。
オッフェンバック主宰のブフ・パリジャン劇場の指揮者として活動するかたわら《荘厳ミサ》《テ・デウム》《レクイエム》を相次いで作曲します。これらの宗教曲はブリュッセルで高く評価され「ベルギーで最も有望な作曲家」として注目を集めました。

【3. フランデレン文化の復権を目指して】
1863年に帰国したブノワは、詩人エマニュエル・ヒールとの交流を通じ次第に民族主義的音楽理念を育んで行きます。オラトリオ《リュシフェル》で国内的名声を確立し、翌1867年にはアントウェルペンに設立された音楽学校の校長に就任しました。ここで彼は教育活動に尽力し、母語であるフラマン語と民謡とを音楽教育の中心的モットーに据えたのでした。オラトリオ《スヘルデ川》はさながらフランデレンの歴史絵巻を見るような壮大な美しさをもった佳作です。

【4. 作風の大転換】
1870年代前半には反戦オラトリオ《戦争》や歌曲集《愛の悲劇》など、前衛的な和声を多く用いた神秘的・主観的な作品が発表されますが、やがて彼の作風はより大衆的な方向へと大きく転換し、ネーデルラントの歴史的人物や事件を題材とした大規模なカンタータに結実しました...その代表が《ルーベンスカンタータ》です。合唱、大管弦楽、直管トランペット、さらにはカリヨンを加える壮大な編成のこの曲はフランデレン人の誇りを示す象徴的作品となりました。

【5. 栄光に満ちた晩年】
ブノワはフランデレン歌劇場を設立、そして1897年には自らの音楽学校が王立フランデレン音楽院へと昇格します。かくして首都ブリュッセルと並ぶ音楽的地位がここにようやく築かれました。
1901年3月8日、アントウェルペンにてペーテル・ブノワ死去。
彼の生涯は、芸術活動と教育を通じてフランデレン文化の自立とアイデンティティ確立に捧げられたものでした。
posted by 小澤和也 at 05:38| Comment(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。