2026年09月04日

サヴァリッシュ、ブルックナーを語る

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きょう9月4日はブルックナーの誕生日(1824年生まれ)。ベートーヴェンと並んで私がもっとも好きな交響曲作曲家です。
おととし9月、(おそらくは生誕200年にちなんで)《サヴァリッシュ ブルックナーを語る》という番組が再放送されました。NHK交響楽団名誉指揮者のヴォルフガング・サヴァリッシュが対談形式で、ときにピアノ演奏を交えながら、第8交響曲を題材としてブルックナーの音楽の真髄を解き明かすという好企画です。(聞き手: 前田昭雄氏、初回放送は1980年)

不肖私は日本語の字幕テロップを追うことしかできませんが、それでもマエストロの一言一句はこの大作曲家への深い愛と敬慕の情に溢れており、受け手の心を震わせる素晴らしいものです。
ここにその言葉を(その目的の半分は私自身の理解のために、ですが)文字にしてみようと思い立ちました。

[括弧付きで掲げた見出しは小澤が考えたものです。そして切れ切れの字幕を読みやすくするため、言葉遣いとその繋がりに最小限の加筆修正を施しました]


【ブルックナーにとっての“神”】

(深く大きなブルックナーの交響曲を受け止め理解するための助言を ─ の問いに対して)

まず考えておかなければならないことは、ブルックナーが創作家として全く孤立した存在だということです。前にも後にもつながらない独自の世界の人だったのです。これでもう、この作曲家の偉大さについて決定的な点を言ったことになります。
作品の大きさ、すなわち曲の長さにしても、第1番の交響曲ですでに50分を越える長さです。これは彼がたどった人生、生い立ちと関係があるといえます。生活の静かさ、質素なこと、そして特に重要なのは神に対する態度、宗教的立場です。

これは全く表朴なもので、キリスト教とか教義、神学とか内面の悩みなどといった難しいことではありませんでした。彼にとっては根本的には「神」...それも自然に現われる神、バロックの寺院に現われるような神が重要なのでした。そういう巨大で厳粛な空間、同時に心を落着かせる空間、初めから人生をこういう場だと彼は考えていたのです。
ですから、仕事も自分の力で動かせるものではなく、上から与えられた必然だと考えることが当たり前になる。当然、創作もこの必然に従うことにすぎないのです。
ブルックナーは人生の最初から、この絶対の秩序を認め承服しました。ただ単純に神の偉大さ、全能の力を感じ、認め、感謝の作品を作り上げたのです。


【ブルックナーの交響曲の“息の長さ”】

結局、ブルックナーの交響曲は信じられない程の息をはらんでいて、これを一緒に息することを聴き手にも要求しているのです。前のことも後のことも忘れてただ今起こること...無限の静と大きさのうちに起こることに集中する...これを聴き手に要求しています。
第8交響曲の場合、テーマの出し方がすでにそうです。普通なら2小節か3小節でテーマが出てくるのに、ブルックナーではずっと長い時間を必要とする。テーマを提示するのに時がいるのです。

(第1楽章をピアノ演奏によって解説する)

ブルックナーを理解するのに絶対必要なのは「急がせる、せき立てることが音楽にない」ということです。いらいらして駆り立てることがない。この人はそういうことを知らなかった。
ブルックナーはいら立ちや不満を知らない稀な存在です。シューベルトでさえある作品では駆り立てるような要素を持っている。
ブルックナーを聴くときは、現代の忙しさ、性急さを知らなかった人だということをよくわきまえる必要があります。彼は全く表朴で純真だったから、こういうことができたのです。


【聖域へと向かうゼクエンツの“扉”】

ブルックナーが一つの頂点へ向けて弧線を始めるとき、つまり一つの波の端緒につくときには「さあ自分が、この私が」という自負がない。「見せてやる」という気負いがない。全く反対です。
喜びの期待の心に満ちて、扉を一つまた一つと開けて進むようなものです。まず初めの部屋、次はもっと美しい部屋、その次はもっと美しい荘厳な部屋、もっと荘厳な部屋...そして最後は「聖城」になります。
聖域に近づくにつれて、はじめの扉は急いで開けても、進む毎に緊張が高まり、静かに、敬虔になるのです。ブルックナーの音楽の反復ごとに敬虔な集中が高まるのも全く同じことです。
彼は小さなゼクエンツによって次々と新しい扉を通り抜けていく。そしてついにはザラストロの言う「至高の光の中の聖殿」に到るのです。


【内から満たされる音楽の輝き】

心情の内面性について、あの第3楽章アダージォの主題の深みを考えます。しかし、旋律の内面性について話すとなると、全く言葉には表わせないものがあります。
この第8交響曲のアダージォで彼が書いた音楽は他に類をみないようなものです。

(第3楽章第1主題を弾きながら)

このような主題は他の誰が書けたでしょう。
はじめの2小節は和音だけ…ただ同じ和音が流れる...
そして自分の心を整える。そして流れるのは言い難い何か…この小さな半音のゆれ…

これはあまりに深く感じられているので、逆説になりますが「感じられている」とはもういえない。求められて見出された感じではなくて、「こうでなければならない」というものです。
この小さな動機から進んで、あのハープが鳴る...彼の交響曲では初めて使われた天上的なハープです。

(ハープのパッセージを演奏する)

これは偽りのパトスが全くない世界です。押しつけることがない、意識的に求めることもしない、全く内面的な心情の流れです。心から沸き出て来るものです。理性から与えられるのではなく、自分はこう書かねばならぬという単純な心の要求です。
この単純さが聴く人の心の中にもあって欲しいと思います。ブルックナーの音楽を聴く内面の準備として...

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posted by 小澤和也 at 00:48| Comment(0) | 日記
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