2010年03月01日

ブノワ(4):ブノワの生涯[3]

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([2]からのつづき)

留学期間が過ぎた後もパリに留まるため、ブノワは1862年、ブフ・パリジャン劇場(オッフェンバック主宰のオペレッタ劇場)の指揮者となる。
またブノワは、「荘厳ミサ」「テ・デウム」「レクイエム」をパリ滞在中に作曲した。
  【これらの作品にはいずれも二重合唱が用いられている。
   このスタイルは、ブノワの作風の大きな特徴のひとつと
   いってよいだろう。】
彼はこれら3曲にドイツ留学中の作品「クリスマスカンタータ」を加え、「宗教曲四部作」とした。
「四部作」はパリでは演奏されなかったが、ブリュッセルでは好評をもって迎えられ、この成功により、ブノワはベルギー音楽界における「最も有望な作曲家」として注目を浴びる。

1863年秋…パリでの成功への希望を持ち続けながらも、ブノワは祖国へと戻ったのだった。

ベルギーに帰った後、「音楽における民族主義」に対するブノワの思いは次第に形を成してゆく。
  【当時、国内においてはフランドル地域ならびにフランドル
   語の権利回復運動が大きく推進されていた。】
またこの頃より、この運動の主唱者の一人でもある詩人のエマヌエル・ヒールとの交流が始まる。
1866年に作曲されたオラトリオ「リュシフェール」は、ベルギー国内における彼の名声をさらに高め、この作品はフランドル音楽史のマイルストーンの一つと評された。
翌1867年、教育のための言語として[フランス語でなく]オランダ語を用いる音楽学校がアントワープに設立される。
そして…
同市評議会によって33歳のブノワは校長に任命されたのであった。

(つづく)
posted by 小澤和也 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽雑記帳
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