
([3]からのつづき)
アントワープ音楽学校において、ブノワは熱心な教育活動を展開してゆく。
母国フランドルの言語(=オランダ語)と民謡…これら2つが彼にとっての中心的概念であった。
その傍ら、オラトリオ「スヘルデ川」を1869年に作曲。
そしてこの頃より、彼のナショナリストとしての着想が作品に現れてくる。
1870年代前半には、非常に独創的・革新的な2つの作品が書かれた。
不戦主義的オラトリオ「戦争」、そして風変わりな連作歌曲集「愛の悲劇」である。
「戦争」は三管編成の管弦楽と大小3群の混声合唱、および4人の独唱が加わる巨大な作品である。
(それゆえ滅多に演奏されない)
「愛の悲劇」では、鋭い不協和音と奔放なリズムが聴くものの胸を引き裂くようである。
1870年代半ば以降、ブノワの作風はさらに変化を遂げる。
ブノワはより大衆的な音楽を書くようになり、彼の作品は野外での上演のための大規模なカンタータがその中心となってゆく。
彼が目指したものはフランドル人のアイデンティティの再創造であり、そのために偉大な歴史的人物や事象が題材となった。
そして作品を通して、平和と幸福をもたらす人類の創造力への讃歌が歌われたのだった。
ブノワは作品の中で、理解しやすい音楽形式、多くのユニゾン(斉唱)、そして色彩的なオーケストレイションを用いた。
その最も成功した例が「ルーベンス・カンタータ」であろう。
【ルーベンス…17世紀フランドルの画家。バロック絵画の巨匠と
称されている。アニメ「フランダースの犬」の中でネロ少年が
ずっと見たがっていた十字架上のキリストの絵画は彼の作品で
ある。】
このカンタータは合唱、大管弦楽に直管トランペット(アイーダ・トランペット)およびカリヨン(アントワープ・ノートルダム大聖堂の塔上にて奏される)が加わるという、壮大なスケールで上演された。
ブノワは1893年にフランドル歌劇場を設立する。
そして1897年、彼の音楽学校は王立音楽院として正式に認められた。
首都ブリュッセルの音楽院と、ついに肩を並べたのであった。
1901年3月8日、ペーテル・ブノワ死去。
あのジュゼッペ・ヴェルディが亡くなった数週間後のことであった。
(了)