2023年02月02日

「音楽ノート」満13年

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この「音楽ノート」を書きはじめてから本日で満13年となりました。
拙ブログをご覧くださっている皆さまに心より御礼を申し上げます。

日々の営みのなかで私の心を震わせてくれる音楽について、これからも愚直に綴っていこうと思います。
また、ここしばらく停滞気味であった我がライフワーク、ペーテル・ブノワと彼の音楽についても精力的に発信し続けたいと考えています。

そして一人の音楽家としてこの深遠なる芸術に対し真摯に向き合い、その美を追求するために努力してゆくことを改めてここに誓います。
今後とも「音楽ノート」をどうぞよろしくお願いいたします。

2023年2月2日
小澤和也
posted by 小澤和也 at 11:10| Comment(0) | 日記

2023年01月25日

『椿姫』ご来場御礼

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年を跨いでしまいましたが...

オペラチックナイトVol.9ヴェルディ『椿姫』
2022.12.24-25
@シアターχ

お蔭さまをもちまして全2公演を盛会のうちに終演いたしました。
お運びくださったお客さまに心より感謝いたします。

ヴィオレッタ荒牧小百合さんはじめ素晴らしいキャストの皆さま、本番直前まで進化を止めなかった愛すべき合唱団、ダイナミックかつ精緻な響きで歌唱を支えてくださったアンサンブルの皆さまとともにヴェルディ芸術の真髄と向き合うことのできた、夢のような時間でした。

そして何といっても田丸一宏さんの美しい演出が光ります。
公演時のいくつかの画像をぜひご覧ください。


舞台写真その1
舞台写真その2 (撮影: 笛木雄樹)

さらに田丸さんがこの演出にこめたメッセージ、「愛する男性の為に自分を犠牲にした女性” という人間像の美化〜〜女性はこうあるべきという〜〜デュマ・フィスまたはヴェルディという男性が作り上げた清く美しい女性像」(氏のプログラムノートより抜粋)
としてのヴィオレッタの姿に強く強く心を打たれたのでした。

公演から早一ヶ月が経ちましたが、舞台上のさまざまな場面、一瞬一瞬の音と光がいまでも脳裡に甦ってきます。
posted by 小澤和也 at 17:44| Comment(0) | 日記

2023年01月01日

新年のごあいさつ

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あけましておめでとうございます。

当地は快晴。
近所の神社に参拝し、無病息災を願いつつこの一年の更なる飛躍を誓う。

頂戴した賀状を一枚一枚繰るのも正月の楽しみだ。
昨春に「コーラスが命の綱です」と素敵なお言葉をお寄せくださったKさん、今回のメッセージは「音楽の力を杖に今年も楽しませていただきます」であった。

(よし...杖になれるよう頑張ろう...)

みなさまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
本年も『音楽ノート』をよろしくお願い申し上げます。

令和5年元日 小澤和也
posted by 小澤和也 at 20:08| Comment(0) | 日記

2022年10月17日

ブロムシュテットさんのマーラー

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NHK交響楽団 第1965回定期公演を聴く。
(10月15日、NHKホール)

ブロムシュテットさんが転倒して入院、当面の演奏会をキャンセルとの報を知ったのは6月の末だった。
(ああ...)
僕の脳裡に暗雲が立ちこめた。
快方に向かっているらしいとはいえ、彼の年齢での転倒事故となると音楽家人生にとっては致命的ではないのだろうか?
(どうか10月の来日に間に合いますように...いえ、せめてお元気で復帰なさってください...)

祈りは通じた。
ブロムシュテットさんは9月中旬にストックホルム・フィル、同月末にベルリン・フィルに客演し指揮活動を再開。
そして今週無事に来日されN響とのリハーサルを開始した。

以上のような経緯があってのこの日の演奏会、僕にとってはブロムシュテットさんの指揮でマーラーが聴けるだけで既に奇跡であった。

開演予定時刻より5分押しで団員の方々が舞台へ。
会場を包み込むような温かな拍手。
と突然、拍手の音が急変したではないか!
コンサートマスターにエスコートされ、ブロムシュテットさんが登場されたのだ。
NHKホールでこれほどに大きな、否、嵐のような激しい拍手を聴いたのは初めてだった。

第1楽章が始まる。
ここ数年のブロムシュテットさんの音楽的志向と共通する、どこまでも澄みきった各楽器の音色、充実した内声 (レコードなどではあまり聞こえないバスクラリネットやコントラファゴットの動きが実に鮮明であった)、そして過度な “情念的表現” を排した純度の高い “歌” がそこにはあった。

座って指揮をするブロムシュテットさんの上体の動きはかなり小さくなっていたものの、打点 (拍を示すための手の動き) は十分に明瞭であった (ように私には見えた)。
オーケストラも必死にマエストロの意図を汲み取っていた。
だが...
楽章の大詰め、フルート、ホルンおよび低弦を中心としたアンサンブル的に最難関ともいえる箇所 (第382小節〜) でそれは起きた。
ホルンだけが糸の切れた凧のように離れて行き、そのまま還って来なかったのだ。
痛恨の極み。
N響でもこのようなことが起きてしまうのか...

第2楽章はレントラー舞曲の形をとった、アイロニーに満ちた音楽。
「ゆったりと」「やや速く」「きわめて遅く」と作曲者によって示された3つの楽想が自在に展開し運ばれてゆくのだが、ブロムシュテットさんはそれらの対比を (かつてのバーンスタインやテンシュテットが激しく描き分けていたほどには) 大きく取っていなかったように思えた。
プログラムノートには「マーラーに独特の “意図的に愚劣に作られた” 音楽」という言葉でこの楽章について説明がなされていたが、ブロムシュテットさんの音楽では常に「美」と「抑制」が全体を支配していた。
「ロンド・ブルレスケ」と題された第3楽章においてもその流れは継承されていて、“狂気すれすれの” “苦悩する天才” マーラーの戯画化された姿はそこにはなかったように感じた。

そして第4楽章。
冒頭、ゆったりとした美しい主題を奏でる弦楽合奏...それを指揮するブロムシュテットさんの後ろ姿が突然、何倍にも大きく見えたのは僕だけだろうか。
バーンスタインやテンシュテットによるレコードでは諦念のため息、あるいは慟哭のようにも聞こえるこのアダージォの音楽を、ブロムシュテットさんはひたすら美しく、あたかも救済と再生の音楽であるかのようにオーケストラを導いていた。

最後の音が静かに消える。
長い長い沈黙。
そして割れんばかりの喝采へ。
(ブラヴォーの一声は要らなかった...かな)
僕も懸命に手を叩きながら、こんなことを考えた。

〜ブロムシュテットさん指揮のマーラー第9 交響曲の音楽的志向は、音楽書やレコード解説などでしばしば書かれまた語られているような “作曲者の辞世の歌” あるいは “死への静かな眼差し” といった文言から最も遠く離れたところにあるのではないか〜

僕の耳が (もはや習慣的に) “演奏上の瑕疵に気づかずにいられない” 聴きかたをしてしまうゆえ、この日の演奏に手放しで感動することは残念ながらできなかったが、それでも終演後には改めて “音楽に触れるよろこび” そして “人の心のあたたかさ” がしっかりと胸の奥に刻まれているのを感じたのだった。
posted by 小澤和也 at 01:00| Comment(0) | 日記

2022年09月15日

“No” の意味…ラ・トラヴィアータ考

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ヴェルディ「ラ・トラヴィアータ」第2幕。
舞台はパリ、ヴィオレッタの友人フローラの邸宅での華やかなパーティーの場面。
そのクライマックス直前にヴィオレッタとアルフレード、そして宴の参加者たち (合唱) との次のような短いやりとりがある。

Alf. : Or tutti a me.
Tutti: Ne appellaste?.. che volete?..
Alf. : Questa donna conoscete?
Tutti: Chi? Violetta?
Alf. : Che facasse non sapete?
Vio. : (Ah! taci.)
Tutti: No.

アルフレード: さあ皆さん、僕のところへ集まってください。
一同(合唱): 私達を呼びましたか?いったいどうしたのです?
アルフレード: この女性をご存じですね?
一同(合唱): 誰?ヴィオレッタを?
アルフレード: 彼女が何をしたかご存じないでしょう?
ヴィオレッタ: (ああ、黙っていて。)
一同(合唱): いいえ。

この幕の前半...
喧騒のパリを離れ郊外でアルフレードとの同棲を始めたヴィオレッタのもとへ彼の父親ジェルモンが突然現れる。
旧弊氏ジェルモンは愛息と高級娼婦との愛の生活を咎め、彼と別れるようヴィオレッタに強くもとめる。
アルフレードとその家族の幸福のためにとその要求を受け入れた傷心のヴィオレッタは、彼に置き手紙を残し家を出る。
真相を知らぬまま不信感に駆られているアルフレードはヴィオレッタから「いまは男爵を愛している」(もちろん本心ではない) と聞かされ逆上...そして先の場面となる。
嫉妬に怒り狂ったアルフレードは一同の前でヴィオレッタを激しく罵倒、ヴィオレッタは気を失って倒れるのだった。

ここで...
最後に一同が発する「いいえ」、僕はこれを最近までずっと、アルフレードの言葉に対する返答
「いいえ、(彼女が何をしたかを) 知りません」
という意味だと思っていた。
直前の (括弧書きの) ヴィオレッタの言葉が “独白” である、と理解していたのだ。

ところが、である。
先日『ラ・トラヴィアータ』の台本とその対訳を読んでいてあることに気づいた。
そこではヴィオレッタのこの台詞に括弧が付いていないのである。

Alf. : Che facasse non sapete?
Vio. : Ah! taci.
Tutti: No.

そうすると、この “No.” は
「いいえ、知りません」ではなく
「いや、黙っていないで(話しなさいな)」
というニュアンスに変わってくるのでは、という疑問が生じてくる。

どうにも気に掛かって仕方ないので、ネット上で閲覧できるいくつかの楽譜で当該箇所を調べてみた。
以下、出版社名(都市)、出版年、ヴィオレッタの歌詞の順に記する。

Escudier(パリ)、1855 …… Ah! taci.
Hofmeister(ライプツィヒ)、1860 …… (zu Alfred) Ah! taci. *
Escudier(パリ)、1864 …… De gràce! **
Ricordi(ミラノ)、1868 …… (Ah! taci.) ***
Ricordi(ミラノ)、ca.1883 …… (Ah! taci.)

*) 伊/独語歌詞。独語で (アルフレートに向かって) とト書きあり
**) 仏語歌詞。「お願いだから!」
***) 出版社名は正しくは R.Stabilimento Tito di Ricordi

楽譜上でも括弧のない版があった!

少なくとも初期の印刷譜ではヴィオレッタのこの言葉は独白扱いでなかったことがわかる。
そして1868年、Ricordi社版で初めて括弧が付けられる。
印刷ミスとは考えにくい。
やはりヴェルディの指示とみなすのが自然であろう。

“No.”
たったひと声ではあるがこうして見るとさまざまな捉え方ができるものだなと、実に興味深く思えたのであった。


(追記)
今回あれこれ調べているうちに、台本自体にも年代によって違いのあることがわかった。
最初期のものでは、この “No.” がなんと【アルフレードの言葉として】書かれている。

ヴィオレッタ「ああ、黙っていて」
アルフレード「いいや(黙ってなどいられるか)」

こんな感じだろうか。

そのあたりの変遷、機会があればまた深掘りしてみたいと思っている。
posted by 小澤和也 at 14:58| Comment(0) | 日記

2022年06月06日

杏仁豆腐とコーヒー、そして…

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読みかけの本を持ってぶらりと喫茶店へ。
とろとろ杏仁豆腐と東ティモール/サントモンテをオーダー。

よくよく思い返すとこの組み合わせでいただいた記憶がほとんど無いのだが、運ばれてきた瞬間に
(これはきっと間違いなく美味しい!)

結果は予想どおり。
自家製杏仁豆腐の優しくなめらかな舌触り、そして当然ながらあんずの果実との相性が抜群!
またコーヒーは豆の選別にこだわっている (お店のメニューより) というだけあってすっきりと純度の高い味わい。
淹れたてよりも少し冷ましてからのほうが味の個性が際立っていた...これはあらゆる品種にいえることだと思うが。


この日携えていたのは若松英輔さんの『種まく人』(亜紀書房刊)。
これまでに僕が手にした若松さんの本はたかだか数冊であるが、どの著作にも、そしてそれらの中のどの文章にも丹精の尽くされたやわらかな手触りのようなものを感じる。

”〜家を失い、路上で暮らしていたあの一人の男性は、その姿をもって生きることの困難を体現していた。〜“
(上掲書所収「賢者の生涯」より)

“〜身を切られるような試練にあって聴いた「フルートとハープのための協奏曲」は、あのときの私にしか訪れることのない慰藉の音楽だった。〜“
(同「音楽の慰め」より)

ページを繰りながら目頭にどうしようもなく熱いものを感じ、心を取り繕おうと咄嗟に傍らのスマートフォンで珈琲豆の銘柄を検索したりして気を紛らわせた。


美味しいコーヒーとデザート、そして良書のお蔭で、この日も豊かな時間を過ごすことができたのだった。
posted by 小澤和也 at 15:13| Comment(0) | 日記

2022年05月23日

没後10年…吉田秀和さん

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日付変わって昨日、5月22日は吉田秀和さんの没後10年の命日であった。
(もうそんなに経つのか...)
これがいまの偽らざる心境である。


中学2年生のときに『レコード芸術』誌を読み始め (生意気なガキンチョである)、吉田さんのことを初めて知って以来、氏は僕にとっての「心の師」の一人となった。
同じ頃、家の近所の小さな書店で偶然見つけた『LP三〇〇選』(新潮文庫)は、和也少年が西洋音楽の深奥へ分け入ってゆくうえでの有り難い地図であり方位磁針であった。


また、NHK-FM『名曲のたのしみ』をラジオで聴くのも毎日曜朝の喜ばしいルーティンだったことを懐かしく思い出す。
《名曲のたのしみ……吉田秀和……きょうも……◯◯を聴きましょう……》
と、まるで小学生の作文の朗読のようにぶっきらぼうに始まるあの番組が大好きだった。


吉田さんの著作は、さしあたって文庫化されたものはひと通り読んだと思う。
もちろん、僕ごときの知識などはひどくちっぽけであり興味も偏ったものであったから、それらのすべてを十分に理解したとは思っていない。
それでも、氏の文章の数々のおかげで好きになった作曲家や作品、あるいは演奏家は枚挙にいとまがない。


それらの中で敢えてひとつに絞るなら...

《けれども、僕のこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた『トリスタンとイゾルデの前奏曲』と『イゾルデの愛の死』だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものではなく、もうそういうふうに生まれついてきているみたいだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を挙げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く》
(『世界の指揮者』(新潮文庫)〜フルトヴェングラー)

“音楽の美” という極めて抽象的・感覚的な事象を言語化する明晰な知性、そしてそこに綴られた言葉の放射するエネルギーに僕は圧倒されたのだった。
いま思えば、この文章が僕にとっての “フルトヴェングラー沼” への入口であった。


もしもあと一つだけ挙げることを許されるなら...

《それから、私の好んでかけたのは、フォレのピアノ四重奏曲ハ短調。(...) 何という美しい音楽だろう!これを聴かずにいなければならないなんて。
(...)
戦争が終わったあと、さっそく私は台所のうらの穴から、[空襲に備えて庭に埋めてあった] 本とレコードを掘りだしてきた。(...)フォレの四重奏曲の第一楽章で、変ホ長調の第二主題が、あの小さな歩幅でおりてくるのをきいていたら、涙が出てきた。これをきいていると、音による、こんなやさしい愛撫は、モーツァルトや、シューベルトさえ書かなかったような気がした。
具合の悪いことに、この愛撫の旋律は、一つの楽器からほかの楽器へと手渡しされながら、十何小節かにわたり、くりかえされる。その間も、そうしてそれが終ってからも、涙はいくらでも出てくる。とうとう、私は、終りまできき通すことができなかった。》
(『私の好きな曲』(新潮文庫)〜フォレ『ピアノと弦のための五重奏曲第2番)
※ [ ] は小澤註

これを読んで...
この四重奏曲を聴きたくならないわけがないではないか!
それまでフォーレといえば『レクイエム』しか知らなかった。そんな僕を彼の室内楽の世界へと誘ってくれたのは、まぎれもなく吉田さんだったのだ。


吉田秀和さん、ありがとうございました。
posted by 小澤和也 at 00:55| Comment(0) | 日記

2022年04月30日

藤村さんの言葉

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先日NHKテレビで放送された、藤村美穂子さんの独唱によるマーラー「リュッケルトの詩による5つの歌曲」(広上淳一/京都市交響楽団)。
オンエア後も録画を繰り返し視聴している。
真に素晴らしい演奏だ。
特に「真夜中に」と「私はこの世に忘れられ」の2曲は繰り返し聴くたびに僕の心に深く、やわらかく沁みていく。


演奏終了後。
万雷の拍手を受けられている際の、慈愛に満ちつつもどこか憂いを湛えられた藤村さんの表情も強く印象に残る。
それは2011年4月、震災直後のN響第九を指揮したメータさんの、同じくカーテンコールでの柔和な、しかし神妙なお顔つきを僕に思い起こさせた。


そして......
演奏に先立って流された藤村さんのインタビュー (お話) がさらに強い力で僕の魂を揺さぶるのである。
コロナ禍における自らの苦悩を語る藤村さん。 (この演奏会自体がプログラムの変更を余儀なくされたのだった)
さらに件の隣国によるウクライナ軍事侵攻への痛切な心情を吐露され...


以降の藤村さんの言葉をここに引用させていただく。

私はね......
醜悪なもの、美しくないもの、汚れたもの、そういうものに対する一番の答えは......「美」だと思うんです。

大きい声を上げる方も素晴らしいし、デモンストレーションする方も素晴らしいし......

だけど、私は歌手なので......
音楽という、天才たちが遺してくれた作品を通して、自分が言いたいことを伝えられたらいいなと思っています。
(引用ここまで)


「醜悪に対して美をもってそれに応える」
表現者の端くれとして、僕自身もかくあるべしと改めて思う。
posted by 小澤和也 at 06:47| Comment(0) | 日記

2022年03月22日

終演御礼

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立川市民オペラ2022スペシャルガラコンサート、二日間の公演が無事終了しました。ご来場くださいましたみなさま、お心を寄せてくださいましたみなさま、ありがとうございます。ここまで駆け抜けることができ、いまはただただ感無量です。

市民オペラ合唱団のみなさん。
お疲れさまでした、そして公演のご成功おめでとうございます。
厳しい状況の中で地道に練習を続けてこられたみなさんの団結力の賜物かと思います。
CS (コーラスサポート) のみなさん、今回もほんとうにお世話になりました。
団員さんと同じフィールドに立ち、指導者・トレーナーの気づきにくい部分にまで目を配ってくださいました。心から感謝申し上げます。

稽古期間中は合唱コレペティとして、そして公演では延べ20曲近くのアリアや重唱曲の伴奏でも大活躍だったピアニスト越前さん、冨田さんおよび清水さんにも厚く御礼を申し上げます。いずれの曲においても、ソリストとともに“楽興の魔法の粉”と“静かなる熱気”を客席じゅうに振り撒いていらっしゃいました。

立川市民オペラ合唱団は来月からさっそく次の公演へ向けて練習を始められるとのこと。
どうかそれまでに、歌い演ずるうえでの様々な制約が少しでも良い方向へと改善されてゆくことを願ってやみません。
posted by 小澤和也 at 22:25| Comment(0) | 日記

2022年03月04日

祈りを込めて ー Stand with Ukraine

遠く海を隔て
ただ祈ることしかできないもどかしさ。
そのやるせない思いを
勇壮な旋律、美しいハーモニーと重ね合わせ
弦楽の響きに置き換えてみた。
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ウクライナ国歌
「ウクライナは滅びず」

下記リンクより全曲(2ページ)をご覧いただけます。
ukrainian_anthem.pdf
#standwithukraine
posted by 小澤和也 at 21:20| Comment(0) | 日記