2021年02月28日

Zoomレッスン初体験

 
Zoomを使って
農工グリーとのレッスンをやってみた!
 
演奏会に向けての今季初回のレッスン。
もちろん対面でのそれを予定していたのだけれどコロナ禍において実施が困難な状況に。
そこでメンバーから提案が。
「オンラインでの練習、できないでしょうか」
 
 
Zoomとは...
インターネットを通じて遠隔地のユーザー間で映像・音声などのコミュニケーションを行うことのできるオンラインでのミーティングツールである。
 
まずは学生指揮者Nさん&WさんとZoom会議。
グリーのメンバーはパート練習などで既にこのツールを活用している。
Zoomでもって出来ること/できないことを確認しながらどのような練習が可能かを一緒に考えた。
「僕が振ってそれを見ながらみんなが歌うことってできるの?」
「パート全員で同時に歌ったらどう聞こえるの?」etc.
この新しいツールにまったく不慣れな僕の質問ぜめに付き合ってくれた二人に感謝。
 
 
打ち合わせの中で、次のようなプランを立ててみた。
・メンバーの一人に歌ってもらい、それに対して僕がテンポ感や表情などの細かい指示を与える (音やリズムの間違いも直す) 
・これを数回繰り返す
・一連のやり取りを同じパートのメンバー、もしくは全員が視聴し共有する
・歌う箇所およびパートは事前に僕が指定する
・一ヶ所につき数小節〜十数小節程度
 
 
そしてレッスン当日。
一人ずつの声しか聴けないのはやはり残念ではあるけれど、各人の事前の音取りがしっかりできていたおかげでレッスンは思いのほかスムーズに進行した。
音程とリズムはほぼ正確に聴き取ることができたが、音量やニュアンスまではさすがに難しいか。
それでも、こちらが求める演奏コンセプトや楽曲イメージを彼らに伝えることはある程度できたと思う。
曲づくりの初期段階のレッスンであれば、まずまず使えるツールであるかなと感じた。
 
 
正味2時間ちょっと、全5曲。
参加してくれたメンバー達の率直な感想を聞いてみたい。
少しでも実のあるレッスンであっただろうか。
ともかく、みなさんお疲れさまでした。
 
 
次回の練習 (来月) は対面でできますように...
posted by 小澤和也 at 12:03| Comment(0) | 日記

2021年01月01日

元日に思う

 
謹賀新年
 
皆さまのご健康とご多幸を
お祈り申し上げます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
 
快晴の元旦。
地元の神社へ初詣。
コロナ禍の終息を祈願し、自身のいっそうの精進を誓う。
 
帰宅後は届いた賀状に目を通し何通かに返信をしたため、それからベートーヴェン/弦楽四重奏曲のアナリーゼを。
ゆったりとした年の初めとなった。
 
 
そして夜7時。
いつもの年のようにTVをつける。
今回のウィーンフィル/ニューイヤーコンサートは客席に聴衆を入れない形での開催である、と情報としては聞いていた。
 
ホール内の全景が映し出される。
 
 
 
言葉にならない思いが不意にこみ上げる。
(これは...瞼に焼き付けておくべき光景であるな)
無観客ゆえにホールの響きが一段と美しいのがなんともまた哀しかった。
 
...などと思いを巡らせているうち、第1部はあっという間に終演。
そしてムジークフェラインの客席にセットされたというたくさんのスピーカーから発せられるリモートの温かい拍手が心に沁みる。
 
詩人と農夫序曲、春の声、クラップフェンの森で、皇帝円舞曲...
第2部の選曲は王道中の王道!
僕の大好きな作品ばかりだ。
 
予定の全プログラムの演奏が終わる。
ふたたび湧き上がる拍手、そして画面が切り替わった。
 
 
 
音楽は世界を結ぶ。
 
例年のようにアンコール、美しく青きドナウと続き、締めはやはりラデツキー行進曲。
 
〜そう、手拍子のないラデツキー行進曲だ。
いま我々は尋常でない場面に立ち会っているのだ、と改めて実感。
 
次回こそはきっと...
 
Danke schön, Wiener Philharmoniker!
Grazie mille, Maestro Muti!
 
 
本年も「音楽ノート」をどうぞよろしくお願いいたします。
 
令和3年 元日  小澤和也
posted by 小澤和也 at 23:28| Comment(0) | 日記

2020年12月24日

コーヒーと、音楽と...

 
立川市民オペラ合唱団のプローベへ。
活動再開後、僕にとって2度目の登板日。
 
 
早めに立川入りし、久々の一六珈琲店へ。
いつもは深煎り&苦み路線なのだが、きょうはグアテマラをオーダー。
少しだけ冷ましたところで豊かなコクと爽やかな酸味とのバランスがぴたりとハマった感じがした。
 
美味しい。(´∇`*)
 
 
このお店への訪問はほぼ例外なく立川オペラの稽古とセットである。
前回来たのはいつだっただろう?
調べたら1月以来だ...トゥーランドットの立ち稽古が佳境に入った頃だったか。
 
諸行無常。(´-`*)
 
 
またせっせとコーヒーを飲みに通うぞ。
というか...
 
通えますように。
 
 
 
Vrolijk kerstfeest!  :-)
みなさま、
素敵なクリスマスをお過ごしください。
posted by 小澤和也 at 22:49| Comment(0) | 日記

2020年12月01日

フルトヴェングラーのセッション録音 -1948年-

 
フルトヴェングラーが1947年に行ったセッション録音についてブログをしたためたのが昨年の11月30日。
 
[音楽ノート/フルトヴェングラーの命日に]
2019.11.30.記
 
続編を書こう書こうと思いつつ...
1年経ってしまった。
 
 
さて...
翌1948年に彼が遺したスタジオレコーディングは次の3曲である。
 
§ブラームス: 交響曲第2番/ロンドンpo (3/22,23,25)
§ヴァーグナー: 「神々の黄昏」より「ブリュンヒルデの自己犠牲」/フラグスタート、フィルハーモニアo (3/26)
§モーツァルト: 交響曲第40番/ウィーンpo (12/7,8&49/2/17)
 
ブラームスとモーツァルトはセッション録音としては唯一のもの。
ヴァーグナーは1952年に同じくフラグスタート&フィルハーモニアoと再録音しており、一般的にはそちらの方がよく知られているようだ。
 
 
今回はこれらの中からブラームスの第2交響曲を聴く。
僕の所持しているのはSP盤から復刻したCDだ。
 
 
以前の拙ブログでも書いたことだが、「ライヴこそフルトヴェングラーの真骨頂である」「彼のセッション録音は不完全燃焼」などと巷ではよく言われる。
その (マイナスの方の) 典型例のひとつとして挙げられるのがこのLPOとのブラームスらしいのだ。
例えば第1楽章の冒頭部は確かに “恐る恐る始められる” 感じがするし、ここぞというクライマックスでの押しも “もっと欲しい!” と思えなくもない。
原因は明らか、この楽章に限っては金管・ティンパニが今ひとつ低調なのである。
(さらに悪いことにこの楽章はホルンで始まりトランペットで終わるのだ)
それでも弦楽セクションのうねるようなカンタービレや憂いを含んだほの暗い音色はさすがフルトヴェングラーのサウンドだ。
 
第2楽章以降はほんとうに素晴らしい。
(ライヴでの彼ならこうするだろう!) といった先入観を除けば、十分に考え抜かれたフルトヴェングラーならではの「静かなる劇性」を感じ取ることができるだろう。
 
 
彼の指揮したブラームス第2交響曲のライヴ録音2種、
1) ウィーンpo (1945.1.28.)
2) ベルリンpo (1952.5.7.)
これらはいずれも名演として世評が高い。
殊に 1)は戦中そしてフルトヴェングラー亡命直前の鬼気迫る演奏として別格に扱われることも。
これらを上回るものとは言えないが、この1948年セッション録音も忘れてしまいたくはない記録である。
posted by 小澤和也 at 17:06| Comment(0) | 日記

2020年11月05日

バッハの音楽と過ごす休日


きょう(11/4)は終日オフ。
バッハを読み、聴き、音符と戯れて過ごす。
 
 
ここ最近のお気に入りは
コラールプレリュードの数々。
ルター派の賛美歌であるコラールをベースとし、それにさまざまな和声や対位旋律が施された愛すべき小品である。
 
 
手元にあるヴァルヒャの全集やリリングのアルバムを気ままにかけて、お気に入りの曲を探す愉しみ。
個人的には壮麗な響きの作品よりもゆったりと静かに流れるものが好きである。
〜例えば
「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」BWV639
「われら悩みの極みにありて」BWV641
など。
 
 
入手したばかりの鈴木雅明/バッハ・オルガン曲集第3集にじっくりと耳を傾ける。
 
 
2017年にNHKで放送されたドキュメンタリーを観て以来、僕は氏のオルガン演奏の大ファンなのだ。
傑作・パッサカリアとフーガ BWV582が圧巻の名演奏。
そしてこのアルバムにも美しいコラールプレリュードが数曲収められている。
なかでも
「主イエス・キリストよ、われらを顧みたまえ」BWV709
がしっとりと心に沁みてゆく。
 
 
 
無数の書き込みやアンダーライン、ドッグイヤーですっかりぼろぼろになってしまった愛読書たち。
今でも読むたびに新たな発見がある。
 
 
名指揮者ハンス・フォン・ビューローが「音楽の旧約聖書」と称えた平均律クラヴィーア曲集。
その中で僕が愛してやまない曲のひとつが第1巻、変ロ短調のフーガ (5声) である。
哀しみをたたえた美しい主題が『重層の建築のように重々しく、どこまでも整然と力強く』(吉田秀和氏の著作より) 連なってゆく。
 
楽譜を見ながら、弦楽五重奏に見立てた5声体のスコアを戯れに書き起こしてみた。
 
 
↑第1ページ
 
↓第4(最終)ページ
 
 
黙々と音符を書き連ねながら、不思議と心が満たされてゆくような気がした。
(おかしな喩えだが) 写経のようなものだろうか。
 
 
たっぷりと心の充電完了。
さあ、明日からまたがんばろう。
posted by 小澤和也 at 00:48| Comment(0) | 日記

2020年10月07日

3つの「くちなし」(2)

 
 
前項でも触れたが、「高野喜久雄詩集」は2種類ある。
それらの出版および田三郎の歌曲「くちなし」の成立時期等を年代順に整理すると次のようになる。
 
・(歌曲「くちなし」作曲: 1965-66年頃)
・歌曲「くちなし」初演: 1966.1.24.
・高野喜久雄詩集 (思潮社) 出版: 1966.10.1.
・現代詩文庫40/高野喜久雄詩集 (思潮社) 出版: 1971.3.15.
【初演日は「田三郎歌曲集 (音楽之友社刊)」巻末資料より引用、また作曲時期については歌曲集「ひとりの対話」が1965-71年にかけて書かれたとのデータから類推した。ちなみに楽譜には「コピーライトマーク️1966」とある】
 
歌曲「くちなし」の歌詩と現代詩文庫版に収められている詩とではそのフォルムも味わいも大きく異なっていた。
そこで、詩集「二重の行為」の初出となった1966年刊行の「高野喜久雄詩集」を入手。
さっそく「くちなし」を一読する。
 
 
くちなし 
高野喜久雄
 
焼け跡の瓦礫の庭に
亡き父が植えたくちなし
年ごとにかおりは高く
花はふえ
今年は十九の実をつけた
 
くちなしの木に
くちなしの花が咲き  実がついた
ただそれだけのことなのだ
けれどふるえる
ふるえる心
 
「ごらん  くちなしの実をごらん
  熟しても  口をひらかぬくちなしの実だ」
とある日の父のことば  わかります
しみじみと今わかります
その願い  わかります
 
くちなし
くちなし
くちなしの実よ
それのよう
こがれて生きよと父はいう
きびしく生きよと父はいう
今もどこかで父はいう
 
〜詩集「二重の行為」より
高野喜久雄詩集 (思潮社刊、1966年) 所収
 
 
詩としての “かたち” は歌曲のそれとほぼ同じ。
ただし選ばれている言葉たち、そしてそれらの織りなすリズムはかなり異なっている。
全体的に「詩集」のほうが説明的、描写的でやや硬めの手ざわり、対して「歌曲」の詩句はより抽象度が高く、語調も丸みを帯び柔らかな印象を読み手に与えるのだ。
【こうして両者を比較したうえで改めて「現代詩文庫」の「くちなし」を読むと、こちらは5年後の高野喜久雄による新たなコンポジションのようにさえ思えてくる】
 
歌曲の歌詩 および 現代詩文庫版「くちなし」はこちらを参照:
小澤和也 音楽ノート〜3つの「くちなし」(1)
 
 
ここで僕の中にひとつの素朴な疑問が。
上に挙げたように、歌曲が初演された後に詩集が出版されたわけであるが、高野はほんとうに「歌曲の歌詩を手直しして「詩集」を完成させた」のだろうか...?
より抽象度の高い『荒れていた庭  片隅に』を描写的な『焼け跡の瓦礫の庭に』へと改め、
『ふるえるわたしのこころ』から “わたし” を削除し、
『わかります』(第三連) や『くちなし』(第四連) のリフレインを後から加えたのだろうか?
 
 
これは何の根拠もない個人的な仮想なのだが...
〜 原型としての詩「くちなし」が先にあって、それを歌曲作曲の際に改めた (田三郎の求めに応じて、あるいは自発的に)...そして詩集出版にあたってはその “原型” を再掲したのではないか 〜
と思えてならないのだ。
 
 
そう考えるようになったのは、ネット上で見つけたとあるブログがきっかけである。
そこには合唱組曲「水のいのち」誕生の経緯についてふれられており、次のように記されていた。
『田三郎が高野喜久雄の詩「水たまり・川・海」を読んでいて、それらを「読む詩」から「きいてわかる詩」になおしてもらうことを頼んだ。高野さんは田三郎の構想に従い...(以下略)』
 
[「元高校教師のブログ」〜「読む詩と歌う詩(歌詞)との違い--高野喜久雄が遺した答え」から引用させていただきました]
 
 
確かに「水たまり」「川」の原詩と歌詩とを比較すると、細かな相違点あるいは大規模な改作の跡が見て取れる。
これは詩の優劣の問題ではなく、上記引用の通り「読んで味わうか聴いて理解するか」の違いであろう。
これと同じようなやりとりが「くちなし」でもあったのではないだろうか。
その前提に立って改めて両者を照合すると
・祈り
・待ちこがれつつ
・ひたすらに
などの語句が作曲家によって差し替え (加え) られたことが分かる。
まさに “田三郎的ワード” だ。
 
 
これら3つの (現代詩文庫版もこの際加えよう)「くちなし」は僕にとって、互いに補完しあって詩のイメージ/歌のイメージを膨らませてくれる素晴らしい存在となった。
そしていずれまた「水のいのち」を手がける機会があれば、「読む詩」と「歌う詩」とをじっくり比べつつ味わってみたいと思う。
 
(完)
posted by 小澤和也 at 12:30| Comment(0) | 日記

2020年09月30日

3つの「くちなし」(1)

 
先日出かけた田三郎歌曲リサイタルの余韻が僕の中でいまだに漂っている。
なかでも最後に聴いた「ひとりの対話」...
これが脳裏から離れない。
高野喜久雄の紡いだ重く、深くそして厳しい言葉たち、それらに呼応して痛切・峻烈を極めた田三郎の音楽。
 
その終曲「くちなし」が単独で取り上げられることの多い名曲であることを僕は不覚にも知らなかった。
前奏がゆったりと流れ出した瞬間に会場の空気がふわっと和らいだ、あの驚きと動揺も忘れ難い。
 
このときの思いを追体験するために、田三郎歌曲集の楽譜をさっそく購入。
楽譜の風景は実に美しかった。
 
 
巻末に収められている詩をここに引用させていただく。
 
 
くちなし
高野喜久雄 詩/田三郎 曲
 
荒れていた庭  片隅に
亡き父が植えたくちなし
年ごとに  かおり高く
花はふえ
今年は十九の実がついた
 
くちなしの木に
くちなしの花が咲き
実がついた
ただ  それだけのことなのに
ふるえる
ふるえるわたしのこころ
 
「ごらん  くちなしの実を  ごらん
熟しても  口をひらかぬ  くちなしの実だ」
とある日の  父のことば
父の祈り
 
くちなしの実よ
くちなしの実のように
待ちこがれつつ
ひたすらに  こがれ生きよ
と父はいう
今も  どこかで父はいう
 
〜歌曲集『ひとりの対話』より
 
 
どうしても彼の詩集を手元におきたくなり、比較的入手の容易な自選詩集を古書サイトで購入。
さっそく「くちなし」のページを開いて...
ハッとした。
詩の “たたずまい” がまるで違うのだ。
 
 
くちなし
 
 
くちなしの木に
くちなしの花が咲き  実がついた
ただそれだけのこと
なのに心は  鳴り出して
もう鳴り止まぬハープのようだ
「ごらん  くちなしの実をごらん
熟しても  口をひらかぬ  くちなしの実だ」
とある日の  父の声までそれにまじって
 
〜詩集「二重の行為」より
現代詩文庫 40 高野喜久雄 (思潮社刊、1971年) 所収
 
 
全部で四連からなる歌詩のうち第一および第四連がすべて省かれている。
かつて庭にくちなしを植え、“わたし” に生きざまを説いた父の姿はここには描かれない。
一方で、生命の力と神秘に感嘆した “わたし” の心のふるえるさまを鳴り止まないハープの響きにたとえている点がどことなく面白い。
 
ともあれ、歌詩の第四連の存在を既に知っており「ひたすらに こがれ生きよ」という父のメッセージがこの詩のエッセンスであると思っていた僕は、この現代詩文庫版「くちなし」の良さをまだ味わえていないのが正直なところだ。
 
こうなってくるともう、詩集「二重の行為」の初出の版である1966年刊行の「高野喜久雄詩集」を見るしかないではないか!
 
〜ということでふたたび、古書店の通販サイトをあれこれ探し回ることに。
 
(この項つづく)
 
 
余談ですが...
現代詩文庫版を購入した際、とっても素敵な一筆が添えられていました。
 
 
幾度となく古書のネット通販を利用しているけれどこんなことは初めて!
じんわりとあたたかな気持ちになりました。
posted by 小澤和也 at 22:48| Comment(0) | 日記

2020年09月12日

半年ぶりの音楽会

 
 
《日本歌曲の今
田三郎・没後20年の今 [T]》
を聴く。
(9月10日、音楽の友ホール)
 
 
最後に足を運んだのがいつだったか、にわかに思い出せないほどに久しぶりの演奏会。
出演者のおひとりからご案内をいただき、なんとなく閃くものもあって出かけることに。
 
客席数は間引かれ、左右4つの扉は演奏中も開放されるなど、新型コロナ感染予防のためにしっかりと対策が取られていた。
(この演奏会を挙行するんだ) という関係者の方々の強い意志が感じられた。
 
僕にとって田三郎といえばなんといっても「水のいのち」をはじめとする合唱曲の神様のような存在であり〜恥ずかしながらそれが全て。
氏の歌曲については「パリ旅情」の中のどれかを聴いたことがある (ような気がする) だけ...
予備知識ほぼゼロで臨んだリサイタルだったわけだが、作品・歌唱そしてピアノ、これらのすべてが素晴らしく、遅まきながら新しい世界をまた一つ知ることができた。
 
 
§パリ旅情 (詩: 深尾須磨子)
さすらい/売子/パリの冬/街頭の果物屋/降誕節前夜/市の花屋/冬の森/すずらんの祭
斉藤京子(Sop)、小原孝(pf)
1959-60年作曲。
この日聴いた4つの曲集のなかでもっとも色彩的・絵画的な作品。
目にも鮮やかな果物たち、灰色の空、すずらんの花の香り、石の壁の冷たさ etc.
これらを描く豊かな言葉たちをそっくりそのまま音楽に置き換えたような歌とピアノ。
ことに「降誕節前夜」で聞かれる教会の鐘の音とオルガンの響きのリアリティ!
 
 
§啄木短歌集 (歌: 石川啄木)
やわらかに/頬につとう/いのちなき/病のごと/不来方の/ふるさとを/はずれまで/あめつちに
金子美香(Msop)、塚田佳男(pf)
1956年作曲。
三十一文字のコンパクトな世界になんとこれまたシンプルな、それでいて陰影に富んだ音楽を付けたことだろう。
ある歌は繰り返され、また別の歌は一度うたわれるだけであっさりと終わる...その呼吸と配列までもが美しい。
 
ふるさとを出でて五年(いつとせ)、
病をえて、
かの閑古鳥を夢にきけるかな。
 
曲の結び、ピアノが小さく奏でる「カッコウ」の声に思わずはっとした。
 
 
§水と草木 (詩: 北川冬彦)
滝/坐像/水蓮/大樹/雑草
原田圭(Br)、小原孝(pf)
1960-62年作曲。
この詩人の名は不覚にも初めて知った。
彼について少し調べるとダダイズム、シュルレアリスム、ネオリアリズムなどさまざまなワードが出てくるが、ここで作曲家が選んだ5編の詩はいずれも溢れんばかりのプリミティヴな生命力が、そして詩人の冷静な観察眼が感じられるものである。
〜そしてそこに付けられた音楽も。
 
 
§ひとりの対話 (詩: 高野喜久雄)
いのち/縄/鏡/蝋燭/遠くの空で/くちなし
廣澤敦子(Msop)、塚田佳男(pf)
1965-71年作曲。
高野喜久雄はもちろんあの「水のいのち」の詩人。
テキストの重さ、深さそして厳しさが上記三作とは隔絶したスケール感をもつ。
(詩の優劣とはもちろん無関係である)
当然ながらその音楽もひたすらに自問自答を繰り返すかのような痛切・峻烈な響きである。
 
そこへゆったりと現れ出る「くちなし」の前奏...張り詰めた会場の空気も一変したような気がした。
単独で取り上げられることも多いというこの「くちなし」だが、今回初めて聴くにあたって “チクルスの終曲として” 味わうことができたのは実に幸運であったと思う。
 
 
全編を通して、ベーゼンドルファーの重厚な音色をもって語られるピアノパートの存在感と説得力に圧倒された。
そして4名の歌手の皆さんの美しくまた誠実な歌唱にも終始心が震えっぱなしであった。
(余計なお世話だけれど...扉の開放によって変化したであろう響きや聴感上のバランスにはさぞ御苦労されたのではないかしら)
 
演奏のみならず、会全体の進行役や詩の朗読までを務められた塚田先生のお元気そうな姿も印象的であった。
お言葉のそこここにコンサートを開ける喜びと安堵感のようなものが現れており、それはこの場にいた全員に伝わっていたのではないかと感じた。
 
僕にとって久々のライヴ聴体験がこの演奏会でほんとうによかったと心から思う。
ご案内くださった廣澤さん、ありがとうございました。
posted by 小澤和也 at 23:31| Comment(0) | 日記

2020年09月08日

生きた楽の音

 
9月6日、日曜日
湘南アマデウス合奏団のプローベへ。
7ヶ月ぶりに “生きた楽の音” を聴く。
 
週に一度
めいめい楽器を携え集まり
大好きな音楽を奏で
ともにそのよろこびを語らう
 
そんな「ごく当たり前の日常」だと思っていたことが当たり前でなくなった現在。
 
この日練習したバッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番の響きを僕はきっと忘れない。
posted by 小澤和也 at 22:44| Comment(0) | 日記

2020年08月28日

待望のベルニーニ再訪

 
仕事帰りの楽しい寄り道。
曜日限定でイートイン営業を再開されたお気に入りのカフェへ。
待望の再訪がようやく叶い感慨もひとしお。
 
 
確認したところ、前回の来店は5月末だった。
(そんなに経ったのか...)
 
5/31のブログ:
「2ヶ月ぶりの味」
 
 
さっそくブラジル(Washed)、中深煎りをオーダーする。
 
 
 
爽やかな酸味と苦みのバランスが見事。
シンプルだけれど豊かな味わい。
 
 
フロア内は密集防止のためテーブル数を減らすとともにカウンター席のスツールも撤去。
僕の感覚では6人で満席、といったところか。
お店としてはさぞ苦渋の決断だったであろう。
 
 
(もう一杯いただきたいな...)
銘柄はもう決めていた。
ベルニーニブレンド。
マスターの自信作とのこと。
 
 
思いのほか明確な個性をもったテイスト。
キーワードは「コク」と「甘み」であろうか。
僕がお代わりを頼む直前に入店されたお客さんも、着席するとすぐにこのブレンドをオーダーされていた。
(きっと常連さんに愛されている味なんだろうな)
想像が膨らむ。
 
 
会計時にマスターと言葉を交わした。
「お久しぶりです。ようやく来れました...美味しかったです」
『ありがとうございます。こうして皆さんにコーヒーを味わっていただけるのがほんとうに嬉しいですね』
飾らない言葉がそのままマスターのお人柄を表しているよう。
 
 
マスター、
またおじゃまします!
 
 
posted by 小澤和也 at 23:01| Comment(0) | 日記