2022年09月15日

“No” の意味…ラ・トラヴィアータ考

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ヴェルディ「ラ・トラヴィアータ」第2幕。
舞台はパリ、ヴィオレッタの友人フローラの邸宅での華やかなパーティーの場面。
そのクライマックス直前にヴィオレッタとアルフレード、そして宴の参加者たち (合唱) との次のような短いやりとりがある。

Alf. : Or tutti a me.
Tutti: Ne appellaste?.. che volete?..
Alf. : Questa donna conoscete?
Tutti: Chi? Violetta?
Alf. : Che facasse non sapete?
Vio. : (Ah! taci.)
Tutti: No.

アルフレード: さあ皆さん、僕のところへ集まってください。
一同(合唱): 私達を呼びましたか?いったいどうしたのです?
アルフレード: この女性をご存じですね?
一同(合唱): 誰?ヴィオレッタを?
アルフレード: 彼女が何をしたかご存じないでしょう?
ヴィオレッタ: (ああ、黙っていて。)
一同(合唱): いいえ。

この幕の前半...
喧騒のパリを離れ郊外でアルフレードとの同棲を始めたヴィオレッタのもとへ彼の父親ジェルモンが突然現れる。
旧弊氏ジェルモンは愛息と高級娼婦との愛の生活を咎め、彼と別れるようヴィオレッタに強くもとめる。
アルフレードとその家族の幸福のためにとその要求を受け入れた傷心のヴィオレッタは、彼に置き手紙を残し家を出る。
真相を知らぬまま不信感に駆られているアルフレードはヴィオレッタから「いまは男爵を愛している」(もちろん本心ではない) と聞かされ逆上...そして先の場面となる。
嫉妬に怒り狂ったアルフレードは一同の前でヴィオレッタを激しく罵倒、ヴィオレッタは気を失って倒れるのだった。

ここで...
最後に一同が発する「いいえ」、僕はこれを最近までずっと、アルフレードの言葉に対する返答
「いいえ、(彼女が何をしたかを) 知りません」
という意味だと思っていた。
直前の (括弧書きの) ヴィオレッタの言葉が “独白” である、と理解していたのだ。

ところが、である。
先日『ラ・トラヴィアータ』の台本とその対訳を読んでいてあることに気づいた。
そこではヴィオレッタのこの台詞に括弧が付いていないのである。

Alf. : Che facasse non sapete?
Vio. : Ah! taci.
Tutti: No.

そうすると、この “No.” は
「いいえ、知りません」ではなく
「いや、黙っていないで(話しなさいな)」
というニュアンスに変わってくるのでは、という疑問が生じてくる。

どうにも気に掛かって仕方ないので、ネット上で閲覧できるいくつかの楽譜で当該箇所を調べてみた。
以下、出版社名(都市)、出版年、ヴィオレッタの歌詞の順に記する。

Escudier(パリ)、1855 …… Ah! taci.
Hofmeister(ライプツィヒ)、1860 …… (zu Alfred) Ah! taci. *
Escudier(パリ)、1864 …… De gràce! **
Ricordi(ミラノ)、1868 …… (Ah! taci.) ***
Ricordi(ミラノ)、ca.1883 …… (Ah! taci.)

*) 伊/独語歌詞。独語で (アルフレートに向かって) とト書きあり
**) 仏語歌詞。「お願いだから!」
***) 出版社名は正しくは R.Stabilimento Tito di Ricordi

楽譜上でも括弧のない版があった!

少なくとも初期の印刷譜ではヴィオレッタのこの言葉は独白扱いでなかったことがわかる。
そして1868年、Ricordi社版で初めて括弧が付けられる。
印刷ミスとは考えにくい。
やはりヴェルディの指示とみなすのが自然であろう。

“No.”
たったひと声ではあるがこうして見るとさまざまな捉え方ができるものだなと、実に興味深く思えたのであった。


(追記)
今回あれこれ調べているうちに、台本自体にも年代によって違いのあることがわかった。
最初期のものでは、この “No.” がなんと【アルフレードの言葉として】書かれている。

ヴィオレッタ「ああ、黙っていて」
アルフレード「いいや(黙ってなどいられるか)」

こんな感じだろうか。

そのあたりの変遷、機会があればまた深掘りしてみたいと思っている。
posted by 小澤和也 at 14:58| Comment(0) | 日記

2022年06月06日

杏仁豆腐とコーヒー、そして…

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読みかけの本を持ってぶらりと喫茶店へ。
とろとろ杏仁豆腐と東ティモール/サントモンテをオーダー。

よくよく思い返すとこの組み合わせでいただいた記憶がほとんど無いのだが、運ばれてきた瞬間に
(これはきっと間違いなく美味しい!)

結果は予想どおり。
自家製杏仁豆腐の優しくなめらかな舌触り、そして当然ながらあんずの果実との相性が抜群!
またコーヒーは豆の選別にこだわっている (お店のメニューより) というだけあってすっきりと純度の高い味わい。
淹れたてよりも少し冷ましてからのほうが味の個性が際立っていた...これはあらゆる品種にいえることだと思うが。


この日携えていたのは若松英輔さんの『種まく人』(亜紀書房刊)。
これまでに僕が手にした若松さんの本はたかだか数冊であるが、どの著作にも、そしてそれらの中のどの文章にも丹精の尽くされたやわらかな手触りのようなものを感じる。

”〜家を失い、路上で暮らしていたあの一人の男性は、その姿をもって生きることの困難を体現していた。〜“
(上掲書所収「賢者の生涯」より)

“〜身を切られるような試練にあって聴いた「フルートとハープのための協奏曲」は、あのときの私にしか訪れることのない慰藉の音楽だった。〜“
(同「音楽の慰め」より)

ページを繰りながら目頭にどうしようもなく熱いものを感じ、心を取り繕おうと咄嗟に傍らのスマートフォンで珈琲豆の銘柄を検索したりして気を紛らわせた。


美味しいコーヒーとデザート、そして良書のお蔭で、この日も豊かな時間を過ごすことができたのだった。
posted by 小澤和也 at 15:13| Comment(0) | 日記

2022年05月23日

没後10年…吉田秀和さん

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日付変わって昨日、5月22日は吉田秀和さんの没後10年の命日であった。
(もうそんなに経つのか...)
これがいまの偽らざる心境である。


中学2年生のときに『レコード芸術』誌を読み始め (生意気なガキンチョである)、吉田さんのことを初めて知って以来、氏は僕にとっての「心の師」の一人となった。
同じ頃、家の近所の小さな書店で偶然見つけた『LP三〇〇選』(新潮文庫)は、和也少年が西洋音楽の深奥へ分け入ってゆくうえでの有り難い地図であり方位磁針であった。


また、NHK-FM『名曲のたのしみ』をラジオで聴くのも毎日曜朝の喜ばしいルーティンだったことを懐かしく思い出す。
《名曲のたのしみ……吉田秀和……きょうも……◯◯を聴きましょう……》
と、まるで小学生の作文の朗読のようにぶっきらぼうに始まるあの番組が大好きだった。


吉田さんの著作は、さしあたって文庫化されたものはひと通り読んだと思う。
もちろん、僕ごときの知識などはひどくちっぽけであり興味も偏ったものであったから、それらのすべてを十分に理解したとは思っていない。
それでも、氏の文章の数々のおかげで好きになった作曲家や作品、あるいは演奏家は枚挙にいとまがない。


それらの中で敢えてひとつに絞るなら...

《けれども、僕のこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた『トリスタンとイゾルデの前奏曲』と『イゾルデの愛の死』だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものではなく、もうそういうふうに生まれついてきているみたいだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を挙げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く》
(『世界の指揮者』(新潮文庫)〜フルトヴェングラー)

“音楽の美” という極めて抽象的・感覚的な事象を言語化する明晰な知性、そしてそこに綴られた言葉の放射するエネルギーに僕は圧倒されたのだった。
いま思えば、この文章が僕にとっての “フルトヴェングラー沼” への入口であった。


もしもあと一つだけ挙げることを許されるなら...

《それから、私の好んでかけたのは、フォレのピアノ四重奏曲ハ短調。(...) 何という美しい音楽だろう!これを聴かずにいなければならないなんて。
(...)
戦争が終わったあと、さっそく私は台所のうらの穴から、[空襲に備えて庭に埋めてあった] 本とレコードを掘りだしてきた。(...)フォレの四重奏曲の第一楽章で、変ホ長調の第二主題が、あの小さな歩幅でおりてくるのをきいていたら、涙が出てきた。これをきいていると、音による、こんなやさしい愛撫は、モーツァルトや、シューベルトさえ書かなかったような気がした。
具合の悪いことに、この愛撫の旋律は、一つの楽器からほかの楽器へと手渡しされながら、十何小節かにわたり、くりかえされる。その間も、そうしてそれが終ってからも、涙はいくらでも出てくる。とうとう、私は、終りまできき通すことができなかった。》
(『私の好きな曲』(新潮文庫)〜フォレ『ピアノと弦のための五重奏曲第2番)
※ [ ] は小澤註

これを読んで...
この四重奏曲を聴きたくならないわけがないではないか!
それまでフォーレといえば『レクイエム』しか知らなかった。そんな僕を彼の室内楽の世界へと誘ってくれたのは、まぎれもなく吉田さんだったのだ。


吉田秀和さん、ありがとうございました。
posted by 小澤和也 at 00:55| Comment(0) | 日記

2022年04月30日

藤村さんの言葉

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先日NHKテレビで放送された、藤村美穂子さんの独唱によるマーラー「リュッケルトの詩による5つの歌曲」(広上淳一/京都市交響楽団)。
オンエア後も録画を繰り返し視聴している。
真に素晴らしい演奏だ。
特に「真夜中に」と「私はこの世に忘れられ」の2曲は繰り返し聴くたびに僕の心に深く、やわらかく沁みていく。


演奏終了後。
万雷の拍手を受けられている際の、慈愛に満ちつつもどこか憂いを湛えられた藤村さんの表情も強く印象に残る。
それは2011年4月、震災直後のN響第九を指揮したメータさんの、同じくカーテンコールでの柔和な、しかし神妙なお顔つきを僕に思い起こさせた。


そして......
演奏に先立って流された藤村さんのインタビュー (お話) がさらに強い力で僕の魂を揺さぶるのである。
コロナ禍における自らの苦悩を語る藤村さん。 (この演奏会自体がプログラムの変更を余儀なくされたのだった)
さらに件の隣国によるウクライナ軍事侵攻への痛切な心情を吐露され...


以降の藤村さんの言葉をここに引用させていただく。

私はね......
醜悪なもの、美しくないもの、汚れたもの、そういうものに対する一番の答えは......「美」だと思うんです。

大きい声を上げる方も素晴らしいし、デモンストレーションする方も素晴らしいし......

だけど、私は歌手なので......
音楽という、天才たちが遺してくれた作品を通して、自分が言いたいことを伝えられたらいいなと思っています。
(引用ここまで)


「醜悪に対して美をもってそれに応える」
表現者の端くれとして、僕自身もかくあるべしと改めて思う。
posted by 小澤和也 at 06:47| Comment(0) | 日記

2022年03月22日

終演御礼

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立川市民オペラ2022スペシャルガラコンサート、二日間の公演が無事終了しました。ご来場くださいましたみなさま、お心を寄せてくださいましたみなさま、ありがとうございます。ここまで駆け抜けることができ、いまはただただ感無量です。

市民オペラ合唱団のみなさん。
お疲れさまでした、そして公演のご成功おめでとうございます。
厳しい状況の中で地道に練習を続けてこられたみなさんの団結力の賜物かと思います。
CS (コーラスサポート) のみなさん、今回もほんとうにお世話になりました。
団員さんと同じフィールドに立ち、指導者・トレーナーの気づきにくい部分にまで目を配ってくださいました。心から感謝申し上げます。

稽古期間中は合唱コレペティとして、そして公演では延べ20曲近くのアリアや重唱曲の伴奏でも大活躍だったピアニスト越前さん、冨田さんおよび清水さんにも厚く御礼を申し上げます。いずれの曲においても、ソリストとともに“楽興の魔法の粉”と“静かなる熱気”を客席じゅうに振り撒いていらっしゃいました。

立川市民オペラ合唱団は来月からさっそく次の公演へ向けて練習を始められるとのこと。
どうかそれまでに、歌い演ずるうえでの様々な制約が少しでも良い方向へと改善されてゆくことを願ってやみません。
posted by 小澤和也 at 22:25| Comment(0) | 日記

2022年03月04日

祈りを込めて ー Stand with Ukraine

遠く海を隔て
ただ祈ることしかできないもどかしさ。
そのやるせない思いを
勇壮な旋律、美しいハーモニーと重ね合わせ
弦楽の響きに置き換えてみた。
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ウクライナ国歌
「ウクライナは滅びず」

下記リンクより全曲(2ページ)をご覧いただけます。
ukrainian_anthem.pdf
#standwithukraine
posted by 小澤和也 at 21:20| Comment(0) | 日記

2022年01月02日

新年のご挨拶

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明けましておめでとうございます。

新年最初の一杯め。
年末に買い求めたルワンダ/ニャルシザを開封、心をこめて淹れる。
豆の豊かな香りをたのしみ、ほどよい酸味と優しい苦みをあじわった。

初詣は近所の神社へ。
この一年の健康を、そして音楽に対し誠実に向き合い良い仕事ができるよう祈願する。

帰宅すると賀状が届いていた。
さっそく一葉一葉じっくりと目を通す。
昨年来、感染予防対策に最善を尽くしつつ活動を継続している都内のシニア合唱団、その団員さんからの
「コーラスが命の綱です」
とのメッセージに胸が熱くなる。

気兼ねなく歌い奏でることのできる日常が一日も早く戻りますように。
そしてこれからも変わらず音楽に対し真摯な愛情をもって接してゆくことをここに誓う。

本年も「音楽ノート」をどうぞよろしくお願いいたします。

令和4年元日 小澤和也
posted by 小澤和也 at 00:13| Comment(0) | 日記

2021年12月24日

Kerstmis

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Vrolijk Kerstfeest iedereen! :-)

みなさま、
素敵なクリスマスをお過ごしください。
posted by 小澤和也 at 23:26| Comment(0) | 日記

2021年10月02日

シューベルト: 第6交響曲雑感

 
§交響曲 (第6番) ハ長調 D589
1817-18年作曲。
完成時、シューベルト21歳。
幼少期よりハイドン、モーツァルトそしてベートーヴェンを教材として学んできた若き巨匠による意欲作だ。
以下、この曲についての取り留めもないメモである。
 
 
§第1楽章
Adagio、ハ長調、3/4拍子〜Allegro、ハ長調、2/2拍子、ソナタ形式
 
堂々たる序奏に続く主部、第1主題は木管楽器による朗らかで快活な音楽。
調性こそ異なるがハイドンの「軍隊」交響曲を即座に連想させる。
 
充実した呈示部に比べると展開部はやや物足りない感あり。
弱音主体の美しい場面が続くが、ほどなくしてそのまま第1主題の再現へと静かにすべり込む。
 
この楽章のもう一つの目玉は “più moto” のコーダであろう。
いかにもロッシーニのオペラ序曲風。
1816年11月、歌劇『幸福な錯覚』によってウィーンにロッシーニ旋風が巻き起こる。
翌月には『タンクレーディ』も上演され、シューベルトはこれに大いに魅せられたという。
 
 
§第2楽章
Andante、ヘ長調、2/4拍子
 
A-B-A’-Bの二部形式。
第1主題がとってもチャーミング。
特に第25小節〜の美しさ!
主旋律はヴァイオリン、そこへ木管がカノンのように寄り添う。
A’(主部再現) ではこのメロディがなぜか出てこない...だからなおさら愛おしいのだ。
 
副次部 (B) はハ長調、三連符主体のリズミカルな楽想。
ハ&ト音のチューニングのまま用いられるティンパニの活躍ぶりが楽しい。
(ベートーヴェン第1交響曲の第2楽章がヒントになっているだろうか)
 
 
§第3楽章
スケルツォ: Presto-Più lento-Presto、ハ長調-ホ長調、3/4拍子
 
スケルツォ主題を一見してふと気付いた。
リズムの骨格は明らかにベートーヴェン第1交響曲のそれをベースにしていると思われる。
それでも、調性的にはベートーヴェンの主題が古典派らしくハ長調→ト長調 (属調) へと運ばれるのに対し、シューベルトではハ長調→ホ短調へと進むあたりが実に彼らしい。
 
中間部はレントラー舞曲風。
ひなびた田園風景が浮かんでくるようだ。
 
 
§第4楽章
Allegro moderato、ハ長調、2/4拍子、展開部を欠くソナタ形式
 
中期以降のシューベルト作品によく見られる “急速テンポでないフィナーレ”。
冒頭の主題がこれ。
さて、
ここで恥ずかしながら告白すると...
僕ははじめてこれを聴いたとき、あろうことか次に挙げる音楽をパッと頭に浮かべてしまったのだ。
ご存じ、国民的アニメ「サザエさん」の劇中音楽である。
(調べたところ「サブタイトル4」という題名らしい)
未だその呪縛からは解き放たれていない。
 
この楽章では実に多くの魅力的な主題が次から次へと示される。
それは良いのだが、悩ましいのはそれらの各々に相応しい速度感がまちまちであること。
そこで今回この作品を取り上げるにあたっては、敢えて積極的にテンポを動かしている。
 
すべての主題の再現ののちコーダの大団円となるのだが、個人的にはこれもAllegro moderatoの曲想とは思えない。
天国に安らうシューベルトに許しを乞いつつ、僕の心の中から湧き出る音楽を奏でたいと考えている。
 
 
明日10月3日(日)、湘南アマデウス合奏団の皆さんとこの交響曲を演奏します。
よろしければぜひお運びください。
 
演奏会の詳細はコチラ↓
 
 
posted by 小澤和也 at 16:08| Comment(0) | 日記

2021年09月21日

珈琲羊羹

 
 
 
最近のお気に入りスイーツがコレ。
馴染みの珈琲店の「珈琲羊羹」。
 
 
 
 
一口いただいて (おっ!) と思った。
思いのほか “ふつうの” 美味しい羊羹だったのだ。
(もっと強い珈琲味をイメージしていた)
 
餡子の優しい甘みのあと、ほのかに上品なコーヒーの風味が舌に到達する。
(なるほど!こう来たか...)
 
続いてもう一口かじるも良し。
あるいはこのタイミングでコーヒーを啜る...
これがまたたまらなく幸福な瞬間なのだ!
 
 
posted by 小澤和也 at 23:22| Comment(0) | 日記