2020年11月05日

バッハの音楽と過ごす休日


きょう(11/4)は終日オフ。
バッハを読み、聴き、音符と戯れて過ごす。
 
 
ここ最近のお気に入りは
コラールプレリュードの数々。
ルター派の賛美歌であるコラールをベースとし、それにさまざまな和声や対位旋律が施された愛すべき小品である。
 
 
手元にあるヴァルヒャの全集やリリングのアルバムを気ままにかけて、お気に入りの曲を探す愉しみ。
個人的には壮麗な響きの作品よりもゆったりと静かに流れるものが好きである。
〜例えば
「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」BWV639
「われら悩みの極みにありて」BWV641
など。
 
 
入手したばかりの鈴木雅明/バッハ・オルガン曲集第3集にじっくりと耳を傾ける。
 
 
2017年にNHKで放送されたドキュメンタリーを観て以来、僕は氏のオルガン演奏の大ファンなのだ。
傑作・パッサカリアとフーガ BWV582が圧巻の名演奏。
そしてこのアルバムにも美しいコラールプレリュードが数曲収められている。
なかでも
「主イエス・キリストよ、われらを顧みたまえ」BWV709
がしっとりと心に沁みてゆく。
 
 
 
無数の書き込みやアンダーライン、ドッグイヤーですっかりぼろぼろになってしまった愛読書たち。
今でも読むたびに新たな発見がある。
 
 
名指揮者ハンス・フォン・ビューローが「音楽の旧約聖書」と称えた平均律クラヴィーア曲集。
その中で僕が愛してやまない曲のひとつが第1巻、変ロ短調のフーガ (5声) である。
哀しみをたたえた美しい主題が『重層の建築のように重々しく、どこまでも整然と力強く』(吉田秀和氏の著作より) 連なってゆく。
 
楽譜を見ながら、弦楽五重奏に見立てた5声体のスコアを戯れに書き起こしてみた。
 
 
↑第1ページ
 
↓第4(最終)ページ
 
 
黙々と音符を書き連ねながら、不思議と心が満たされてゆくような気がした。
(おかしな喩えだが) 写経のようなものだろうか。
 
 
たっぷりと心の充電完了。
さあ、明日からまたがんばろう。
posted by 小澤和也 at 00:48| Comment(0) | 日記

2020年10月07日

3つの「くちなし」(2)

 
 
前項でも触れたが、「高野喜久雄詩集」は2種類ある。
それらの出版および田三郎の歌曲「くちなし」の成立時期等を年代順に整理すると次のようになる。
 
・(歌曲「くちなし」作曲: 1965-66年頃)
・歌曲「くちなし」初演: 1966.1.24.
・高野喜久雄詩集 (思潮社) 出版: 1966.10.1.
・現代詩文庫40/高野喜久雄詩集 (思潮社) 出版: 1971.3.15.
【初演日は「田三郎歌曲集 (音楽之友社刊)」巻末資料より引用、また作曲時期については歌曲集「ひとりの対話」が1965-71年にかけて書かれたとのデータから類推した。ちなみに楽譜には「コピーライトマーク️1966」とある】
 
歌曲「くちなし」の歌詩と現代詩文庫版に収められている詩とではそのフォルムも味わいも大きく異なっていた。
そこで、詩集「二重の行為」の初出となった1966年刊行の「高野喜久雄詩集」を入手。
さっそく「くちなし」を一読する。
 
 
くちなし 
高野喜久雄
 
焼け跡の瓦礫の庭に
亡き父が植えたくちなし
年ごとにかおりは高く
花はふえ
今年は十九の実をつけた
 
くちなしの木に
くちなしの花が咲き  実がついた
ただそれだけのことなのだ
けれどふるえる
ふるえる心
 
「ごらん  くちなしの実をごらん
  熟しても  口をひらかぬくちなしの実だ」
とある日の父のことば  わかります
しみじみと今わかります
その願い  わかります
 
くちなし
くちなし
くちなしの実よ
それのよう
こがれて生きよと父はいう
きびしく生きよと父はいう
今もどこかで父はいう
 
〜詩集「二重の行為」より
高野喜久雄詩集 (思潮社刊、1966年) 所収
 
 
詩としての “かたち” は歌曲のそれとほぼ同じ。
ただし選ばれている言葉たち、そしてそれらの織りなすリズムはかなり異なっている。
全体的に「詩集」のほうが説明的、描写的でやや硬めの手ざわり、対して「歌曲」の詩句はより抽象度が高く、語調も丸みを帯び柔らかな印象を読み手に与えるのだ。
【こうして両者を比較したうえで改めて「現代詩文庫」の「くちなし」を読むと、こちらは5年後の高野喜久雄による新たなコンポジションのようにさえ思えてくる】
 
歌曲の歌詩 および 現代詩文庫版「くちなし」はこちらを参照:
小澤和也 音楽ノート〜3つの「くちなし」(1)
 
 
ここで僕の中にひとつの素朴な疑問が。
上に挙げたように、歌曲が初演された後に詩集が出版されたわけであるが、高野はほんとうに「歌曲の歌詩を手直しして「詩集」を完成させた」のだろうか...?
より抽象度の高い『荒れていた庭  片隅に』を描写的な『焼け跡の瓦礫の庭に』へと改め、
『ふるえるわたしのこころ』から “わたし” を削除し、
『わかります』(第三連) や『くちなし』(第四連) のリフレインを後から加えたのだろうか?
 
 
これは何の根拠もない個人的な仮想なのだが...
〜 原型としての詩「くちなし」が先にあって、それを歌曲作曲の際に改めた (田三郎の求めに応じて、あるいは自発的に)...そして詩集出版にあたってはその “原型” を再掲したのではないか 〜
と思えてならないのだ。
 
 
そう考えるようになったのは、ネット上で見つけたとあるブログがきっかけである。
そこには合唱組曲「水のいのち」誕生の経緯についてふれられており、次のように記されていた。
『田三郎が高野喜久雄の詩「水たまり・川・海」を読んでいて、それらを「読む詩」から「きいてわかる詩」になおしてもらうことを頼んだ。高野さんは田三郎の構想に従い...(以下略)』
 
[「元高校教師のブログ」〜「読む詩と歌う詩(歌詞)との違い--高野喜久雄が遺した答え」から引用させていただきました]
 
 
確かに「水たまり」「川」の原詩と歌詩とを比較すると、細かな相違点あるいは大規模な改作の跡が見て取れる。
これは詩の優劣の問題ではなく、上記引用の通り「読んで味わうか聴いて理解するか」の違いであろう。
これと同じようなやりとりが「くちなし」でもあったのではないだろうか。
その前提に立って改めて両者を照合すると
・祈り
・待ちこがれつつ
・ひたすらに
などの語句が作曲家によって差し替え (加え) られたことが分かる。
まさに “田三郎的ワード” だ。
 
 
これら3つの (現代詩文庫版もこの際加えよう)「くちなし」は僕にとって、互いに補完しあって詩のイメージ/歌のイメージを膨らませてくれる素晴らしい存在となった。
そしていずれまた「水のいのち」を手がける機会があれば、「読む詩」と「歌う詩」とをじっくり比べつつ味わってみたいと思う。
 
(完)
posted by 小澤和也 at 12:30| Comment(0) | 日記

2020年09月30日

3つの「くちなし」(1)

 
先日出かけた田三郎歌曲リサイタルの余韻が僕の中でいまだに漂っている。
なかでも最後に聴いた「ひとりの対話」...
これが脳裏から離れない。
高野喜久雄の紡いだ重く、深くそして厳しい言葉たち、それらに呼応して痛切・峻烈を極めた田三郎の音楽。
 
その終曲「くちなし」が単独で取り上げられることの多い名曲であることを僕は不覚にも知らなかった。
前奏がゆったりと流れ出した瞬間に会場の空気がふわっと和らいだ、あの驚きと動揺も忘れ難い。
 
このときの思いを追体験するために、田三郎歌曲集の楽譜をさっそく購入。
楽譜の風景は実に美しかった。
 
 
巻末に収められている詩をここに引用させていただく。
 
 
くちなし
高野喜久雄 詩/田三郎 曲
 
荒れていた庭  片隅に
亡き父が植えたくちなし
年ごとに  かおり高く
花はふえ
今年は十九の実がついた
 
くちなしの木に
くちなしの花が咲き
実がついた
ただ  それだけのことなのに
ふるえる
ふるえるわたしのこころ
 
「ごらん  くちなしの実を  ごらん
熟しても  口をひらかぬ  くちなしの実だ」
とある日の  父のことば
父の祈り
 
くちなしの実よ
くちなしの実のように
待ちこがれつつ
ひたすらに  こがれ生きよ
と父はいう
今も  どこかで父はいう
 
〜歌曲集『ひとりの対話』より
 
 
どうしても彼の詩集を手元におきたくなり、比較的入手の容易な自選詩集を古書サイトで購入。
さっそく「くちなし」のページを開いて...
ハッとした。
詩の “たたずまい” がまるで違うのだ。
 
 
くちなし
 
 
くちなしの木に
くちなしの花が咲き  実がついた
ただそれだけのこと
なのに心は  鳴り出して
もう鳴り止まぬハープのようだ
「ごらん  くちなしの実をごらん
熟しても  口をひらかぬ  くちなしの実だ」
とある日の  父の声までそれにまじって
 
〜詩集「二重の行為」より
現代詩文庫 40 高野喜久雄 (思潮社刊、1971年) 所収
 
 
全部で四連からなる歌詩のうち第一および第四連がすべて省かれている。
かつて庭にくちなしを植え、“わたし” に生きざまを説いた父の姿はここには描かれない。
一方で、生命の力と神秘に感嘆した “わたし” の心のふるえるさまを鳴り止まないハープの響きにたとえている点がどことなく面白い。
 
ともあれ、歌詩の第四連の存在を既に知っており「ひたすらに こがれ生きよ」という父のメッセージがこの詩のエッセンスであると思っていた僕は、この現代詩文庫版「くちなし」の良さをまだ味わえていないのが正直なところだ。
 
こうなってくるともう、詩集「二重の行為」の初出の版である1966年刊行の「高野喜久雄詩集」を見るしかないではないか!
 
〜ということでふたたび、古書店の通販サイトをあれこれ探し回ることに。
 
(この項つづく)
 
 
余談ですが...
現代詩文庫版を購入した際、とっても素敵な一筆が添えられていました。
 
 
幾度となく古書のネット通販を利用しているけれどこんなことは初めて!
じんわりとあたたかな気持ちになりました。
posted by 小澤和也 at 22:48| Comment(0) | 日記

2020年09月12日

半年ぶりの音楽会

 
 
《日本歌曲の今
田三郎・没後20年の今 [T]》
を聴く。
(9月10日、音楽の友ホール)
 
 
最後に足を運んだのがいつだったか、にわかに思い出せないほどに久しぶりの演奏会。
出演者のおひとりからご案内をいただき、なんとなく閃くものもあって出かけることに。
 
客席数は間引かれ、左右4つの扉は演奏中も開放されるなど、新型コロナ感染予防のためにしっかりと対策が取られていた。
(この演奏会を挙行するんだ) という関係者の方々の強い意志が感じられた。
 
僕にとって田三郎といえばなんといっても「水のいのち」をはじめとする合唱曲の神様のような存在であり〜恥ずかしながらそれが全て。
氏の歌曲については「パリ旅情」の中のどれかを聴いたことがある (ような気がする) だけ...
予備知識ほぼゼロで臨んだリサイタルだったわけだが、作品・歌唱そしてピアノ、これらのすべてが素晴らしく、遅まきながら新しい世界をまた一つ知ることができた。
 
 
§パリ旅情 (詩: 深尾須磨子)
さすらい/売子/パリの冬/街頭の果物屋/降誕節前夜/市の花屋/冬の森/すずらんの祭
斉藤京子(Sop)、小原孝(pf)
1959-60年作曲。
この日聴いた4つの曲集のなかでもっとも色彩的・絵画的な作品。
目にも鮮やかな果物たち、灰色の空、すずらんの花の香り、石の壁の冷たさ etc.
これらを描く豊かな言葉たちをそっくりそのまま音楽に置き換えたような歌とピアノ。
ことに「降誕節前夜」で聞かれる教会の鐘の音とオルガンの響きのリアリティ!
 
 
§啄木短歌集 (歌: 石川啄木)
やわらかに/頬につとう/いのちなき/病のごと/不来方の/ふるさとを/はずれまで/あめつちに
金子美香(Msop)、塚田佳男(pf)
1956年作曲。
三十一文字のコンパクトな世界になんとこれまたシンプルな、それでいて陰影に富んだ音楽を付けたことだろう。
ある歌は繰り返され、また別の歌は一度うたわれるだけであっさりと終わる...その呼吸と配列までもが美しい。
 
ふるさとを出でて五年(いつとせ)、
病をえて、
かの閑古鳥を夢にきけるかな。
 
曲の結び、ピアノが小さく奏でる「カッコウ」の声に思わずはっとした。
 
 
§水と草木 (詩: 北川冬彦)
滝/坐像/水蓮/大樹/雑草
原田圭(Br)、小原孝(pf)
1960-62年作曲。
この詩人の名は不覚にも初めて知った。
彼について少し調べるとダダイズム、シュルレアリスム、ネオリアリズムなどさまざまなワードが出てくるが、ここで作曲家が選んだ5編の詩はいずれも溢れんばかりのプリミティヴな生命力が、そして詩人の冷静な観察眼が感じられるものである。
〜そしてそこに付けられた音楽も。
 
 
§ひとりの対話 (詩: 高野喜久雄)
いのち/縄/鏡/蝋燭/遠くの空で/くちなし
廣澤敦子(Msop)、塚田佳男(pf)
1965-71年作曲。
高野喜久雄はもちろんあの「水のいのち」の詩人。
テキストの重さ、深さそして厳しさが上記三作とは隔絶したスケール感をもつ。
(詩の優劣とはもちろん無関係である)
当然ながらその音楽もひたすらに自問自答を繰り返すかのような痛切・峻烈な響きである。
 
そこへゆったりと現れ出る「くちなし」の前奏...張り詰めた会場の空気も一変したような気がした。
単独で取り上げられることも多いというこの「くちなし」だが、今回初めて聴くにあたって “チクルスの終曲として” 味わうことができたのは実に幸運であったと思う。
 
 
全編を通して、ベーゼンドルファーの重厚な音色をもって語られるピアノパートの存在感と説得力に圧倒された。
そして4名の歌手の皆さんの美しくまた誠実な歌唱にも終始心が震えっぱなしであった。
(余計なお世話だけれど...扉の開放によって変化したであろう響きや聴感上のバランスにはさぞ御苦労されたのではないかしら)
 
演奏のみならず、会全体の進行役や詩の朗読までを務められた塚田先生のお元気そうな姿も印象的であった。
お言葉のそこここにコンサートを開ける喜びと安堵感のようなものが現れており、それはこの場にいた全員に伝わっていたのではないかと感じた。
 
僕にとって久々のライヴ聴体験がこの演奏会でほんとうによかったと心から思う。
ご案内くださった廣澤さん、ありがとうございました。
posted by 小澤和也 at 23:31| Comment(0) | 日記

2020年09月08日

生きた楽の音

 
9月6日、日曜日
湘南アマデウス合奏団のプローベへ。
7ヶ月ぶりに “生きた楽の音” を聴く。
 
週に一度
めいめい楽器を携え集まり
大好きな音楽を奏で
ともにそのよろこびを語らう
 
そんな「ごく当たり前の日常」だと思っていたことが当たり前でなくなった現在。
 
この日練習したバッハ/ブランデンブルク協奏曲第3番の響きを僕はきっと忘れない。
posted by 小澤和也 at 22:44| Comment(0) | 日記

2020年08月28日

待望のベルニーニ再訪

 
仕事帰りの楽しい寄り道。
曜日限定でイートイン営業を再開されたお気に入りのカフェへ。
待望の再訪がようやく叶い感慨もひとしお。
 
 
確認したところ、前回の来店は5月末だった。
(そんなに経ったのか...)
 
5/31のブログ:
「2ヶ月ぶりの味」
 
 
さっそくブラジル(Washed)、中深煎りをオーダーする。
 
 
 
爽やかな酸味と苦みのバランスが見事。
シンプルだけれど豊かな味わい。
 
 
フロア内は密集防止のためテーブル数を減らすとともにカウンター席のスツールも撤去。
僕の感覚では6人で満席、といったところか。
お店としてはさぞ苦渋の決断だったであろう。
 
 
(もう一杯いただきたいな...)
銘柄はもう決めていた。
ベルニーニブレンド。
マスターの自信作とのこと。
 
 
思いのほか明確な個性をもったテイスト。
キーワードは「コク」と「甘み」であろうか。
僕がお代わりを頼む直前に入店されたお客さんも、着席するとすぐにこのブレンドをオーダーされていた。
(きっと常連さんに愛されている味なんだろうな)
想像が膨らむ。
 
 
会計時にマスターと言葉を交わした。
「お久しぶりです。ようやく来れました...美味しかったです」
『ありがとうございます。こうして皆さんにコーヒーを味わっていただけるのがほんとうに嬉しいですね』
飾らない言葉がそのままマスターのお人柄を表しているよう。
 
 
マスター、
またおじゃまします!
 
 
posted by 小澤和也 at 23:01| Comment(0) | 日記

2020年08月27日

忘れられない誕生日

 
 
これまで当たり前のように歌い、奏で、演じていた “表現者にとっての日常” がぴたりと歩みを止めて...はや半年。
そんな中で迎えた誕生日、いろいろな意味で忘れられないものになりそうです。
 
SNS等を通して、ほんとうにたくさんの方々からお祝いのメッセージを頂戴しました。
ありがとうございます。
振り返ったときに
(ああ...大変な年だったけれど、まあよくやったよな)
と思えるような一年間にしたいと思います。
 
“音楽ノート” ともども、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 
 
小澤和也
 
 
posted by 小澤和也 at 23:59| Comment(0) | 日記

2020年08月01日

Twitterを始めて10年

 
 
『Twitter記念日おめでとうございます
ご登録いただいてからちょうど10年です』
 
昨日Twitterにこんなメッセージが。
もうそんなに経つのか...!
というのが正直な感想です。
 
 
数えきれないほど多くの方々とこのフィールドで出会うことができました。
そしてこの間に得た知識や経験、喜びや共感の大きさ、深さは計りしれません。
(腹筋も大いに鍛えられました)
僕にとってほんとうに貴重な財産です。
 
 
翻って...
僕のツイートはこれまで42000あまり (リツィート含む)、この数が多いか少ないかはさておき、大半はくだらないネタやただのボヤキばかりです。
それらにつき合ってくださるみなさまにはただただ感謝しかありません。
 
 
この10年でいちばん驚いたのは
 
 
拙ツイートがいわゆる “まとめサイト” に纏められたことでしょうか。
(もしよろしければハッシュタグ #吹奏楽部のシセ先生 をご覧ください)
 
 
これからもゆる〜く発信しつつ楽しんでいけたらと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
 
 
小澤和也 Kazuya OZAWA
@kazuya_ozawa
posted by 小澤和也 at 11:50| Comment(0) | 日記

2020年07月22日

響きの記憶?バーンスタインのベートーヴェン

 
先日、NHKラジオ「音楽の泉」でベートーヴェンの第1交響曲を聴いた。
解説の奥田佳道さんがセレクトしたのは俊英アンドリス・ネルソンスの指揮するウィーン・フィル (以下VPO)、2019年収録の演奏である。
 
実に佳い響き。
とりわけVPOの木管セクションの音色に脈々たる歴史を感じた。
フルトヴェングラー盤 (録音:1952年) やバーンスタイン盤 (同:1978年) でも味わうことのできるあの “ぞわぞわっ” とした独特の響きの感触。
 
 
いつしか僕の頭の中は、初めてベートーヴェンの交響曲を全9曲通して知った頃の遠い記憶に辿り着く。
あれは中学生の頃だったか、FM放送で平日の早朝にベートーヴェンの交響曲やピアノソナタを網羅的にオンエアしていた。
ソナタは確かブレンデルの全集盤だった気がする...そして交響曲は当時リリースされたばかりのバーンスタイン&VPO盤だったのだ。
早起きをしてそれらのすべてをカセットテープに収め (エアチェックという言葉が当時あった)、音楽之友社のミニスコアを広げて飽きもせず取っ替え引っ替え聴いていたっけ。
 
〜などと考えているうちに、あのときの感覚をもう一度思い出したくなってしまい...
 
 
 
居ても立っても居られず、中古盤をゲット。
 
改めて第1番から順に聴いているのだが、自分でも驚くほどに耳が「憶えている」。
あの頃はまだ、どこまでがベートーヴェンの書いた音楽で、どの部分がバーンスタインの “想い” なのかまでは解らなかったけれど。
posted by 小澤和也 at 22:01| Comment(0) | 日記

2020年06月28日

前へ

 
 
 
きょう6月28日は何事もなければ東京農工大学グリークラブのコンサートのはずでした。
 
 
5年に一度、OB/OGの皆さんとともに歌う記念ステージを伴ったスペシャルな演奏会。
男声は『月下の一群』他、女声は『朱鷺』を取り上げる予定でした。
 
 
また、エネルギーとパワーに満ち溢れた二人の学生指揮者と在校生による若き歌声も楽しみでした。
彼らとのプローベが一度もない春〜夏なんてこれまで一度もなかったことです。
(おーい...みんな元気か〜い?)
 
 
「第40回記念演奏会」は来年夏に改めて開催する方向で調整を進めています。
 
 
農工グリーは前を向いて進んで行きます。
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 22:27| Comment(0) | 日記