2017年05月12日

中世の響きを味わう

 
 
第13回 小金井音楽談話室
騎士と貴婦人
〜中世イタリアとフランスの宮廷舞曲
を聴く。
(10日、宮地楽器ホール 小ホール)
 
クラヴィシンバルム、中世ゴシックハープ、オルガネット etc.
これらはすべて楽器の名称。
中世音楽にはまったく明るくない僕にとっては (何が聴けるんだろう...?) といった不思議な、そして新鮮な気分で出かけたコンサートである。
 
演奏は古楽のスペシャリスト、西山まりえさんとコリーナ・マルティさん。
開演前のステージに置かれていた楽器たちにまず惹かれる。
 
 
上:ゴシック・ハープ (メムリンク)
下:ゴシック・ハープ (ボッシュ)
 
 
どちらも中世の絵画に描かれていた楽器の姿をもとに復元されたものだそう。
(メムリンク、ボッシュはそれらの画家の名前)
 
 
上:クラヴィシンバルム および
下:その鍵盤部分
 
 
14c末〜15c前半の文献資料により復元された、"チェンバロの祖先" に当たる楽器。
(それまでは16cイタリアのものが最古のチェンバロと言われていたとのこと)
 
 
オルガネット。
ポルタティフ (可搬型)・オルガンで、膝の上に乗せ左腕で "ふいご" を操作しながら右手で鍵盤状のボタンを押すというもの。
 
これらの楽器 (他にリコーダーも) を用い、デュエットで、時に独奏で往時の雅な宮廷舞曲や歌曲の器楽編曲作品が次々と奏でられてゆく。
楽曲はロンドンやファエンツァなどヨーロッパ各地の図書館に所蔵される13〜15cの写本に収められたもの。
楽譜の読み解きにもさぞ途方もない苦労があったことであろう。
 
なんといっても各楽器の音色の美しさに心を奪われた。
聴きながら、あたかも中世にタイムトリップし、その時代の楽士たちの息遣いを間近で味わっているような気分に。
 
終演後、いても立ってもいられず (大げさだがこのときはほんとうにそんな心境だった) ロビーでCDを購入。
(こんなことは滅多にないのだけれど)
 
 
《中世の四季/西山まりえ コリーナ・マルティ》
Oasis Music Factory KCD-2056
 
この日会場で味わった聴体験をずっと思い出させてくれそうな、美しい演奏と録音である。
(一般にはこれからリリースされるそうだ)
 
このような素敵なコンサートを企画され、ご案内くださった小金井音楽談話室ディレクターの足立優司さん...今回もありがとうございました。
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 08:11| Comment(0) | 日記

2017年05月07日

専修大学フィルと

 
専修大学フィルの春合宿@岩井海岸 へ。
 
 
この駅に降り立つのはちょうど一年ぶり。
跨線橋からの眺望が懐かしい。
 
 
 
今回のお宿は、以前にたびたび横浜の吹奏楽団ホルツ・ブラス・カペーレとともにお世話になった大謙館さん。
 
 
曲目はスッペ/軽騎兵序曲、マスネ/絵のような風景、そしてベートーヴェンの第5交響曲。
 
 
他の作曲家の作品が簡単、というわけではもちろんないけれど、やはりベートーヴェンの演奏に求められる深い思慮と集中力は別格だ。
奏者ひとりひとりが正しくしかも美しい音を究め続けなければならない。
細かいパッセージやフレーズを取り出し、じっくりと時間をかけてそのことをメンバーに伝える。
この先の進化に期待。
 
専フィルのみなさん、お疲れさまでした。
また会いましょう!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:58| Comment(0) | 日記

2017年04月12日

宮沢賢治の芸術論

 
NHKテレビの「100分de名著」、宮沢賢治スペシャルを観る。
その最終回で紹介された『農民芸術概論綱要』の中の文章がにわかに僕の心をとらえた。
 
1926年春、29歳の賢治はそれまで就いていた教員の職を辞し自給自足の生活をスタートさせ、同年夏に私塾を開く。(羅須地人協会)
そこでは地元農民を対象にした自然科学や語学の講義とともに、レコードコンサートや童話の読み聞かせなども催されたのだとか。
 
賢治は上記の他、自らが提唱する「農民芸術」というものについても講義を行った。
そのテキストとして書かれたのが『農民芸術概論綱要』なのだ。
 
「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい」
という書き出しからも分かるように、この綱要は当時の地元農民を主語とした内容である。
しかしながらこれは、現代のすべての人々にもピタリと当てはまるものなのではないか、と改めて思うのである。
 
この機会に全文を読んだ。
以下、番組で紹介されなかった部分も含め、はたと膝を打った箇所を自由に引用してみよう。
 
 
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
「われらは世界のまことの幸福を索ねよう  求道すでに道である」
("序論" より)
 
求道すでに道である...
これにまずグッと来た。
 
 
「曾てわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が  生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した」
("農民芸術の興隆" より)
 
現代にもそのまま当てはまるであろう厳しい指摘。
先人たちの時代においては生活と宗教、芸術、科学が一体のものであった、と。
 
 
「いまやわれらは新たに正しき道を行き  われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある」
(同前)
 
 
「芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり  成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する」
("農民芸術の(諸)主義" より)
 
難解だが含蓄に富む。
 
 
「強く正しく生活せよ  苦難を避けず直進せよ」
「なべての悩みをたきぎと燃やし  なべての心を心とせよ
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」
("農民芸術の制作" より)
 
対象は自然の中にある、ということか。
 
 
「われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である」
("結論" より)
 
永久の未完成これ完成である...
これも名言だ。
求道すでに道である、の一文とともにひとつの大きな円環をなしているように思われる。
 
 
誰のための、何のための芸術であるか/あるべきか?
音楽に携わる者として、折にふれ考え続けていきたい言葉たちだ。
 
番組中でもうひとつ、『マリヴロンと少女』という短編が取り上げられていた。
こちらもなかなか面白い...
機会があったらこれについても触れてみよう。
 
 
(追記)
先に引用した
「世界がぜんたい幸福に〜」のくだり、どこかで見たことがある文章だなあ、とキーボードを打ちながらしばし考えて...
 
思い出した。
 
 
石巻市立大川小学校の跡地にて。
(2013年11月撮影)
校舎、もしくは施設の壁面に描かれたものだろうか。
(平成13年度卒業制作とある)
 
これを見たときのことは...言葉にならない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:36| Comment(0) | 日記

2017年03月22日

ご来場御礼

 
 
立川市民オペラ公演2017『カルメン』、二日間にわたる公演が無事終了しました。
おかげさまでチケットは両日とも完売、たくさんのお客さまにお楽しみいただくことができました。
 
 
≪カルメン≫の魅力 〜合唱曲で綴るミニコンサート〜リハーサル風景
2016.12.15.@RISURU小ホール
指揮/小澤和也
 
 
昨年春からの譜読みと仏語ディクションのレッスン、そして秋より演出:直井研二先生および演出助手:原純さんのご指導のもとでの立ち稽古と、合唱団は絶え間なく研鑽を積んできました。
その甲斐あって、今回は一段と素晴らしい出来映えでした。
(手前味噌ですが...)
 
ある日の立ち稽古より
カルメン:増田弥生さん、エスカミーリョ:大川博さん
 
マエストロ、キャスト、そして音楽スタッフ
 
 
素晴らしいソリストの皆さん、合唱パートを支えるだけでなくしばしばソロパートも歌い、稽古を円滑に進める手助けをしてくださったコーラスサポートのメンバー、さらには舞台・衣裳他スタッフの方々...
ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
 
 
本番中はこのような出で立ちで、映写室 (通称:金魚鉢) と楽屋、オーケストラピットなどの間を駆け回っておりました。
 
 
直井先生の演出は、実に登場人物たちへの愛にあふれるものでした。
なかでも第1幕、
《ミカエラ&ドン・ホセの二重唱、ホセが遠い故郷に暮らす母親からの手紙をミカエラより渡される場面。
〜二人の短いやり取りのあと、ミカエラが舞台中央で彼の母親の様子を歌う。
〜その間に、ホセは手紙と一緒に受け取った小遣い (財布) をそっとミカエラの手提げ籠の中へ戻す...》
僕はこのシーンがたまらなく大好きでした。
 
そして公演終了後のレセプション席上、直井先生がお母様との思い出をちらりと話されたのです。
(ああ...あの場面はご自身の心境そのものだったのか...)
ふたたび胸が熱くなりました。
 
 
立川市民オペラの次回公演は来春、ふたたび直井先生の演出でヴェルディ『椿姫』をお送りします。
どうぞご期待ください!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:59| Comment(0) | 日記

2017年03月16日

歌う「魔王」、語る「魔王」

 
 
"ドイツリートで歌う   義太夫で語る「魔王」"
を聴く。
(15日、渋谷にて)
 
出演は河野克典さん、豊竹英太夫さん他。
ステージにはグランドピアノと緋色の演台が並ぶ。
滅多に見られない組み合わせ。
 
 
前半はまず、河野さんの独唱による日本歌曲のアンソロジーから。
あたかも字幕を見ているかのように、言葉のひとつひとつががクリアに耳に届く美しい歌唱。
なかでも、今回初めて聴いた『鴉』(信時潔/清水重道)、『つくだ煮の小魚』(中田喜直/井伏鱒二) の2曲が楽しめた。
 
続いて豊竹英太夫さんによる浄瑠璃『艶容女舞衣 (あですがたおんなまいぎぬ)』〜酒屋の段のサワリが語られる。
義太夫節を生で体験するのはほとんど初めてだったのだが、僕が勝手に抱いていたイメージとは異なり、力強さと繊細さとを兼ね備えた語りであった。
 
 
いよいよプログラム後半。
この日のメインである2つの『魔王』の歌い比べだ。
はじめに河野さんの歌うシューベルト。
声の色、顔の表情を駆使して四役 (語り手・父親・息子・魔王) を描き分ける圧巻の演奏...ライヴだからこそ味わえる醍醐味。
 
続いて、ゲーテの原詩を河野さんが訳したものをベースとして英太夫さんが編作されたという『義太夫版・魔王』。
...これはほんとうに聴いてよかった!
 
「父上 聞こえませぬか
  鬼がすぐそこに」
「あれは 樹木のざわめき
  木立の囀り 案ずることはない」
「かわいい子よ 一緒にくるのだ
  麗しい娘やともたちが大勢で待っている」
  etc.
 
歌唱とは異なり純粋に「語りの芸術」である義太夫では、声色の使い分けにおいて制約が圧倒的に少ない。
シンプルに、そしてときに打楽器的なインパクトをもって語りを支える太棹 (三味線) の存在感も絶大。
ひとつの試みとして実に素晴らしい「魔王」。
 
新鮮な驚きと感動の余韻の残るなか、河野さんがふたたび登場。
最後にシューベルト、シューマン、ヴォルフによる珠玉のリートを聴かせてくださった。
 
 
歌うということ、そして語るということについて考え、味わうことのできたゴージャスなひとときであった。
 
 
posted by 小澤和也 at 01:06| Comment(0) | 日記

2017年03月12日

夕暮れの鎌倉

 
湘南アマデウス合奏団とのプローべへ。
「エロイカ・シンフォニー」とじっくり向き合う。
 
ふだんは市の中心に近いところで練習するのだが、今日の稽古場はいつもより海岸寄りだったので、ふと思い立って遠回りして帰ることに。
 
 
鵠沼駅から江ノ電に乗る。
高校生の頃以来か...
懐かしさを通り越して新鮮。
 
 
二の鳥居と段葛。
今日は日中、鶴岡八幡宮で東日本大震災追悼・復興祈願祭が執り行われていた。
時すでに夕暮れ、せめてその余韻だけでも味わおうと思い、舞殿まで来てみると...
 
 
周囲には篝火が焚かれ、幻想的な光景が。
そこは一日に一組のみ、日の入りの時刻に行われる結婚式の舞台となっていた。
(『幸あかり挙式』 というのだそうだ)
 
この日を選ばれたご夫妻に幸多かれ。
 
 
帰宅して、先日頂戴した特別祈願ローソクを灯し、改めて6年前を思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 00:00| Comment(0) | 日記

2017年03月02日

完売御礼

 
 
立川市民オペラ公演2017
ビゼー『カルメン』、
おかげさまで全席完売となりました。
ありがとうございます。
 
 
演出・直井先生、古谷マエストロ、
そしてキャストの皆さんと。
 
 
公演まであと二週間あまり。
合唱団の歌と演技にもいよいよ磨きがかかってきました。
どうぞご期待ください。
 
 
 
posted by 小澤和也 at 09:29| Comment(0) | 日記

2017年02月26日

祈りのローソク

 
 
鎌倉へ。
 
東日本大震災の犠牲者を哀悼し、被災された方々に思いを寄せて、神道・仏教・キリスト教が手を取り合った「鎌倉宗教者会議」。
毎年3月11日にはこれら三者が持ち回りで追悼供養・復興祈願祭を執り行っている。
今年は所用により参加できないため、その代わりに特別祈願ローソクを円覚寺にて戴く。
 
 
鶴岡八幡宮、明王院、そしてカトリック大船教会にて加持祈祷、祝福を受けたローソクとのこと。
 
 
あの日から
間もなく6年が経つ。
posted by 小澤和也 at 22:47| Comment(0) | 日記

2017年02月13日

フルトヴェングラー・スイッチ


ここのところ僕の中で久々に "フルトヴェングラー・スイッチ" がONになっている。
年に数回、無性に彼の遺した音盤を集中的に味わいたくなるのだ。
 
ずっと聴きたいと思っていた『トリスタン前奏曲と愛の死 '42年録音』や『モーツァルトpf協20番 '54年ルガーノライヴ』(いずれもベルリンフィル) のCDを先日ようやく入手、彼ならではの破格の音楽表現を堪能。
 
そして一昨日。
『フルトヴェングラー オペラライヴ』なるBoxが我が家に届いた。
 
 
箱が大きい!
それもそのはず...全41枚組である。
内訳はヴァーグナーが最も多く24枚 (『'50年ミラノの指環』を中心に)、あとはザルツブルク音楽祭での『フィガロ』『ドン・ジョヴァンニ』『フィデリオ』『魔弾』『オテッロ』など。
 
さっそく『ラインの黄金』を聴く。
録音の古さはほとんど気にならない。
むしろ、貧しい音ゆえの生々しさが僕の音楽的興味の矛先を刺激する。
それは「フルトヴェングラーが求めたかった音の "重みと形"」、そして「ある楽想から次の楽想へとうつりゆく、その間の "推移の表現技術"」だ。
 
(音楽家のくせに他人様の演奏を聴いて喜んでいるなんて)
と言われそうだが...
好きなものは好きなのだから仕方ない。
今夜は『ヴァルキューレ第1幕』を聴こう。
 
posted by 小澤和也 at 08:26| Comment(0) | 日記

2017年02月07日

名曲アルバム『マーラー第6交響曲』

 
先日、NHKテレビの番組表をチェックしていてこんなプログラムを見つけた。
 
『名曲アルバム
「交響曲第6番」マーラー作曲』
 
!!
マーラーの6番といえば全4楽章、およそ80分の大作だ。
まさか「名曲アルバム」でこの作品が取り上げられるとは!
 
さっそく録画して視聴する。
僕の興味はただ一点。
放送時間は5分間...その中でどこをカットするのか、否、どこを残しどうやって繋ぐのだろうか?であった。
 
このとき脳裏をよぎったのは、以前同じ放送局の某音楽番組で流れた、やはりマーラーの交響曲第1番〜第4楽章である。
あのときのカット (17-18分の曲を7分ほどに縮めたのだったと記憶する) があまりにも酷かったのだ。
 
さて...第6交響曲である。
録画を聴いて納得、答えは明快であった。
流れたのは第1楽章アレグロ・エネルジーコ、ソナタ形式で書かれた20分強の充実した楽章である。
まずその呈示部 (第1主題部〜ブリッヂ〜第2主題部) をノーカットで演奏...ここまでで約4分20秒。
その先の展開部、再現部はすべて割愛され、一気にコーダへと飛ぶ。
その終盤 (444小節以降) から楽章の終わりまでを演奏...この部分が約35秒、トータルで4分55秒という実に潔くかつ音楽的なアレンジだったのだ。
【厳密にいうと、この35秒の間には18小節のカットが施されていた (457-474小節) のだが、これがまた極めて巧みな接続で、不自然さはかなり軽減されていた】
 
番組の性質上、どのように編集したところで「伝えきれないもの」は出てきてしまう。
その中で何を捨てて何を採るか...
今回の「5分に収めたマーラー第6」は見事な解を示していると僕は思う。
 
この番組の良かった点は他にもある。
マーラーについて、また当時の楽都ウィーンを取り巻く芸術的環境についての字幕解説が簡潔にして当を得たものであった。
加えて映像の編集も素晴らしい。
始まって1分45秒ほど、全曲のモットーである特徴的なリズム、およびイ長調→イ短調の和音交替が現れる場面 (57小節〜) では『前衛芸術家の本拠地セセッション (分離派館)』の美しい装飾が映し出される。
 
 
そして極め付けは2分30秒過ぎ、堰を切ったように魅力的な第2主題がへ長調で流れ出す、その瞬間に『運命の女性アルマ』の写真が。
音楽と映像の絶妙なシンクロナイズ!
 
最後にもう一つだけ。
この交響曲の俗称、マーラーのまったく預かり知らぬところでいつの間にそう呼ばれるようになってしまった『悲劇的』の文字が、番組中に一度も現れなかった。
ここでは触れないが、その生涯と作品を考えるうえで、理解の妨げあるいは誤解に繋がる "通説" や "アヤしい逸話" がマーラーには多々つきまとうという。
『悲劇的』の呼称もそのひとつだ。
この番組ではおそらく、そのあたりを意識して排したと思われる。
この点も大いに評価されてよいのではないだろうか。
 
 
今後の放送予定 (飯森範親さんのTwitterを参照させていただいた) は次のとおりだそうだ。
2/8(水) 10:50〜 Eテレ
2/9(木)   5:55〜 BSプレミアム
2/11(土) 5:55〜 Eテレ
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 11:52| Comment(0) | 日記