2023年05月07日

音楽事典で見る『ペーテル・ブノワの生涯』

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西洋音楽を扱った世界最大の参考文献のひとつである「ニューグローヴ世界音楽大事典」。
この中でペーテル・ブノワがどのように取り上げられているか、以下に拙訳を試みた。

※一文ごとの改行、および段落毎に適宜施した空白行は小澤によるものである
※本文の後に記載された「主要作品一覧」他は省略した


ペーテル・(レオナルト・レオポルト・) ブノワ (1834年8月17日 ハレルベーケ生まれ〜1901年3月8日 アントワープにて没)
はベルギーの作曲家、指揮者、教育者。
彼は父親から最初の音楽レッスンを受け、その後ピアノとオルガンをP. カルリエル (デッセルヘムの堂守、オルガニスト) に学んだ。

1851年にブリュッセル音楽院の生徒となり、ピアノ・和声・対位法・フーガおよび作曲を受講、1854年に和声と作曲で一等賞を受賞する。
彼の主任教師は校長のフランソワ=ジョセフ・フェティスであった。

音楽院での勉強を終えた後、彼はC.-L. ハンセンス (モネ劇場の指揮者) のもとで勉強を続ける。
この頃のブノワはやむなくモネのオーケストラの追加トライアングル奏者となるほどに厳しい経済的苦境にあった。
その後1856年に彼はブリュッセルのパルク劇場の指揮者となる。

ブノワは1857年にカンタータ『アベルの殺害』(仏語のテキストによる。当時の政府によってそのように規定されていた) でベルギーのローマ賞を受賞した。
フェティスのアドバイスにより彼は賞金をドイツ楽旅の費用に充て、ケルン、ドレスデン、ベルリン、ミュンヘン、およびプラハにて過ごす。

帰国後ブノワはパリへ移り、1862年にブフ=パリジャン劇場の指揮者となった。
しかし1863年に彼は辞任しベルギーへ戻り、はじめブリュッセルに、次いで1867年にアントワープに定住、そこでフランドル音楽学校を設立する。

短期間のうちにこの学校はフランドルにおける音楽教育を確立するための困難な闘争の、またフランドルの人々の文化的発展のためのより大きな運動の重要な要素となった。
ブノワのたゆまぬ努力はベルギー政府が学校を承認したばかりでなく1898年にベルギーの仏語圏の音楽院と同じ権利を持つ王立フランドル音楽院にその地位を引き上げたことにより報われる。
ブノワはさらに、アントワープにおけるフラマン語の歌劇場の必要性を主張した。
1890年にネーデルランド・リリック劇場が設立され、1893年にこれがフランダース歌劇場となった。


作曲家としてブノワはフランドルの音楽に新しい命を吹き込んだ。
彼はフランドルの人々に彼らの芸術への信念を与え、彼自身の創造的な実例を通して他の者たちが作曲することを奨励した。
彼の主な目的は、フランドルの音楽生活を一般的なヨーロッパ文化のレベルに引き上げ、ベルリオーズやリスト、ワーグナーらによって示された規範に合わせることであったが、フランドルの国民意識運動とも関連していた。
彼の作品のこれらの2つの側面は、その画家の生きた時代のアントワープを描いた『ルーベンスカンタータ』の中に見られる。

様式のうえで彼の作品は19世紀のロマン主義に属している。
当初、フェティスの影響による彼の書法はフランス楽派のそれに近かった。
初期作品ではベートーヴェン、メンデルスゾーン、リスト、ショパン、ウェーバーからの影響を受ける。
しかし、彼のスタイルが発展するにつれ、ベルリオーズやマイアベーアの様式へ傾いていった。
創作力の最盛期において彼はワーグナーを思わせる劇的効果とともに大胆で非古典的な和声を用いた。


ブノワは主に声楽曲の作曲家であり、大規模な合唱ミサ曲への際立った熟達の力を持っていた。
彼は意識的に自身の芸術をフランドルの人々の中に根ざした道徳的感覚の支配下に置く。
彼の第一の作曲の目的は大衆によって演奏され理解されることであり、そのために彼は後期作品のスタイルを意図的に平易なものとした。
彼は伝統的な民俗音楽や芸術音楽のメロディとリズムの中に国民性を探し求める。
キャリアの初期において彼は既存の作品を用い、また子供のためのカンタータを考案した。
彼が採用した最も独創的な形式は、俳優がリズムで話し、全体を通してオーケストラが伴奏する形の音楽劇であった。
ブノワは国際的な知的資質を持った教育者であり、その音楽院のカリキュラムは時代をはるかに超えるものであった。

(ここまで)
posted by 小澤和也 at 18:15| Comment(0) | 音楽雑記帳

2022年07月20日

カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる (5)


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「源流をたどる(4)」の続きです。

『カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる』
(1) へのリンク↓
(2) へのリンク↓
(3)へのリンク↓
(4)へのリンク↓

[第6場]
【トゥリッドゥ、ローラ、フィロメーナ、ブラーズィ、カミッラ、ヌンツィア】
ヌンツィアの居酒屋の前の広場。
オペラの「シェーナ、合唱と乾杯の歌」にあたる場面。
戯曲では前の第5場から続くシーンであるが、オペラにおいては前景との間に例の有名な「間奏曲」が挿入されているのはご存知のとおりである。

ヌンツィアの居酒屋の前の広場。
皆で一杯やろう、とトゥリッドゥがローラに声をかける。
ブラーズィ、カミッラ、フィロメーナも集まってくる。
オペラではトゥリッドゥ、ローラと合唱が『輝くグラスのなかで泡立つワインに万歳!」と歌うのだが、戯曲ではトゥリッドゥを中心に軽妙な、そして際どい会話が続く。

トゥリッドゥ: (店の中のヌンツィアに向かって) おい、母さん!あの美味い酒はまだあるかな?
ヌンツィア: ああ、あるよ、お前さんがきょうフランコフォルテから買ってきたはずのものならね!
トゥリッドゥ: わかったわかった、復活祭の日だってのに母さんまでそんな話するなよ(...)

ローラ: 兵隊に行ってた先では向こうの女たちをこんなふうに口説いていたのね、見れば分かるわ!
トゥリッドゥ: まったく女ってやつは!俺はいつでもこの村のことばかり考えていたんだ (...)
可哀想な男が遠くへ行って、頭も心もおかしくなって、それでも一人の女のことだけを考えながら...
そこで突然聞かされるんだ、「あの女結婚したんだぞ」って!
ローラ: あんたが遠くにいてそこで他の女に囲まれているときでも「彼女らには一切見向きもせずひとりの女のことだけをずっと考えている」と女は信じてるだなんて思ってるの?
そして帰った後は最初の女に落ち着くとか思いたいわけ?
トゥリッドゥ: 悪かったよ、謝るよ...

〜なんとも散々なトゥリッドゥである。


[第7場]
【アルフィオ、トゥリッドゥ、ブラーズィ、ローラ、カミッラ、およびフィロメーナ】
この場面以降はオペラの「フィナーレ」に相当する。
アルフィオがトゥリッドゥの差し出すグラスを撥ねつけ、二人が決闘の約束を交わすという展開は戯曲においてもほぼ同じであるが、一つ決定的に異なる点がある。

トゥリッドゥ: アルフィオさんよ、何か俺に言いたいことがあるのかい?
アルフィオ: 何も。俺が言いたいことは分かっているだろう。
トゥリッドゥ: それじゃ俺はここであんたの言いたいようにするさ。

(先に席を外していたブラーズィが妻に家へと入るように合図し、カミッラは出て行く)

ローラ: いったいどうしたの?
アルフィオ: (ローラの言葉に耳を貸さず彼女を押しやって) ここでちょっと顔を貸してくれれば、腹を割ってあの話ができるんだがな。
トゥリッドゥ: 村はずれの家のところで待っていてくれ、(...)すぐにあんたのところへ行くから。

(互いに抱き合ってキスをする。トゥリッドゥは彼の耳を軽く噛む)

アルフィオ: よくやってくれた、トゥリッドゥさんよ!お前さんにはその腹づもりがあるってことか。これこそ名誉を重んずる若者の誓約というものだ。
ローラ: ああ、マリアさま!アルフィオさん、どこへ行くの?
(...)

このように、戯曲においてはトゥリッドゥがアルフィオの耳を噛む瞬間をローラも目撃するのだ。
そしてアルフィオだけがこの場を立ち去り、第8場へと進む。


[第8場]
【トゥリッドゥ、ローラ、およびヌンツィア】
「俺がもう持ってこないほうがお前にはいいんだろうが」とアルフィオに突き放されうろたえるローラ。

ローラ: トゥリッドゥさん!あなたまでこのまま私のことを放っておくつもり?
トゥリッドゥ: 俺はあんたとはもう関係ない、二人の仲はすっかりおしまいだ。あんたの旦那と生き死にを賭けて抱き合ってキスしたのを見たろう?

戯曲ではローラのただならぬ心境が克明に描かれ、この終盤における物語中の存在感も確かである。
(この後の最終第9場にも彼女は登場する)
マスカーニがオペラ化にあたり、ローラを “修羅場” から早々に退場させているのも彼なりの考えがあってのことであろう。

ローラとのやり取りのさなかに「まだいたのかい?」とヌンツィアが顔を出す。
そこで、酔いのせいにして「サンタを頼む...」とトゥリッドゥが最後の思いを母親へと託すくだりはオペラと戯曲でほぼ共通である。

alla Santa, che non ha nessuno al mondo, pensateci voi, madre.
サンタのことなんだけど...あいつには頼れる人が誰もいないんだ...だから考えてやってくれないか、母さん。

cf. 前にも触れたが、短編小説においてはサントゥッツァは裕福な農園主コーラ氏の娘という設定になっている。


[第9場]
【ヌンツィア、ブラーズィ、ローラ、フィロメーナ、カミッラ、およびピップッツァ】
以下、台詞の全文を拙訳にて:

ヌンツィア: いったい何が言いたいんだい?
ブラーズィ: ローラ、家にお帰りよ、帰るんだ!
ローラ: なんで帰らなきゃならないのよ?
ブラーズィ: 今お前さんがここに、この広場にいちゃ良くないんだよ!もし誰かについていてほしかったら...おい、カミッラ、ここでヌンツィアさんのそばにいてやってくれ。
フィロメーナ: ああ、神様!
ヌンツィア: 息子はどこへ行ったんだい?
カミッラ: いったい何があったのさ?
ブラーズィ: 見てなかったのか、ばかだなあ、あのとき耳を噛んだろう?あれは俺がお前を殺すか、さもなくばお前が俺を殺すか、って意味なんだ。
カミッラ: ああ、なんてこと!
ヌンツィア: 私のトゥリッドゥはどこへ行ったのさ?もう何がどうなっているんだい?
ローラ: 不幸な復活祭になってしまった、ヌンツィアさん!一緒に飲んだワインがぜんぶ毒になったのよ!
ピップッツァ: トゥリッドゥさんが殺された!トゥリッドゥさんが殺されたよ!

(幕)


こうして戯曲とオペラを比較してみると、マスカーニと台本作家たちによるオペラ作品としての再構成がいかに当を得たものであるかを改めて実感させられる。
同時に、今回の戯曲台本との出会いによって、近い将来再び「カヴァレリア〜」のスコアを開いたときにこれまでとひと味違った楽譜の風景が見えてくるような気がするのだ。
楽しみである。


[参考資料]
カヴァレリーア・ルスティカーナ/河島英昭訳 (岩波文庫)
オペラ対訳ライブラリー カヴァレリア・ルスティカーナ/小瀬村幸子訳 (音楽之友社)
イタリアオペラを原語で読む カヴァレリア・ルスティカーナ/武田好 (小学館)
戯曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」翻訳/武田好 (星美学園短期大学研究論叢第40号)
Cavalleria rusticana/Giovanni Verga (OMBand Digital Editions)
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2022年02月23日

カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる (4)


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[画像: マスカーニによる間奏曲(ピアノ譜)の自筆原稿(一部)]

「源流をたどる(3)」の続きです。

『カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる』
(1) へのリンク↓
(2) へのリンク↓
(3)へのリンク↓


[第5場]
【サントゥッツァ、アルフィオ、およびブラーズィ】
怒りと絶望にひとり打ちひしがれるサントゥッツァのもとへローラの夫アルフィオが現れる。
サントゥッツァはたまらずトゥリッドゥとローラの関係を彼に告げて...
という物語のアウトラインはオペラとほぼ共通であるが、第4場と同様にその描写は戯曲のほうがいっそう生々しい。


サントゥッツァ: ああ、神様があなたを遣わされたんだわ、アルフィオさん!
アルフィオ: ミサはどのあたりかな、サンタさんよ?
サントゥッツァ: 遅かったですね。でもあなたの奥さんはあなたを探してトゥリッドゥと一緒に行きましたよ。
アルフィオ: どういう意味だ?

戯曲ではこれに続いて、オペラにはないサントゥッツァの台詞が挿入される。
『あなたの奥さんは祭壇のマリア様のように黄金をいっぱい身にまとって歩き回っていますわよ、あなたにとっても名誉なことでしょう、アルフィオさん』
強烈な皮肉、そしてサントゥッツァのローラへの嫌悪がここにも見てとれる。
アルフィオは当然のごとく、
『おい、それがおまえさんに何の関係があるんだ?』
とにわかに気色ばむ。
そしてサントゥッツァのさらなる一言「あなたが外で稼いでいる間にローラは家を飾り立てているのよ〜」に続くのだ。
[この「家を飾り立てる」は「(夫婦間の) 不義を働く」という意味なのだそう]


その後のアルフィオの台詞もなかなかである。
『(...)復活祭の日の朝から酔っ払ってるのか、それなら鼻からワインを絞り出してやる!』
『(サントゥッツァの言うことが)もし嘘だったなら、(...)その目で泣けないようにしてやる (目をくり抜く!)、おまえも、不名誉な一族みんなもな!』

そしてこれに応ずるサントゥッツァの言葉も痛切の極みである。
『アルフィオさん、わたしは泣くこともできないんです。わたしの操を奪い、そしてローラのもとへ走ったトゥリッドゥを見てももう涙も出なかった』

アルフィオはサントゥッツァに礼の言葉を述べ、教会へは行かずに家に戻る。
『(...) 女房が俺を探しているのを見かけたら、トゥリッドゥへの贈り物を取りに家へ帰ったと言ってくれ』


ミサが終わり村人たちが教会から出てくる。
最後に現れたブラーズィがサントゥッツァに気づく。
『サンタさんよ、もう誰もいなくなってから教会へ行くっていうのかい!』
サントゥッツァは
『わたしは大罪を犯してしまったのよ、ブラーズィおじさん!』
と言い残して教会へと向かう。


戯曲においては
この場面の後、サントゥッツァは全く登場しない。

(つづく)


[参考資料]
カヴァレリーア・ルスティカーナ/河島英昭訳 (岩波文庫)
オペラ対訳ライブラリー カヴァレリア・ルスティカーナ/小瀬村幸子訳 (音楽之友社)
イタリアオペラを原語で読む カヴァレリア・ルスティカーナ/武田好 (小学館)
戯曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」翻訳/武田好 (星美学園短期大学研究論叢第40号)
Cavalleria rusticana/Giovanni Verga (OMBand Digital Editions)
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posted by 小澤和也 at 21:20| Comment(0) | 音楽雑記帳

2022年02月06日

カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる (3)



(2)の続き、第2場からです。

『カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる』
(1) のリンクはこちら↓
(2) のリンクはこちら↓


[第2場]
【トゥリッドゥ、およびサントゥッツァ】
前景の登場人物たちがみな教会へと向かい、ひとりヌンツィアの家の前でトゥリッドゥを待つサントゥッツァ。
そこへトゥリッドゥが急いで登場、サントゥッツァの詰問から二人の言い争いへと展開してゆくところは戯曲とオペラとで同様であるが、サントゥッツァの言葉遣いに若干のニュアンスの違いがあることに気づいた。
例えば最初のやり取り。
オペラでは

Tu qui, Santuzza? (おまえ、ここに、サントゥッツァ?)
Qui t’aspettavo. (ここであんたを待ってたのよ)

と始まるのだが、一方戯曲では

Oh,Santuzza! … che fai tu? (おお、サントゥッツァ!...ここで何してるんだ?)
Vi aspettavo. (あなたを待っていたの)

tu(親称二人称) で言葉をかけるトゥリッドゥに対し、サントゥッツァはオペラでは対等にtuで、戯曲では敬称のvoiで返すのだ。
トゥリッドゥへの呼びかけもこの場面では“Compare Turiddu”( トゥリッドゥさん)である。

もう一点、戯曲を読むとトゥリッドゥの ”ダメンズ“ ぶりがいっそう際立っているように感じられるのだ。
フランコフォンテへ (ワインを仕入れに) 行っていたということが嘘であると見破られた後の台詞:
『俺は自分がいたいと思ったところにいたのさ』
「今あなたに捨てられたらわたしはどうすれば?」とすがるサントゥッツァに対しては
『俺はおまえを捨てたりしないさ、おまえが俺を追い詰めなければ。でも言ったろ、俺はやりたいと思ったことは自由にできる御主人様でいたいんだ』
そして最後には
『やりたいと思ったことができない男などと思われたくないんだ、そんなのはだめだ!』

二言目には “mi pare e piace”、
「俺がやりたいように」の一点張りなトゥリッドゥなのである。


[第3場]
【ローラ、トゥリッドゥ、およびサントゥッツァ】

ローラが登場。
(オペラでは『アイリスの花〜』と小唄を口ずさみながら姿を見せるが、戯曲にはこのストルネッロはない)
ローラの
『あら、トゥリッドゥさん、私の夫が教会へ行くのを見ませんでした?』
に始まる三者のやり取り、細部は異なるがその内容、そして発言の順序は戯曲とオペラとでほとんど全て同じである。

両者で唯一異なっているのが
トゥリッドゥ: 行こう、ローラさん、ここですることなんて何もない!
ローラ: 私に気を遣わないで、トゥリッドゥさん、道はわたしの足がよくわかってるから。それにあなた方の邪魔もしたくないですし。
〜の後に続くトゥリッドゥの一言、
Se vi dico che non abbiamo nulla da fare!
(何の用もない、って言ってるんだ!)
トゥリッドゥはローラに対してでさえとっさに癇癪を起こしているのだろうか...?
乏しい語学力ゆえ正確なニュアンスは分からないけれど...


[第4場]
【トゥリッドゥ、およびサントゥッツァ】
ローラが教会と去ってゆき、場面はふたたび二人きりとなる。
「すがるサントゥッツァとこの場から逃れようとするトゥリッドゥ」という構図は戯曲とオペラとでもちろん共通であるが、そのやり取りは戯曲のほうがかなり長く、また生々しさも数段すさまじく感じられる。
(ここではサントゥッツァもトゥリッドゥに対し “tu” で返している...第2場とは対照的なサントゥッツァの心情の変化を示していよう)

始まってすぐ、トゥリッドゥがサントゥッツァを罵る言葉:
オペラ: Ah! perdio! (ああ!畜生!)
戯曲: Ah! sangue di Giuda! (ああ!ユダのような奴め!)
直後のサントゥッツァ:
オペラ: Squarciami il petto… (わたしのこの胸を引き裂いて...)
戯曲: Ammazzami. (わたしを殺してちょうだい)

一方でオペラにおけるサントゥッツァの強烈な一言
Bada! (覚悟なさい!)
は戯曲中にはない。
サントゥッツァはひたすらトゥリッドゥにすがりつく。
『その足でわたしの顔を踏みつけていいのよ。でもあの女はだめ!』
『(...)彼女のせいであんたはわたしを捨てていくんだ』
『(...)このうえまたあの女の前でわたしを辱めるようなことはしないで』
サントゥッツァはトゥリッドゥと同じく、否、それ以上にローラのことが許せないのだ。

そして...第4場のラスト。
『もうたくさんだ!畜生!』
と彼女を振りほどいたトゥリッドゥに対するサントゥッツァの最後の台詞:
『トゥリッドゥ!聖体におわします神様、ローラのせいで彼がわたしを置いて行きませんように!』
(そしてトゥリッドゥが去ると)
『ああ!あんたに呪われた復活祭を!』

(つづく)


[参考資料]
カヴァレリーア・ルスティカーナ/河島英昭訳 (岩波文庫)
オペラ対訳ライブラリー カヴァレリア・ルスティカーナ/小瀬村幸子訳 (音楽之友社)
イタリアオペラを原語で読む カヴァレリア・ルスティカーナ/武田好 (小学館)
戯曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」翻訳/武田好 (星美学園短期大学研究論叢第40号)
Cavalleria rusticana/Giovanni Verga (OMBand Digital Editions)
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posted by 小澤和也 at 17:07| Comment(0) | 音楽雑記帳

2022年01月21日

カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる (2)



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[(1)からの続き]

短編集「田舎の生活」出版 (1880) の3年後、ジョヴァンニ・ヴェルガは同名の戯曲を書く。
翌1884年にトリノで初演された舞台劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」は大成功を収めた。

『カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる(1)』のリンクはこちら↓
http://kazuyaozawa.com/s/article/189162719.html


【戯曲/カヴァレリア・ルスティカーナ】

主な登場人物:
トゥリッドゥ・マッカ
アルフィオ (リコーディア出身)
ローラ (アルフィオの妻)
サントゥッツァ
ヌンツィア (トゥリッドゥの母親)
ブラーズィ (馬丁)
カミッラ (ブラーズィの妻)
フィロメーナ
ピップッツァ

主要5名の関係性は短編、ならびにオペラと同じである。
少し補足すると:
1) アルフィオの出身地リコーディアは物語の舞台であるヴィッツィーニの西に位置する村。
ちなみに短編の中でトゥリッドゥがサントゥッツァに向かって
『おい、おまえさんの母ちゃんはリコーディアの出身だろう!喧嘩好きの血統だ!』
と軽口を叩く場面がある。
2) サントゥッツァは短編においては農園主コーラ (「豚のような金持ち」と描写されている!) の娘という設定であるが、戯曲ではそのような記述は出てこない。
さらに戯曲の最終盤でトゥリッドゥが
『サンタには (頼れる人が) 誰一人いないのだから...』
と母親に彼女を託す台詞が出てくる。
サントゥッツァの置かれた境遇が戯曲化に際して大きく変更されたことになる。


以下、短編のときと同様に場面ごとに要約を試みよう。

[第1場]
全9場の中で最も長い場面。
(戯曲全体のおよそ4割を第1場が占める)
ここでは便宜的に3つの部分に分けてみた。

第1場 その1:
【カミッラ、フィロメーナ、ブラーズィ、サントゥッツァ、ヌンツィア、およびピップッツァ】
本戯曲で初めて登場する4名の性格描写と彼らの軽妙な会話で物語が幕を開ける。
カミッラ: フィロメーナ、買い物かい?
フィロメーナ: きょうは神様を祝福する復活祭だからね!
ブラーズィ: (カミッラに) 家に入って仕事しろよ、お喋り女が!
ピップッツァ: ヌンツィア、卵はいかが?
…etc.

これらと並行して展開されるサントゥッツァとヌンツィアとの深刻なやり取り。
サントゥッツァ: (...)お願いだから、あなたの息子のトゥリッドゥがどこにいるのか教えて!
ヌンツィア: フランコフォルテへワインを仕入れに行ったよ。
サントゥッツァ: いいえ!夕べはまだここにいたのよ。夜の2時に彼を見た人がいるの。
ヌンツィア: 何を言いに来たのかい!...夕べは帰ってきてないよ...ともかくお入り。
サントゥッツァ: いいえ、わたし、あなたの家には入れないの。
...etc.


第1場 その2:
【アルフィオ、ヌンツィア、サントゥッツァ、カミッラ、フィロメーナ、およびブラーズィ】
そこへアルフィオがワインを買いにヌンツィアの店へ現れる。
ここでの女性たちとアルフィオの会話が興味深い。
アルフィオ: (...)きょうは家で復活祭を祝うために帰って来たんだ。
フィロメーナ:『謝肉祭は好きな人と、復活祭とクリスマスは家族と一緒に』かい。
カミッラ: お前さんの女房は復活祭とクリスマスにしかお前さんに会えないなんて、それってどういうことなんだい?
アルフィオ: カミッラさんよ、これが俺の仕事さ。(...)女房は俺のやり方を分かってくれてるんだ。(...)俺は自分のことは自分で決める。
フィロメーナ: (十字を切って)とんでもないこと!(教会へ向かう)
…etc.

勘定を済ませながらアルフィオはヌンツィアに
『明け方、家へ戻る途中にこの近くで急いで走って行くトゥリッドゥを見たぜ...俺には気づいていないようだったな』
と告げて去ってゆく。


第1場 その3:
【ヌンツィア、サントゥッツァ、ブラーズィ、およびピップッツァ】
ほぼ全編にわたってヌンツィアとサントゥッツァの会話。
[オペラにおける『ロマンヅァとシェーナ/お母さんも知るとおり』の部分に対応している]
ヌンツィア: (...)兵役から戻ったときにはローラはもうアルフィオと夫婦になっていて、それであの子は諦めたんだ。
サントゥッツァ: ちがうの!彼女のほうが諦めてなかったのよ!
(...) あの人はわたしを不憫に思うだけで、もうわたしのことなんか愛していないのよ!
(...)
ヌンツィア: お聞き、キリストの十字架のもとへ跪くのよ。
サントゥッツァ: いいえ、わたしは教会へは行けないわ、お母さん。

ぶつぶつと呟きながら教会へと向かうヌンツィア。
(ああ神様、どうかお知恵を!)


以下、
・第2場はトゥリッドゥとサントゥッツァのなじり合いの場面
・そこへローラが現れ三者三様のやり取りが展開する第3場
・ローラが教会へと去っていき、第4場はふたたび2人の激しい罵声の応酬へ

このあたりはオペラのストーリー進行とほぼ一致する形となるが、これらについては項を改めて。


[参考資料]
カヴァレリーア・ルスティカーナ/河島英昭訳 (岩波文庫)
オペラ対訳ライブラリー カヴァレリア・ルスティカーナ/小瀬村幸子訳 (音楽之友社)
イタリアオペラを原語で読む カヴァレリア・ルスティカーナ/武田好 (小学館)
戯曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」翻訳/武田好 (星美学園短期大学研究論叢第40号)
Cavalleria rusticana/Giovanni Verga (OMBand Digital Editions)
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2021年11月27日

カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる (1)



イタリアオペラにおけるヴェリズモ (verismo:現実主義) の起点となった「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ作曲)。

つい先日、ちょっとしたきっかけでその原作となる小説を初めて手にした。
文庫本で10ページちょっとの短編。
拍子抜けするほどの簡潔さであった。
そして、この物語がオペラ化される前段階として戯曲「カヴァレリア〜」なるものが存在することを不覚にもこれまた初めて知る。

オペラ中の合唱ナンバーである「オレンジの花香り」と「レジナ・チェリ」、これらのシーンはいずれも (当然といえば当然だが) 小説にも戯曲にも出てこない。
ならばせめて両底本をじっくり読み込んで、舞台の情景や人物たちの心情を少しでも理解したいと思うようになった。

まずは小説から。


【小説/カヴァレリア・ルスティカーナ】

ジョヴァンニ・ヴェルガ作
短編集「田舎の生活」(1880年刊) 所収

主な登場人物:
ヌンツィア (トゥリッドゥの母親)
トゥリッドゥ・マッカ
ローラ (農園主アンジェロの娘)
アルフィオ (馬車引き、ローラの夫)
サントゥッツァ (農園主コーラの娘)

小説 (および戯曲) ではトゥリッドゥの母親の名前はヌンツィア、オペラではルチーアとなる。
そしてもうひとつ。
サントゥッツァが「(豚のような金持ちの) 農園主コーラのかわいい娘」と本文中に明記されているのだ。
オペラの中での設定と微妙に異なるように感じるのは僕だけではないだろう。(後述)


本文は特に段落等の区切りを置いていないが、ここでは便宜的に全体を5つの部分に分けて要約を試みる。

[T]
その1: 
トゥリッドゥの風貌や素行についての描写。
彼は自分の兵役中にリコーディアの男 (=アルフィオ) と婚約してしまったローラの窓下で毎夜、彼女への侮蔑を歌にし怒りをぶちまける。

その2:
ようやく出会ったローラとの会話。
未練たらたらのトゥリッドゥ、対してまったく意に介することのないローラ。
『(アルフィオとの婚約について) だって神様の思し召しですもの!』
トゥリッドゥはそんなローラの態度が面白くない...そしてアルフィオは金持ちだ。
『この雌犬め、今に見ていろよ!』

[U]
その1:
トゥリッドゥはアルフィオの家の前に住む農園主コーラに取り入ってその家に出入りするようになり、彼の娘に甘い言葉をかけ始める。
サントゥッツァとトゥリッドゥの会話。
『お前にぞっこんだ...眠れないし食事も喉を通らない』
『ウソばっかり』
サントゥッツァも次第にその気に。

その2:
二人の様子を毎夜隠れて聞いていたローラ。
ある日トゥリッドゥに声をかける。
『それじゃあ、昔の友達にはもう声もかけないの?〜その気があるなら、あたしなら家にいるわよ!』

その3:
トゥリッドゥはまたローラに会いにたびたび通うようになる。
それに気付き、窓を叩いて悔しがるサントゥッツァ。

[V]
復活祭を間近に控え、大いに稼いで帰ってきたアルフィオとサントゥッツァの会話。
『あんたが留守の間に奥さんは家を飾っていたのよ』
ローラとトゥリッドゥの不義を聞かされ血相を変えるアルフィオ。
『よし、わかった...礼を言うぜ』

[W]
その1:
アルフィオが家に戻って以来トゥリッドゥは日々居酒屋で油を売っている。
復活祭前日、そこへアルフィオが現れる。
二人の会話。
互いに決闘のキスを交わし、トゥリッドゥはアルフィオの耳を噛む...こうして彼は約束を必ず守ると誓いを立てた。

その2:
息子の帰りを待っていたヌンツィアに語りかけるトゥリッドゥ。
『母さん...俺が兵隊に行ったときのようにキスしてくれないか、俺は明日の朝遠くへ行ってしまうんだ』

その3:
ローラとアルフィオの会話。
『まあ!そんなに急いでどこへ行くの?』
『すぐ近くさ...お前にはもう俺が戻ってこないほうがよいのだろうが』
ベッドの足元でひたすら祈るローラ。

[X]
トゥリッドゥとアルフィオの決闘の場面。
『俺が間違っているのはわかっている...でも...老いた俺の母さんを泣かせないために...俺はお前を犬ころのように殺すだろう』
『よし、わかった』

トゥリッドゥは腕に突きを受け、アルフィオの鼠径部を刺し返す。
不意にアルフィオが砂を掴み相手の目に向けて投げつける...怯むトゥリッドゥ。
アルフィオはトゥリッドゥを捕まえ、腹へ、そして最後は喉元へ...
『これで三つだ!俺の家を飾ってくれた礼だぜ』
崩れ落ちるトゥリッドゥ。
血が喉から泡を立てて流れ出る。
『ああ、母さん!』

ー 完 ー


オペラ化に際して新たに色付けされた部分は当然ながら多い。
上述のように合唱が登場する場面はほぼそうである。
またオペラではサントゥッツァの存在が軸となり、彼女とルチーア (小説ではヌンツィア)、彼女とトゥリッドゥ、同じくアルフィオとの対話が物語を運んでゆくわけであるが、小説においてはアルフィオとのやりとりしか描かれていない...扱いが軽いのだ。
その意味で決定的なのが決闘の場面のトゥリッドゥの言葉である。
彼は自分の非を認めつつそれでも闘う理由として『母さんを泣かせたくないから』とアルフィオに告げている。
(オペラにおいては [酒場での決闘の約束のシーンで] サントゥッツァを残して死ぬわけにはいかない、と心情を吐露している...この違いは大きい)

逆のパターンもある。
物語のラスト、トゥリッドゥとアルフィオの決闘の場面 ([5]) が小説の中では実に克明に描かれているのだ。
(オペラでは決闘は舞台の外で行われ、目撃者による叫び声によってトゥリッドゥの死が告げられるだけである)
また上記 [U] の部分、サントゥッツァを口説くトゥリッドゥ、人妻ローラの誘惑の場面もオペラでは (既知のものとして) 省かれている。


ヴェルガのこの原作、短いけれど内容の濃い、読み返すほどに味の出るスルメのような小説であった。
戯曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」についても追って触れてみたいと思っている。


[参考資料]
・カヴァレリーア・ルスティカーナ/河島英昭訳 (岩波文庫)
・短編「カヴァレリア・ルスティカーナ」翻訳/武田好 (星美学園短期大学研究論叢第40号)
・Cavalleria rusticana/Giovanni Verga (OMBand Digital Editions)
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2020年08月11日

【音楽雑記帳】ハイドン交響曲 (2) 1774-1884 その1

 
 
 
1766年 (エステルハージ家の楽長に昇格した年) 〜1773年頃がハイドンの交響曲創作における最初の充実期とされていることは以前に述べた。
(メルクール、哀しみ、告別、マリア・テレジア、受難などのニックネームを持つ40番台の交響曲はすべてこの時期の作品)
 
〜ではその後の作品はどうだったのだろう?〜
 
1784年にハイドンはパリのオーケストラから交響曲の注文を受ける。
その結果生まれたのが6曲からなる有名な「パリ交響曲集」(第82-87番) だ。
 
これら2つの時期に挟まれた1774-84年頃のハイドンの交響曲はいかにも地味である。
演奏会等で取り上げられる機会も少ないように思われるし、音楽学者ランドンの著作にも『ハイドンのこの時期の交響曲は最上の作品とはいえない』『重い責任を背負いながら任務を果たし、むしろあたふたと交響曲を作曲し(...)』などといったどちらかといえばネガティヴな記述が見られるのだ。
(ちなみに “重い責任”“任務” とはエステルハージ宮におけるオペラ上演である)
 
 
以下、この時期の作品とされている24曲を列挙する。
(作曲年代および表記順序はあくまで僕の個人的な分類・参考データである)
その際、便宜的にさらに3つの時期に区切ってみた。
 
【前期】
§1774年
第54番ト長調、第55番変ホ長調『学校の先生』、第56番ハ長調、第57番ニ長調
§1774/75年
第60番ハ長調『うかつ者』、第68番変ロ長調
§1775/76年
第66番変ロ長調、第67番ヘ長調、第69番ハ長調『ラウドン』
§1776年
第61番ニ長調
 
【中期】
§1778/79年
第53番ニ長調『帝国』、第70番ニ長調、第71番変ロ長調
§1779年
第63番ハ長調『ラ・ロクスラーヌ』、第75番ニ長調
§1780年
第62番ニ長調、第74番変ホ長調
§1781年
第73番ニ長調『狩』
 
【後期】
§1782年
第76番変ホ長調、第77番変ロ長調、第78番ハ短調
§1783/84年
第79番ヘ長調、第80番ニ短調、第81番ト長調
 
 
一瞥して気付くのが「調性の選択」だ。
24曲中、短調作品はたったの2曲 (第78番、第80番)しかない。
長調のうち最も多いのがニ長調 (7曲)、次いでハ長調と変ロ長調が4曲ずつとなっている。
1766-73年頃の作品群において短調が5/19曲あったこと、ロ長調 (シャープx5) やへ短調 (フラットx4) といった調号の多い調性も用いられていたことを思うとその変化は興味深い。
 
楽章構成は24曲中
・第60番...全6楽章
・第68番...第2楽章にメヌエット、第3楽章がいわゆる緩徐楽章
の2曲を除きすべて「急-緩-メヌエット-急」の形をとる。
彼の集大成である「ザロモン交響曲集」、そしてその後の古典派交響曲に見られる楽章配置の “鋳型” が既にこの頃確立されていたということになろうか。
第1楽章はすべてソナタ形式で書かれ、うち7曲にゆったりとした序奏をもつ。
 
楽器編成においては、1776年の作品である第61番以降フルートが恒常的に用いられるようになった以外は大きな変化はないが、ファゴットやチェロがBassパートから独立して動くようになりオーケストラの色彩感が飛躍的に増している。
 
 
上に挙げた順でスコアを読み込み音源も聴いたのだが、ハイドンの実験精神とユーモアは変わらず健在である...
ルーティンワークのようにさらさらと書いたような作品は皆無といってよい。
 
(この項つづく)
posted by 小澤和也 at 17:31| Comment(0) | 音楽雑記帳

2020年02月06日

ペーテル・ブノワのバイオグラフィ

 
 
ペーテル・ブノワはベルギー、フランデレン地方に生まれた作曲家・指揮者・教育者である。
後半生をアントウェルペンでの音楽教育に捧げたため、作曲家としてはほとんど知られていない。
 
ここに彼のバイオグラフィを紹介する。
著者はベルギーの音楽学者ヤン・デウィルデ氏、フランデレンの19世紀ロマン派音楽を専門とするペーテル・ブノワ研究の第一人者である。
 
 
ペーテル・ブノワ Peter Benoit
(1834.8.17. ハレルベーケ〜1901.3.8. アントウェルペン)
 
バイオグラフィ
ヤン・デウィルデ Jan Dewilde 
小澤和也: 訳編
 
 
ペーテル・ブノワは最初の音楽レッスンを父ペトリュスより受ける。
彼の父はハレルベーケにおいて教会の聖歌隊やオーケストラ、吹奏楽団で活躍する多才な音楽家であった。
若きブノワは地元の聖救世主教会の聖歌隊員となりそこで宗教音楽を知る。1847-51年、彼はデッセルヘムのピアニスト/オルガニストであるピーテル・カルリエルに学び、またコルトレイクの作曲家ピーテル・ファンデルヒンステおよびヨアネス・ファンデウィーレらとも接点をもった。
 
1851年にブノワはブリュッセルの音楽院へ進み、ピアノをジャン=バティスト・ミシュロ、和声学をシャルル・ボスレ、さらに対位法、フーガおよび作曲法を院長フランソワ=ジョゼフ・フェティスに師事する。
彼の勉学はさまざまな金銭的、肉体的、精神的な問題によって妨げられるが、それでも彼は3年後に音楽院を修了した。
そしてブノワは当時のベルギー音楽界で最も力を持っていたフェティスの助力を得る。
彼は作曲に関する国家的な賞であるローマ賞の準備のためブリュッセルにとどまった。
この時期にブノワは交響曲、宗教音楽、オランダ語あるいはフランス語による歌曲、そしてヤコブ・カッツ (1804-86) の “国民文化劇場” のためにフランデレン語のジングシュピールを作曲している。
 
 
1855年にブノワはローマ賞佳作賞を獲得、その2年後にはカンタータ『アベルの殺害』で大賞受賞者となる。
これにより得た奨学金で彼はまずドイツ主要音楽都市へ留学、その後1859年5月から1863年3月までの間パリに住んだ。
他の多くの作曲家と同様にブノワはパリでオペラ上演の機会を得ようとしたが、その試みは成功しなかった。
ピアノ曲集『物語とバラッド』(1861) は出版され、頻繁に演奏され好意的に評される。
当時のパリにおいて多くのヴィルトゥオーゾたちが独自のピアノ作品で成功していたのとは対照的に、ブノワは内面的な曲を書いた。
音楽評論は彼の生誕地の民族的伝承への強い関心を指摘し 〜それは音楽におけるナショナリズムの兆しである〜、そしてブノワはピアノ作品の中で独創的な手法を確立していった。
 
奨学金が終了した後、彼はパリでジャック・オッフェンバックの主宰するブフ・パリジャン・オペレッタ劇場の指揮者として、またウィーン、ブリュッセルおよびアムステルダムにも出演して生計を立てた。
その間にブノワは自身の『宗教的四部作』がブリュッセルで大成功を収めたことを知る。
そしてベルギー帰国時には将来を約束されたベルギー人作曲家のひとりと見なされるようになった。
彼は『ピアノと管弦楽のための交響詩』 (1864) および『フルートと管弦楽のための交響詩』(1865)、そしてとりわけオラトリオ『リュシフェル』(1866) によってその名声を確固たるものとする。
詩人エマニュエル・ヒールとの長い共同作業の始まりを告げるこの作品は、オラトリオ『スヘルデ』(1869) とともにブノワの全作品の中でも大きな象徴的意義を持つものとなった。
なぜならば、それは彼の国民主義的時代、すなわち彼の音楽作品にとっての公用語として最終的に自国語を用いようとした時代の始まりと考えられているからである。
 
ブノワは以前より、カッツの台本による2つのジングシュピール『山なみの村』(1854) や『ベルギー国民』(1856) のようなフランデレン語をテキストとする作品を書いている。
そして彼は『ピアノと管弦楽のための交響詩』において民謡を素材として用いた。
すなわちブノワは「傑出したベルギー人作曲家ピエール・ブノワ」から回心し「フランデレンの民衆に歌うことを教えたペーテル・ブノワ」として再び立ち上がったのだった。
彼の国民主義的理念はすでにブリュッセル音楽院での学生時代より、モネ劇場の指揮者でもありベルギー国創立のためにオラニエ家支持的思想を抱いていた作曲家カレル・ローデウィク・ハンセンスや、反教権主義で社会運動に傾倒していたフランデレン主義派の舞台演出家カッツとの接触を通じてゆっくりと熟成されていく。
 
 
ベルギー帰国ののち、彼の国民主義的理念はとりわけヒールの影響のもとに結晶化してゆく。
そして1867年6月3日、アントウェルペン音楽学校の校長に任命されたブノワは、即座にその理念を実践的に適用することができたのだった。
“音楽におけるナショナリズム” のヨーロッパにおける潮流の中に身を置く最初の一人として、彼は “音楽におけるナショナリズム” および教育と音楽生活のプラクティカルな実現化についての彼の理論を、心を打つ一連の論文や言葉で提示した。
それらはしばしばヨハン・ゴットフリート・ヘルダーのようなドイツロマン派の作家や哲学者の知的遺産の影響を受けている。
 
1868年、ブノワはフランデレンの新しい音楽動向についての基礎論説を発表した。
「学校教育とは、芸術を少しずつ育てていきながら新たな形式を導入してその領域を拡大し、それぞれ固有の特質によって作品が関係づけられていくような、同じ民族によるひと続きのものである。
その点で、それらの作品は芸術を豊かにするすべての形式から生ずる生命の源であり、論理的で首尾一貫した発展の比類ない基盤であるので、継続的に自らを再生一新させるのである」
外国の影響を受けない、フランデレン独自の音楽言語を実現するために、彼は民謡および母国語 (フランデレン語) の再興を説いた。
彼は数々の民謡を「民族音楽の先駆け」とみなした。
それらは自然な、しかし隠された根源であり、その中に個々の音楽の本質的な特質が備わっている。
 
ブノワは彼の教育法の中で民謡を集約統合し、彼の作品の中でもそれを扱った。
音楽教育や実践学習においてフランス語が用いられること、また教会音楽においてラテン語 (久しく姿を消した、価値の薄れた遺物) が用いられることに対し、彼は母国語 〜民族の特徴の基礎〜 を使用することにより音楽芸術はより人間的なものになり得るのだと明言した。
「彼ら固有の言語を話さない民族は独創的で音楽的な芸術の型を創り出すことは決してない」
フランデレン語のテキストで作曲するということは当時のベルギーの国家体制下においては大きな象徴的価値を持っていた。
 
ローマ賞の候補者がカンタータの作曲にフランデレン語を用いることができるようになるのはようやく1865年になってからである。
1846年、ティユー (リエージュにあるワロン自治区) の主務大臣はこのように言明した。
「我々の国においてより普及した言語、そして音楽教育に用いられる言語はフランス語しかない、ということを示すのに多くの言葉はいらない」
ブノワは自国語で作曲した最初の人物ではないが、1866年以来彼は固い意志をもってそれに専念した。
 
さらにブノワは統合された、一般の人々やアマチュアに対してと同様にプロの音楽家へも向けられ、小さな村から都市部に至る音楽生活をすべて包括した教育制度を発展させた。
彼の音楽教育の最終目的はヴィルトゥオーゾを作り上げることではなく、民衆の中心に立つ “考える力を持った人間” を育てることであった (実際、ブノワは男女共学の教育を導入した)。
「偉大な芸術家は彼ら自身からなるものではなく、また彼ら自身によって存続するものでもない」
作曲家も演奏家も国民 〜彼らにとっての聴衆〜 の中心にいなければならない。
その社会的重要性はブノワが講義を通して大衆に伝えようとした教育からも明らかである。
ブノワには作曲家から演奏者を経由して必然的に聴衆へと流れる一本の線が見えていた。
彼はこの繋がりを「その結びつきが断たれる、あるいは存在しないときには全ての美的均衡が消え失せる、それほどに深いもの」と見なした。
それゆえ、作曲家としてのブノワにとって、正統的な演奏とは同じ国民性をもった音楽家によってこそ密に取り組まれるものであった。
 
 
アントウェルペン音楽学校校長に任命された頃には国内外の批評家によって独創的・現代的と烙印を押されていたその表現スタイルを、ブノワは伝える者と受け取る側との強い結びつきのため一般大衆の理解度に適合するよう抜本的に単純化することを決める。
フランデレン解放への闘争の中で、彼は音楽を「宣伝活動としての最強の武器のひとつ」と見ていた。
しかし、大衆の理解の難しい音楽の言葉を用いて彼らの心をどのように高揚させることができるだろうか?
自身の理念をできるだけ広く普及させるため、ブノワは大衆に向けて否応なく訴えかける音楽を書こうとする。
こうした作風の変化はすでにオラトリオ『スヘルデ川』(1869) において目立っているが、それにもかかわらず1870年代の彼は『愛の悲劇・海辺にて』(1872) や『戦争』(1873) といった非常に主観的な作品を作曲していた。
 
『ルーベンスカンタータ』(1877年、ユリウス・デ・ヘイテルの台本) 以来、ブノワは特に歌曲や合唱曲、そして野外での上演のために企画されたカンタータ作品において強い自己表出をおこなった。
これらの作品は国家的・歴史的人物に敬意を表し (『レイスウェイクカンタータ』『レーデハンクカンタータ』)、あるいは祖国に平和・幸福・繁栄をもたらすような人間的創造性を賛美するものである (『美に寄せる賛歌』『発展への賛歌』)。
一般大衆へ向けた音楽形式として、彼は平易でありながら聴く者を魅了するメロディ、劇的効果、圧倒的なホモフォニーの合唱、多くのユニゾン、大規模な編成、そして色彩豊かなオーケストレーションによって親しみやすく理解の容易な書法を用いた。
それは大衆の文化的向上を目指して書かれた、明快で分かりやすいメッセージを伝えることを目指した共同体芸術である。
そのうえ、彼は教育的な立場から自分の作品に可能な限り演奏者を増員した。
それによって召集されるオーケストラの総員はしばしば大規模なものとなった。
 
これはやはり音楽の歴史の中では独特の事象である。
その作曲家は自身の芸術的才能を彼の社会的・文化的責務よりも下位に置いたのだった。
 
 
フランデレンの文化的自律に向けての尽力によって生まれた彼の国民主義的音楽理論の中にはより急進的、観念的な要素があった。
この理想は師フェティス、およびフランソワ=オーギュスト・ヘヴァールトやアドルフ・サミュエルらコスモポリタン志向の作曲家たちによって反対される。彼らはベルギーを音楽的に極微の地と見なし、ラテンおよびゲルマンの影響の交差点と考えており、国民主義的音楽の流派を拒絶していた。なぜならば、彼らにとって整然とした普遍性こそが優れた音楽の特質であったからである。
彼の音楽学校が他の都市の王立音楽院と同列視されているとブノワがはっきりと認識できたのは1898年のことだった。
 
その「一般大衆へ向けた」音楽作品により、彼は多くの人々の耳目を集めることに成功する。
しかし、フランデレンの音楽動向の先導者としての彼の影響力は絶大であった。
それは国民主義的潮流の外側に身を置く作曲家には居場所がほとんどないほどであった。
さらに、多くのブノワ信奉者らは目的と手段とを混同し、彼の国民主義的共同体芸術を全てのフランデレン音楽制作における試金石と見なした。
フランデレン音楽のために完全には身を置こうとしなかった、また同時代のヨーロッパの潮流に乗るべく自主独立の音楽芸術を主張した作曲家たちはブノワの模倣者らによってしばしば攻撃される。
 
しかしながら、現代都市社会の観点からすればブノワが狭量なナショナリストであると非難されることはない。
彼はそれぞれの国民の自決権のために弁護をした。
彼のナショナリズムは解放運動から発しているものであり、ある国民が他の国民と比較して優れているという立場はとらない。
それはまさに個性であり、人間性の充実に寄与するあらゆる国民の多様性である。
もしもある国民が個性を獲得したならば、彼らは他の国民と対話の中で歩んで行けるのだ。
ブノワは指揮者として他の楽派の作曲家、ワロン人 (グレトリー、フェティス、ラドゥ) の多くの作品、そして 〜彼の “フランデレンのフランス語話者” への嫌悪にもかかわらず〜 フランスの作曲家 (ベルリオーズ、グノー、サン=サーンス) の作品も演奏した。
 
ブノワは一般聴衆やアマチュア音楽愛好家がプロの音楽家と同等に扱われるような統合された音楽生活をも構想していたが、それは充分な実現には至らなかった。
しかし、アントウェルペン音楽学校の王立フランデレン音楽院への昇格や、ネーデルラント・リリック劇場 (フランデレン歌劇場の前身) の設立により彼の理念は実行され今日まで生き続けている。
 
ペーテル・ブノワの生涯と作品は、彼のもっとも名高い歌曲『我が母国語』(1889) の中にきわめて象徴的に表されている。
 
 
ー 完 ー
 
 
 
posted by 小澤和也 at 09:40| Comment(0) | 音楽雑記帳

2020年01月21日

我が懐かしの「月下の一群」<5> つづき

 
 
ヴェルレーヌ『秋の歌』、
前回の続きを。
第二連は、原詩→「昨日の花」→「月下の一群・初版」と大學の紡いだ言葉の世界を順にたどってみたい。
 
 
まずはヴェルレーヌの原詩から。
(恥と承知のうえで) 敢えて機械的に、辞書と首っ引きでたどたどしく起こした拙訳を添えて。 
 
Tout suffocant
Et blême, quand
  Sonne l’heure,
時の鐘が鳴り響くと
すっかり息が詰まり
また青ざめて、
 
Je me souviens
Des jours anciens
  Et je pleure;
私は昔の日々を
思い出し
そして涙する。
 
 
処女訳詩集「昨日の花」において
大學はこの部分を次のようにうたった。
 
時の鐘
鳴り出づる頃
息苦しくも青ざめて
わが來し方を思ひ出で
さては泣き出づ。
 
思いのほか原詩に忠実な訳であるように思えるがどうだろう。
5+7+(7+5)+(7+5)+7 と
もの悲しい空気の中にもどこか心地良いリズムがある。
意外だったのが、大學が6行詩の形にこだわっていないこと...「わが來し方を思ひ出で」と一気に綴っている。
 
 
それから7年の月日を経て「月下の一群・初版」に収められた『秋の歌』の当該箇所。
“翻訳” という枠から解き放たれ、情感が自由に飛翔している。
 
時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひ出づる
わが來し方に
涙は湧く。
 
(その後、新潮文庫版においては
・思ひ出づる → 思ひぞ出づる
・わが來し方に →來し方に
と、さらに筆が加えられている。)
 
 
多くの詩集や訳詩集ほどには知られていないようであるが、大學には「ヴェルレエヌ研究」という著作がある。
(1933年、第一書房刊)
その中で、彼が『秋の歌』について言及している数行を自由に引用させていただく。
 
“「秋の歌」の如きは (...)、世の荒波にもまれもまれて、舵緒(かぢを)たえたる破(や)れ小舟の嘆きの節が身にしみる深くも哀れな歌である。(...) そこには内容にぴったりと食い合った音楽があり、そこにはつくりごととは思い難い真実性があって、ひしひしと私たちの胸にせまる、秋の夕のとりあつめたるものの憂いのように。彼が二十歳の日の作であるこの一篇の詩に、ヴェルレエヌの一生の詩風のことごとくは早くもすでに暗示されているのである。ささやくようなその音調、憂いがちなその魂の風景。”
(漢字およびかなづかいは現代のものに改めた)
 
作品への深い愛着、デカダンスの典型であったこの詩人への限りない共感がこの文章からにじみ出ている。
 
 
そして...
クライマックスの第三連へ。
同様に列挙してみよう。
 
(原詩および拙訳)
 
Et je m’en vais
Au vent mauvais
  Qui m’emporte
そして私は去る
この身をさらってゆく
烈風に吹かれて
 
Deçà, delà,
Pareil à la
  Feuille morte.
あちらへ、こちらへ、
まるで
落葉のように。
 
 
「昨日の花」
 
落葉の如く
彼方此方に
われ吹きまくる
逆風に
身をば委せて
やらんかな。
 
 
「月下の一群・初版」
 
落葉ならね
身をば遣る
われも、
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ。
 
第二連同様、それぞれに良さを感じられる大學の二つの訳詩である。
vent mauvais (直訳すると悪い/荒れた・風) が彼に手にかかると「逆風 (さかかぜ)」となる...なんと繊細かつ大胆なセンスであることよ!
 
 
あまりに唐突なたとえであるが、この詩における大學の言葉の選び方から僕は「酒造りにおける精米の工程」を連想した。
日本酒の世界に “米を磨く” という言葉があるそうな。
雑味を除き理想の味に近づけるために米の外側を敢えて “磨き落とす”...
大學が一つの詩を (ときには数十年にわたって) 訳し続けたのは、常に言葉を磨いてその純度を高めていきたかったからだと思えてならない。
『落葉ならね/身をば遣る/われも、』
のくだりなどは、僕にとってはまさに “純米大吟醸” の味わいだ。
 
 
大學によれば、ヴェルレーヌの晩年はまさにこの詩のように “「落葉の如く彼を吹きまくる世の逆風」に追い立てられる” 悲惨なものだったという。
そして今回...これら5つの詩に改めて触れることにより、堀口大學の訳詩の世界が単なる閃きではなく、段階を踏んで構築されていったものであることを学べたのは僕にとって実に大きな収穫であった。
 
(完)
 
 
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2020年01月18日

我が懐かしの「月下の一群」<5>

 
 
 
『秋の歌』 ポール・ヴェルレーヌ
 
秋風の
ヴィオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀みに
わが魂を
痛ましむ。
 
時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひぞ出づる
來し方に
涙は湧く。
 
落葉ならね
身をば遣る
われも、
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ。
 
【新潮文庫版「月下の一群」(1955年刊) より引用。原文においては以下のようにルビが振られている。
第3行『節(ふし)』『啜泣(すすりなき)』
第4行『憂(う)き』『哀(かなし)み』
第5行『魂(たましひ)』
第6行『痛(いた)ましむ』
第10行『出(い)づる』
第11行『來(こ)し方』
第14行『遣(や)る』
第18行『逆風(さかかぜ)』】
 
 
有名な、あまりに有名な一編。
明治〜大正期の詩人・上田敏による名訳 (「秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの etc.」訳詩集「海潮音」(1905年刊)所収) をはじめ、金子光晴・窪田般彌の訳も知られている。
 
 
堀口大學の『秋の歌』は「月下の一群」初版に先立って彼の処女訳詩集「昨日の花」(1918年、籾山書店刊) に収められていた。
「月下〜」初版を大學の訳詩のベースラインとするならば、「昨日の花」はさらにそのプロトタイプとでも言えようか。
 
 
詩の第一連、
初版ではこのようになっている。
 
『秋の歌』 ヴェルレエン
 
秋の
ヴィオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀みに
わが魂を
痛ましむ。
 
第1行でいきなり (あっ!) と思った。
〜秋風、ではないのか?!
(前にも書いたが、詩集を手に取るよりも先に「男声合唱曲集・月下の一群」に慣れ親しんでいた僕にとっては、その歌い出しは『秋風の〜♪』以外想像できなかったのである)
 
 
答えは大學訳の「ヴェルレーヌ詩集」(新潮文庫) の中にあった。
注釈において彼はこのように記している。
 
(...)秋風のヴィオロンのーとした本書の訳に驚く読者があるかもしれないが、(...)ふとこのヴィオロンは秋風の音だと気づいた時から、風の一字を加えることにした。(...)
 
その3年前 (1952年) に出たばかりの「白水社版・月下の一群」でもこの部分は『秋の』のままである。
ヴィオロン=風の音、というアイディア、まさに風のように大學の脳裡に吹き込んできたのだろうか。
 
 
ちなみにこの「ヴェルレーヌ詩集」(僕の手元にあるのは第34刷改版 (1973年) ) では、第4行以下が
 
もの憂きかなしみに
わがこころ
   傷つくる。
 
となっている。
あたかも庭の草花を日々世話するかのごとくに、一行一行に常に手を加え続けずにいられない大學のあくなき探求の心が見て取れる。
 
 
第二連以降、この続きは改めて。
posted by 小澤和也 at 09:42| Comment(0) | 音楽雑記帳