2018年07月20日

多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち〈5〉

 
組曲の最後に置かれた詩である。
 
 
市場所見
 
沖の暗いのに白帆が見える、
あれは紀の国蜜柑船。
蜜柑問屋に歳暮(くれ)の荷の
著(つ)く忙しさ ー 冬の日は
惨澹として霜曇(しもぐも)る市場の屋根を照らしたり。
 
街の柳もひつそりと枯葉を垂らし、
横町の「下村」の店、
赤暖簾さゆるぎもせず。
 
街角に男は立てり。手を挙げて指を動かし
「七(なな)番、中一(なかいち)あり」と呼びたれば
兜町、現物店の門口に
丁稚また「中一あり」と伝へたり。
 
海運橋より眺むれば
雲にかくれし青き日は
陰惨として水底(みなぞこ)に重く沈みて声もなし。
時しもあれや蜜柑船、
橋の下より罷りいづ。
そを見てあれば、すずろにも
昔の唄の思ひ出づ。
 
あれは紀の国蜜柑船。
 
 
【第一書房版『木下杢太カ詩集』(昭和5年刊) より引用。原文においてはほぼすべての漢字にルビが振られているが、ここではその大半を省略。また旧漢字は現行のものに改めた】
 
・霜曇り...霜のおくような夜の寒さに空の曇ること。
・現物...ここでは現物取引 (売買契約の成立と同時または数日後に現品の受渡しを行う取引) の意か。
・罷り出づ...参上する。人前に出て来る。
・漫ろ(すずろ)...理由もないさま。予期しないさま。
 
 
初出は明治44年1月『昴』。
作曲にあたって多田武彦が底本としたのは第二詩集『木下杢太カ詩集』である。
 
この『市場所見』、これまで取り上げたどの詩よりも僕には難解に思えた。
“横町の「下村」の店” とは?
第三連に描かれる “「七番、中一あり」” の呼び声は何を表すか? etc.
 
いっこうに手掛かりの掴めぬ中、何かしらのヒントはなかろうかと淡い期待をもって静岡県伊東市の杢太カ記念館を訪ねたのは4月の初めだった。
そこで偶然出会ったのが “杢太カ会” 発行の小さな冊子である。(文頭の画像参照)
タイトルもズバリ
“木下杢太カ『食後の唄』を読み解く”。
さっそく手に取り、ドキドキしながら目次を見ると...
何という幸運!
 
 
すぐに買い求め、帰りの東海道線の中で一気に読んだ。
著者は林廣親先生、杢太カに関する記念講演を文字起こししたもの。
以下の拙文においては、林先生のこのご著書を参考にさせていただいたことは言うまでもない。
 
 
第一連の冒頭。
 
沖の暗いのに白帆が見える、
あれは紀の国蜜柑船。
 
これは江戸発祥の大道芸「かっぽれ」の詞からの引用である。
(なぜこれが詩の冒頭に置かれたか...その理由は最後に明らかとなる)
 
年の瀬のある日。
詩人は日本橋界隈を散策していたのだろうか、まず目にしたのが蜜柑の市場であった。
(この後、彼の視点は次々と移動してゆく...『両国』においてのそれは “レストラントの二階” からの、いわば固定カメラに映った様々な風景であったのと対照的だ)
 
 
第二連も引き続き冬の寒々しい描写に始まる。
そして...下村の店である。
林先生の文章を引用させていただく。
 
この「下村の店」とは、私たちもよく知っている「大丸」の別称ですが、通旅篭町にあったこの店は、明治四十三年十月末日に閉店して、残務処理の営業に移っていました。その時期が、詩の書かれた時期とちょうど重なっています。入り口の暖簾はまだ掛かっていても、出入りする人も稀な状態だったのでしょう。
 
これ以上何を望もうかというほどの見事な解題である。
 
 
第三連。
兜町という地名から金融街のイメージをなんとなく持ったのだが、果たしてその通りであった。
舞台は株取引を営む店の前。
「七番、中一あり」の語は林先生によれば商人達の間の符牒であるとのこと。
(残念ながらその意味は僕には未だ分からず)
通信手段のないこの時代、街角の男の指の合図を店内に中継するのが丁稚の役目だったのだろう。
 
以下補足。
この『市場所見』は杢太カの第一詩集『食後の唄』にも収められているが、第三連の四行目が
 
後場なかば ー 店の前にも
 
となっている。
林先生の文章によれば、”後場半ば“ はやはり業界用語で午後2〜3時頃をさすという。
(さらにそのまた補足であるが、『昴』に掲載された初出の段階では、この第三連四行目そのものが無かったそうだ...すなわち杢太カは出版の折々にこの一行を書き足し、さらに差し替えたということになる。)
 
 
そしていよいよ第四連。
海運橋の上にたたずむ詩人の目にはふたたび、第一連で見たような薄暗い陽の光と冷たい川の水だけが写っているようだ。
そのときー
ふいに蜜柑船が橋をくぐって現れる。
この瞬間の詩人の心の動きはいかばかりであったろう。
いま一度、林先生の文章から。
 
狂言の名乗りに通じるような「罷りいづ」という擬人的な言い回しによって喚起されるのは、「青き日」とは対照的な浮上の感覚です。それは物怖じもせず、舞台にせり上がって来た役者の登場場面を想わせます。「青き日」の寒色に対する「蜜柑」の暖色、沈潜と凝固に対する浮上と開放という、鮮やかに対照的なイメージが詩人の視覚を不意打ちした。
 
その瞬間、わけもなく詩人の脳裡に蘇った ”昔の唄“ が、詩の冒頭に置かれた
 
あれは紀の国蜜柑船。
 
であったのだ。
読み終えて、何とも言えぬ懐かしさ、そして人の心のあたたかさのようなものを感じ取ることのできる味わい深い詩である。
 
 
【参考文献】
木下杢太カ『食後の唄』を読み解く
林廣親 著/杢太カ会 刊
(杢太カ会シリーズ第22号)
 
 
(完)
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 01:18| Comment(0) | 音楽雑記帳

2018年06月22日

多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち〈4〉

 
 
 
雪中の葬列
 
Djan......born......laarr......don
Djan......born......laar, r, r......
鐘の音がする。雪の降る日。
雪はちらちらと降っては積る。
中をまつ黒な一列の人力車。
そのあとに鐘が鳴る••••••
Djan......born......laar, r, r......
 
銀色とあの寂しい
薄紅(うすあか)と、蓮の花弁(はなびら)••••••  ゆられながら運ばれて行く、
放鳥籠の鳥と。
今鉄橋の上に進んだ。都会の真中のー
華やかな叫びも欲もさびれた雪の日の都会のー。
黒い無言の一列がひつそりと、ひつそりと••••••
 
雪は降る。雪は降る。
雪は降る。雪は降る。
Djan......born......laarr......don.
Djan......born......laar, r, r......      (Ⅺ. 1910.)
 
 
【アララギ発行所刊『食後の唄』(大正8年) より引用。原文においてはほぼすべての漢字にルビが振られているが、ここではその大半を省略。また旧漢字は現行のものに改めた】
 
・放鳥(ほうちょう)...葬儀などの時、功徳のために、捕らえていた鳥を放ちやること。
 
 
初出は明治43年3月『昴』。
この詩は第二詩集『木下杢太カ詩集』に収められておらず、よって多田武彦が底本としたのは上記『食後の唄』である。
 
これまで挙げてきた3作品から一転、暗さと冷たさ、寂しさと静けさが全編を支配する。
明治期の東京における出棺の様子を描いたであろうこの『雪中の葬列』。
冒頭の一行、
Djan......born......laarr......don
から聞こえてくるのは鐘のほかに銅鑼、さらには低い太鼓の音のようにも思えるのだが...実際のところはどうだったろうか。
 
金銀ほか様々に彩色された葬具 “蓮華” は燭台や香炉などとともに柩の周りに置かれ、葬列の際には大勢の人夫達がこれらを担いで進んで行ったのだそうな。
放鳥の儀を執り行うために大きな鳥籠までもが葬列に伴っていた、ということも今回初めて知った。
 
人間の死の無常さと、雪に包まれた冬の都会の無機的な虚しさとがこの詩の中で響き合っている。
多田武彦がこの詩に付けた音楽も、(僕の知る限り) 彼の曲の中で最も不気味な、そして表現主義的な色合いを帯びたものだ。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 16:17| Comment(0) | 音楽雑記帳

2018年06月12日

多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち〈3〉

 
 
柑子
 
鴎の群はゆるやかに
一つ二つと翔りゐぬ。
海に向かへる小丘(こやま)には
円(まろ)き柑子が輝きぬ。
われはひそかに忍びより、
たわわの枝の赤き実を
一つ二つとかぞへしに、
兎のごとき少女(おとめ)来て、
一つはとまれ、二つとは
やらじと呼びて逃げ去んぬ。
おどろき見れば夢なりき。
鴎の群はゆるやかに
一つ二つと翔りゐぬ。
 
 
【第一書房版『木下杢太カ詩集』(昭和5年刊) より引用。原文においてはほぼすべての漢字にルビが振られているが、ここではその大半を省略。また旧漢字は現行のものに改めた】
 
・柑子(こうじ)...こうじみかん。季語:秋。果実はみかんより小さく、果皮薄く果肉は薄黄色。酸味は少ないが淡白な味。
・とまれ...ともかく。ともあれ。
 
初出は明治41年11月『明星』。
多田武彦が作曲にあたって底本としたのは前出の『両国』『こほろぎ』同様、第二詩集『木下杢太カ詩集』である。
 
描かれているのは杢太カの故郷である伊東の情景であろうか。
詩全体を通して小気味よい七五調。
「翔りゐぬ」「輝きぬ」「逃げ去んぬ」といった若々しくエネルギーにあふれたことばの数々、またそこここに散りばめられた「一つ二つと...」の響きも軽やかさと調子の良さを醸している。
 
杢太カ少年の前に不意に現れ、からかうように言葉をかけて去っていった少女。
初対面か、あるいは知り合いだったか。
ひょっとすると彼にとって ”ちょっと気になる“存在だったのかしら...
はっと我に返った少年の視界には先ほどと同じ鷗の群れが。
彼が微睡んでいたのはほんの一瞬だったのだろうか。etc.
想像が広がってゆく。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
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2018年05月22日

拙編 ゲーテ/エグモント あらすじ

 
 
 
ゲーテの「エグモント」を内垣啓一の訳で読む。
(ゲーテ全集4、潮出版社刊)
一瞥しただけでは甚だ難解な文章、戯曲ならではの勿体をつけた言い回し、そして史実を熟知したうえで初めて読み解くことのできる文脈の多さ...
それでも根気よく進む、否、行きつ戻りつするうちに少しずつ、おぼろげながら作品の全体像が見えてきた。
以下、自らの備忘のため各場ごとに要約を試みたものを記すこととする。
 
 
ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ
エグモント
五幕の悲劇
 
 
【主な登場人物】
 
§マルガリータ・パルマ公女 
(ネーデルラント総督、カール5世の娘、フェリペ2世の異母姉)
§ハインリヒ・エグモント伯爵 
(ネーデルラントの貴族)
§ウィレム・オラニエ伯爵 
(ネーデルラントの貴族、ドイツ出身)
§フェルディナンド・アルバレス公爵 
(スペインの貴族)
§フェルディナンド 
(その庶子)
§クレールヒェン 
(市民の娘、エグモントの恋人)
§ブラッケンブルク 
(市民の息子)
 
 
【時と場所】
 
1567年、スペイン統治下におけるネーデルラントの首都ブリュッセル。
 
 
【第1幕】
 
・第1場
弓鉄砲のゲームに興ずる市民たち。彼らは人望厚かった先代スペイン王カール5世や陽気で自由な精神の持ち主であるネーデルラント貴族エグモント伯爵らを称えて盃を交わしながら政治談義に花を咲かせている。
 
・第2場
マルガリータ総督の宮殿。総督は着任以来節度と寛容をもってネーデルラントの統治にあたっていたが、激化の一途をたどるカルヴァン派勢力の蜂起への対応に苦慮している。彼女を総督に任命した異母弟・スペイン王フェリペ2世は異端不寛容主義者であった。
 
・第3場
ブリュッセルの市民、クレールヒェンとその母親の暮らす住居。彼女はしばしばお忍びで姿を見せるエグモントを崇拝し、熱烈に愛している。
クレールヒェンに強い愛慕の念を寄せる誠実な青年ブラッケンブルクに対し、クレールヒェンは時に優しく接しつつも彼の気持ちを受け入れることはない...苦悩するブラッケンブルク。
 
 
【第2幕】
 
・第1場
ブリュッセルの広場。市民たちは街で起きている暴動の噂について話していたが、ふとしたことから口論、そして小競り合いとなる。
そこへエグモントが従者を引き連れて登場、騒ぎに割って入りそれを鎮める。彼は市民たちに援助を約束し、暴力的な偶像破壊運動に対し動揺しないよう呼びかける。
 
・第2場
エグモントの邸。彼とともにマルガリータ総督との会談に臨んでいたオラニエ公ウィレムが訪れる。フェリペ2世によるネーデルラントへのさらなる圧政を予感し、一時的にこの地を離れ武力を蓄えつつスペインとの戦いに備えようと提案するオラニエ公。
それに対しエグモントは、国王への反逆こそがネーデルラント弾圧の口実となってしまう、ゆえに自重すべきと主張する。オラニエ公は説得を諦め邸を後にする。
 
 
【第3幕】
 
・第1場
マルガリータ総督の宮殿。総督はフェリペ2世からの手紙の内容を秘書マキャベルリに伝える。マルガリータの穏健な姿勢を失政と見なしたフェリペ2世はアルバレス公爵およびスペイン軍をネーデルラントへ派遣したのだった。マルガリータは総督の座を退くことを決意する。
 
・第2場
クレールヒェンの住居。彼女とその母親がブラッケンブルクについて話している。「やがて時期がくれば...」と、娘と青年の結婚を望む母親。エグモントのことしか考えられないと訴えるクレールヒェン。
そこへエグモントが現れる...ほどなくして母親は退場、二人の愛の会話が続く。
「世間の人々の知る大将軍は堅苦しく冷淡なエグモントだ...でも、ここにいるのは平穏で、開けっぴろげで、しあわせな...これが君のエグモントだよ!」
「この世にもうこれ以上の喜びはないわ!」
 
 
【第4幕】
 
・第1場
街頭にて。市民たちがひそひそと話をしている。マルガリータ総督はネーデルラントを去り、代わって着任したアルバレス公爵はさっそく集会や政府批判を禁ずる政令を公布し、巡察の衛兵を街なかに置いたという。
 
・第2場
アルバレス公爵邸。公爵は家臣たちにエグモントの秘書らの逮捕と回廊の封鎖を命じ、息子フェルディナンドには召喚したエグモントを拘留する旨の計画を告げる。
エグモントがやってくる。彼はアルバレスに対し、ネーデルラント人を無条件に屈従させ古来からの権利を剥奪するような政策はスペイン国王への忠誠をもたらさないと説くが、公爵は聞く耳を持たない。さらに「国王は誤った道へ踏み出し始めている」と述べたことにより、エグモントは逮捕される。
 
 
【第5幕】
 
・第1場
夕刻の街頭。愛するエグモントを救い出すため、クレールヒェンは市民たちに武器を手に取って集まるように呼びかけている。しかし彼らは当局による締め付けを恐れ隠れてしまう。一緒にいたブラッケンブルクに説得され、クレールヒェンは失意のうちに帰路につく。
 
・第2場
牢獄。エグモントの独白。
昔からの友!つねに忠実な眠りよ、お前も私を見捨てるのか〜
〜おお、不安よ!時を待たずして人を死に追い込もうとする不安よ、放っておいてくれ!一体いつからエグモントはひとりぼっちに、この世界でこんなにも孤独になってしまったのだ?〜
〜よし、彼らが何千人と集まり、私のところへやって来て力を貸してくれるのだ。彼らの敬虔な願いはたちまちに天へと届き、奇蹟を起こしたまえと請い願う〜
 
・第3場
クレールヒェンの家。彼女はランプを窓際に置きブラッケンブルクの到着を待っている。そこへ戻ってきた彼によって中央広場でエグモントの処刑の準備が進められていることを知らされたクレールヒェンは絶望、毒薬の入った小瓶を取り出す。思いとどまるように、そうでなければ一緒に死なせてくれというブラッケンブルクの懇願はもはや彼女の耳には入らない。一人で半量の毒をあおり、ブラッケンブルクに家を出るよう促し、彼女自身は小部屋へと去ってゆく。最後も結局置き去りにされたブラッケンブルク。
「この地上にもうぼくの足場はない。そして地獄も天国もひとしい苦痛を与えるのだ」
 
・第4場
牢獄の中。アルバレスの家臣がエグモントに判決結果を告げる。「大逆罪により民衆の面前において斬首刑に処す」
しばらく物思いに沈んでいたエグモントはそこに公爵の庶子フェルディナンドの姿を認める。幼い頃からエグモントが尊敬と憧憬の対象であったと嘆き悲しむフェルディナンドにエグモントは言葉をかけ、残してゆく彼の部下たち、そして愛するクレールヒェンを託す。
苦悩から解放されまどろむエグモント...そこへクレールヒェンの顔立ちをした女神が姿を見せる。女神はエグモントの死がネーデルラントに自由を与えるだろうと告げ、彼に月桂樹の花冠を授ける...
エグモントは目を覚ます。太鼓の音が近づいてくる。
「おれは自由のために死ぬのだ〜自分をいま受難のうちに犠牲とするのだ」
エグモントは戸口に向かって歩いてゆく。
 
(完)
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2018年05月04日

多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち〈2〉

 
 
こほろぎ
 
こほろこほろと鳴く虫の
秋の夜のさびしさよ。
日ごろわすれし愁(うれひ)さへ
思ひ出さるるはかなさに
袋戸棚かきさがし、
箱の塵はらひ落して、
棹もついて見たれども、
あはれ思へば、隣の人もきくやらむ、
つたなき音は立てじとて、その儘におく。
月はいよいよ冱(さ)えわたり
悲みいとど加はんぬ。
昼はかくれて夜は鳴く
蟋蟀(こほろぎ)の虫のあはれさよ、
しばしとぎれてまた低く
こほろこほろと夜もすがら。
 
 
【第一書房版『木下杢太カ詩集』(昭和5年刊) より引用。原文においてはほぼすべての漢字にルビが振られているが、ここではその大半を省略。また旧漢字は現行のものに改めた】
 
・袋戸棚...床の間、書院などの脇の上部に設けた戸棚。
・棹...三味線。
・いとど...いよいよ。ますます。さらにいっそう。
 
初出は明治43年12月『昴』。
「竹枝集」の総題のもとに別の詩とともに発表されている。
このときの署名は彼の別号である「きしのあかしや」。
 
明るく活気に満ちた前掲の作「両国」から一転、静かな秋の夜のおもむきを歌った哀愁漂う詩である。
全15行のうちの大半が 7+5、またはそれに近い言葉のリズムを持っているが、その単調な繰り返しがしっとりとした “重さ” を醸しているように思える。
虫の音を聞きながらふと思い立って三味線を手に取る...
何とも風雅な趣味、時の流れである。
(でもあまり上手ではなかったのかしら)
 
詩の味わいからは少し離れるが...
「冱える」という字を今回初めて知った。
我々がふだんよく目にする「冴」は「冱」の俗字であるとのこと。
また「となり」という字も「隣」ではなく「鄰」が正字なのだそうだ。
 
漢字の世界も奥が深い。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 14:07| Comment(0) | 音楽雑記帳

2018年04月07日

多田武彦『木下杢太郎の詩から』の詩たち〈1〉

 
多田武彦/男声合唱組曲『木下杢太カの詩から』。
この作品が書き下ろされたのは1960年、多田が「東京に移り住んで4年目、江戸情緒に心酔しきった頃」(“作曲者のことば” より) のことである。
このときは『両国』『こほろぎ』『雪中の葬列』『市場所見』の全4曲構成であった。
後に『柑子』を第3曲として追加、既存の曲にも改訂が施され現在われわれが知る形の組曲となる。
(改訂版の初演は1983年)
 
これら5つの詩について、感じたことや考えたことを少しずつ、自由に綴っていこうと思う。
 
 
両国
 
両国の橋の下へかかりや
大船は檣(はしら)を倒すよ、
やあれそれ船頭が懸声をするよ。
五月五日のしつとりと
肌に冷き河の風、
四ツ目から来る早船の緩やかな艪拍子(ろびやうし)や、
牡丹を染めた袢纏の蝶々が波にもまるる。
 
灘の美酒、菊正宗、
薄玻璃(うすばり)の杯へなつかしい香を盛って
西洋料理舗(レストラント)の二階から
ぼんやりとした入日空、
夢の国技館の円屋根こえて
遠く飛ぶ鳥の、夕鳥の影を見れば
なぜか心のみだるる。
 
 
【第一書房版『木下杢太カ詩集』(昭和5年刊) より引用。原文においてはほぼすべての漢字にルビが振られているが、ここではその大半を省略。また旧漢字は現行のものに改めた】
 
・檣...本来の読みは「ほばしら」。船に立てて帆をかかげる柱。
・四ツ目...墨田区本所付近の旧い地名。本所四ツ目芍薬(牡丹)園という花園が有名だったそう。
・玻璃...ガラスの別称。
 
初出は明治43年7月『三田文学』。
両国橋 (当時のものは現在の橋よりも20mほど下流に架かっていたとのこと) の下を流れる隅田川、行き交う船、そして夕暮れの空...
古き良き “江戸の粋” を詩のそこここに感じ取ることができる。
「レストラントの二階から」のくだりがはじめのうちやや唐突に思えたのだが、彼の創作活動について調べるうちに少しずつ様子が飲み込めてきた。
 
明治の末期、若い文人や美術家たちによる懇談の集い「パンの会」が結成される。
新しい芸術について語り合うという趣旨の、パリにおけるいわゆる ”カフェの文化“ に倣ったものであろう。
杢太カは友人北原白秋らとともにこの会のメンバーであった。
その最初の会場が両国橋にほど近い西洋料理店「第一やまと」だったそうな。
 
また、杢太カの『築地の渡し 竝序』という詩の中に次のようなフレーズがある。
「...永代橋を渡つての袂(たもと)に、その頃永代亭となん呼(よべ)る西洋料理屋ありき。その二階の窓より眺むるに、春月の宵などには川の面鍍金(めつき)したるが如く銀白に〜」
料理屋の上階から景色を眺めつつ一献傾けるのが彼にとってよほどお気に入りだったに違いない。
 
さて、上記『木下杢太カ詩集』(以下S5と略記する) に先立って大正8年に出版された彼の第一詩集『食後の唄』(T8と略記) にもこの詩が収められているが、T8とS5では若干の相違がある。
そのうちの2つを挙げておきたい。
 
まず10行目。
 
S5:西洋料理舗(レストラント)の二階から
に対し
T8:旗亭(レストウラント)の二階から
 
という表記になっている。
料理屋や居酒屋、旅館を表す「旗亭(きてい)」という言葉は中国由来のもの。
大正5年、杢太カは医学校の教授として瀋陽に赴任している...そのことと関係しているかもしれない。
 
もう1つは最後の行。
 
S5:なぜか心のみだるる。
に対し
T8:なぜか心のこがるる。
 
「こがるる」(切に思う、恋い慕う、思い悩む etc.) のほうがより多彩なニュアンスを内包しているように感じられるのだが...
 
以前、白秋の詩を読んだ際にも思ったことだが、語句の入れ替えから句読点の有無、改行の調整などに至る細かな推敲訂正の歩みには真に興味深いものがある。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
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2018年03月27日

【音楽雑記帳】ハイドン交響曲 (1) 1766-1773

 
ハイドンの交響曲創作における最初の充実期、1766〜1773年頃までの作品について自分なりに少しまとめてみた。
まず、この時期のものとされている19曲を再掲する。
(作曲年代および表記順序はあくまで僕の個人的な分類・参考データである)
 
§1767年
第38番ハ長調、第35番変ロ長調、第58番ヘ長調
§1768年
第26番ニ短調『ラメンタツィオーネ』、第41番、第49番へ短調『受難』第59番イ長調『火事』
§1769年
第48番ハ長調『マリア・テレジア』、第65番イ長調
§1770/71年
第43番変ホ長調『メルクール』、第44番ホ短調『哀しみ』
§1771年
第42番ニ長調、第52番ハ短調
§1772年
第45番嬰へ短調『告別』、第46番ロ長調、第47番ト長調
§1773年
第51番変ロ長調、第50番ハ長調、第64番イ長調『テンポラ・ムタントゥール』
 
 
1) 楽器編成と使用方法
この時期の楽器編成の基本形は
オーボエx2、ファゴット、ホルンx2 および弦五部
である。
 
・次の4曲ではトランペットx2およびティンパニが加えられる
第38番、第41番、第48番、第50番
=すべてハ長調の作品
 
・第41番の第2楽章ではフルートが独奏楽器風に用いられる
 
・緩徐楽章では編成が縮小される
1767年の3曲は管打楽器がすべて省かれる
それ以降の作品ではファゴットやトランペット、ティンパニが休みとなることが多い
 
またこの頃よりハイドンは緩徐楽章においてヴァイオリンのパートに弱音器使用の指示を与えるようになる。
1767年:1曲/3曲中
(第38番。但しこれはエコーの効果を出すために第2ヴァイオリンにのみ指示)
以降
1768年:1曲/4曲中
1769年:1曲/2曲中
1771年:4曲/4曲中
1772年:3曲/3曲中
1773年:2曲/3曲中
と、年を経るごとにこの形がスタンダードとなっていったのがわかる...これによってハイドンはより繊細な感情表現を獲得した。
 
 
2) 楽章構成とテンポ指示
全19曲中、16曲が
急ー緩ーメヌエットー急 の4楽章構成をとる。
例外は以下の3曲:
第26番...急ー緩ーメヌエット の3楽章構成
第49番...緩ー急ーメヌエットー急
(バロック期の教会ソナタ形式を思わせる)
第44番...急ーメヌエットー緩ー急
 
・第1楽章 (第49番においては第2楽章) では大多数の14曲が Allegroおよびそれに類する速度標示をもつ
cf. 第50番のみAdagio e maestosoの序奏部あり...この試みは1774年以降のハイドンのスタイルの先駆となる
 
・緩徐楽章は9曲がAdagio類、8曲がAndante類の指示
 
・メヌエットはおよそ半数の9曲がAllegrettoだが、速度指定のないものも9曲ある
cf. 第51番はTrio (中間部) を2つもち、当時としては珍しい五部形式のメヌエットとなっている
 
・フィナーレ楽章 (全18曲中) はPresto類の標示が13曲、残る5曲がAllegro類
cf. 第45番では周知のとおり、(“告別” のニックネームの由来ともなった) Adagioの部分が後に続く
 
3) 調性の相対的な配置
・冒頭楽章/終楽章はすべて楽曲の調性に一致する
cf. 第26番の第1楽章はニ短調→ニ長調へと楽章内で転調
cf. 第45番の終楽章は嬰へ短調→イ長調→嬰ヘ長調へと移る
 
・第2楽章の調性は
下属調へ移る...9曲
同主調へ移る...4曲
属調へ移る......3曲
平行調へ移る...2曲
調性変化なし...1曲
〜49番。教会ソナタ風のこの曲は第3楽章中間部でヘ長調に転ずる以外はすべてへ短調をとる
 
・メヌエット楽章の主部と中間部の調関係
調性変化なし...8曲
同主調へ移る...8曲
下属調へ移る...3曲
cf. このうちの2曲 (第38番&第35番) はいずれもこのピリオドにおける最初期、1767年の作品
cf. 第50番ではTrioにおける調号は主部と同じハ長調のままだが、音楽は実質的にヘ長調に変わる
 
 
長々と書いてしまったが、これらの作品を繰り返し読み聴きするほどに、ハイドンがいろいろと実験を試みつつ自己のスタイルを確立していくさまが見てとれ、興味は尽きない。
 
1774年頃以降の交響曲についてもいずれ書きたいと思っている。
飛び抜けて有名ないわゆるザロモン交響曲集 (1791〜95年)、これに準ずる人気のパリ交響曲集 (1785〜86年) に向かってハイドンがどのような道を辿っていったのかを知りたいのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 15:20| Comment(0) | 音楽雑記帳

2017年07月30日

【音楽雑記帳】シューベルト/弦楽四重奏曲考

 
(画像:ホ長調D353冒頭)
 
シューベルトの弦楽四重奏曲といえば、一般にはどのようなイメージを持たれているのだろう。
真っ先に思い出されるのはやはりニックネームを持つ2曲、『ロザムンデ』(イ短調D804) と『死と乙女』(ニ短調D810)、さらには晩年の大作、ト長調D887あたりということになろうか。
 
『ロザムンデ』『死と乙女』が作曲されたのはいずれも1824年。
自らの脳裡に溢れる豊かな楽想とロマン的激情...対してそれらを受け止めまとめあげるだけの構成力、筆の力が及ばないという精神のアンバランスに苦悩した1820-23年頃の "危機" を乗り越え、いわゆる「後期様式のシューベルト」に差し掛かる時期にあたる。
そしてト長調D887はその2年後、1826年の作品だ。
これら以外の四重奏曲は知名度も演奏される頻度も極端に低い、というのが実情であろう。
 
 
最近、ふとしたことからシューベルトの初期作品について調べる機会を持った。
彼の幼少時代を時系列でざっと振り返ると以下のようになる。
 
1803...父、兄より音楽教育を受け始める (ヴァイオリン、ピアノ)
1804...ホルツァーに音楽理論、歌唱法、オルガンを師事
1808...宮廷礼拝堂児童合唱団入団、同時にコンヴィクト (寄宿制神学校) 入学、オーケストラではヴァイオリンを担当
1810...作曲活動開始、第一作は4手ピアノのための幻想曲
1811...歌曲の作曲開始、この頃より弦楽四重奏作品を作曲、サリエリのレッスン開始
この年、(未完作品含め) 弦楽四重奏曲を3曲/歌曲を3曲作曲
 
以降、コンヴィクトを離れるまでの間、
1812...(未完作品含め) 弦楽四重奏曲を3曲/歌曲および重唱曲を計5曲
1813...同 8曲/同 計27曲
 
このように、作曲家シューベルトのキャリア形成上注目すべきジャンルは歌曲と弦楽四重奏曲だったのである。
1812年秋より家庭内 (ヴァイオリン=二人の兄、ヴィオラ=フランツ少年、チェロ=父) で四重奏を楽しむようになったのも、彼がこのジャンルに力を注ぐ契機となったことであろう。
 
コンヴィクト退学までの間に書かれた弦楽四重奏曲の完成作品 (7曲) では未だ習作的な要素を強く残しているように思われるが、1813年秋、コンヴィクト期の集大成として作曲された第1交響曲 (ニ長調D82) をひとつのきっかけとして、シューベルトの弦楽四重奏曲は次第に充実の度を増してゆく。
そして以下に示すように、彼のあのチャーミングな初期交響曲群と歩を同じくして、弦楽四重奏曲も書き進められていったのだった。
 
(1813/10:第1交響曲ニ長調D82)
 1813/11:弦楽四重奏曲変ホ長調D87
 1814/09:弦楽四重奏曲変ロ長調D112
(1815/03:第2交響曲変ロ長調D125)
 1815/04:弦楽四重奏曲ト短調D173
(1815/07:第3交響曲ニ長調D200)
 1816/??:弦楽四重奏曲ホ長調D353
(1816/04:第4交響曲ハ短調D417)
(1816/10:第5交響曲変ロ長調D485)
 
上に挙げた四重奏曲4曲は (もちろん後期の作品ほどの深みには達していないにせよ)、古典的様式の鋳型の中にシューベルトの個性【美しい旋律と表情豊かな転調】を盛り込んだ佳品たちである。
第1楽章は例外なくソナタ形式。
続く緩やかな第2楽章では二つないし三つの楽想が自在に組み合わされ、ソナタともロンドとも異なる独自の形式がみられる。
第3楽章はいずれもメヌエットとトリオ。
主題は純音楽的なかっちりとしたものもあれば、レントラー舞曲のようなどこかひなびた旋律も。
(変ホ長調D87のみ、中間二楽章が入れ替わっていて、第2楽章:スケルツォとトリオ、第3楽章:三部形式のアダージョとなっている)
そして終楽章はソナタ形式もしくはロンド形式に自由さを取り込んだ独特なスタイル。
ところどころに置かれたゲネラルパウぜ (全休止) があの『グレイト』交響曲の同じ楽章を、ひいてはブルックナー休止をも想起させる。
 
 
「ベートーヴェンの後で、何ができるだろう」
常々このように語っていたというシューベルトの、彼なりの "第一の" 答えが、これら初期作品の中で既にしっかりと述べられている...改めてそう実感させられた今回の "知る旅" であった。
posted by 小澤和也 at 01:22| Comment(0) | 音楽雑記帳

2017年06月07日

白秋の『白き花鳥図』〈6〉

 
『老鶏』
 
さわさわと起(た)つ風の
音響けば、
鶏は羽ばたきぬ。はたはた、ああ、はたはた、
白檮(しらがし)の、葉広檮(はびろがし)の
かがやく陽(ひ)を目ざして。
 
鶏冠(とさか)や、猛猛(たけたけ)し
眼の稜稜(かどかど)、
尾羽、翼(つばさ)、はららぎぬ、はたはた、ああ、はたはた、
岩根の、白羽蟻の
吹雪と舞ふ柱を。
 
力よ、荒魂(あらみたま)
飛び搏(はた)くと、
勢(きほ)ひ蹴るひと空や、はたはた、ああ、はたはた、
光の、陽(ひ)のしじまの
耿(かう)たる幅(はば)乱すと。
 
凄まじ、身は重し、
青(さを)の夏(なつ)を、
朱の古りし鶏よ。はたはた、ああ、はたはた、
すべなし、飛び羽うつと
いくばくも飛ばず落ちぬ。
 
 
・はららぐ(散ぐ)...ばらばらになる。ぼろぼろと崩れ散る。
・荒御魂...荒く猛き神霊。
・勢(きおい)...きおうこと。きそいあうように事がおこる、そのいきおい。意気込み。
・しじま...静まりかえっていること。静寂。
・耿耿(こうこう)...光の明るいさま。きらきらと光るさま。
・乱す...平静な状態をかきまわす。
・すべなし(術無し)...ほどこす方法がなく切ない。
 
 
『白き花鳥図』全18編の最後に置かれた詩。
多田武彦によるこの組曲、原初の形ではこの『老鶏』は含まれていなかったのだが (音楽雑記帳『鮎鷹』の項参照)、その後再構成するにあたって組曲の第5曲として採用された。
詩のもつ荒々しさや力強さを生かし、急速な3拍子=スケルツォの楽想で書かれている。
 
かがやく陽、青の夏、朱の古りし鶏...
ぎらぎらと強烈な光のイメージに溢れたこの詩を一読してさっと脳裏に浮かんだのが、伊藤若冲による一連の花鳥画だ。
 
 
(この詩に限らないが) 白秋はどのような画をその目で、あるいは彼の心の眼で見つめていたのだろうかなどと考えつつ歌集を繰ってゆくうちに...次の二首を見つけた。
 
 
若冲の画を観て、心神相通ずるものあり、乃ち我も亦、
 
この軍鶏(しゃも)の勢(きほ)へる見れば頸毛(くびげ)さへ逆羽(さかば)はららげり風に立つ軍鶏(しゃも)
 
雄(を)の軍鶏(しゃも)は丈(たけ)いさぎよし肩痩せて立ちそびえたり光る眼の稜(かど)
 
〜『白南風』(1934年刊) 所収
 
やはり若冲であったか!
白秋のこれらの短歌と『老鶏』、互いを補完するかのように響き合っている。
 
 
 
来月、若きグリーメンとこの『白き花鳥図』を演奏します。
みなさま、どうぞお運びください。
 
 
§東京農工大学グリークラブ
§第37回演奏会
小金井 宮地楽器ホール 大ホール
(JR中央線・武蔵小金井駅下車すぐ)
入場無料、全席自由
 
 
(完)
 
 
posted by 小澤和也 at 23:13| Comment(0) | 音楽雑記帳

2017年05月03日

白秋の『白き花鳥図』〈5〉

 
 
『黎明』
 
印度画趣
 
白き鷺、空に闘ひ、
沛然と雨はしるなり。
 
時は夏、青しののめ、
濛濛と雨はしるなり。
 
早や空(むな)し、かの蓮華色(れんげしょく)。
二塊(ふたくれ)の、夢に似る雲。
 
くつがへせ、地軸はめぐる。
凄まじき銀と緑に。
 
白き鷺空に飛び連れ、
濛濛と雨はしるなり。
 
 
・黎明(れいめい)...よあけ。物事の始まり。
・沛然(はいぜん)...雨のさかんに降るさま。
・濛濛(もうもう)...霧や小雨などで薄暗いさま。
・凄まじい...色などさめきって白っぽい。
 
 
『白き花鳥図』全18編中、14番めの詩。
多田武彦はこの『黎明』を組曲の第1曲に選んでいる。
"闘ひ" "雨はしる" "くつがへせ" など、力や勢い、はやさや厳しさを想起させる語句が並ぶこの一編 (特に "雨はしる" は三度にわたり用いられている) は実際、作品の冒頭を飾るに相応しいと思う。
 
題名の傍らには「印度画趣」と添えられている。
白秋の見た (想像した) 画がインド風のそれであったのか、あるいは "蓮華色"=朝焼けの空の色からハチスの花が連想されたのだろうか。
 
これまでにも述べてきたが、白秋の 「言葉の選び方へのこだわり」がこの『黎明』においても強く感じられる。
この詩の初出は昭和2年4月 (詩集としてまとめられる2年前) だが、それと読み比べるとほとんどの行が推敲され書き換えられているのに気付く。
長くなるが、以下に全文を掲げてみよう。
 
 
『黎明』
 
白き鷺空に闘ひ、
沛然と雨はしるなり。
 
時は夏、青しののめ、
瀉(かた)はいま雨はしるなり。
 
現(うつゝ)なり、善きも悪しきも、
超えよ、かの夢に似るもの。
 
くつがへせ、地球はめぐる、
水天の幻と帆と。
 
蜃気楼(かいやぐら)、紫の市、
たちまちに雨はしるなり。
 
 
※原文には全ての漢字にルビが振られているが、煩雑となるため一部を除き省略した。
 
 
以下はあくまで個人的な感想だが、初出版を目にしてから改めて最終形を読み込むと、洗練の度が格段に高くなっているのがわかる。
"かの蓮華色" が後に足されたものである、という点がやはり最大のインパクトであろうか。
(したがって副題の "印度画趣" も初出版にはない)
これも新たに加えられた "凄まじき銀と緑" と互いに響き合って、暗さや青白さが支配的な驟雨の風景の中にあって差し色のような効果を生んでいるように思える。
 
"沛然と" に呼応する "濛濛と" も良いし、"夢に似るもの"→"夢に似る雲"、あるいは "地球はめぐる"→"地軸はめぐる" への改変も、表現の輪郭をより鮮明に浮き上がらせている。
一方で、"蜃気楼、紫の市" という魅力的な一行を敢えて外した詩人の潔さにも感嘆するばかりだ。
最終連がこのような形になったことで、あたかも音楽における「主題回帰」「ソナタ形式における再現部」のようなフォルムの美しさを感じずにはいられない。
 
 
(つづく)
 
 
posted by 小澤和也 at 16:31| Comment(0) | 音楽雑記帳