2020年02月06日

ペーテル・ブノワのバイオグラフィ

 
 
ペーテル・ブノワはベルギー、フランデレン地方に生まれた作曲家・指揮者・教育者である。
後半生をアントウェルペンでの音楽教育に捧げたため、作曲家としてはほとんど知られていない。
 
ここに彼のバイオグラフィを紹介する。
著者はベルギーの音楽学者ヤン・デウィルデ氏、フランデレンの19世紀ロマン派音楽を専門とするペーテル・ブノワ研究の第一人者である。
 
 
ペーテル・ブノワ Peter Benoit
(1834.8.17. ハレルベーケ〜1901.3.8. アントウェルペン)
 
バイオグラフィ
ヤン・デウィルデ Jan Dewilde 
小澤和也: 訳編
 
 
ペーテル・ブノワは最初の音楽レッスンを父ペトリュスより受ける。
彼の父はハレルベーケにおいて教会の聖歌隊やオーケストラ、吹奏楽団で活躍する多才な音楽家であった。
若きブノワは地元の聖救世主教会の聖歌隊員となりそこで宗教音楽を知る。1847-51年、彼はデッセルヘムのピアニスト/オルガニストであるピーテル・カルリエルに学び、またコルトレイクの作曲家ピーテル・ファンデルヒンステおよびヨアネス・ファンデウィーレらとも接点をもった。
 
1851年にブノワはブリュッセルの音楽院へ進み、ピアノをジャン=バティスト・ミシュロ、和声学をシャルル・ボスレ、さらに対位法、フーガおよび作曲法を院長フランソワ=ジョゼフ・フェティスに師事する。
彼の勉学はさまざまな金銭的、肉体的、精神的な問題によって妨げられるが、それでも彼は3年後に音楽院を修了した。
そしてブノワは当時のベルギー音楽界で最も力を持っていたフェティスの助力を得る。
彼は作曲に関する国家的な賞であるローマ賞の準備のためブリュッセルにとどまった。
この時期にブノワは交響曲、宗教音楽、オランダ語あるいはフランス語による歌曲、そしてヤコブ・カッツ (1804-86) の “国民文化劇場” のためにフランデレン語のジングシュピールを作曲している。
 
 
1855年にブノワはローマ賞佳作賞を獲得、その2年後にはカンタータ『アベルの殺害』で大賞受賞者となる。
これにより得た奨学金で彼はまずドイツ主要音楽都市へ留学、その後1859年5月から1863年3月までの間パリに住んだ。
他の多くの作曲家と同様にブノワはパリでオペラ上演の機会を得ようとしたが、その試みは成功しなかった。
ピアノ曲集『物語とバラッド』(1861) は出版され、頻繁に演奏され好意的に評される。
当時のパリにおいて多くのヴィルトゥオーゾたちが独自のピアノ作品で成功していたのとは対照的に、ブノワは内面的な曲を書いた。
音楽評論は彼の生誕地の民族的伝承への強い関心を指摘し 〜それは音楽におけるナショナリズムの兆しである〜、そしてブノワはピアノ作品の中で独創的な手法を確立していった。
 
奨学金が終了した後、彼はパリでジャック・オッフェンバックの主宰するブフ・パリジャン・オペレッタ劇場の指揮者として、またウィーン、ブリュッセルおよびアムステルダムにも出演して生計を立てた。
その間にブノワは自身の『宗教的四部作』がブリュッセルで大成功を収めたことを知る。
そしてベルギー帰国時には将来を約束されたベルギー人作曲家のひとりと見なされるようになった。
彼は『ピアノと管弦楽のための交響詩』 (1864) および『フルートと管弦楽のための交響詩』(1865)、そしてとりわけオラトリオ『リュシフェル』(1866) によってその名声を確固たるものとする。
詩人エマニュエル・ヒールとの長い共同作業の始まりを告げるこの作品は、オラトリオ『スヘルデ』(1869) とともにブノワの全作品の中でも大きな象徴的意義を持つものとなった。
なぜならば、それは彼の国民主義的時代、すなわち彼の音楽作品にとっての公用語として最終的に自国語を用いようとした時代の始まりと考えられているからである。
 
ブノワは以前より、カッツの台本による2つのジングシュピール『山なみの村』(1854) や『ベルギー国民』(1856) のようなフランデレン語をテキストとする作品を書いている。
そして彼は『ピアノと管弦楽のための交響詩』において民謡を素材として用いた。
すなわちブノワは「傑出したベルギー人作曲家ピエール・ブノワ」から回心し「フランデレンの民衆に歌うことを教えたペーテル・ブノワ」として再び立ち上がったのだった。
彼の国民主義的理念はすでにブリュッセル音楽院での学生時代より、モネ劇場の指揮者でもありベルギー国創立のためにオラニエ家支持的思想を抱いていた作曲家カレル・ローデウィク・ハンセンスや、反教権主義で社会運動に傾倒していたフランデレン主義派の舞台演出家カッツとの接触を通じてゆっくりと熟成されていく。
 
 
ベルギー帰国ののち、彼の国民主義的理念はとりわけヒールの影響のもとに結晶化してゆく。
そして1867年6月3日、アントウェルペン音楽学校の校長に任命されたブノワは、即座にその理念を実践的に適用することができたのだった。
“音楽におけるナショナリズム” のヨーロッパにおける潮流の中に身を置く最初の一人として、彼は “音楽におけるナショナリズム” および教育と音楽生活のプラクティカルな実現化についての彼の理論を、心を打つ一連の論文や言葉で提示した。
それらはしばしばヨハン・ゴットフリート・ヘルダーのようなドイツロマン派の作家や哲学者の知的遺産の影響を受けている。
 
1868年、ブノワはフランデレンの新しい音楽動向についての基礎論説を発表した。
「学校教育とは、芸術を少しずつ育てていきながら新たな形式を導入してその領域を拡大し、それぞれ固有の特質によって作品が関係づけられていくような、同じ民族によるひと続きのものである。
その点で、それらの作品は芸術を豊かにするすべての形式から生ずる生命の源であり、論理的で首尾一貫した発展の比類ない基盤であるので、継続的に自らを再生一新させるのである」
外国の影響を受けない、フランデレン独自の音楽言語を実現するために、彼は民謡および母国語 (フランデレン語) の再興を説いた。
彼は数々の民謡を「民族音楽の先駆け」とみなした。
それらは自然な、しかし隠された根源であり、その中に個々の音楽の本質的な特質が備わっている。
 
ブノワは彼の教育法の中で民謡を集約統合し、彼の作品の中でもそれを扱った。
音楽教育や実践学習においてフランス語が用いられること、また教会音楽においてラテン語 (久しく姿を消した、価値の薄れた遺物) が用いられることに対し、彼は母国語 〜民族の特徴の基礎〜 を使用することにより音楽芸術はより人間的なものになり得るのだと明言した。
「彼ら固有の言語を話さない民族は独創的で音楽的な芸術の型を創り出すことは決してない」
フランデレン語のテキストで作曲するということは当時のベルギーの国家体制下においては大きな象徴的価値を持っていた。
 
ローマ賞の候補者がカンタータの作曲にフランデレン語を用いることができるようになるのはようやく1865年になってからである。
1846年、ティユー (リエージュにあるワロン自治区) の主務大臣はこのように言明した。
「我々の国においてより普及した言語、そして音楽教育に用いられる言語はフランス語しかない、ということを示すのに多くの言葉はいらない」
ブノワは自国語で作曲した最初の人物ではないが、1866年以来彼は固い意志をもってそれに専念した。
 
さらにブノワは統合された、一般の人々やアマチュアに対してと同様にプロの音楽家へも向けられ、小さな村から都市部に至る音楽生活をすべて包括した教育制度を発展させた。
彼の音楽教育の最終目的はヴィルトゥオーゾを作り上げることではなく、民衆の中心に立つ “考える力を持った人間” を育てることであった (実際、ブノワは男女共学の教育を導入した)。
「偉大な芸術家は彼ら自身からなるものではなく、また彼ら自身によって存続するものでもない」
作曲家も演奏家も国民 〜彼らにとっての聴衆〜 の中心にいなければならない。
その社会的重要性はブノワが講義を通して大衆に伝えようとした教育からも明らかである。
ブノワには作曲家から演奏者を経由して必然的に聴衆へと流れる一本の線が見えていた。
彼はこの繋がりを「その結びつきが断たれる、あるいは存在しないときには全ての美的均衡が消え失せる、それほどに深いもの」と見なした。
それゆえ、作曲家としてのブノワにとって、正統的な演奏とは同じ国民性をもった音楽家によってこそ密に取り組まれるものであった。
 
 
アントウェルペン音楽学校校長に任命された頃には国内外の批評家によって独創的・現代的と烙印を押されていたその表現スタイルを、ブノワは伝える者と受け取る側との強い結びつきのため一般大衆の理解度に適合するよう抜本的に単純化することを決める。
フランデレン解放への闘争の中で、彼は音楽を「宣伝活動としての最強の武器のひとつ」と見ていた。
しかし、大衆の理解の難しい音楽の言葉を用いて彼らの心をどのように高揚させることができるだろうか?
自身の理念をできるだけ広く普及させるため、ブノワは大衆に向けて否応なく訴えかける音楽を書こうとする。
こうした作風の変化はすでにオラトリオ『スヘルデ川』(1869) において目立っているが、それにもかかわらず1870年代の彼は『愛の悲劇・海辺にて』(1872) や『戦争』(1873) といった非常に主観的な作品を作曲していた。
 
『ルーベンスカンタータ』(1877年、ユリウス・デ・ヘイテルの台本) 以来、ブノワは特に歌曲や合唱曲、そして野外での上演のために企画されたカンタータ作品において強い自己表出をおこなった。
これらの作品は国家的・歴史的人物に敬意を表し (『レイスウェイクカンタータ』『レーデハンクカンタータ』)、あるいは祖国に平和・幸福・繁栄をもたらすような人間的創造性を賛美するものである (『美に寄せる賛歌』『発展への賛歌』)。
一般大衆へ向けた音楽形式として、彼は平易でありながら聴く者を魅了するメロディ、劇的効果、圧倒的なホモフォニーの合唱、多くのユニゾン、大規模な編成、そして色彩豊かなオーケストレーションによって親しみやすく理解の容易な書法を用いた。
それは大衆の文化的向上を目指して書かれた、明快で分かりやすいメッセージを伝えることを目指した共同体芸術である。
そのうえ、彼は教育的な立場から自分の作品に可能な限り演奏者を増員した。
それによって召集されるオーケストラの総員はしばしば大規模なものとなった。
 
これはやはり音楽の歴史の中では独特の事象である。
その作曲家は自身の芸術的才能を彼の社会的・文化的責務よりも下位に置いたのだった。
 
 
フランデレンの文化的自律に向けての尽力によって生まれた彼の国民主義的音楽理論の中にはより急進的、観念的な要素があった。
この理想は師フェティス、およびフランソワ=オーギュスト・ヘヴァールトやアドルフ・サミュエルらコスモポリタン志向の作曲家たちによって反対される。彼らはベルギーを音楽的に極微の地と見なし、ラテンおよびゲルマンの影響の交差点と考えており、国民主義的音楽の流派を拒絶していた。なぜならば、彼らにとって整然とした普遍性こそが優れた音楽の特質であったからである。
彼の音楽学校が他の都市の王立音楽院と同列視されているとブノワがはっきりと認識できたのは1898年のことだった。
 
その「一般大衆へ向けた」音楽作品により、彼は多くの人々の耳目を集めることに成功する。
しかし、フランデレンの音楽動向の先導者としての彼の影響力は絶大であった。
それは国民主義的潮流の外側に身を置く作曲家には居場所がほとんどないほどであった。
さらに、多くのブノワ信奉者らは目的と手段とを混同し、彼の国民主義的共同体芸術を全てのフランデレン音楽制作における試金石と見なした。
フランデレン音楽のために完全には身を置こうとしなかった、また同時代のヨーロッパの潮流に乗るべく自主独立の音楽芸術を主張した作曲家たちはブノワの模倣者らによってしばしば攻撃される。
 
しかしながら、現代都市社会の観点からすればブノワが狭量なナショナリストであると非難されることはない。
彼はそれぞれの国民の自決権のために弁護をした。
彼のナショナリズムは解放運動から発しているものであり、ある国民が他の国民と比較して優れているという立場はとらない。
それはまさに個性であり、人間性の充実に寄与するあらゆる国民の多様性である。
もしもある国民が個性を獲得したならば、彼らは他の国民と対話の中で歩んで行けるのだ。
ブノワは指揮者として他の楽派の作曲家、ワロン人 (グレトリー、フェティス、ラドゥ) の多くの作品、そして 〜彼の “フランデレンのフランス語話者” への嫌悪にもかかわらず〜 フランスの作曲家 (ベルリオーズ、グノー、サン=サーンス) の作品も演奏した。
 
ブノワは一般聴衆やアマチュア音楽愛好家がプロの音楽家と同等に扱われるような統合された音楽生活をも構想していたが、それは充分な実現には至らなかった。
しかし、アントウェルペン音楽学校の王立フランデレン音楽院への昇格や、ネーデルラント・リリック劇場 (フランデレン歌劇場の前身) の設立により彼の理念は実行され今日まで生き続けている。
 
ペーテル・ブノワの生涯と作品は、彼のもっとも名高い歌曲『我が母国語』(1889) の中にきわめて象徴的に表されている。
 
 
ー 完 ー
 
 
 
posted by 小澤和也 at 09:40| Comment(0) | 音楽雑記帳

2020年01月21日

我が懐かしの「月下の一群」<5> つづき

 
 
ヴェルレーヌ『秋の歌』、
前回の続きを。
第二連は、原詩→「昨日の花」→「月下の一群・初版」と大學の紡いだ言葉の世界を順にたどってみたい。
 
 
まずはヴェルレーヌの原詩から。
(恥と承知のうえで) 敢えて機械的に、辞書と首っ引きでたどたどしく起こした拙訳を添えて。 
 
Tout suffocant
Et blême, quand
  Sonne l’heure,
時の鐘が鳴り響くと
すっかり息が詰まり
また青ざめて、
 
Je me souviens
Des jours anciens
  Et je pleure;
私は昔の日々を
思い出し
そして涙する。
 
 
処女訳詩集「昨日の花」において
大學はこの部分を次のようにうたった。
 
時の鐘
鳴り出づる頃
息苦しくも青ざめて
わが來し方を思ひ出で
さては泣き出づ。
 
思いのほか原詩に忠実な訳であるように思えるがどうだろう。
5+7+(7+5)+(7+5)+7 と
もの悲しい空気の中にもどこか心地良いリズムがある。
意外だったのが、大學が6行詩の形にこだわっていないこと...「わが來し方を思ひ出で」と一気に綴っている。
 
 
それから7年の月日を経て「月下の一群・初版」に収められた『秋の歌』の当該箇所。
“翻訳” という枠から解き放たれ、情感が自由に飛翔している。
 
時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひ出づる
わが來し方に
涙は湧く。
 
(その後、新潮文庫版においては
・思ひ出づる → 思ひぞ出づる
・わが來し方に →來し方に
と、さらに筆が加えられている。)
 
 
多くの詩集や訳詩集ほどには知られていないようであるが、大學には「ヴェルレエヌ研究」という著作がある。
(1933年、第一書房刊)
その中で、彼が『秋の歌』について言及している数行を自由に引用させていただく。
 
“「秋の歌」の如きは (...)、世の荒波にもまれもまれて、舵緒(かぢを)たえたる破(や)れ小舟の嘆きの節が身にしみる深くも哀れな歌である。(...) そこには内容にぴったりと食い合った音楽があり、そこにはつくりごととは思い難い真実性があって、ひしひしと私たちの胸にせまる、秋の夕のとりあつめたるものの憂いのように。彼が二十歳の日の作であるこの一篇の詩に、ヴェルレエヌの一生の詩風のことごとくは早くもすでに暗示されているのである。ささやくようなその音調、憂いがちなその魂の風景。”
(漢字およびかなづかいは現代のものに改めた)
 
作品への深い愛着、デカダンスの典型であったこの詩人への限りない共感がこの文章からにじみ出ている。
 
 
そして...
クライマックスの第三連へ。
同様に列挙してみよう。
 
(原詩および拙訳)
 
Et je m’en vais
Au vent mauvais
  Qui m’emporte
そして私は去る
この身をさらってゆく
烈風に吹かれて
 
Deçà, delà,
Pareil à la
  Feuille morte.
あちらへ、こちらへ、
まるで
落葉のように。
 
 
「昨日の花」
 
落葉の如く
彼方此方に
われ吹きまくる
逆風に
身をば委せて
やらんかな。
 
 
「月下の一群・初版」
 
落葉ならね
身をば遣る
われも、
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ。
 
第二連同様、それぞれに良さを感じられる大學の二つの訳詩である。
vent mauvais (直訳すると悪い/荒れた・風) が彼に手にかかると「逆風 (さかかぜ)」となる...なんと繊細かつ大胆なセンスであることよ!
 
 
あまりに唐突なたとえであるが、この詩における大學の言葉の選び方から僕は「酒造りにおける精米の工程」を連想した。
日本酒の世界に “米を磨く” という言葉があるそうな。
雑味を除き理想の味に近づけるために米の外側を敢えて “磨き落とす”...
大學が一つの詩を (ときには数十年にわたって) 訳し続けたのは、常に言葉を磨いてその純度を高めていきたかったからだと思えてならない。
『落葉ならね/身をば遣る/われも、』
のくだりなどは、僕にとってはまさに “純米大吟醸” の味わいだ。
 
 
大學によれば、ヴェルレーヌの晩年はまさにこの詩のように “「落葉の如く彼を吹きまくる世の逆風」に追い立てられる” 悲惨なものだったという。
そして今回...これら5つの詩に改めて触れることにより、堀口大學の訳詩の世界が単なる閃きではなく、段階を踏んで構築されていったものであることを学べたのは僕にとって実に大きな収穫であった。
 
(完)
 
 
posted by 小澤和也 at 11:04| Comment(0) | 音楽雑記帳

2020年01月18日

我が懐かしの「月下の一群」<5>

 
 
 
『秋の歌』 ポール・ヴェルレーヌ
 
秋風の
ヴィオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀みに
わが魂を
痛ましむ。
 
時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひぞ出づる
來し方に
涙は湧く。
 
落葉ならね
身をば遣る
われも、
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ。
 
【新潮文庫版「月下の一群」(1955年刊) より引用。原文においては以下のようにルビが振られている。
第3行『節(ふし)』『啜泣(すすりなき)』
第4行『憂(う)き』『哀(かなし)み』
第5行『魂(たましひ)』
第6行『痛(いた)ましむ』
第10行『出(い)づる』
第11行『來(こ)し方』
第14行『遣(や)る』
第18行『逆風(さかかぜ)』】
 
 
有名な、あまりに有名な一編。
明治〜大正期の詩人・上田敏による名訳 (「秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの etc.」訳詩集「海潮音」(1905年刊)所収) をはじめ、金子光晴・窪田般彌の訳も知られている。
 
 
堀口大學の『秋の歌』は「月下の一群」初版に先立って彼の処女訳詩集「昨日の花」(1918年、籾山書店刊) に収められていた。
「月下〜」初版を大學の訳詩のベースラインとするならば、「昨日の花」はさらにそのプロトタイプとでも言えようか。
 
 
詩の第一連、
初版ではこのようになっている。
 
『秋の歌』 ヴェルレエン
 
秋の
ヴィオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀みに
わが魂を
痛ましむ。
 
第1行でいきなり (あっ!) と思った。
〜秋風、ではないのか?!
(前にも書いたが、詩集を手に取るよりも先に「男声合唱曲集・月下の一群」に慣れ親しんでいた僕にとっては、その歌い出しは『秋風の〜♪』以外想像できなかったのである)
 
 
答えは大學訳の「ヴェルレーヌ詩集」(新潮文庫) の中にあった。
注釈において彼はこのように記している。
 
(...)秋風のヴィオロンのーとした本書の訳に驚く読者があるかもしれないが、(...)ふとこのヴィオロンは秋風の音だと気づいた時から、風の一字を加えることにした。(...)
 
その3年前 (1952年) に出たばかりの「白水社版・月下の一群」でもこの部分は『秋の』のままである。
ヴィオロン=風の音、というアイディア、まさに風のように大學の脳裡に吹き込んできたのだろうか。
 
 
ちなみにこの「ヴェルレーヌ詩集」(僕の手元にあるのは第34刷改版 (1973年) ) では、第4行以下が
 
もの憂きかなしみに
わがこころ
   傷つくる。
 
となっている。
あたかも庭の草花を日々世話するかのごとくに、一行一行に常に手を加え続けずにいられない大學のあくなき探求の心が見て取れる。
 
 
第二連以降、この続きは改めて。
posted by 小澤和也 at 09:42| Comment(0) | 音楽雑記帳

2019年12月31日

我が懐かしの「月下の一群」<4>

 
 
 
 
『催眠歌』 アンドレ・スピール
 
海よ、きかせておくれ、お前が轉(ころ)がしてゐた碩(こいし)のことを....、
お前はいつまでも飽きないか?
お前が碎いて砂にする岩のことを
お前の波のことを、お前の沫(しぶき)のことを
お前の泡のことを、お前の匂ひのことを、
お前の露が島に芽生えさせ
お前の風がいぢめる松の木のことを。
 
牛乳のやうなお前の夜明のことを
お前の中に生れ、殖えて、さうして搖れてゐる
魚(さかな)のことを、貝のことを、藻のことを、海月(くらげ)のことを、
さうしてお前の中に死んでゆく諸々(もろもろ)のことを....。
お前は何時までも飽きないか?
きかせておくれ、お前をひきつける青空のことを
お前の水に水鏡したがる星のことを
(お前の波は休みなくその影をくづしてゐる)
夜明にお前をのがれ、お前を呼吸し、お前をひきずる太陽のことを、
夕暮、お前は太陽を自分の臥床(ふしど)に引止めて置きたいのだが
太陽はいつも逃げて了ふ。
 
きかせておくれ、碩(こいし)のことを。
お前はいつまでも飽きないか?
 
【新潮文庫版「月下の一群」(1955年刊) より引用】
 
 
南弘明氏がこの曲集のために選んだ全5編のうち最長の詩。
そして当然ながらその音楽ももっともドラマティックなものとなっている。
 
 
『催眠歌』単独での初出時期は不明。
詩の構成は「月下の一群 初版」からさほど変わっていない。
使われている語句の差異 (主なもの) を挙げると
 
第2行: お前は何時までも飽きぬのか?
(第12、20行も同様)
第6行: お前の露が島の上に生えさせる
第8行: お前の牛乳のやうな夜明のことを
第15行: (お前の波は休みなくその影をこはしてゐる)
第17行: 夕暮、お前は太陽をお前の臥床に引止めたいのだが
etc.
 
第8行、それまでの「お前の〜」で始まるリズムパターンを敢えて打ち切って
「牛乳のやうなお前の夜明のことを」
と語順が入れ替えられている点が (些細なことだが) 印象的である。
 
 
詩の原題は “Berceuse”(子守歌、他にロッキングチェアの意も)。
(cf. berceur[形容詞]: 静かに揺れる、人をまどろませるような etc.)
 
大學の訳詩の題名は上記のとおり『催眠歌』。
なんとも味のある名訳である。
一方、作曲家が男声合唱曲集「月下の一群」第4曲に付けたタイトルは『海よ』。
詩の第1行からそのまま持ってきたのだと思うが...
なぜ『催眠歌』を用いなかったのだろう?
posted by 小澤和也 at 02:40| Comment(0) | 音楽雑記帳

2019年12月07日

我が懐かしの「月下の一群」<3>

 
 
今回取り上げるのはフランシス・ジャム (1868-1938) の『人の云ふことを信じるな』。
 
 
その前に...前回の投稿の訂正から。
11/21にアップした拙文中、
 
>「男声合唱曲集・月下の一群」作曲にあたって
>南弘明氏が用いたテキストは主に「白水社版」
>である。
 
と記したのだが、正しくは
“(...)南弘明氏が用いたテキストは「新潮文庫版」である。” である。
【新潮文庫版の内容をつぶさに確認しなかったのが原因...白水社版をそのまま文庫化したものであろう、という油断もあった】
 
ここからは同版を引用させていただくこととする。
 
 
『人の云ふことを信じるな』  フランシス・ジャム
 
人の云ふことを信じるな、乙女よ。
戀をたづねて行かぬがよい、戀はないのだから。
男は片意地で、男は醜く、さうして早晩、
お前の内氣な美質は彼等の下劣な欲求を嫌ふだらう。
 
男は嘘ばつかりを云ふ。男はお前を殘すだらう、
世話のやける子供と一緒に圍爐裏の側に。
さうして晩飯の時刻になつても男の歸って來ない日には
お前は感じるだらう、自分が祖母のやうに年老いたと。
 
戀があるなぞと信じるな、おお、乙女よ、
さうして青空で上が一ぱいな果樹園へ行つて
一番によく茂つた薔薇の木の中に
一人で網を張つて、一人で生きてゐるあの蜘蛛を見るがよい。
 
【原文においては第6行『側(そば)』、第8行『祖母(そぼ)』、第9行『乙女(をとめ)』にルビが振られている】
 
 
自然や鳥獣、そして少女を好んで詩の題材にしていたというジャムらしい作品。
詩の言葉どおりに (恋なんてものは...)(男なんて...) と若い女性に向けて説く教訓譚のようであり、一方で (そうは言っても恋をしてしまうのが人間さ...) と皮肉っぽく語っているようでもある。
 
 
この詩がはじめて発表されたのは1921年「三田文学」誌上であり、その後「月下〜」初版、フランシス・ジヤム詩抄、白水社版「月下〜」、新潮文庫版「月下〜」などに収められている。
「初版」と前掲の新潮文庫版とではいくつかの言葉の細かな違いがあるだけで、全体としてはさほど変わりがない。
主な差異を挙げると、
 
題名: 人の云ふことを信ずるな
(同様に第1行および第9行も「信ずるな」となっている)
第1行: 少女よ (第9行も同様、ただしルビはやはり「をとめ」)
第7行: 帰って来ぬ日には
第8行: お前は感ずる
同: お前が祖母のやうに
第12行: 一人で綱を張り
 
印象が大きく変わる箇所は
お前が祖母のやうに→自分が祖母のやうに
一人で綱を張り→一人で網を張つて
くらいであろうか。
 
 
フランシス・ジヤム詩抄 (第一書房、1928年刊) およびジャム詩集(新潮文庫、1951年刊) でも次の二点を除き「月下〜」初版と同じであった。
題名: 人の云ふ事を信ずるな......
第5行: 男は僞りばつかりを
 
 
最後に、自筆原稿として遺された「新訳ジャム詩集」(1977年脱稿) の中の同じ詩を引用する。
80歳代の大學の紡いだ言葉である...あまりの劇的な変化にただ驚くばかりだ。
 
 
『人の言葉を信じるな』
 
人の言葉を信じるな、少女よ。
恋を探す気になぞなるな、恋なんか無いのだから。
男は片意地で醜悪、早晩、
君のしとやかさは下劣な男の情慾に飽きられる。
 
男は矢鱈に嘘をつく。男は君を置き去りにする、
世話のやける幼児を君におしつけて。
晩の食事の時刻に男の帰宅しない日は、
君は感じる、祖母にもまさる身の老いを。
 
恋が存在するなぞと考えるな、少女よ。
青空が降るほどの果樹園へ行くがよい
そして鮮やかな緑のばらの刈込みの中ほどに
独居の巣を張って生きるあの銀いろの蜘蛛を眺めて暮らすがよい。
 
 
 
 
 
 
 
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2019年11月21日

我が懐かしの「月下の一群」<2>

 
 
単行本としての「月下の一群」は発刊以来幾度となく版を重ね、大學はその折々に詩に手を加えている。
主なものを挙げると、
 
1. 初版: 第一書房、1925年刊
2. 新編 月下の一群: 第一書房、1928年刊
=1.の増補改編
3. 白水社版: 白水社、1952年刊
=1.の全面改訳
4. 新潮文庫版: 新潮社、1955年刊
=3.に若干の加朱
 
ちなみに「男声合唱曲集・月下の一群」作曲にあたって南弘明氏が用いたテキストは主に「白水社版」である。
 
 
『輪踊り』  ポオル・フォル
 
世界ぢゆうの娘さんたちがみんな
手をつなぎ合ふ気にさへなつたら、
海をめぐつて輪踊りを、
踊る事さへ出来ように。
 
世界ぢゆうの若者たちがみんな
船乗りになる気にさへなつたら、
海に綺麗な舟橋を、
かけることさへ出来ように。
 
世界ぢゆうの人たちがみんな、
手を握り合ふ気にさへなったら、
地球をめぐつて輪踊りを、
踊る事さへ出来ように。
 
【白水社版「月下の一群」(1952年刊) を主たる底本とした講談社文芸文庫 (1996年刊) より引用。原文においては第3行『輪踊(わをど)り』のみルビが振られている】
 
 
今回はじめて「初版」と読み比べて、その余りの違いに驚いた。
白水社版がまさに「全面改訳」だったことが分かる。
以下にその全文を挙げてみよう。
 
 
『輪踊り』  ポオル・フオル
 
世の中の女の子たちが悉く
手をつなぎ合ふその時は、
海をめぐつて輪踊りを
踊る事さへ出来ませう。
 
世の中の男の子たちが悉く
船乗となるその時は
海に綺麗な舟橋を
かけ渡すことが出来ませう。
 
世の人たちが悉く
手を握り合ふその時は、
地球をめぐつて輪踊りを
踊る事さへ出来ませう。
 
【ルビの振り方は白水社版と同じ。旧漢字は現行のものに改めている】
 
 
世の中の→世界ぢゆう
悉く→みんな
その時は→気にさへなったら
出来ませう→出来ように  etc.
 
繰り返し用いられるこれらの語句の置き換えにより詩全体のイメージが大きく変化している。
特に「その時は〜出来ませう」から「気にさへなつたら〜出来ように」への変更は、読み手の心をよりダイナミックに揺さぶる。
それは “叶わぬ願望” のニュアンスの表出であろうか、あるいは “行動しようよ、きっとできるさ” といった、未来を見据えた強いメッセージなのかもしれない。
 
 
この詩は「月下の一群」初版に先立って彼の処女訳詩集「昨日の花」(1918年、籾山書店刊) に収められた。
詩の言葉は初版と概ね同じなのだが、行組みの扱いが異なるため印象がかなり変わってくる。
堀口大學全集にある解説に従って再現するとこのようになる...第三連はなんと一行だった!
 
 
ここにも詩人のこだわりを感じ取ることができよう。
(「昨日の花」と初版「月下の一群」での語句の違いは次の2点のみ。第1行「握り合ふ」および第3行「船乗り」)
 
 
個人的にはよくこなれた新しい訳 (白水社版) を断然支持するが、この詩にこうした「原型」があると知ることができたのは大きな収穫であった。
posted by 小澤和也 at 13:13| Comment(0) | 音楽雑記帳

2019年11月15日

我が懐かしの「月下の一群」<1>

 
「月下の一群」は、フランス近代詩人66名の詩340編が収められた、堀口大學 (1892-1981) による訳詩集 (初版は第一書房より、1925年刊) である。
昭和初期の日本において多くの若い詩人に大きな影響を与えた傑作だ。
 
僕がこの作品のことを知ったのは、詩集を実際に手に取るよりもはるか以前、学生時代に歌ったある合唱曲によってであった。
南弘明作曲「フランスの詩による男声合唱曲集・月下の一群(第1集)」である。
当時まだ二十歳そこそこであった僕には詩の鑑賞というものに対する興味も知識も全くといってよいほどなかったが、それでもこの曲を初めて歌った時に感じた、これらの詩のもつ西欧風の肌触り、さらにそこから美しく置き換えられた日本語の味わいは今でもよく覚えている。
 
この曲集には以下の5編の詩が用いられている。
1. 小曲 (シャヴァネックス)
2. 輪踊り (フォール)
3. 人の言うことを信じるな (ジャム)
4. 海よ (スピール)
5. 秋の歌 (ヴェルレーヌ)
(これらの表記は「月下の一群」楽譜に準拠)
 
僕にとって懐かしいこれらの詩について、30年ぶりに感じたり考えたりしたことを気ままに綴ってみようと思う。
 
 
『小曲』  フィリップ・シャヴァネックス
 
目を開くと
私には景色が見える、
目を閉すと
私にはお前の顔が見える。
 
【白水社版「月下の一群」(1952年刊) を主たる底本とした講談社文芸文庫 (1996年刊) より引用。原文においては『開(ひら)く』および『閉(とざ)す』にのみルビが振られている】
 
 
この詩は「月下の一群」初版に先立ち、「月夜の園 附刊 仏蘭西近代抒情小曲集」(1922年、玄文社刊) という単行本に収められている。
そこでは、第1行『ひらく』および第3行『とざす』がそれぞれひらがなで記されているそうである。
 
「月下の一群」初版においては、本文は白水社版と同じだが、2行目および4行目に句読点が付されていない。
(下の画像参照)
 
 
大學が折にふれて細部のかたちにこだわり続けた様子が見て取れる。
 
 
(詩の内容そのものについてではないのだが) 今回いくつかの版を見比べていてちょっと面白いことに気づいた...大學による作詩者名の表記である。
 
「月夜の園」...フェリックス・シャバネエス
「月下〜」初版...フイリツプ・シヤヴアネエ
「キユピドの箙」...フイリップ・シャヴアネ
白水社版「月下〜」...フィリップ・シャヴァネックス
 
と微妙に揺れているのだ。
(“フェリックス”とはどうしたことだろう...)
スペルは Philippe Chabaneix であるから、“シャバネー”“シャバネクス”あたりが近いのではないかと個人的には思うのだが。
海外の人名のカナ表記が昔から如何に難しいものであったかということなのだろう。
 
 
原題は “Présence”(存在)。
たった4行の短い作品だが、その中に優しい甘さと深い愛がこめられている。
大好きな詩だ。
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:33| Comment(0) | 音楽雑記帳

2019年10月01日

カリンニコフ(6): 悲しき歌

 
 
§ 悲しき歌  Chanson triste
 
作曲: 1892-93年
出版: 1901年、“ピアノのための4つの作品” の第1曲として
 
 
全24小節、2分足らずの可憐な小品。
4分の5拍子という珍しい拍子で書かれているが、終始 <3拍子+2拍子> という一定の周期の中での揺らぎであり、むしろある種の心地良さを感じる。
ギターや歌を好み、ヴァシリーの音楽的才能を目覚めさせた彼の父親に献呈された。
 
 
[第1-8小節]
昔語りのようなト短調の美しい旋律。
自然短音階的に上下行し、その表情は淡く静かな憂いを湛えている。
一方これを支える伴奏のハーモニーは和声的であるため、ところどころハッとするような瞬間が現れる。
(例えば第4小節の4-5拍目、および第8小節1-2拍目など)
 
 
 
[第9-16小節]
メロディの起伏がやや大きくなり、カリンニコフ作品の特徴でもある巧みな和声の運び (変ホ長調→ハ短調→ト長調)ともあいまって音楽は一瞬高まりを見せるが...それも束の間。
主調であるト短調のドミナント (属音) 上に落ち着き、はじめの旋律が回帰する。
 
 
[第17-21小節]
“pp  mezza voce”(ピアニッシモ、半分の声量で) でもって冒頭の旋律が繰り返され、静かに曲を閉じる。
 
 
 
《カリンニコフの交響曲からは彼の病苦の痕跡が全く見られない。ピアノの前でだけ、彼はその胸中を吐露することができたのだった》
《彼のピアノ作品は野に咲く花のようである。シンプルでチャーミング、そしてあれこれと声高に主張することがない》
 
(「ロシア・ピアノ曲集/リャプチコフ」CD解説より自由に引用させていただきました)
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 16:03| Comment(0) | 音楽雑記帳

2019年09月26日

カリンニコフ(5) 序曲『ブィリーナ』

 
 
§序曲『ブィリーナ』
 
作曲: 1892年
初演: 1950年7月、ラジオコンサートにて
演奏時間: 12分
編成:フルートx2、ピッコロ、オーボエx2、クラリネットx2、バスーンx2、ホルンx4、トランペットx2、トロンボーンx3、ティンパニ、ハープ、ピアノ、弦五部
 
 
1892年、カリンニコフが音楽演劇学校を卒業した直後に作曲された演奏会用序曲。
(当時カリンニコフ26歳)
1951年の没後50周年を機にソ連の音楽出版社がこの『ブィリーナ』を含む幾つかのカリンニコフ作品を出版しているが、初演はそれに先立って行われたことになる。
 
 
「ブィリーナ(Bylina)」はロシアに古く伝わる口承による叙事詩である。
ロシアで広く知られた英雄イリヤ・ムーロメツ (グリエールの交響曲) やノヴゴロドの商人サトコ (リムスキーのオペラ) などが音楽ファンにとって耳馴染みのあるブィリーナの主人公たちとのこと。
カリンニコフの『ブィリーナ』は特定の人物を描いた作品ではないようだ。
 
 
曲のスタイルは序奏部をもったソナタ形式。
これまで『ニンフ』『組曲』『弦楽セレナード』と見てきたが、ここで初めてソナタ形式の作品が登場することになる。
 
構成は以下の通り。
均整のとれた典型的なソナタ形式だ。
(71-119 などの数字は小節番号を、カッコ内の数字は小節数を表す)
 
1) 序奏部 Sostenuto (Andanteと追記あり), 4/4(拍子), ト短調...1-70 (70)
ソナタ形式主部 Allegro, 2/4, 変ロ長調
2) 呈示部...71-161 (91)
3) 展開部...162-285 (124)
4) 再現部...286-365 (80)
5) コーダ...366-421 (56)
 
1) 四分音符主体のゆったりとした序奏部主題がチェロ→第2ヴァイオリン→ヴィオラ→第1ヴァイオリンの順でポリフォニックに奏でられこの曲は始まる。
その後いくつかの派生主題が現れるが、曲調はすべて最初の主題と共通しており、悠然とした雰囲気が序奏部全体を支配している。
クライマックスで金管が主題を強奏したのち曲は穏やかさを取り戻し、主部へと進んでゆく。
 
2) 呈示部第1主題は長調/短調の間を行き来するような民謡風のもの。
主部全体を通し速度表記はAllegroであるが、戦闘的・直情径行型な楽想はほとんど出てこない。
第1主題の音形を用いた新しいフレーズが現れ盛り上がりを見せたところですぐに第2主題部となる。
 
Meno mosso (速度を減じて) と指示された第2主題はト長調、ロシア風の哀愁に満ちた美しいメロディ。
【近年、この抒情的な主題がソビエト連邦国歌 (アレクサンドロフ作曲) の歌い出しと酷似していると話題になったそうだが、改めて聴き比べた限り個人的には (そう言われれば似ている...かなあ) といった程度の印象でしかなかった】
この部分でハープとともにピアノによる分散和音の伴奏音形が聞こえてくる。
ロシアの民族楽器グースリを思い起こさせるどこか懐かしい響きである。
 
3) Tempo primo (=Allegro) に戻ったところから展開部である。
ここでカリンニコフは第1および第2主題のモティーフをさまざまに組み合わせて楽想を展開してゆく。
“考え抜いて書かれた” 印象の強い部分でありやや未消化で単調なきらいもあるが、ここでの経験がのちの第1交響曲第1楽章の見事な展開部に活かされたのだろうと考えると、それはそれで楽しいものだ。
序奏部主題が (アレグロのテンポで) ヴァイオリン、木管そしてトランペットによって力強く奏されると、展開部最後のクライマックスである。
やがて音楽は静まり、ごく自然な流れで再現部へ。
 
4),5) 再現部はほぼ型通り、第2主題も主調である変ロ長調で現れる。
Meno mossoからテンポを上げ、ふたたび Tempo primoとなってコーダへ入る。
全曲の終わり近く (第381小節〜) に現れる壮麗な全奏とファンファーレ、僕はこの部分に第1交響曲第4楽章、あの力強い最終盤の “原形” を見た。
 
 
オーケストレーション技術は3年前の『ニンフ』から格段の進化を遂げ、『組曲』で多楽章構成の作品に挑戦、そして『ブィリーナ』でソナタ形式の楽曲に取り組んだカリンニコフ。
 
〜次はいよいよ交響曲だ〜
彼はきっとそう思ったに違いない。
posted by 小澤和也 at 18:25| Comment(0) | 音楽雑記帳

2019年08月07日

カリンニコフ(4) 『弦楽のためのセレナード』

 
§弦楽のためのセレナード
 
作曲:1891年
初演:1893年1月26日、モスクワ
演奏時間:約9分
 
1891年、音楽演劇学校在籍中の作品。
(カリンニコフ25歳)
初演は音楽演劇学校の記念祭において作曲家自身の指揮、学生オーケストラにて初演された。
セレナードとしての特色は、冒頭に奏でられるピツィカートによって箴言のように現れ、叙情的でエレジー風ないくつかの旋律主題 (それらは互いに補完的でほとんど対照をなさない) が幅広く流れてゆく。
(CD解説書より拙訳)
 
 
楽曲の構成をもう少しだけ詳しく記してみる。
(25-61 などの数字は小節番号を、カッコ内の数字は小節数を表す)
 
 
Andantino, ト短調, 3/4拍子
 
1) 序奏部...1-8 (8)
2) 部分A (主要主題部)...9-24 (16) 
※繰り返し有り
3) 部分B (第一副主題部)...25-61 (37)
4) 部分A’ (主要主題部回帰)...62-76 (15)
5) 序奏部回帰...77-84 (8)
6) 部分C (第二副主題部)...85-116 (32)
7) 部分A” (主要主題部回帰)...117-147 (31)
8) コーダ (序奏部回想と結尾)...148-160 (13)
 
全体は上のように8つの部分からなる。
序奏部の楽想を要所に挟んだロンド形式 (A-B-A-C-A-コーダ) と見てよいだろう。
 
 
序奏部は前述の通り、弦のピツィカートによってシンプルに、しかし印象的に始まる。
主要主題は一本の明確な旋律線というよりは、ヴィオラ〜第2ヴァイオリン〜第1ヴァイオリンがフレーズを受け渡しつつ織りなす “音の綾” だ。
これまで聴いてきた『ニンフ』『組曲』のどのメロディよりも甘美な、独特の艶やかさをもった歌である。
(これら2曲との違いは何だろう...)
答えはすぐに分かった。
『ニンフ』や『組曲』では主に自然短音階
(ト短調なら ソ-ラ-シ♭-ド-レ-ミ♭-ファ-ソ) 
を用いてロシアの大地の香りを醸し出していたのだが、この主題はいわゆる旋律短音階
(ソ-ラ-シ♭-ド-レ-ミ-ファ#-ソ/ソ-ファ-ミ♭-レ-ド-シ♭-ラ-ソ)
が使われているのだ。
 
第一副主題は変ロ長調、ほのかな明るさを帯びた旋律がチェロを中心にのびやかに奏でられるが、主要主題の影が消えることはなく、ほどなく自然な流れのうちに最初のテーマが戻ってくる。
続いて現れる第二副主題は変ホ長調で始まるが、調性的にはかなり流動的である。
この部分Cの特徴はところどころに挿入されている変拍子であろう。
これによりあたかも「不意に立ち止まりーーまたおずおずと歩き出す」ような、どことなく淋しく不安げな表情が描かれているようだ。
 
三たび主要主題が 〜今度はト長調で〜 回帰、音楽は新たな展開へ向かうと思わせるがそれも長くは続かず、元のト短調でいま一度繰り返され最後のクライマックスを迎える。
その頂点では序奏部の音型がarco (弓奏) により「心に秘めた叫び」のように奏でられ、やがて遠ざかるように全曲を閉じる。
 
 
国民楽派的な語法が色濃く現れている『ニンフ』『組曲』に比べ、西欧風・ロマン派的な響きの要素をもった佳曲である。
もっと広く知られてよい作品だと思う。
posted by 小澤和也 at 09:27| Comment(0) | 音楽雑記帳