2016年03月31日

【中期のシューベルト4】ピアノソナタ イ長調

 
ピアノソナタ イ長調 D664
 
 
1819年夏、22歳のシューベルトは友人のバリトン歌手ミヒャエル・フォーグルとともに彼の故郷、上オーストリア州のシュタイヤーを訪れた。
美しい自然に恵まれたこの町の雰囲気は、シューベルトをこの上なく幸せな気分にさせたといわれている。
 
 
同地滞在中に作曲されたこのイ長調ソナタ、第1楽章Allegro moderatoは次のようなカンタービレな主題で始まる。
 
 
息の長いチャーミングな旋律がよどみなく、糸を紡いでゆくかのように生まれ出る、幸福感に溢れた楽章である。
(前に取り上げた嬰ハ短調ピアノソナタでの苦心の跡とは実に対照的だ)
展開部はいたってシンプル。
"無理をしていない" という印象。
 
 
第2楽章はAndanteの変奏曲。
ニ長調でありながらしっとりとした、夢みるような楽想が楽章全体を覆っている。
どことなく翳りを帯びた内声部の "綾" が美しい。
 
 
 
そして第3楽章。
最初の楽章と同様にソナタ形式をとる。
牧歌的な主題は次第に勢いを増し、ワルツにまで発展してゆく。
ここでシューベルトの筆は "有頂天" という言葉が当てはまるがごとく冴えわたっている。
 
 
 
前田昭雄氏はその著書の中で、シューベルト20歳代初め頃の充実ぶりを『若さの「完成」』という言葉で表現しているが、このイ長調ソナタはまさにその典型と呼んで差し支えないであろう。
 
 
【追記】
この曲の作曲年代については、1825年とする説もあるのだそうだ。
(シューベルトはこの年にもシュタイヤーへ赴いている)
 
 
 
posted by 小澤和也 at 22:58| Comment(0) | 音楽雑記帳

2016年03月06日

【中期のシューベルト3】ピアノソナタ嬰ハ短調

 
ピアノソナタ嬰ハ短調 D655(未完)
 
 
1819年4月頃に手掛けたとされている、73小節のみのソナタ楽章断片である。
【歌曲を中心に精力的な創作を続けていたシューベルトだが、ピアノソナタに関してはその前年に書かれた2曲も未完に終わっている。(ハ長調D613、ヘ短調D625)】
 
第一主題(譜例A)はユニゾンでうねるような上下行の旋律。
どことなく焦燥感を帯びている。
 
[譜例A]
 
前に挙げた「序曲ホ短調 D648」のそれと同様、リズムモティーフの積み重ねによって形成された主題であり、第6小節よりすぐに推移に入る。
しかしほどなくして、減三和音や即興的な(換言すればやや「取り留めのない」)フレーズを経てすぐにホ長調の第二主題が現れる。(譜例B)
主題旋律自体はゆったりとしたラインを描くが、内声部の小刻みに震える音型がやはり不安な気分を醸し出す。
 
[譜例B]
 
この第二主題は十分に確保される。
次いで再び第一主題のモティーフが展開風に扱われ、新しい楽想(譜例C)も登場。
 
[譜例C]
 
そして、嬰ト短調と嬰ト長調とを揺れ動くチャーミングな結尾をもって呈示部は締めくくられようとする...
が、その最後、譜例Dの下段4小節目の突然の全休止によりその流れは遮られてしまうのだ!
 
[譜例D]
 
この "不意の分断" は僕に、あまりにも有名なある曲を連想させる。
1822年作曲のロ短調交響曲D759(いわゆる「未完成交響曲」)の第1楽章、第二主題の終わりの部分だ。(譜例E)
 
[譜例E]
 
話題をソナタに戻そう。
全休止の後、曲頭(嬰ハ短調)へ戻るための半音階パッセージと反復記号を置いたところで、シューベルトの筆は途絶えている。
 
以下は僕の想像である。
シューベルトはこのソナタで、中期のベートーヴェン的ないわゆる「主題労作」による楽曲構成を改めて試みたのではないだろうか。
遺された呈示部までにおいてすでに、そのための懸命の努力の痕跡を感じるのだ。
そしていよいよ展開部へさしかかる...というところで、22歳のシューベルトは苦悩し格闘し、結果的に先へ進むことを断念したように思えてならない。
もしシューベルトがこの楽章だけでも完成させてくれていたならば...
 
 
【追記】
譜例Dの終わりから「再現部へ入る」と見なす解釈があり、実際そのように補筆され録音もされているということをインターネットで知りました。
なるほど!一理ある!と思いました。
それでも、上記本文のように僕が考え、感じたというのも(少なくとも僕の中では)紛れもない事実なので、これはこれで残すこととします。
 
 
posted by 小澤和也 at 12:38| Comment(0) | 音楽雑記帳

2016年03月04日

【中期のシューベルト2】序曲ホ短調

 
序曲ホ短調 D648
 
作曲:1819年2月
編成:フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2、トロンボーン3、ティンパニ、弦五部
 
6分ほどの演奏会用序曲。
シューベルトは1817年にも2つの序曲を書いており(イタリア風序曲D590、D591)、このジャンルでは当時より人気を得ていたという。
この頃ウィーンで評判となっていたロッシーニのスタイルに倣った作品ということで、のちに "イタリア風" と名付けられた。
 
さてこのホ短調D648、今回初めて知った曲なのだがなかなか面白い。
以下、古典派〜初期ロマン派の序曲ということでひとまずソナタ形式の枠に当てはめて見てゆく。
 
 
Allegro moderatoの冒頭、ホ短調という調性のもつ性格のとおり、劇的なユニゾンの強奏で始まる。(譜例A)
第一主題部は鋭い付点リズムと分散和音による音型により進んでゆくが、シューベルトらしい息の長い旋律は出てこない。(譜例B, C)
リズムモティーフの反復で執拗にたたみかけ、中期のベートーヴェンを思わせる楽想である。
 
最初のクライマックスののち、第二主題はト長調(平行調)で静かに現れる(譜例D)。
第一主題とのコントラストはそれほど強くなく、ここでも付点リズムモティーフが支配的である。
 
 
続いてヴァイオリンにより奏される譜例E(明らかに譜例Dから派生)は、この曲の中でもっとも旋律的なものといえよう。
そして小結尾はロ長調(同主調の属調ということになる)で輝かしく響きわたり、呈示部を閉じる。
 
続く展開部に相当する部分は非常に短い...ほとんどエピソード的である。
ほどなくして第二主題部が、上記譜例D→E→Fの順で型通りに再現される。
全休止ののち、テンポを速めて (Più moto) コーダに入る。
コーダもこれまでの素材を用い、喜ばしい気分のうちに華々しく全曲を閉じる。
 
第一主題部が展開部以降でまったく現れないことや、各要素の「繋ぎ」にやや不器用なところがみられる(ブルックナーの初期交響曲群に通ずるものがある)など "ツッコミどころ" も少なくはないが、それらを差し引いても不思議な魅力を感じる作品だ。
 
posted by 小澤和也 at 22:22| Comment(0) | 音楽雑記帳

2016年02月24日

【中期のシューベルト】双子の兄弟

 
『双子の兄弟』D.647
全1幕からなるジングシュピール
 
作曲:1819年1月完成
台本:ゲオルク・エルンスト・フォン・ホフマン
場面:ライン地方のある村
 
登場人物:
村長(Bass)
その娘リースヒェン(Sop)
アントン(Ten)
二人の負傷兵フランツ&フリードリヒ・シュピース(Bass)
地方官(Bass)
農夫たち(合唱)
 
シューベルト22歳のときの作品。
上演時間は約45分、ドイツ語による歌唱とダイアログ(台詞)からなる。
(モーツァルト『魔笛』と同じスタイル)
完成の翌年、ウィーンのケルントナートーア劇場にて7回上演されたというから、まずまずの評判であったのではないだろうか。
 
村長の娘リースヒェンはこの日が18歳の誕生日。
彼女にはアントンというフィアンセがいる。
そこへ突然、フランツ・シュピースという男が登場。
フランツはリースヒェンの名付け親であるとともに、彼女との結婚の約束を18年前に(!)村長に取り付けていた、というところから騒動が始まる。
フランツが役所へ出掛けている間に今度は、戦死したと思われていたフランツの双子の弟フリードリヒが帰ってきて...
あとは定番の人違い、勘違いのドタバタ劇となる。
(フランツは右眼に眼帯を着けているが、一方のフリードリヒは左眼に...など)
最後にはすべての誤解がとけ、リースヒェンとアントンは無事に結婚、双子の兄弟も再会が叶ってめでたしめでたし。
 
序曲はソナタ形式。
その明るさ、軽さはロッシーニ風であるが、旋律の歌ごころや転調の妙はシューベルトの個性そのものだ。
第1主題はリズミカルな弦のユニゾンと爽やかな木管のレガートで始まる。
 
第2主題は属調関係にあるイ長調ではなく、ヘ長調で示される。
朗らかでコミカルなクラリネット。
 
シューベルトらしい転調を経て、古典形式に則って属調に落ち着き呈示部を閉じる。
展開部はきわめて短い...モティーフの反復と、そしてここでもさりげなく美しい転調的展開をみせる。
 
再現部はほぼ型どおりに進むが、第2主題は原調で...と思いきや変ロ長調に。
(そう来ましたか!)
4分あるかないかの小品だが、『フィガロ』や『バルビエーレ』の序曲と並べても遜色ない完成度である。
 
ストーリーは他愛のないコメディであるが、シンプルに面白いと思う。
(個人的には好きである)
セミステージ形式、ダイアログは日本語にして上演...なんていうのはどうだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:08| Comment(0) | 音楽雑記帳

2016年02月20日

【音楽雑記帳】「中期」のシューベルト

 
最近ちょっと興味があって「中期のシューベルト」について調べている。
1819-23年頃の作品がそれに当てはまるだろうか。
 
ロマン的色彩を施されつつも古典派様式に倣った前期に対し、底知れぬ深さ・大きさ・崇高さを帯びてくる後期の作風。
その変化点を感じてみたいのだ。
 
この時期の主な作品(敢えて歌曲を除く)を挙げてみる。
(なお年代の区切りは大まかなものである)
 
[1819年]
ジングシュピール『双子の兄弟』
序曲 ホ短調
ピアノソナタ嬰ハ短調(未完)
ピアノソナタイ長調
ピアノ五重奏曲『ます』
 
[1820年]
オラトリオ『ラザロ』(未完)
交響曲ニ長調(未完)
メロドラマ『魔法の竪琴』
弦楽四重奏曲ハ短調断章(未完)
 
[1821年]
交響曲ホ長調(未完)
 
[1822年]
歌劇『アルフォンソとエストレッラ』
ミサ曲変イ長調(1819年着手)
交響曲ロ短調(未完)
さすらい人幻想曲
 
[1823年]
ピアノソナタホ短調(未完)
ピアノソナタイ短調
ジングシュピール『家庭の騒動』
12のドイツ舞曲集
歌劇『リューディガー』(未完)
歌劇『フィエラブラス』
劇音楽『ロザムンデ』
 
一瞥して、未完の作品が多いことに気づく。
(いわゆる『未完成交響曲』もここに含まれている)
このことが何かを意味するのか...
 
これらの作品に触れつつ、『グレートヒェン』や『魔王』の作曲家がどのようにして『冬の旅』『即興曲』『グレイト』の境地にたどり着いたのかを知ることができたらと思う。
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:57| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年12月22日

伝記 ペーテル・ブノワ(14)

 
§第8章
 
[ブノワ最初のフランデレン語歌曲]
 
1863年6月、ブノワはこの年の『ローマ大賞』審査員に任命される。
私はここで、ブノワがパリで作曲した2つの大作、『テ・デウム」『レクイエム』について皆さんに関心を向けていただきたいのだ。
 
この年の7月21日、ベルギー国王レオポルド1世の即位32周年に際しブリュッセルで『テ・デウム』は演奏される。
この作品は聴衆に大きな感銘をもたらした。
この会に列席していたファンデンペルボーム大臣は賞賛の意を述べるとともに、ブノワが望むものを尋ねた。
ブノワの答えは明快であった。
彼は、その当時西フランデレンの小さな村の収税吏兼水門管理者だった父親のためによりよい職を請願したのである。
大臣はその謙虚な申し出に対して、有利な処遇を快く施したのだった。
そしてこの出来事は、ブノワの高潔な側面を表すものとして知られることとなる。
 
2年あまりをかけて、ブノワは『レクイエム』を作曲・完成させる。
これは混声合唱、管弦楽とハープのための大規模な楽曲となった。
1830年[訳注:ベルギー独立の年]の戦士への回想として、このレクイエムは1863年9月23日にブリュッセルの聖ヘデュラ教会において初演された。
音楽形式的にも、また着想としてもまったく新しく、強い個性をもったこの作品は、『テ・デウム』のときと同様、聴く者に大きな感動を与えたのだった。
 
ここでひとつの例えを引用することをお許しいただこう。
それはブリュッセルの画家ヴィールツによるもので、彼はこの『宗教的四部作』を次のように描写したのだった。
《『クリスマスカンタータ』は細流であるー『荘厳ミサ』は小川ー『テ・デウム』は大河ーそして『レクイエム』は大洋である!》と。
 
『テ・デウム』と『レクイエム』が準備され演奏される間、ブノワはフランデレン史上の3人の英雄たち(アンビオリクス、ディルク・ファン・デン・エルザス、ウィレム沈黙王)と、フランデレン民族の存在を表す擬人化された3つの時代による、オペラ劇場のための大規模な国民的三部作を作曲する計画を着想する。
しかしながら、多くの困難がこの決意を遂行することを妨げるのだった。
 
1863年12月、ブノワはレオポルド1世の生誕73周年に際して作曲したカンタータをリエージュにて指揮、その3ヶ月後(1864年3月)には擲弾兵連隊のためのカンタータを書き終える。
そして彼はブリュッセル、リエージュ、アントウェルペンで演奏会の準備を整えた。
それらの演目はほぼ彼自身の作品であったといわれている。
 
彼はまたヘントにおいて、1864年に王立合唱協会の指揮者として出演する。
そこでの心のこもった歓待を受けて、ブノワはその後まもなくこの協会のために男声合唱曲『収穫者たち』を書いた。
テキストはヘントの詩人ナポレオン・デスタンベルフによるもので、この作品は今なお広く合唱界においてポピュラーな作品である。
1865年には新たにブリュッセルで彼自身の作品による演奏会が、そしてもう一度ヘントでも演奏会が開かれた。
 
 
(第8章 つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 14:11| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年12月17日

伝記 ペーテル・ブノワ(13)

 
 
§第7章
 
[ブノワはフランデレン芸術のために努力する]
 
 
当時、二人のフランデレン芸術家がペーテル・ブノワを、そして彼の試みを支持していた。
ヘンドリク・コンシェンスとエマニュエル・ヒールである。
(訳注:H.コンシェンス(写真左/1812-83)はベルギーの作家。フランデレン圏におけるフラマン語文学の先駆。
E.ヒール(写真右/1834-99)はベルギーの詩人。ブノワらとともにフランデレン運動に参加。)
 
ヒールは、ブノワが渡独する以前からの友人である。
情熱と信念とをもって、ヒールはブノワの心の中にあるフランデレン人としての自覚をより強める働きをした。
二人の共同作業は1866年に始まった...この年、ブノワはオラトリオ「リュシフェル」を作曲する。
 
またこの頃、ブノワと最も近かったのはコンシェンスである。
二人は仲が良く、共通の理想を掲げ歩んでいた。
彼らはその意義とフランデレン民族の再興において、不滅の信念を育んでいたのだ。
また彼らは、自己犠牲の精神を持っていた...
それはこの戦いを素晴らしい結果へと導くために必要なものであった。
 
フランデレンはかつて、中世においてはヨーロッパ音楽の潮流の中心的存在であったのだった...
ああ、なんと長い沈黙!
ブノワはこの眠れる力を再び甦らせようとする。
彼はその人生において、独自のフランデレン音楽を呼び求めようと努め、彼の創作のエネルギーのすべてはその目的へと向けられた。
そして彼は、絶え間ない創作によってその目的を達成したのだ...
彼は私たちフランデレン国民音楽の創始者となった。
 
ブノワがこの戦いを始めたとき、同様な必死の試みがヨーロッパ各地で巻き起こっていた。
彼に対し見下した評価をなした者に向かって、彼は次のような言葉を返したのだった。
 
私の祖国は私にとって決して小さくはない。
私たちの芸術が今なお慎ましく、
他国の芸術よりも遥か低位にあろうとも、
私たちの芸術が表現できるもの、表現すべきもの、
それは私たちのものであり、その喜びを受け取るのは私たちなのだ。
 
 
(第7章 完)
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 08:45| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年12月04日

伝記 ペーテル・ブノワ(12)

 
 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
(前回からのつづき)
 
ブノワはパリで、『テ・デウム』(『宗教曲四部作』第四部として[訳注:正しくは第三部として])といくつかの小品を作曲した。
それらの中で特に記憶されるべき12曲[訳注:正しくは15曲]からなる『物語とバラッド集』は、ブノワの全ピアノ作品のうちの最良のものに属し、その評価はフランデレンをほぼ征服した。
以前は繰り返し演奏されたのだが、現在では〜残念なことに〜その機会は少なくなっている。
『弦楽四重奏曲』『フルートと管弦楽のための協奏曲』もこの時期の作品だ。
 
次いでブノワは、2つの仕事に出会う。
彼は新聞や雑誌のために記事を書き、その中で数多くのコンサートや音楽イベントの批評を執筆した。
また同時に、パリ在住のベルギー人からなる合唱団「Les Enfants de la Belgique」の指導者として、パリやその周辺都市において多くの公演を行った。
そして彼はさらに「ブフ・パリジャン」との楽旅に出る。
フランス各都市での上演が準備され、1863年にはブリュッセルやウィーンでも公演が行われた。
 
これらの機会はブノワに、熱心にそしてたゆまず仕事を続ける日々をもたらすとともに、ブノワの才能を成熟させ、また彼の芸術的見識を拡げ洗練させるのを助けた。
彼は芸術家として進むべき方向を見出しただけでなく、フランデレン人としての自己のライフワークが明確になったことに気付いたのである。
諸外国〜ドイツ各都市およびパリ〜との接触は、彼の個性をより強いものにした。
彼はフランデレンの人々のもとへ戻り、精魂をこめて彼らに奉仕しようと考えたのだった。
 
彼は旧名「ピエール・L. L. ブノワ」を捨て、以降の作品では「ペーテル・ブノワ」として登場する。
1863年3月、ブノワは「ブフ・パリジャン」を離れた。彼のここでの仕事は1年足らずであったが、その日々は彼に多くの知識と経験を与えた。
数ヶ月後、彼はブリュッセルへ戻り、そしてまもなくこの祖国において自由な創作の領域を見いだすのである。
 
 
(第6章 完)
 
 
 
 
 
 
 
 
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2015年09月09日

伝記 ペーテル・ブノワ(11)

 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
(前回からのつづき)
 
この仕事は経済上の理由だけでなく、芸術的な観点からも彼にとって興味をひくものだった。
なぜならばブノワは、海外に滞在しそこで新しい経験を積むこと、それ以上のことを求めなかったからである。
そしてフランスの首都パリは、その機会を充分に提供する場所であった。
 
当時のパリはオペラにとって大きな重要性を持つ都市だった。
パリはその作品の命運を決定していた…パリで上演されない作品、パリの聴衆に価値ありと見なされない作品が世界的に有名となることはなかった。
この首都において、ブノワは多くのことを学び続けた…それはここがヨーロッパにおけるすべての音楽的動向の反映される場所であったからである。
 
「ブフ・パリジャン」劇場は当時、オッフェンバックによって運営されていたが、彼はすぐにブノワの並外れた才能に気づく。結果、このフランデレン人作曲家はコンサートマスターのポストを得たのである。
パリにおいてブノワはいわば「二重の」生活を送る。
ひとつは「ブフ・パリジャン」での職務、そしてもうひとつは自身の理念に対する奉仕だ。
彼は劇場のために日中はリハーサル、夜は公演を指揮する。
また空き時間や劇場の中休み、また公演の後など少しでも時間があれば作曲をする。
さしあたって彼は、歌劇『ハンノキの王』の改訂の仕事に着手した。
この作品は新しい形によって、1861年に「テアトル・リリーク」にて上演されることになったのだが、その約束は実現されなかった。
まもなくブノワはこのオペラを取り下げ、序曲のみを残すと決めたのだった。
 
新たな気力をもって、ひとつの作品がブノワを駆り立てる。
そして『宗教曲四部作』第三部(スパーク2(キラリマーク)︎)としての『レクイエム』が次第に姿を現した。
星1︎訳注:原文の"第三部" は誤り。正しくは第四部である]
ここで不思議な共同作業の機会が訪れる。
「ブフ・パリジャン」の音楽家たちと親密な繋がりをもっていたブノワは、彼らにある頼みを聞いてもらうことができた…彼らは幕間に、またしばしば公演後に、自分たちの指揮者の新作の試演も行ってくれたのだ。
これはブノワにとって大きな助けとなる。
彼はそのおかげで、自分の作品の価値や意図した効果について判断することができたのであった。
これらの試みのため、ブノワはたいてい劇場の地下室にこもっていた。
 
あるとき支配人オッフェンバックは、いつものようにオーケストラと一緒にいるブノワを見つける。
『レクイエム』の厳粛で暗い響きは、その人生をまったく異なるジャンルの音楽[訳注:オペレッタ]に捧げてきたオッフェンバックに驚くべき感銘を与えたものと思われる。
 
 
(第6章 つづく)
 
 
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2015年09月02日

伝記 ペーテル・ブノワ(10)

 
 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
4年後、ブノワはドイツから戻る。
留学によって多くの新鮮な影響を受け、大いなる理想を抱いたこの若き芸術家はどこへ定住するか?
アントウェルペンだろうか?
あるいはブリュッセル?
 
否、素朴な美しさをもった生地の村は彼の心を惹きつける…
ハレルベーケのこの快活な若者は忘れられることのない足跡を残し、また喜ばしいことに彼は愛する家族の、打ちとけた村の仲間たちの、そして親愛なるレイエ川のほとりに帰ってくる…
 
ハレルベーケの地は新作『晩祷』の初演(この機会に90人以上の歌手が求められた)を聴くという恩恵をも享受する。
この作品によってブノワはふたたび注目されることとなり、当時の(1859年)音楽雑誌のひとつにおいて次のような批評が掲載された。
「ブノワ氏はこの作品をもって、将来を有望視される宗教音楽作曲家としての地位を確立するだろう」
 
それでもブノワにとって、都会からあまりに離れたハレルベーケに留まるのは不可能なことであり、彼は結局ブリュッセルへ移り住んだ。
ほどなくしてこの地で、彼がドイツから携えてきた『アヴェ・マリア』が演奏される。
また別の作品、より規模の大きな『荘厳ミサ』も演奏され、ブリュッセル、そしてヘントにおいてもセンセーションを巻き起こした。
 
1859〜60年はブノワにとって実り多い年となる。
1859年、ブリュッセルの "Casino des Galaries" で一幕物の伝説『ハンノキの王』が上演された。
(その序曲は現在もしばしばコンサートで演奏されている)
そして1860年には、管弦楽、独唱と二重合唱(星1︎)のための『クリスマスカンタータ』が初演された。
星1︎訳注:原文の"二重合唱" は誤り。正しくは通常の混声合唱である]
ブノワの元教師、他ならぬフェティスはこの作品のもっている作曲家固有の独特な響きについて言及し、この芸術家を高く評価した。
ブノワはまた、ピアノのための『大ソナタ』もこの年に仕上げた。
 
さらに1861年7月21日、混声合唱とテノール独唱、大管弦楽、オルガン、ハープのための『ミサ曲(荘厳ミサ)』がブリュッセルの聖ヒュデュラ教会で初演された。
この『ミサ曲』は前述の『クリスマスカンタータ』、そして他の2作品(『テ・デウム』および『レクイエム』)と共に同一の精神をもったシリーズとして構成され、一般に『宗教曲四部作』と見なされている。
 
ブリュッセルのショット社はこのミサ曲の出版を予定する。
その費用はできるだけ安く抑えられることとなり、この事業で出版社はほとんど利益を得られず、ただこの若き巨匠と作品の名を世に広める助けとなるものであった。
しかし、出版価格が一冊あたりわずか20フランと決められたにもかかわらず、ショット社はその計画を断念しなければならなかった。
一般大衆の関心の不足が原因であった。
 
ブノワは結果を求めていた。
そんな彼のもとに好都合な申し出が届く…
彼は「ブフ・パリジャン」劇場の指揮者となったのである。
 
 
(第6章  つづく)
 
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