2016年02月20日

【音楽雑記帳】「中期」のシューベルト

 
最近ちょっと興味があって「中期のシューベルト」について調べている。
1819-23年頃の作品がそれに当てはまるだろうか。
 
ロマン的色彩を施されつつも古典派様式に倣った前期に対し、底知れぬ深さ・大きさ・崇高さを帯びてくる後期の作風。
その変化点を感じてみたいのだ。
 
この時期の主な作品(敢えて歌曲を除く)を挙げてみる。
(なお年代の区切りは大まかなものである)
 
[1819年]
ジングシュピール『双子の兄弟』
序曲 ホ短調
ピアノソナタ嬰ハ短調(未完)
ピアノソナタイ長調
ピアノ五重奏曲『ます』
 
[1820年]
オラトリオ『ラザロ』(未完)
交響曲ニ長調(未完)
メロドラマ『魔法の竪琴』
弦楽四重奏曲ハ短調断章(未完)
 
[1821年]
交響曲ホ長調(未完)
 
[1822年]
歌劇『アルフォンソとエストレッラ』
ミサ曲変イ長調(1819年着手)
交響曲ロ短調(未完)
さすらい人幻想曲
 
[1823年]
ピアノソナタホ短調(未完)
ピアノソナタイ短調
ジングシュピール『家庭の騒動』
12のドイツ舞曲集
歌劇『リューディガー』(未完)
歌劇『フィエラブラス』
劇音楽『ロザムンデ』
 
一瞥して、未完の作品が多いことに気づく。
(いわゆる『未完成交響曲』もここに含まれている)
このことが何かを意味するのか...
 
これらの作品に触れつつ、『グレートヒェン』や『魔王』の作曲家がどのようにして『冬の旅』『即興曲』『グレイト』の境地にたどり着いたのかを知ることができたらと思う。
 
 
 
 
 
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2015年12月22日

伝記 ペーテル・ブノワ(14)

 
§第8章
 
[ブノワ最初のフランデレン語歌曲]
 
1863年6月、ブノワはこの年の『ローマ大賞』審査員に任命される。
私はここで、ブノワがパリで作曲した2つの大作、『テ・デウム」『レクイエム』について皆さんに関心を向けていただきたいのだ。
 
この年の7月21日、ベルギー国王レオポルド1世の即位32周年に際しブリュッセルで『テ・デウム』は演奏される。
この作品は聴衆に大きな感銘をもたらした。
この会に列席していたファンデンペルボーム大臣は賞賛の意を述べるとともに、ブノワが望むものを尋ねた。
ブノワの答えは明快であった。
彼は、その当時西フランデレンの小さな村の収税吏兼水門管理者だった父親のためによりよい職を請願したのである。
大臣はその謙虚な申し出に対して、有利な処遇を快く施したのだった。
そしてこの出来事は、ブノワの高潔な側面を表すものとして知られることとなる。
 
2年あまりをかけて、ブノワは『レクイエム』を作曲・完成させる。
これは混声合唱、管弦楽とハープのための大規模な楽曲となった。
1830年[訳注:ベルギー独立の年]の戦士への回想として、このレクイエムは1863年9月23日にブリュッセルの聖ヘデュラ教会において初演された。
音楽形式的にも、また着想としてもまったく新しく、強い個性をもったこの作品は、『テ・デウム』のときと同様、聴く者に大きな感動を与えたのだった。
 
ここでひとつの例えを引用することをお許しいただこう。
それはブリュッセルの画家ヴィールツによるもので、彼はこの『宗教的四部作』を次のように描写したのだった。
《『クリスマスカンタータ』は細流であるー『荘厳ミサ』は小川ー『テ・デウム』は大河ーそして『レクイエム』は大洋である!》と。
 
『テ・デウム』と『レクイエム』が準備され演奏される間、ブノワはフランデレン史上の3人の英雄たち(アンビオリクス、ディルク・ファン・デン・エルザス、ウィレム沈黙王)と、フランデレン民族の存在を表す擬人化された3つの時代による、オペラ劇場のための大規模な国民的三部作を作曲する計画を着想する。
しかしながら、多くの困難がこの決意を遂行することを妨げるのだった。
 
1863年12月、ブノワはレオポルド1世の生誕73周年に際して作曲したカンタータをリエージュにて指揮、その3ヶ月後(1864年3月)には擲弾兵連隊のためのカンタータを書き終える。
そして彼はブリュッセル、リエージュ、アントウェルペンで演奏会の準備を整えた。
それらの演目はほぼ彼自身の作品であったといわれている。
 
彼はまたヘントにおいて、1864年に王立合唱協会の指揮者として出演する。
そこでの心のこもった歓待を受けて、ブノワはその後まもなくこの協会のために男声合唱曲『収穫者たち』を書いた。
テキストはヘントの詩人ナポレオン・デスタンベルフによるもので、この作品は今なお広く合唱界においてポピュラーな作品である。
1865年には新たにブリュッセルで彼自身の作品による演奏会が、そしてもう一度ヘントでも演奏会が開かれた。
 
 
(第8章 つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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2015年12月17日

伝記 ペーテル・ブノワ(13)

 
 
§第7章
 
[ブノワはフランデレン芸術のために努力する]
 
 
当時、二人のフランデレン芸術家がペーテル・ブノワを、そして彼の試みを支持していた。
ヘンドリク・コンシェンスとエマニュエル・ヒールである。
(訳注:H.コンシェンス(写真左/1812-83)はベルギーの作家。フランデレン圏におけるフラマン語文学の先駆。
E.ヒール(写真右/1834-99)はベルギーの詩人。ブノワらとともにフランデレン運動に参加。)
 
ヒールは、ブノワが渡独する以前からの友人である。
情熱と信念とをもって、ヒールはブノワの心の中にあるフランデレン人としての自覚をより強める働きをした。
二人の共同作業は1866年に始まった...この年、ブノワはオラトリオ「リュシフェル」を作曲する。
 
またこの頃、ブノワと最も近かったのはコンシェンスである。
二人は仲が良く、共通の理想を掲げ歩んでいた。
彼らはその意義とフランデレン民族の再興において、不滅の信念を育んでいたのだ。
また彼らは、自己犠牲の精神を持っていた...
それはこの戦いを素晴らしい結果へと導くために必要なものであった。
 
フランデレンはかつて、中世においてはヨーロッパ音楽の潮流の中心的存在であったのだった...
ああ、なんと長い沈黙!
ブノワはこの眠れる力を再び甦らせようとする。
彼はその人生において、独自のフランデレン音楽を呼び求めようと努め、彼の創作のエネルギーのすべてはその目的へと向けられた。
そして彼は、絶え間ない創作によってその目的を達成したのだ...
彼は私たちフランデレン国民音楽の創始者となった。
 
ブノワがこの戦いを始めたとき、同様な必死の試みがヨーロッパ各地で巻き起こっていた。
彼に対し見下した評価をなした者に向かって、彼は次のような言葉を返したのだった。
 
私の祖国は私にとって決して小さくはない。
私たちの芸術が今なお慎ましく、
他国の芸術よりも遥か低位にあろうとも、
私たちの芸術が表現できるもの、表現すべきもの、
それは私たちのものであり、その喜びを受け取るのは私たちなのだ。
 
 
(第7章 完)
 
 
 
 
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2015年12月04日

伝記 ペーテル・ブノワ(12)

 
 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
(前回からのつづき)
 
ブノワはパリで、『テ・デウム』(『宗教曲四部作』第四部として[訳注:正しくは第三部として])といくつかの小品を作曲した。
それらの中で特に記憶されるべき12曲[訳注:正しくは15曲]からなる『物語とバラッド集』は、ブノワの全ピアノ作品のうちの最良のものに属し、その評価はフランデレンをほぼ征服した。
以前は繰り返し演奏されたのだが、現在では〜残念なことに〜その機会は少なくなっている。
『弦楽四重奏曲』『フルートと管弦楽のための協奏曲』もこの時期の作品だ。
 
次いでブノワは、2つの仕事に出会う。
彼は新聞や雑誌のために記事を書き、その中で数多くのコンサートや音楽イベントの批評を執筆した。
また同時に、パリ在住のベルギー人からなる合唱団「Les Enfants de la Belgique」の指導者として、パリやその周辺都市において多くの公演を行った。
そして彼はさらに「ブフ・パリジャン」との楽旅に出る。
フランス各都市での上演が準備され、1863年にはブリュッセルやウィーンでも公演が行われた。
 
これらの機会はブノワに、熱心にそしてたゆまず仕事を続ける日々をもたらすとともに、ブノワの才能を成熟させ、また彼の芸術的見識を拡げ洗練させるのを助けた。
彼は芸術家として進むべき方向を見出しただけでなく、フランデレン人としての自己のライフワークが明確になったことに気付いたのである。
諸外国〜ドイツ各都市およびパリ〜との接触は、彼の個性をより強いものにした。
彼はフランデレンの人々のもとへ戻り、精魂をこめて彼らに奉仕しようと考えたのだった。
 
彼は旧名「ピエール・L. L. ブノワ」を捨て、以降の作品では「ペーテル・ブノワ」として登場する。
1863年3月、ブノワは「ブフ・パリジャン」を離れた。彼のここでの仕事は1年足らずであったが、その日々は彼に多くの知識と経験を与えた。
数ヶ月後、彼はブリュッセルへ戻り、そしてまもなくこの祖国において自由な創作の領域を見いだすのである。
 
 
(第6章 完)
 
 
 
 
 
 
 
 
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2015年09月09日

伝記 ペーテル・ブノワ(11)

 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
(前回からのつづき)
 
この仕事は経済上の理由だけでなく、芸術的な観点からも彼にとって興味をひくものだった。
なぜならばブノワは、海外に滞在しそこで新しい経験を積むこと、それ以上のことを求めなかったからである。
そしてフランスの首都パリは、その機会を充分に提供する場所であった。
 
当時のパリはオペラにとって大きな重要性を持つ都市だった。
パリはその作品の命運を決定していた…パリで上演されない作品、パリの聴衆に価値ありと見なされない作品が世界的に有名となることはなかった。
この首都において、ブノワは多くのことを学び続けた…それはここがヨーロッパにおけるすべての音楽的動向の反映される場所であったからである。
 
「ブフ・パリジャン」劇場は当時、オッフェンバックによって運営されていたが、彼はすぐにブノワの並外れた才能に気づく。結果、このフランデレン人作曲家はコンサートマスターのポストを得たのである。
パリにおいてブノワはいわば「二重の」生活を送る。
ひとつは「ブフ・パリジャン」での職務、そしてもうひとつは自身の理念に対する奉仕だ。
彼は劇場のために日中はリハーサル、夜は公演を指揮する。
また空き時間や劇場の中休み、また公演の後など少しでも時間があれば作曲をする。
さしあたって彼は、歌劇『ハンノキの王』の改訂の仕事に着手した。
この作品は新しい形によって、1861年に「テアトル・リリーク」にて上演されることになったのだが、その約束は実現されなかった。
まもなくブノワはこのオペラを取り下げ、序曲のみを残すと決めたのだった。
 
新たな気力をもって、ひとつの作品がブノワを駆り立てる。
そして『宗教曲四部作』第三部(スパーク2(キラリマーク)︎)としての『レクイエム』が次第に姿を現した。
星1︎訳注:原文の"第三部" は誤り。正しくは第四部である]
ここで不思議な共同作業の機会が訪れる。
「ブフ・パリジャン」の音楽家たちと親密な繋がりをもっていたブノワは、彼らにある頼みを聞いてもらうことができた…彼らは幕間に、またしばしば公演後に、自分たちの指揮者の新作の試演も行ってくれたのだ。
これはブノワにとって大きな助けとなる。
彼はそのおかげで、自分の作品の価値や意図した効果について判断することができたのであった。
これらの試みのため、ブノワはたいてい劇場の地下室にこもっていた。
 
あるとき支配人オッフェンバックは、いつものようにオーケストラと一緒にいるブノワを見つける。
『レクイエム』の厳粛で暗い響きは、その人生をまったく異なるジャンルの音楽[訳注:オペレッタ]に捧げてきたオッフェンバックに驚くべき感銘を与えたものと思われる。
 
 
(第6章 つづく)
 
 
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2015年09月02日

伝記 ペーテル・ブノワ(10)

 
 
§第6章
 
[母国へ戻ってーそしてパリへ]
 
4年後、ブノワはドイツから戻る。
留学によって多くの新鮮な影響を受け、大いなる理想を抱いたこの若き芸術家はどこへ定住するか?
アントウェルペンだろうか?
あるいはブリュッセル?
 
否、素朴な美しさをもった生地の村は彼の心を惹きつける…
ハレルベーケのこの快活な若者は忘れられることのない足跡を残し、また喜ばしいことに彼は愛する家族の、打ちとけた村の仲間たちの、そして親愛なるレイエ川のほとりに帰ってくる…
 
ハレルベーケの地は新作『晩祷』の初演(この機会に90人以上の歌手が求められた)を聴くという恩恵をも享受する。
この作品によってブノワはふたたび注目されることとなり、当時の(1859年)音楽雑誌のひとつにおいて次のような批評が掲載された。
「ブノワ氏はこの作品をもって、将来を有望視される宗教音楽作曲家としての地位を確立するだろう」
 
それでもブノワにとって、都会からあまりに離れたハレルベーケに留まるのは不可能なことであり、彼は結局ブリュッセルへ移り住んだ。
ほどなくしてこの地で、彼がドイツから携えてきた『アヴェ・マリア』が演奏される。
また別の作品、より規模の大きな『荘厳ミサ』も演奏され、ブリュッセル、そしてヘントにおいてもセンセーションを巻き起こした。
 
1859〜60年はブノワにとって実り多い年となる。
1859年、ブリュッセルの "Casino des Galaries" で一幕物の伝説『ハンノキの王』が上演された。
(その序曲は現在もしばしばコンサートで演奏されている)
そして1860年には、管弦楽、独唱と二重合唱(星1︎)のための『クリスマスカンタータ』が初演された。
星1︎訳注:原文の"二重合唱" は誤り。正しくは通常の混声合唱である]
ブノワの元教師、他ならぬフェティスはこの作品のもっている作曲家固有の独特な響きについて言及し、この芸術家を高く評価した。
ブノワはまた、ピアノのための『大ソナタ』もこの年に仕上げた。
 
さらに1861年7月21日、混声合唱とテノール独唱、大管弦楽、オルガン、ハープのための『ミサ曲(荘厳ミサ)』がブリュッセルの聖ヒュデュラ教会で初演された。
この『ミサ曲』は前述の『クリスマスカンタータ』、そして他の2作品(『テ・デウム』および『レクイエム』)と共に同一の精神をもったシリーズとして構成され、一般に『宗教曲四部作』と見なされている。
 
ブリュッセルのショット社はこのミサ曲の出版を予定する。
その費用はできるだけ安く抑えられることとなり、この事業で出版社はほとんど利益を得られず、ただこの若き巨匠と作品の名を世に広める助けとなるものであった。
しかし、出版価格が一冊あたりわずか20フランと決められたにもかかわらず、ショット社はその計画を断念しなければならなかった。
一般大衆の関心の不足が原因であった。
 
ブノワは結果を求めていた。
そんな彼のもとに好都合な申し出が届く…
彼は「ブフ・パリジャン」劇場の指揮者となったのである。
 
 
(第6章  つづく)
 
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2015年08月18日

伝記 ペーテル・ブノワ(9)

 
 
§第5章
[ドイツでのブノワ]
 
いよいよ、留学のときがブノワを待ち受けていた。
行き先はローマ?イタリア?
 
これまで長い間、イタリアの作曲家がヨーロッパ音楽の動向をリードしていた。
イタリアの楽派は全世界で大きな影響を及ぼし、この国の巨匠たちの指導や作品が唯一無二の優れたモデルであるとほぼ無条件に見なされていたのだ。
しかしながら、ドイツ・オーストリアは次第にその束縛から離れ、作曲家たちはドイツ的な形式と内容をもったこの国独自の音楽作品を創造することを目指して努力を続ける。
国内のムーブメントは力を増してゆき、まもなくイタリア楽派はドイツ国内から押し出されることとなった…ドイツは音楽的潮流の先頭に立ったのである。
バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの大作曲家たちは、ドイツ音楽の名声を確立するために力を尽くした。
 
ブノワにとって、ドイツは無限大の価値と魅力を有する国であった。
彼はライプツィヒ、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘン他、多くの都市を訪ね、偉大な先人たちの作品研究に注力する。
ブリュッセル音楽院長フェティスの勧めによって、ブノワはまずライプツィヒへと旅立った。
短い滞在ではあったが彼はここで新しい音楽の活況をこの目で確かめる…その勢いとは1843年、メンデルスゾーンが音楽院を設立して以来現れ出ていたものであった。
ブノワは1858年の夏をドレスデンで過ごし、その後プラハ、ベルリン、ミュンヘンを訪れる。
この間のブノワは研究だけでなく作曲もし、ある合唱曲をベルリンで演奏する機会を得た。
それは8声(訳注:二重混声四部合唱)で書かれた『アヴェ・マリア』で、大聖堂の合唱隊によって歌われたのだった。
 
「ローマ大賞」受賞によって、ブノワはベルギー王立アカデミーに対して新作を提出する義務を負っていた。
そこで彼は『クリスマス小カンタータ』をもってその責任を果たす。
そしてこの作品もまた、よい印象を聴衆に残した。
 
またこのときブノワは、フランデレンに自国の音楽芸術が存在しないこと、そして外国の音楽が自国のそれを押しのけているという現状についても熟考する。
誰もがみな自国の芸術に温かみを感じ、芸術家たちが民族精神の意をくんで考え、創造するドイツのような国と比べ、状況はなんと対照的であろうか。
ドイツにおいては、全国民が誇りとする輝かしく堅固な音楽の殿堂が高く立ち現れていた…この点、フランデレンではあらゆるものが未だ始まったばかりであった…
 
この問題に関してブノワは長大な論文を書き、『クリスマス小カンタータ』とともにベルギー王立アカデミーへ送る。
この論文(「フランデレンの音楽学校とその未来」とフランス語で記されている)の中で、ブノワは自己の行動指針を述べた。
そして彼は後年、そのプリンシプルを強い熱意と粘り強さとで守り抜き、現実のものとしたのである。
 
(第5章  完)
 
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2015年07月27日

『海寄せ』に寄せて〈5〉

 
多田武彦/男声合唱組曲『海に寄せる歌』
(三好達治作詩)
 
 
5. 『鷗どり』
 
ああかの烈風のふきすさぶ
砂丘の空にとぶ鷗
沖べをわたる船もないさみしい浦の
この砂濱にとぶ鷗
(かつて私も彼らのやうなものであつた)
 
かぐろい波の起き伏しする
ああこのさみしい國のはて
季節にはやい烈風にもまれもまれて
何をもとめてとぶ鷗
(かつて私も彼らのやうなものであつた)
 
波は砂丘をゆるがして
あまたたび彼方にあがる潮煙り その轟きも
やがてむなしく消えてゆく
春まだき日をなく鷗
(かつて私も彼らのやうなものであつた)
 
ああこのさみしい海をもてあそび
短い聲でなく鷗
聲はたちまち烈風にとられてゆけど
なほこの浦にたえだえに人の名を呼ぶ鷗どり
(かつて私も彼らのやうなものであつた)
 
 
達治の第六詩集『一点鐘』所収。
前出の『海 六章』(ある橋上にて/波/貝殻/既に鷗は/この浦に/重たげの夢) に続く詩である。
多田武彦が第3曲として取り上げた『涙』(『艸千里』所収) と並ぶスケールの大きさを持つ作品。
 
河盛好蔵氏が述べているように、これは『或る日の作者の自画像』であり、抗いきれぬ運命への反抗と挫折を繰り返していたであろう当時の心境を回想の形でうたったものである。
 
音楽は、闘争的なニ短調の力強い響きで始まり、展開する。
一方、リフレインの(かつて私も〜)では対照的に、すべてのエネルギーを己の内へに向け自問するように歌われる。
 
第三連「春まだき日を〜」の部分では曲想がにわかに変わり、回想の、あるいは憧れを帯びた色合いとなる。
(このあたり、聴き手によって異なる感慨をいだくであろう)
そして最後のクライマックス、テンポを減じて叫ぶように歌われるのが「人の名をよぶ鷗どり」。
人の名、とは…
理想のひと、愛するひとの名前であろうか。
 
この『鷗どり』、
「詩」と「音楽」との妙なる調和を味わえる歌だと思う。
 
 
(完)
 
 
posted by 小澤和也 at 21:23| Comment(0) | 音楽雑記帳

2015年07月16日

『海寄せ』に寄せて〈4〉

 
三好達治、昭和16年秋に第六詩集『一点鐘』を刊行。
37編の詩と1編の散文詩を収める。
うち半数近くが「海」に関連する題材をとった詩となっているのが特徴だ。
 
多田武彦も、この詩集の中から組曲の第4〜7曲のテキストを選んだ。
『海 六章』のうちの『ある橋上にて』『既に鴎は』『この浦に』の3編、加えて『鴎どり』である。
 
 
4. 『この浦に』
 
この浦にわれなくば
誰かきかん
この夕(ゆうべ)この海のこゑ
 
この浦にわれなくば
誰か見ん
この朝(あした)この艸(くさ)のかげ
 
 
水彩による小ぶりな、淡い色合いの風景画のような詩。
そのリズムは伝統和歌のように昔風であるが、同時に新鮮さをも感じさせる。
これに付けられた音楽も、1分足らずのひっそりとしたものである。
 
 
6. 『既に鴎は』
 
既に鴎は遠くどこかへ飛び去った
昨日の私の詩のやうに
翼あるものはさいはひな…
 
あとには海が残された
今日の私の心のやうに
何かぶつくさ呟いてゐる…
 
 
昨日と今日、
飛び去った鴎と残された海、
私の詩と私の心 etc.
これらあらゆるものの対比によって、詩人の心の虚しさが静かに浮き彫りにされている。
 
最初の二行はテノールの独唱によってしっとりと歌われ、短いながらも第3曲『涙』と並んでこの組曲の聴きどころとなっている。
 
 
7. 『ある橋上にて』
 
十日くもりてひと日見ゆ
沖の小島はほのかなれ
 
いただきすこし傾きて
あやふきさまにたたずめる
 
はなだに暮るるをちかたに
わが奥つきを見るごとし
 
 
組曲『海に寄せる歌』の終曲にあたる。
音楽の持つ気分は前曲『既に鴎は』に近く、人生の無常を優しく、淡々と歌う。
詩の第三連でにわかに感情が高まるものの、それもすぐに収まってゆく。
 
はなだ(色)【縹色】は、薄い藍色のこと。
おちかた【遠方】は文字通り、あちらの方を指す。
そして、奥つき【奥つ城】は…墓所である。
詩人によって選ばれたこれらの言葉の、哀しいほどの美しさよ。
 
 
組曲第5曲『鴎どり』は…項を改めよう。
 
(つづく)
 
 
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2015年07月06日

『海寄せ』に寄せて〈3〉

 
多田武彦/男声合唱組曲『海に寄せる歌』
(三好達治作詩)
 
 
3. 『涙』
 
とある朝(あした) 一つの花の花心から
昨夜(ゆうべ)の雨がこぼれるほど
 
小さきもの
小さきものよ
 
お前の眼から お前の睫毛の間から
この朝 お前の小さな悲しみから
 
父の手に
こぼれて落ちる
 
今この父の手の上に しばしの間温かい
ああこれは これは何か
 
それは父の手を濡らし
それは父の心を濡らす
 
それは遠い国からの
それは遠い海からの
 
それはこのあはれな父の その父の
そのまた父の まぼろしの故郷からの
 
鳥の歌と 花の匂ひと 青空と
はるかにつづいた山川との
 
ー風のたより
なつかしい季節のたより
 
この朝 この父の手に
新らしくとどいた消息
 
 
第五詩集『艸千里』所収。
前掲の『山果集』からおよそ4年を経た昭和14年に刊行された。
艸千里とは「阿蘇山の中央火口丘の一つ烏帽子岳北斜面の火口跡。直径約1kmの浅い窪地で、草原をなす」(広辞苑より)。
本詩集中に『艸千里濱』という題名の詩作がある。
 
これまでの四行詩から大きく変貌を遂げ、いっそうの円熟の域に達した達治のスタイル。
その内容は、これまでのような鳥や花などの形象にぴたりと焦点を当てたものから、より詩人自身の心境(それはしばしば孤独や失意の色を見せる)を語るものへと移っているように思える。
【昭和12年7月に日中戦争が勃発、達治は出版社の特派員として一ヶ月ほど上海に赴く。
また同時期には詩人中原中也死去の報に触れている。】
 
 
「お前」である達治の長男がふとしたときに流した涙。
「父」とはもちろん達治自身である。
父の手にこぼれて落ちた温かな涙に、詩人は自らの祖先や故郷を思うのだ。
 
『象徴詩の手法がこれほど見事に生かされた例は他に求めがたく、生命の持続をこれほど純粋に美しく歌った詩も稀有である。』
(河盛好蔵氏による文章より)
 
冒頭部分
「とある朝」〜「ああこれは これは何か」
までは、レチタティーヴォあるいはアリオーソのようなバスの独唱によって訥々と語られる。
そして詩の後半
「それは父の手を濡らし」
以降は一転して、男声独特の厚みとうねりを帯びた、文字通り温かくなつかしい響きをもって歌われるのだ。
 
本組曲中における「静かなるクライマックス」と位置付けるにふさわしい佳作である。
 
(つづく)
 
 
posted by 小澤和也 at 17:25| Comment(0) | 音楽雑記帳