2014年02月01日

シューマンを辿る(4)

 
§ピアノ五重奏曲変ホ長調 op.44
 
1842年9〜10月に作曲。
この年の夏に3つの弦楽四重奏曲を書き上げたシューマンが続けて手掛けたのがこの作品である。
もともとピアニストを志し、また技法的にもピアノ的発想で作曲することの多かったシューマンにしてみれば、この流れは至極当然のものだったであろう。
 
第1楽章はアレグロ・ブリランテ、ソナタ形式。
華麗で力強い第一主題がこの楽章の中心をなし、そしていわゆる「主題労作」の進歩の跡が著しい。
一方で、しっとりと優美に奏でられる第二主題はいかにも「夢見るロベルト」といったところか。
展開部も、先に書かれた弦楽四重奏曲に比べ充実が図られている。
この部分ではピアノが大活躍だ…クララはさぞ素晴らしく弾いたのだろうな。
再現部以降は型通りに進む。
 
第2楽章はロンド形式的。
行進曲のモードで、幅広くと記されている。
まず、単調なリズムに乗ってポツリポツリと主要テーマ(ハ短調)が奏される。
葬送行進曲風というよりも、感傷的な、訥々とした "語り" といった雰囲気か。
第一の副主題はハ長調。
「優しきうた」と勝手にタイトルを付けたくなるような、シンプルで胸に沁みる旋律だ。
弦楽器(八分音符)とピアノ(三連符)の伴奏音型のリズムの微妙なずれも味がある…ブラームスの先取りのよう。
主要テーマ回帰の後に、突如激しくうねるような第二副主題が現れる。
その余韻がさめぬ中で主要テーマがヴィオラによって再び呈示され、さらには第一副主題がエスプレッシーヴォで戻ってくる瞬間の美しさに、聴く者の心は静かに揺さぶられるのだ。
そして最後に、訥々と語るテーマが現れ、ひそやかにこの楽章を閉じる。
 
続く第3楽章は2つのトリオをもつスケルツォ。
主部は6/8拍子、リズミカルに音階の上行・下行を繰り返す、シンプルな力強さをもつもの。
第一のトリオは変ト長調に移り、「ド↓ファ|ソ↓ド|〜」と揺れ動く5度下行を含んだゆったりとした主題に始まる。
また第二トリオは2/4拍子、変イ短調でもってせわしない音型が16分音符で奏でられる。
全体に明快な構成、運動的な楽章である。
 
第4楽章はソナタ形式的であるが、主要な2つの主題以外にも耳に残るフレーズがあったり、第一主題の再現が主調でなされないなど、構成としてはかなり自由である。
(正直なところ、スコアを見るまではよく分からなかったことをこっそり告白したい)
コーダに入ってからも、新しい素材が登場したり、突然フガートが現れたりと目まぐるしく進む。
ところが…
最後のクライマックスと思われたその瞬間、第1楽章第一主題による堂々たる二重フーガが始まる!
これにより、音楽は一気に大団円の気分となるのだ。
 
元来シューマンの中に備わっていたロマン性に加え、バッハの対位法、さらにはベートーヴェン的な古典派様式の佇まいをも包含した「質的に巨大な作品」だと思う。
 
 
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2014年01月08日

伝記 ペーテル・ブノワ(8)

 
§第4章
[ペーテル・ブノワ、"ローマ大賞" を獲得する]
 
ブノワが "佳作賞" を得たのと同じ頃、ベルギーでは初代国王レオポルト1世の在位25周年が祝われた。
フラームス劇場の支配人カッツはこの慶事に際し、レオポルト1世の治世を賛美した2幕4場からなる戯曲を書く…その作品は『ベルギー国民』と名付けられた。
ブノワはこの台本に音楽を付け、『ベルギー国民』はブリュッセルで、大きな称賛とともに上演される。
また、王族がこの機会にフラームス劇場を訪れ、支配人は後にこの劇場への援助として王室から寄付金を受け取ったのだった。
 
勤勉なブノワはさらに同年、フラマン語によるジングシュピール『山並みの町』を完成させる。
台本は、ドイツの劇作家コツェビューの作品を素材としたもので、同じくカッツによって書かれた。
1856年12月にこの新しいジングシュピールはさっそく上演される。
 
オランダ語のテキストによるジングシュピールは、当時としては珍しいものであった。
そして、人々がブノワのこの試みを "大胆で向こう見ずな挑戦" と考えたことも、またこの "向こう見ずな挑戦" が全面的な賞賛を得たことに人々が驚いたのも、何ら不思議ではない。
 
【小澤注:当時のベルギーは(フランデレン地域においても)フランス語を用いる少数のエリートの支配が優位を占めていた】
 
ブノワは持ち前の真剣さと粘り強さをもって、改めて "ローマ大賞" のための準備を行った。
彼はこのコンテストに二度応募している。
一度目は1855年、既に述べたように "佳作賞" を受賞した。
これは、彼の作品が審査員によって好意的に受け止められたということを意味する。
参加者は『ヘラクレスの最期』と題されたテキストに作曲した。
一等賞はP.デ・モルに与えられた…二等は該当者無しであった。
1857年、ブノワは二度目の応募をする。
そして、カンタータ『アベルの死』で見事に一等賞を獲得したのだった。
それは当然の勝利であり、この青年にさらに努力をしてゆくための強い勇気を与えるものであった。
 
【小澤注:『ヘラクレス〜』『アベル〜』ともに台本はフランス語によるものであったことを付記しておきたい】
 
(第4章  完)
 
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2013年12月29日

伝記 ペーテル・ブノワ(7)

 
§第3章
[ペーテル・ブノワは勉強する]
 
(前回からの続き)
 
こうして彼は、自身をさらに成長させるためブリュッセルの音楽院へ入学する。
当時の音楽院院長は F.J.フェティスであった。
 
父ブノワは息子を院長に引き合わせる。
ペーテル少年は既に作曲していた一連の作品を携えていた…それらの多くはモテット、ミサ、テデウムなどの教会音楽だった。
フェティスはそれらの作品に驚嘆し、この少年に個人レッスンを行うことにする。
彼はブノワにピアノと和声、次いで作曲法を教授した。
短期間のうちにこの若者は、自らの仕事に精通し、またあらゆる困難にもうち勝てるような作曲家へと成長する。
 
ブノワが音楽院で学んだ3年の間、贅沢な暮らしをしていたなどと考えてはいけない。
それどころか、学校の外では彼は懸命に働かなければならなかった…なぜなら、彼は経済的に自立すると同時に、レッスン料を支払うための金を稼がねばならなかったからである。
ある時期には、彼は一日に0.35フランしか使わなかったという。
(父親への手紙より)
彼はブリュッセルで職を探す。
ブノワの教師の一人、C.ハンセンスは彼にモネ劇場のオーケストラの「トライアングル奏者」の席を世話してやった。
 
しかし、ここで思いがけない変化が訪れる。
ブノワはブリュッセル・フラームス劇場の支配人 J.カッツの訪問を受けた。
カッツは彼をこの劇場のオーケストラの指揮者として招いたのだ。
このオファーはブノワの心を喜びで満たした。
 
このフラームス劇場は、パルク劇場の中に創設されたものである。
そこでは何が上演されていたか?
たいていは道化芝居かメロドラマであった。
一座は6年間にわたり、木曜と日曜の週二回出演を続ける。
 
さて、ここでのブノワの仕事はどのようなものだったか?
彼は劇場の小さなオーケストラを指揮するだけでなく、劇を伴奏するための(それらは激しく物々しい芝居だった)音楽を書かなければならなかった。
彼は在職中に少なくとも12の、この種の音楽を提供したのだった。
 
それにもかかわらず、この仕事は彼の充実した、そして全力でなしとげた研究を妨げることはなかった。
その最良の証明が…
1853-54年、彼はあらゆる科目で一等となり音楽院での首席の座を獲得した、という事実であろう。
さらにその一年後、ブノワは再び名をあげる。
1855年(ブノワ21歳)、彼は「ローマ大賞」に応募し、佳作賞を受賞したのだった。
 
(第3章  完)
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2013年12月25日

伝記 ペーテル・ブノワ(6)

  ペーテル・ブノワの両親
 
 
§第3章
[ペーテル・ブノワは勉強する]
 
祖父と自然だけがペーテル少年の "先生" であり続けることは、当然ながら不可能だった。
彼はやはり学校へ行くべきであった…そして我慢強く勉強する。
当時、『地区競技会』と呼ばれるものがあった…それはその地区のすべての学校の最高学年の生徒達が参加する試験である。
10歳のとき、ブノワもこの競技会に参加し、金メダルを獲得した。
それは間違いなく、大いなる栄誉のしるしであった。
 
我らのペーテルはさらに模範的に最善の努力をする…そして彼の父親は息子に、教師になるための勉強をさせることを決意した。
そのために喜びを失った者、それは不幸なペーテル自身であった。
 
若者が教師となるために進む学校は『師範学校』と呼ばれている。
ブノワがリール(Lier)の師範学校に行くことにしたのは、彼が15歳になったときであった。
そこへ入るためには、入学試験を受けなければならない。
ペーテルは試験を受けた、しかし…
彼はそこで自分の誤りを打ち明けることになった!
 
どうしてこのようなことになったのか?どうすればよかったのか?
彼は良い生徒だったのだろうに!
ならば彼は指定された問いに答えられなかったのか?
 
いや、そうではない、だが…
彼はそうしなかった!そうしたくなかったのだ!
ペーテルは音楽家になることを望んでいた、教師ではなく!
それゆえ彼は易しい問題にも答えず、何も書かれていない答案を出したのだった。
 
こうして彼は自分の意向を貫き通し、作曲家になるべく勉強することを許される。
 "勉強" とは?
そこにはたいへん多くの、そして重要な学ぶべきことがあった。
というのも、作曲家を志す者はただ音符が読めるばかりでなく、音楽理論や楽器奏法など多くのことを知らなければならない…これまでの多くの音楽家がそうしてきたように。
ペーテルは、これらの科目をすべて学ばなければならなかった。
 
・和声学:
音やその響きを、心地よく適切に互いに結合する
・対位法:
与えられた声部に、一つまたはそれ以上の旋律を、全体のフォルムを考慮し美しく音楽的に作曲する技術
・フーガ:
二声、あるいは多声の音楽作品、各々の声部に順番に主題が歌われ、その間、他の声部で適切な応答旋律(対位法的旋律)を聞かせる
 
また彼は、すべての楽器の理論を知る必要があった。
それらの理論は、編曲法および管弦楽法を使えるようにするためのものである。
 
ペーテル・ブノワは作曲家となる意志を固めた。そして…
彼にそれを思いとどまらせるものは何もなかった。
 
(第3章  つづく)
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2013年12月20日

シューマンを辿る(3)

 
§弦楽四重奏曲第3番イ長調 op.41-3
 
前にも軽く触れたが、1842年はシューマンの「室内楽の年」である。
弦楽四重奏曲の作曲過程について、彼の日記には次のように書かれているそうだ。
 
6/04  イ短調四重奏曲(=第1)に着手
6/11  第2の四重奏曲に着手
6/24  第1の四重奏曲完成
7/05  第2の四重奏曲を書き上げる
7/08  第3の四重奏曲に着手
7/22  第3の四重奏曲完成-歓喜
 
2ヶ月弱のあいだに、立て続けに3曲を書き上げたことになる。
この年、対位法・フーガ、そして弦楽四重奏曲の研究に集中して取り組んだシューマン…
その成果は1作ごとの著しい進化となって現れ、素晴らしいイ長調カルテットが完成したのだ。
 
第1楽章はソナタ形式。
7小節の短い序奏部、そして第1主題に現れる旋律は5度下行、階名で「ラーレ」と進行する形で始まる。
これは愛するクララ(Cla-ra)の名前からとったといわれている。
その真偽はともかく、一度聴いただけで耳に残るチャーミングなテーマだ。
リズミカルな伴奏に乗って伸び伸びと奏でられる第2主題はさながらピアノ小品のよう。
隙のない形式感の中にもさりげない工夫が散りばめられた、端正なフォルムのソナタ楽章である。
 
第2楽章はスケルツォ的であり、同時に変奏曲の形をとる。
続くアダージョ・モルト(ソナタ形式的)の第3楽章は、主題もさることながらそれに絡む各楽器の対位法の綾がこのうえなく美しい。
第2主題に相当する部分で刻まれる付点リズムが、一抹の不安、メランコリーを感じさせる。
 
そして第4楽章。
ロンド形式とみてよいだろう。
第2楽章と同様、鋭いリズムで切り込んでくる主要主題は、以降様々な調性で現れる。
2つの副次主題もシンコペーションの連続!
対照的に所々、民謡風の旋律がエピソードのように奏でられ、実に効果的な変化を感じさせるのだ。
楽章後半もシューマンの筆は冴え、ダイナミックで才気に溢れたフィナーレを構築してゆく。
そして迎える大団円…
紛れもなく "若き巨匠" の音楽だ。
 
新しい音楽を志向しつつも古きよき伝統をを踏まえんとした30歳代のシューマン。
バッハ、そしてハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの深遠な世界に何としても迫りたかったのだろうな…
そんなシューマンの "熱さ" がこれら3曲からは感じられるのである。
 
 
 
 
 
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2013年12月09日

シューマンを辿る(2)

 
§弦楽四重奏曲第2番ヘ長調 op.41-2
1842年作曲。4楽章からなる。
 
ソナタ形式の第1楽章。
冒頭の主題が実に清々しい。
次いで現れる第2主題ともども入念に対位法処理が施された、均整のとれた楽章である。
 
第2楽章:アンダンテの深い響きは、あたかもベートーヴェン後期の変奏曲のよう。
続くスケルツォの怪奇なリズム(執拗なシンコペーションの連続!)はピアノ曲的な発想か。
 
そして第4楽章は、『春の交響曲』フィナーレの気分をそのまま受け継いだような第1主題で始まる。
ほどなく現れる第2主題を耳にして、アッと思った。
テンポ感こそことなるものの、これは紛れもなく『第2交響曲』フィナーレの「讃美の主題」の先取りではないか!
 
(譜例:上が弦楽四重奏曲、下が第2交響曲)
 
この高貴なるフレーズが、すでにロベルトの心の中に在ったということになる。
(単に僕が知らなかっただけのことではあるが)新鮮な驚きにふっと頰が緩む瞬間であった。
 
前作から大きな飛躍を遂げたこの作品、「今や青春の真っ直中」といったところだろうか。
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2013年12月02日

シューマンを辿る

 
それまでピアノ曲やリートしか作曲していなかったシューマンが、ふとしたきっかけから『春の交響曲』を書き上げたのは1841年のこと。
初演(指揮はメンデルスゾーン)は大成功、その勢いに乗って『交響曲ニ短調』など数曲の管弦楽曲を手掛けた…が、成果は今ひとつ。
〈シューマンの筆が交響曲書法に関してまだ充分には熟していなかった〉(前田昭雄氏の著作より)ということだろうか。
 
その反省を踏まえてか、翌年には多くの室内楽作品が一気に書き上げられた。
3つの弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲などである。
そしてこの段階で大きな力を蓄えたシューマンは、翌1843年のオラトリオ『楽園とペリ』を経て、傑作『ピアノ協奏曲イ短調』『交響曲第2番』の世界へと到達するのであった。
 
僕自身の勉強のために、この時代のシューマン作品をポツリポツリと辿ってみようと思う。
 
§弦楽四重奏曲第1番イ短調 op.41-1
1842年作曲。
古典的な4楽章構成を持つ。
 
第1楽章は序奏部を伴うソナタ形式。
冒頭こそイ短調でロマンティックに始まるのだが、主部に入ると一転してヘ長調が軸となってしまうところが "若さ" だろうか。
 
第2楽章:スケルツォを経て
第3楽章:変奏曲形式のアダージョへ。
短い前奏ののちに現れる主題が、ベートーヴェン第九交響曲の第3楽章のそれとよく似ている。
 
そしてフィナーレ、ソナタ形式。
激しい性格の両主題をもとに、フガート的な展開も交えて勢力的に進むが、コーダ近くに素朴な、そして夢見るようなエピソードが挿入される…
これもシューマンらしさの一端か。
 
この第1番、印象を一言で表すならば
「懸命に背伸びをしている小さな女の子」
といった感じ。
 
いずれまた続きを書こうと思う。
 
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2013年07月19日

伝記 ペーテル・ブノワ(5)

 
§第2章
[ペーテル・ブノワの少年時代]
 
(前回からの続き)
 
とりわけ彼の祖父は稀有な人物であった。
この善良な老人は学校へ通わなかったので、いわゆる "インテリ" ではない。
しかしながら彼は聡明で感受性が強く、気さくな人柄だった。
彼はハレルベーケでは有識者と見なされていた。
彼の村で幾度か(近隣の村でも一度)式典があり、祖父は詩をもって祝宴に光彩を添えるべくそこへ招かれた。
彼はたいてい、フランデレンの英雄たちについて、そして彼らがいかにして苦しみに耐え自由のために戦ったかについて語ったのだった。
 
祖父は人々を魅了した。
彼らは祖父の話に傾聴し、彼の言葉で無駄に消え去るものはひとつもなかった。
また興味深いことに、彼はそれらの言葉を前もって紙に書くことをしなかった。
朗読をしなければならない時には、その場ですぐ作品を創った…
彼は詩を即興で読んだのである。
 
誰もが彼に対して尊敬の念を抱いていたこと、そして人々が彼を学識豊かな人とみなしていたことに何ら不思議はない。
祖父はフランデレンの歴史、さらには様々な薬草や植物とそれらの持つ医学的な力についても理解していた。
そして自然現象や太陽、月、星々についてもよく説明することができたのだった。
その話し手はペーテル少年の良き友でもあった…
彼らはよく一緒に長い散歩をし、祖父はあらゆる物事について語った。
このようにして、自然への賞賛とあらゆる創造物への愛が少年の心の中に育まれ、ペーテルは自分の国やその国民、その歴史を理解し慈しむことを学んでゆく。
 
家族以外では、近隣の村出身のオルガニスト、ピーテル・カルリールを大きな支えであると感じていた。
ペーテルは彼にオルガンとピアノを学ぶ。
このカルリールは有能な音楽家であり、彼の生徒にとっては真の友であった。
彼は幾度か、演奏会やオペラのためにブリュッセルやヘントに移り住み、そこから帰ると、彼が聴いたものについて生徒に熱っぽく語るのであった。
それらの話はペーテルの想像力を大いに掻き立てた…
自分も音楽を創る…作曲するのだ、と。
 
作曲については不充分な教育しか受けておらず、また賛同も得られなかったが、彼は敢えて挑戦した。
1850年9月3日ー当時ブノワはようやく16歳ー、寄宿学校において厳粛な授賞式が行われた。
プログラムには(もちろんフランス語で!)このように印刷されていた…『この音楽は、本学生徒ピエール・ブノワによって作曲され指揮される』。
 
この地での最初の成功は、重大な第一歩へのひとつの刺激となっただろうか?
そうであったに違いない…
なぜならばこの時以後、ペーテル・ブノワはこの分野を深く研究することを望み、まもなくカルリールを介してブリュッセルの音楽院の生徒として迎え入れられたのである(1851年)。
 
しかし、首都ブリュッセルでの彼を追ってゆく前に私(著者)は、彼の受けた普通教育についていくつか語らねばならない。
 
(第2章 完)
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2013年02月20日

伝記 ペーテル・ブノワ(4)

 
§第2章
[ペーテル・ブノワの少年時代]
 
(前回からの続き)
ブノワの母親もまた、息子の心を動かすすべを理解していた。
彼女は、宝物のような物語・伝説の数々を知っており、表現豊かな朗読を聞かせることにより、子供たちのイマジネーションに強い感動を与えられるような、不思議な力を持った女性だった。
彼女はあるとき、ドイツの作家コツェビューの戯曲を全幕朗読した…それは韻文で書かれ、演劇協会によって10回以上も上演されている作品であった。
こうして母親はペーテル少年のために、おとぎ話の登場人物や伝説的な出来事に満ちたミステリアスな世界を築いてみせる。
そして、それらのイメージや感動の宝庫(後にこの芸術家を幾度となく奮い立たせる)は、幼い頃よりペーテルの敏感な心の中で育まれていたのだった。
 
さて、これらはすべて事実だろうか?
あるいは、それらの奇抜さが書き遺されることによって生まれた空想の産物なのか?
今後の本格的な調査が、ブノワの青年時代に新たな光を投げかけるかもしれない。
 
ハレルベーケには、この少年を抑えがたく引きつけるさらに別のものがあった…それは日曜日や祝日に教会で演奏された音楽である。
そこにはオルガンだけでなく、オーケストラおよび充実した合唱団があり、共に大変有名な作曲家〜なかんずくハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン…既に100年以上にわたり世界中で演奏され、喝采を送られている三人のウィーンの作曲家〜の偉大な作品を演奏していた。
 
ペーテル少年はこれらの演奏を、一つの響きも聞き落とすことなく熱心に聴いていた…彼のような少年は他にいなかった。
彼の思考は、音楽によって高みを浮遊していく。
美しい旋律の響き、オルガンやその他様々な楽器の音色は、注意深くそして有頂天になってそれらを聴くペーテルにとって魅惑的な夢の世界の黄金の扉を開いたのだった。
 
音楽への欲求は抗いがたくかきたてられ、そしてペーテルは音楽的能力を身につけるためのあらゆる機会を逃さなかった。
教会で聴いた音楽によって、少年はより多くの恩恵を受けたであろう…家族から与えられたそれよりも。
(彼は父親の吹く甲高いクラリネットや祖父の吹くクラクションのようなホルンを聴いているのだが)
けれども、二人は常に音楽を理解する耳を持っていた…ともに音楽をこよなく愛し、そして疑いなくペーテルの音楽的成長に大いに貢献したのであった。
 
(第2章 つづく)
 
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2013年02月14日

伝記 ペーテル・ブノワ(3)

 
ブノワの肖像画
(Walter Vaesの銅版画より)
 
 
§第2章
[ペーテル・ブノワの少年時代]
 
フランデレンの中で、アントウェルペンほどペーテル・ブノワが崇拝されている都市はない。
もっとも、ブノワは出生地という意味ではアントウェルペン人ではない。
彼は西フランデレン、美しいレイエ川地域の子供であった。
コルトレイクの近く、古く小さな村ハレルベーケにて、ペーテル・レナールト・レオポルト・ブノワは1834年8月17日に生まれた。
 
ブノワは壮大で豊かなフランデレンの風景の中で成長する。
ハレルベーケからそう遠くない所に、1302年、フランデレン市民がフランスの支配者を打ち負かした地である Groeninger Kouter がある。
1世紀前には人口4000人をようやく数えるほどであったこの小さな村は、レイエ川ーイギリス人が亜麻精製所としての優れた能力ゆえに黄金の川と名付けたーの川岸に興った。
穏やかに波打つような耕地、陽気に流れるレイエ川、そして広大な空ーこうした彼の生地の自然は、ブノワの心に常に深い感銘を与え、そして彼はこれらの印象を、彼の音楽作品の中に繰り返し表現していったのだった。
 
つい数年前まで、ハレルベーケには中世の城の遺跡があった。
ハレルベーケはとても古い村である、と先に私は述べたが、歴史がそのことを我々に示している。
古文書は我々に次のように教えてくれるー
882年、《Harlebeca》はノルマン人によって壊滅させられた…
さらには11世紀、フランデレンの森林監督官もしくは伯爵がハレルベーケの城に移り住んだ、と。
 
ハレルベーケの人口は、その大半が農民、そして亜麻の栽培者である。
ペーテル・ブノワの一族はその例外となった…彼らは、村民の中ではむしろ裕福な方であった。そしてブノワの両親は質素な生活をしながらも、彼らの子供たちに幸福な青春期を送らせ、適切な教育を授けることができた。
 
ペーテル少年は初めての音楽教育を彼の父から受けた…と、ブノワに関する様々な著作物は伝えている。
この父親はレイエ川沿い、ハレルベーケから数キロの所にあるベーフェレンで生まれ、若い頃にコルトレイクで音楽(楽典、声楽、クラリネットおよびコルネット)を学んだ。
彼は並はずれた技量の専門家ではなかったが、音楽のセンスに富んだ人物であった。
 
後にブノワの父親はハレルベーケの水門管理人となる…彼はそこで質素に、つましく暮らした。
彼はまた聡明で感受性が強く、生命と自然が我々に示す「美」のすべてを見るためのペーテル少年の目を開かせたのである。
 
(第2章 つづく)
 
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