2013年12月09日

シューマンを辿る(2)

 
§弦楽四重奏曲第2番ヘ長調 op.41-2
1842年作曲。4楽章からなる。
 
ソナタ形式の第1楽章。
冒頭の主題が実に清々しい。
次いで現れる第2主題ともども入念に対位法処理が施された、均整のとれた楽章である。
 
第2楽章:アンダンテの深い響きは、あたかもベートーヴェン後期の変奏曲のよう。
続くスケルツォの怪奇なリズム(執拗なシンコペーションの連続!)はピアノ曲的な発想か。
 
そして第4楽章は、『春の交響曲』フィナーレの気分をそのまま受け継いだような第1主題で始まる。
ほどなく現れる第2主題を耳にして、アッと思った。
テンポ感こそことなるものの、これは紛れもなく『第2交響曲』フィナーレの「讃美の主題」の先取りではないか!
 
(譜例:上が弦楽四重奏曲、下が第2交響曲)
 
この高貴なるフレーズが、すでにロベルトの心の中に在ったということになる。
(単に僕が知らなかっただけのことではあるが)新鮮な驚きにふっと頰が緩む瞬間であった。
 
前作から大きな飛躍を遂げたこの作品、「今や青春の真っ直中」といったところだろうか。
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2013年12月02日

シューマンを辿る

 
それまでピアノ曲やリートしか作曲していなかったシューマンが、ふとしたきっかけから『春の交響曲』を書き上げたのは1841年のこと。
初演(指揮はメンデルスゾーン)は大成功、その勢いに乗って『交響曲ニ短調』など数曲の管弦楽曲を手掛けた…が、成果は今ひとつ。
〈シューマンの筆が交響曲書法に関してまだ充分には熟していなかった〉(前田昭雄氏の著作より)ということだろうか。
 
その反省を踏まえてか、翌年には多くの室内楽作品が一気に書き上げられた。
3つの弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、ピアノ四重奏曲などである。
そしてこの段階で大きな力を蓄えたシューマンは、翌1843年のオラトリオ『楽園とペリ』を経て、傑作『ピアノ協奏曲イ短調』『交響曲第2番』の世界へと到達するのであった。
 
僕自身の勉強のために、この時代のシューマン作品をポツリポツリと辿ってみようと思う。
 
§弦楽四重奏曲第1番イ短調 op.41-1
1842年作曲。
古典的な4楽章構成を持つ。
 
第1楽章は序奏部を伴うソナタ形式。
冒頭こそイ短調でロマンティックに始まるのだが、主部に入ると一転してヘ長調が軸となってしまうところが "若さ" だろうか。
 
第2楽章:スケルツォを経て
第3楽章:変奏曲形式のアダージョへ。
短い前奏ののちに現れる主題が、ベートーヴェン第九交響曲の第3楽章のそれとよく似ている。
 
そしてフィナーレ、ソナタ形式。
激しい性格の両主題をもとに、フガート的な展開も交えて勢力的に進むが、コーダ近くに素朴な、そして夢見るようなエピソードが挿入される…
これもシューマンらしさの一端か。
 
この第1番、印象を一言で表すならば
「懸命に背伸びをしている小さな女の子」
といった感じ。
 
いずれまた続きを書こうと思う。
 
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2013年07月19日

伝記 ペーテル・ブノワ(5)

 
§第2章
[ペーテル・ブノワの少年時代]
 
(前回からの続き)
 
とりわけ彼の祖父は稀有な人物であった。
この善良な老人は学校へ通わなかったので、いわゆる "インテリ" ではない。
しかしながら彼は聡明で感受性が強く、気さくな人柄だった。
彼はハレルベーケでは有識者と見なされていた。
彼の村で幾度か(近隣の村でも一度)式典があり、祖父は詩をもって祝宴に光彩を添えるべくそこへ招かれた。
彼はたいてい、フランデレンの英雄たちについて、そして彼らがいかにして苦しみに耐え自由のために戦ったかについて語ったのだった。
 
祖父は人々を魅了した。
彼らは祖父の話に傾聴し、彼の言葉で無駄に消え去るものはひとつもなかった。
また興味深いことに、彼はそれらの言葉を前もって紙に書くことをしなかった。
朗読をしなければならない時には、その場ですぐ作品を創った…
彼は詩を即興で読んだのである。
 
誰もが彼に対して尊敬の念を抱いていたこと、そして人々が彼を学識豊かな人とみなしていたことに何ら不思議はない。
祖父はフランデレンの歴史、さらには様々な薬草や植物とそれらの持つ医学的な力についても理解していた。
そして自然現象や太陽、月、星々についてもよく説明することができたのだった。
その話し手はペーテル少年の良き友でもあった…
彼らはよく一緒に長い散歩をし、祖父はあらゆる物事について語った。
このようにして、自然への賞賛とあらゆる創造物への愛が少年の心の中に育まれ、ペーテルは自分の国やその国民、その歴史を理解し慈しむことを学んでゆく。
 
家族以外では、近隣の村出身のオルガニスト、ピーテル・カルリールを大きな支えであると感じていた。
ペーテルは彼にオルガンとピアノを学ぶ。
このカルリールは有能な音楽家であり、彼の生徒にとっては真の友であった。
彼は幾度か、演奏会やオペラのためにブリュッセルやヘントに移り住み、そこから帰ると、彼が聴いたものについて生徒に熱っぽく語るのであった。
それらの話はペーテルの想像力を大いに掻き立てた…
自分も音楽を創る…作曲するのだ、と。
 
作曲については不充分な教育しか受けておらず、また賛同も得られなかったが、彼は敢えて挑戦した。
1850年9月3日ー当時ブノワはようやく16歳ー、寄宿学校において厳粛な授賞式が行われた。
プログラムには(もちろんフランス語で!)このように印刷されていた…『この音楽は、本学生徒ピエール・ブノワによって作曲され指揮される』。
 
この地での最初の成功は、重大な第一歩へのひとつの刺激となっただろうか?
そうであったに違いない…
なぜならばこの時以後、ペーテル・ブノワはこの分野を深く研究することを望み、まもなくカルリールを介してブリュッセルの音楽院の生徒として迎え入れられたのである(1851年)。
 
しかし、首都ブリュッセルでの彼を追ってゆく前に私(著者)は、彼の受けた普通教育についていくつか語らねばならない。
 
(第2章 完)
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2013年02月20日

伝記 ペーテル・ブノワ(4)

 
§第2章
[ペーテル・ブノワの少年時代]
 
(前回からの続き)
ブノワの母親もまた、息子の心を動かすすべを理解していた。
彼女は、宝物のような物語・伝説の数々を知っており、表現豊かな朗読を聞かせることにより、子供たちのイマジネーションに強い感動を与えられるような、不思議な力を持った女性だった。
彼女はあるとき、ドイツの作家コツェビューの戯曲を全幕朗読した…それは韻文で書かれ、演劇協会によって10回以上も上演されている作品であった。
こうして母親はペーテル少年のために、おとぎ話の登場人物や伝説的な出来事に満ちたミステリアスな世界を築いてみせる。
そして、それらのイメージや感動の宝庫(後にこの芸術家を幾度となく奮い立たせる)は、幼い頃よりペーテルの敏感な心の中で育まれていたのだった。
 
さて、これらはすべて事実だろうか?
あるいは、それらの奇抜さが書き遺されることによって生まれた空想の産物なのか?
今後の本格的な調査が、ブノワの青年時代に新たな光を投げかけるかもしれない。
 
ハレルベーケには、この少年を抑えがたく引きつけるさらに別のものがあった…それは日曜日や祝日に教会で演奏された音楽である。
そこにはオルガンだけでなく、オーケストラおよび充実した合唱団があり、共に大変有名な作曲家〜なかんずくハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン…既に100年以上にわたり世界中で演奏され、喝采を送られている三人のウィーンの作曲家〜の偉大な作品を演奏していた。
 
ペーテル少年はこれらの演奏を、一つの響きも聞き落とすことなく熱心に聴いていた…彼のような少年は他にいなかった。
彼の思考は、音楽によって高みを浮遊していく。
美しい旋律の響き、オルガンやその他様々な楽器の音色は、注意深くそして有頂天になってそれらを聴くペーテルにとって魅惑的な夢の世界の黄金の扉を開いたのだった。
 
音楽への欲求は抗いがたくかきたてられ、そしてペーテルは音楽的能力を身につけるためのあらゆる機会を逃さなかった。
教会で聴いた音楽によって、少年はより多くの恩恵を受けたであろう…家族から与えられたそれよりも。
(彼は父親の吹く甲高いクラリネットや祖父の吹くクラクションのようなホルンを聴いているのだが)
けれども、二人は常に音楽を理解する耳を持っていた…ともに音楽をこよなく愛し、そして疑いなくペーテルの音楽的成長に大いに貢献したのであった。
 
(第2章 つづく)
 
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2013年02月14日

伝記 ペーテル・ブノワ(3)

 
ブノワの肖像画
(Walter Vaesの銅版画より)
 
 
§第2章
[ペーテル・ブノワの少年時代]
 
フランデレンの中で、アントウェルペンほどペーテル・ブノワが崇拝されている都市はない。
もっとも、ブノワは出生地という意味ではアントウェルペン人ではない。
彼は西フランデレン、美しいレイエ川地域の子供であった。
コルトレイクの近く、古く小さな村ハレルベーケにて、ペーテル・レナールト・レオポルト・ブノワは1834年8月17日に生まれた。
 
ブノワは壮大で豊かなフランデレンの風景の中で成長する。
ハレルベーケからそう遠くない所に、1302年、フランデレン市民がフランスの支配者を打ち負かした地である Groeninger Kouter がある。
1世紀前には人口4000人をようやく数えるほどであったこの小さな村は、レイエ川ーイギリス人が亜麻精製所としての優れた能力ゆえに黄金の川と名付けたーの川岸に興った。
穏やかに波打つような耕地、陽気に流れるレイエ川、そして広大な空ーこうした彼の生地の自然は、ブノワの心に常に深い感銘を与え、そして彼はこれらの印象を、彼の音楽作品の中に繰り返し表現していったのだった。
 
つい数年前まで、ハレルベーケには中世の城の遺跡があった。
ハレルベーケはとても古い村である、と先に私は述べたが、歴史がそのことを我々に示している。
古文書は我々に次のように教えてくれるー
882年、《Harlebeca》はノルマン人によって壊滅させられた…
さらには11世紀、フランデレンの森林監督官もしくは伯爵がハレルベーケの城に移り住んだ、と。
 
ハレルベーケの人口は、その大半が農民、そして亜麻の栽培者である。
ペーテル・ブノワの一族はその例外となった…彼らは、村民の中ではむしろ裕福な方であった。そしてブノワの両親は質素な生活をしながらも、彼らの子供たちに幸福な青春期を送らせ、適切な教育を授けることができた。
 
ペーテル少年は初めての音楽教育を彼の父から受けた…と、ブノワに関する様々な著作物は伝えている。
この父親はレイエ川沿い、ハレルベーケから数キロの所にあるベーフェレンで生まれ、若い頃にコルトレイクで音楽(楽典、声楽、クラリネットおよびコルネット)を学んだ。
彼は並はずれた技量の専門家ではなかったが、音楽のセンスに富んだ人物であった。
 
後にブノワの父親はハレルベーケの水門管理人となる…彼はそこで質素に、つましく暮らした。
彼はまた聡明で感受性が強く、生命と自然が我々に示す「美」のすべてを見るためのペーテル少年の目を開かせたのである。
 
(第2章 つづく)
 
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2013年02月12日

伝記 ペーテル・ブノワ(2)

 
 
 
§第1章
 
[彼は民衆に「歌うこと」を教えた]
 
フランデレン地域、とりわけアントウェルペンの人々は、自国の偉大な芸術家の栄誉を壮大な国民的祝祭をもって称えている。
1912年には、国民的作家 H.コンシエンスの生誕100周年が熱狂的に祝われた。
人々は彼を《民衆に「読むこと」を教えた人物》と呼び習わしている。
 
彼はその著作を世に送ることにより、民衆に「読むこと」を教えた。
それらの作品の中では、フランデレンの英雄達や著名人の物語に出会う。
また別の本の中には、フランデレンの街や村でその土地の人々によって演じられた、民衆の興味を引くような伝説を見つけることができる。
これらの作品の数々をもって、コンシエンスは民衆に、固有の地域、民族、そして言語への尊敬と愛情の念をふたたび呼び起こし、育んだのだった。
 
さて、1934年は新たな記念の年、栄光に満ち熱狂をもって祝われる年となろう。
今年はもう一人の偉大な芸術家、作曲家ペーテル・ブノワの生誕100周年に当たる。
コンシエンスが《民衆に「読むこと」を教えた人物》と称されるように、ペーテル・ブノワは《民衆に「歌うこと」を教えた人物》と呼ばれる。
 
ブノワは、音楽がその力をフランデレンの伝統・伝承から引き出すことができる、ということを理解した最初のフランデレン人作曲家であった。
彼はその音楽をフランデレン語のテキストで書いている。
彼の歌曲、そして彼の作品の多くが、民衆の心へ向かう道を見出したのだ。
 
我々はペーテル・ブノワをこう呼んでもよいだろう…現代のフランデレン人にとっての音楽芸術における真の創始者である、と。
 
 
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伝記 ペーテル・ブノワ(1)

 
 
数年前に入手した、我がペーテル・ブノワの伝記本である。
今でこそ、彼に関する数冊の資料を持っているが、はじめてこれを手にした時の感動は忘れられない。
 
 
副題に
"Een levensbeeld voor de Vlaamsche Jeugd"
「フランデレンの青少年のための伝記」
とある通り、フラマン語(≒オランダ語)によって書かれた、教育的・啓蒙的な本であるようだ。
出版年は1934年、ブノワの生誕100周年に際して頒布されたものであろう。
 
まだ読み終えてはいないのだけれど、僕自身のためのアウトプットを兼ねて、訳出したものをこれから少しずつ書いてみたいと思う。
posted by 小澤和也 at 09:26| Comment(0) | 音楽雑記帳

2011年12月14日

ブノワ(30):ドラマ・クリスティ[2]

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(続き)
楽曲構成は次のようになっている。

§序唱(Voorzang)アレルヤ
§第1部
・第1景 イエズスは我々に
「清貧の誉れ」を教える
・第2景 「労働への愛」
・第3景 「従順」
・第4景 「誘惑の克服」
・第5景 「祈り」
・第6景 「互いへの愛」
・第7景 「成功時の謙虚さ」
§第2部
・第8景 「逆境における精神力」
・第9景 「不屈の勇気」
・第10景「信仰告白」
・第11景「服従」
・第12景「不当さへの忍耐」
・第13景「悔悟」
・第14景「侮辱の赦免」
§第3部
・第15景 勝利の歌、アレルヤ

各景ごとにまず、四重唱が上記のタイトルをコラール風に歌う。
(ブノワはこの四重唱を "Stenenkoor" と呼んだ…直訳すれば「煉瓦石の合唱」であろうか)
すると続いて、語り手や洗礼者ヨハネ、イエズスや悪魔、それに大合唱も加わり聖書の物語を歌ってゆく。
それぞれの題名は多分に説教風だが、これが彼のスタイルと言えよう。
母国語での音楽教育に熱意を燃やし、信仰にも篤かったであろうブノワの…。

この曲(というか楽譜)にはもう一つの特徴がある。
それは…
各景ごとにその場面に即した、写真凸版によるキリストをモチーフとした細密画が挿入されていることである。
(画像は第13景、キリストが十字架を担わされる場面のものである)
ブノワの音楽とこれらの宗教画(ギュッフェンスとスヴェルツの共同制作)とが合わさって、一つの作品を形づくっているかのようである。

(つづく)
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2011年12月07日

ブノワ(29):ドラマ・クリスティ[1]

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久しぶりに、我がペーテル・ブノワの作品について書いてみたい。


§DRAMA CHRISTI (キリストのドラマ)

1871年(ブノワ37歳頃)の作曲。
表紙タイトルの下にフラマン語(オランダ語)で
"Geestelijk Zanggedicht" と書かれている。
直訳すれば「宗教的音楽詩」、いわゆるオラトリオと考えてよいだろう。

タイトルは上述の通りラテン語だが、テキストはオランダ語による。
ドラマ・クリスティを作曲した頃のブノワについて、J.デウィルデさんの文章から引用すると…
 
 アントウェルペン市の音楽学校校長に任命(1867年)された後も、
 ブノワの宗教音楽への熱意は不変であった。
 作曲家としてのみならず、大聖堂の音楽監督の職にあり、この地位
 において彼自身の「国民のための音楽」のプリンシプルを宗教音楽
 にも適用することを試みた。
 彼は、コラールの歌唱を自国語で行うことを主張した…それにより
 会衆が音楽に、そして典礼により深く携わるようになる、と。
 ブノワはさらに、主要な宗教曲が自国語で作曲されることを望み、
 その実例として「ドラマ・クリスティ」を書いた。
 (ブノワ/20のモテット CD解説より)

楽曲は三部構成。
アレルヤの序章の後、合計15の場面(楽章)に分かれている。
キリストの誕生から受難までを、聖書のテキストによって描き進む形をとる。

この曲の最大の特徴はその編成ではないだろうか。
スコアによれば、
「独唱、大小の男声合唱、オルガンと管弦楽のための」とある。
独唱も3人の男声(テノール、バリトン&ベース)を想定しているようだ。
配役は
・語り手1(テノール)
・イエズス(バリトン)
・語り手2、洗礼者ヨハネ、悪魔、ユダ、大祭司、総督(以上ベース)

また、オーケストラの楽器編成も
チェロ、バス、トランペット、トロンボーン&ティンパニ
と、かなり独特である。
(彼の「Hoogmis 荘厳ミサ」中のベネディクトゥスで聴かれる、やはりチェロ&バスを柱としたサウンドを想起させる)

このヴォーカルスコア、つい最近ようやく手に入れたものだ。
でも音楽は…
実演はもちろん、録音でもまだ聴いたことがない。
(おそらく、母国ベルギー以外ではあまり演奏されないのではないか)

いずれぜひ、僕自身の手で、
そしてこの耳でブノワの響きを確かめたいと思っている。

(つづく)
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2011年04月17日

ブノワ(28):歌曲「デンデル川の歌」

先日入手したLPレコードに収められている歌曲である。
詳細は不明だが、おそらく1865〜70年頃(ブノワ30歳代前半)の作品だ。
この頃のブノワは、同じ年生まれの自由主義思想の詩人、エマヌエル・ヒールから影響を受け、彼の多くの詩に曲を付けた。
また、オラトリオ「リュシフェール」「スヘルデ川」など多くの作品で彼から台本の提供を受けている。


曲はハ長調、8分の6拍子。
テキストはもちろんフラマン語である。
さらさらと流れゆく川のイメージそのままの音楽だが、ところどころ立ち止まって考え、思い、悩む。
詩と曲想との対応がごく自然で美しい。
(ただ、最後はなぜか明るく終わってしまう…失恋の歌なのに…)
ちなみにこのデンデルは、ベルギー西部を流れる65kmほどの小さな川で、スヘルデ川の支流にあたる。


例によって、大いに想像力をふくらませ、訳してみた。

 〜デンデル川の歌〜

 谷間を抜けて楽しげに
 夏には音も立てずに進む
 清らかなデンデルの流れ
  野原や牧場に沿って波打ち
  花に口づけし岩をかすめる
  清らかなデンデルの流れ

 土手にはヨシが揺れ
 悲しげな歌をひそやかに口ずさむ
 冬、この川辺で
  鳥たちはすでに飛び去り
  不気味な叫びとともに凍りつく
  清らかなデンデルの流れ 

 夢見つつ 岸辺をさまよう
 かつて私は恋するひとの手をとった
 この清らかな川辺で
  夏は私のもとから去ってしまった!
  そして冬…私はひとり歌う
  この清らかな川辺で

 ("DENDERLIEDEKE" Tekst:Emmanuel Hiel)
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