2015年12月08日

愛聴盤(35)渡邉暁雄のシベリウス

 
§シベリウス/交響曲第1番ホ短調
  渡邉暁雄指揮 ヘルシンキpo
  ('82年ライヴ録音)
 
実に久しぶりの「愛聴盤」投稿である。
ジャン・シベリウスは今からちょうど150年前のきょう(12月8日)、フィンランド・ハメーンリンナに生まれた。
これにちなんで、今日はシベリウスのディスクをあれこれ引っ張り出して聴いている。
 
まずは彼にとっての記念碑的傑作である第5交響曲。
その初演はシベリウス50歳の誕生日に行われた...すなわち1915年12月8日、ちょうど100年前のことである。
 
次に、5分ほどの小品だが実に味わい深い『鶴のいる情景』。
薄く広がる弦楽器の響きが冷たく澄んだ北欧の大気を感じさせる。
そこに突如現れる、胸に突き刺さるような鶴の声は2本のクラリネットで。
劇音楽『クオレマ(死)』中の音楽。
 
そして...
最近ほとんど聴いていなかった第1交響曲になぜか手が伸びた。
実は僕の中でこの曲は、もうこの演奏でキマリなのである。
初めて聴いたのは高校生の頃、FMで流れたヘルシンキpo初来日・シベリウスツィクルスの放送だ。
同行したフィンランドの指揮者オッコ・カムが第2、3、5&6を、そして渡邉暁雄が第1、4&7というふうに分担して振ったのだったと記憶する。
曲冒頭のクラリネット独奏から、フィナーレ大詰めの弦の死に絶えるようなピツィカートまで、鳴り渡るサウンドのすべてが僕にとってのシベリウス作品のイメージ形成に大きな影響を与え、作品の魅力を教えてくれたのだ。
やや暗い、弦のザラっとした響きは深い森のざわめき、その中を風の音のように通り抜けてゆく木管の歌、そして金管とティンパニの強奏は大地の咆哮だろうか。
 
初来日ということでヘルシンキpoも気合い十分であったことだろう。
そのオーケストラが隅々まで知り尽くしているシベリウス作品、加えてフィンランドに所縁の深いマエストロ渡邉のタクト...
様々な要素が重なり合って、このような実に濃密な演奏が実現したのではないだろうか。
 
こうして久しぶりに聴いたわけだが、30数年前の感動がほとんどそのままの色彩で蘇ってきた。
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 21:10| Comment(0) | 愛聴盤

2013年09月04日

愛聴盤(34)〜ブッフビンダーのベートーヴェン

§ベートーヴェン/ピアノソナタ全集
  ルドルフ・ブッフビンダー(pf)
  ('80〜'82年録音)
 
子供の頃、家にあったケンプの三大ソナタ集。
ピアノが大の得意だった中学時代の親友M君が貸してくれた、グールドのLP。
FMラジオで全曲放送され、エアチェックして聴きまくったブレンデル。
このあたりが僕の、ベートーヴェン/ピアノソナタとの出会いであったか。
 
音楽に目覚めてからも、バックハウス、グルダ、シュナーベル、コワセヴィッチetc.…
いろいろと聴き込んだつもりだ。
それぞれのピアニストによるそれぞれのベートーヴェン像を、この作品群は僕の前に投影し、僕はそれらを味わってきた。
 
そして…このブッフビンダー盤。
僕がこれまで聴いてきた中で、もっとも「作品そのものの姿」を表している演奏だと思う。
そこには、小さな作品を無理に巨大にみせるような手練も、後世に付加された文学的解釈もない。
あるのは、スコアを真直ぐに見据えた意思の力と、決して誇示されることのない、それでいて確かな技術である。
 
名指揮者ビューローが「ピアノ音楽の新約聖書」と称えた32のソナタ。
手にとってパッと開いたどのページから読み始めても、すーっと惹き込まれていく、まさに聖書のような…
僕はクリスチャンではないが、ベートーヴェンのソナタ集は僕にとってまさにそういう存在なのだ。
 
このレコードの中で好きな演奏は…?
到底挙げられないのだけれど、敢えて(直感的に)選ぶならば
・変ホ長調op.27-1(第13番)
・ホ短調op.90(第27番)
・変イ長調op.110(第31番)
といったところだろうか。
 
 
 
posted by 小澤和也 at 23:52| Comment(0) | 愛聴盤

2013年01月17日

愛聴盤(33)〜ツェヒリンの弾くシューベルト

 
§シューベルト/ピアノ・ソナタイ長調 D.664
  ディーター・ツェヒリン(pf)
('72年録音)
 
 
以前にも書いたが、最近好んでよく聴く音楽のひとつがシューベルトのピアノソナタである。
その中でも、このイ長調ソナタは飛び切りのお気に入りといってよいだろう。
 
『シュタイヤーーそれはウィーンから西へ170キロ程にある、リンツから程遠くない美しい町で、古い家並みはいまも見事に保たれている。ここでシューベルトは美しい自然に囲まれて、〜恵まれた夏を過ごした。このころはシューベルトの最もしあわせだった時期に数えていいだろう。それは音楽のうちにも聴きとれるようだ。』(p.68)
 
僕の愛読書、
「フランツ・シューベルト」(前田昭雄著、春秋社)からの自由な引用である。
 
1819年6月にこの地で書かれたイ長調ソナタを、ツェヒリンは実に表情豊かに奏でている。
表情豊かといっても、ただ単にテンポを揺らすとか、老練な語り口で聴かせるなどというのとはまったく異なる。
 
『第一楽章には、本当に明るくのびやかな気分が溢れている。これほどシューベルト的な、幸せの輝く主題は多くはない。』(同ページ)
 
シューベルトが楽譜に記したそのままに、歌ったり呟いたり、飛び跳ねたり身をかがめたり…
「青さ」をも含めた若々しさを、何のフィルターも通さずに音にした〜
ツェヒリンの演奏はそんな印象なのである。
 
『第二楽章アンダンテのしっとりした優雅さも、牧歌的な安らぎを呼吸している。しかしこの一見平穏な変奏曲の音の言葉には、やがて美しい憧れと深い悲しみの心が漲り溢れてくる。』(同ページ)
 
ツェヒリンはここでも、ことさら暗さを強調し過ぎることなく、「初期シューベルト」の様式感をしっかりと保っているように思える。
 
そして第三楽章…
『モーツァルト風のきりりとした楽想に続いて、ウィーナーヴァルツァーのリズムもきこえてくる。この快活なフィナーレも「シュタイヤーの夏」のしあわせの反映と言えるだろう。』(p.69)
 
この言葉に付け加えるものは、何もない。
 
このディスク、録音も美しい。
付け足されたり加工されたりといった余計なものが、ここには一切ないのだ。
posted by 小澤和也 at 22:22| Comment(0) | 愛聴盤

2012年10月03日

愛聴盤(32)〜ノイマンのマーラー

 
§マーラー/交響曲第3番
  ヴァーツラフ・ノイマン指揮 チェコフィル
('94年録音)
 
 
マーラーの音楽に何を求め、何を見るか。
僕にとってのそれは、年月の経過とともに、また僕自身の音楽的素養の深化(していると仮定して…)につれて、少しずつ変わってきた。
 
10代の頃…
御多分に洩れず、ワルターやバーンスタインの録音によって僕はマーラーの世界を知った。
そしてその後、ショルティに度肝を抜かれ、テンシュテットに魂を激しく揺さぶられもした。
これらの名指揮者の演奏すべてが「マーラーの真実」を語っているのだと思う。
 
第3番をはじめて聴いたのは中学生の頃、たぶんFM放送で流れていた若杉弘/ケルン放送響の演奏だったと記憶する。
(この時はたしか、特集が組まれていて、他にカラヤンの第4、ギーレンの第7、インバルの第9などが放送されたのではなかったかしら…
今思えば、マーラー理解の洗礼を受けたような一週間であった)
それから、クーベリックの2枚組LP(当時、数少ない廉価盤だった)を小遣いをはたいて買い、全音のミニスコアを見ながら聴いたものだった。
マーラーに関する本や雑誌も、手当たり次第に貪り読んだ。
 
こうして僕の中で、マーラーのイメージが形作られていった。
華麗な極彩色的音響、激しい感情表出、さらには極めて強い「部分部分」の存在感。
 
それゆえ、長大な第3交響曲はなかなかの難敵(?)であったのだが…
このノイマン盤との出会いが、僕にとっての「作品の景色」を大きく変えた。
ここに聴くチェコフィルの響きは実に柔らかく、「部分」の誇張によって全体が犠牲になることが決してない。
瞬間瞬間を切り取ったような巨大な音の塊の代わりに、常に流れる歌がある。
そして何よりも…
(最終的に表題は除かれたが)マーラーが全6楽章を通して語ろうとしていた「森羅万象のありよう」なるものがかくも見事に、かつ作為なく表現されているのだ。
 
全曲を聴き終える。
静かな、真に静かな感動。
現在の僕の心に最も深く響くマーラーは、これだった。
 
作品のキャラクターと指揮者ノイマンの美質との、このうえなく幸福な結び付きが…ここにはある。
 
 
posted by 小澤和也 at 01:58| Comment(0) | 愛聴盤

2012年08月04日

愛聴盤(31)〜クリーンのモーツァルト


§モーツァルト/ピアノ・ソナタ集
ヴァルター・クリーン(pf)
('64年録音)


あれはおそらく高校生の頃…
FM放送でクリーンの弾くモーツァルトの協奏曲を聴いた。
(イ長調K.488とハ短調K.491、プリッチャード指揮、オケはたしかBBC響だったか?)
とても素晴らしい演奏で、僕はあっという間にこの2曲が大好きになったのだった。

それからほどなくして、CD店で見つけたのがこの盤。
米Voxの2枚組×2セット、地味なジャケットデザイン。
当時としてはお手頃な価格に惹かれてゲットした。

有名なイ長調K.331(トルコ行進曲付き)ソナタを聴く。
コロコロと真珠の玉を転がすような、なめらかかつ粒立ったタッチがなんといっても印象的である。
録音は比較的オンマイク、残響も少なめ…
それでいてこの美しさ!
コンパクトな空間で、ピアニストのすぐ傍らで聴いているような喜びがある。

この曲に限らず、10代後半に書かれた初期のソナタ(K.279〜284など)がとってもチャーミングに弾かれているのだ。
ともするとソナチネのように演奏されることの多いこれらの作品が生き生きと息づいており、聴く者を愉しませてくれる。

…などと考えていたら、上に書いた協奏曲のライヴを無性に聴きたくなってしまった。
録音、残っていないかなあ。
posted by 小澤和也 at 17:31| Comment(0) | 愛聴盤

2012年04月14日

愛聴盤(30)〜ブロムシュテットのシベリウス

§シベリウス/交響曲第3番
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮サンフランシスコ響
('94年録音)

シベリウスの交響曲というと、人気曲としてまず第2が挙げられる。
(それに次いでは…第1だろうか)
一方で、「後期作品がシベリウスの真骨頂」「第4こそが(一見難解だが)最高傑作」という意見が多いのも確かだ。
そんな中で、すっかり置いてけぼりを食っている感のあるのがこの「第3交響曲」。
なぜだろう…
こんなにチャーミングな曲なのに…

シベリウスの作風変化の契機としてよく挙げられるのが、都市の喧騒を避けてのヤルヴェンパー移住(1904年)、咽頭の異常発覚と手術(08年)である。
これらに、第2〜第4交響曲の作曲年代を重ね合わせると、なかなか興味深い。
第2…01年
第3…04〜07年
第4…10〜11年
〜そう、第3交響曲はいわゆる「過渡期」的作品なのだ。
そして、まさにその点がこの曲の魅力でもある。

第1楽章は実に明快な、二つのテーマを軸として有機的かつ簡潔に構成されたものになっている。
第一主題はぶっきらぼうなほどに素朴、対する第二主題はメロディアスな美しさを持つ。

続く第2楽章はしっとりとしたアレグレットの変奏曲。
主題はどこか寂しげであるが、第1、第2交響曲の緩徐楽章のそれよりも詩情が乾いていて(情に溺れ過ぎていないのだ)、個人的にはこちらの方が好みである。

そしてフィナーレ、第3楽章。
スケルツォ的に始まり、しかもそれが旋律というよりも息の短いモティーフの展開をもって進んでゆく。
そんな中、ヴィオラで示されるコラール風の主題が次第に全体を覆い尽くし、実直で堂々たるエンディングを迎えるのである。

この交響曲の良さを味わう要件は
「指揮者があれこれこねくり回さないこと」
「オケが高機能であること」
に尽きるのではないだろうか。
ブロムシュテットの演奏は、小規模だが個性的なこの作品の性格をズバリ言い当てたような、(皮肉でなく)模範的なものだ。
過度のロマン性、あるいは民族的悲壮感からしっかりと距離をおき、古典的・直截的な表現を指向している。
posted by 小澤和也 at 23:39| Comment(0) | 愛聴盤

2012年02月15日

愛聴盤(29)〜グラーフのモーツァルト

§モーツァルト/フルート四重奏曲集
ペーター=ルーカス・グラーフ(fl)、
ラウアー(vn)、ヒルシュヘルト(va)、
ニッフェネッガー(vc)


グラーフのフルートの音色が大好きだ。
それは華麗というよりも素朴、そして技巧のみならず強さ(=太さ&
濃さ)をも感じさせてくれる。
彼のあたたかな息遣いが管の中を通ってゆく様が目に見えるかのよう…
これぞ「笛」といった味わいである。

全4曲の中で飛び切り有名な "ニ長調K.285"、
ここでのグラーフは、輝かしい響きでもって大空を翔けめぐるが如くに他の3パートをリードしてゆく。
ロココの装飾様式を思わせるまろやかさと軽快さである。
(もちろん、楽曲そのものもそのように出来ているわけだが…)

だが、僕がいちばん好きなのは "イ長調 K.298"、中でも第1楽章の「主題と変奏」だ。
ここではフルートが、懐かしい昔話を語るかのように優しくテーマを歌い、弦の声部と柔らかく融け合う。
intimateな、文字通りの室内楽の姿である。
posted by 小澤和也 at 12:46| Comment(0) | 愛聴盤

2011年12月03日

愛聴盤(28)〜モントゥーの「牧神」

§ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
 ピエール・モントゥー指揮ロンドン響
 ('61年録音)


中学生の頃、LP盤で繰り返し聴いた懐かしの演奏である。
当時、ベートーヴェンやモーツァルトから入門した僕にとって、ドビュッシーのこの音楽は不思議の世界であった。
和声とその進行の「縛り」からの解放、緩慢な拍節感、そしてハープやフルートによる夢のような響き…


  けだるい夏の午後。
  木陰で物憂げに葦笛を奏でる半人半獣の牧神。

冒頭、フルートソロの音色が明る過ぎず、正に憂いを帯びて響く。
それを受けるホルンの、何と柔らかくまろいこと…
ハープは…あるときは光の反映、またあるときは風のそよぎのよう。
モントゥーのバトンから紡ぎ出されるデリケートなニュアンスが、聴く者の心をつかむ。

  夢とうつつの交錯。
  水浴する美しい水の精の姿に惹かれ、
  彼女をとらえようとする牧神…しかしその姿は消え去ってしまう。

実に表情豊かなオーボエのひと吹き。
それを引き継ぐヴァイオリンの旋律の艶やかさといったら!
しかし、幸福の時間も長くは続かない…
後ろ髪を引かれるような気分のまま、次の場面へ。

  ヴィーナスに寄せる陶酔の境地。
  愛の女神との抱擁を空想する牧神。

主題を奏でるフルート、オーボエ、イングリッシュホルン&クラリネットの、
絶妙にブレンドされた音色が美しい。
やがてテーマは弦楽器に移され、この曲で唯一、しかも一瞬のff(フォルテシモ)を情熱的に響かせる。
むせ返るような官能の世界…

  やがてヴィーナスの幻影も消えて、
  牧神は身を横たえ、再び眠りに落ちてゆく…

ほとんど室内楽的とも言える精緻さを湛えたこの「牧神」。
オーケストラはこの老巨匠(この時モントゥー81歳!)に対し、このうえない敬意と信頼をもって応え、
モントゥーは作曲家ドビュッシーとそのスコアに対して、心からの献身の思いを見せている。

資料によれば、この録音がなされたのは1961年12月。
…今からちょうど50年前ということになる!
現在でも新鮮さを全く失っていない、魅力的な演奏だと思う。
posted by 小澤和也 at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛聴盤

2011年11月11日

愛聴盤(27)〜ケルテスの戴冠ミサ

§モーツァルト/ミサ曲ハ長調「戴冠ミサ」K.317
 イシュトヴァン・ケルテス指揮ウィーン響、エディット・ガブリー(s)他
 ('61年録音)


この曲の魅力を僕に教えてくれたレコードである。
ケルテスのモーツァルト演奏に触れるたびにいつも感じること…
それは
「作曲家、そして作品に対する絶対的な信頼」だ。

彼の音楽表現には、誇張や過度の演出が無い。
すべてが自然である。
聴き進んでいくうち、逆に
 《ケルテスが天国のモーツァルトから信頼されて、
  これほどまでに美しい表現力を授かった》
のではないかと思うほど。
録音が古くてやや損をしているが、このコンパクトな佳曲を「等身大」で描いたチャーミングな演奏だと思う。

「キリエ」の落ち着きはらった佇まい、
しなやかなリズムを持って進む「グローリア」、
まさに「信条の表出」というに相応しい「クレード」の実直さ…
楽曲への深い愛情と確信がそこにある。

ソプラノ独唱のエディット・ガブリーはケルテス夫人。
「フィガロ」第3幕で伯爵夫人が歌うアリア
Dove sono i bei momenti(あの美しい時はいずこへ)の原型とも言える、
柔和で高貴な「アニュス・デイ」の旋律を歌うエディット、
そこに優しく寄り添うケルテスの姿がなんとも微笑ましい。
posted by 小澤和也 at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛聴盤

2011年09月14日

私の愛聴盤(26)

§ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」
 エーリヒ・クライバー指揮コンセルトヘボウ管弦
 ('53年録音)


偶然にもベートーヴェンが続いた。
今回は「田園」。
作曲は1807〜08年、「ジャジャジャジャーンッ!」の第5交響曲と同時期にあたる。
(それにしても…なんと対照的に響く2曲だろうか!)

 余談だが、「田園」はベートーヴェン自身による命名。一方の
 「運命」は、後世の人々が勝手に付けたニックネームだ。
 (運命という呼び名がこんなに愛好されているのは日本ぐらい
 ではないかしら…)


エーリヒの演奏、ひとことで言えば「辛口」の田園である。
ワルター盤での、お爺ちゃんが孫をあやすような温かい眼差しや、バーンスタインの啓蒙的なサービス精神はここには見られない。
代わりにあるのは、リズムの鋭い切れ味と、表現の細部をオーケストラ任せにしない頑固なまでのこだわりだ。


そう、先ほどは田園と第5を「対照的」と書いたのだが、
エーリヒは、演奏解釈のアプローチとしては両者を区別せず、「凝縮」と「激しさ」に代表されるベートーヴェンの「中期様式」の作品として、一貫した立ち位置で見つめている。
そして、僕に〜ワルターやベームでこの曲に入門した僕に〜「そのこと」を教えてくれたのだった。


オーケストラがコンセルトヘボウというのも、名演となった要因だろう。

 エーリヒのリハーサルは詰めがキツかったと言われている。
 しかしコンセルトヘボウは、言葉は悪いがそれには既に慣れっ
 こだったのではあるまいか。
 (何しろ前任があのメンゲルベルクである!)
 
第2楽章の夢見るようなテンポの揺らぎや、第5楽章第一主題に施された微妙なニュアンスを聴くと、エーリヒがいかにこだわりをもってオーケストラと対峙しているかが感じられる。
また、それに応えるコンセルトヘボウのアンサンブルと音色が素晴らしい。


凛々しく力強い、まさしく「中期様式」の田園である。
posted by 小澤和也 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛聴盤