2026年01月24日

アントウェルペン音楽院からこんにちは

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ペーテル・ブノワ研究会(PBI)名誉顧問のヤン・デウィルデ氏です。
ヤンさん(敬愛の念を込めて私たちはこう呼んでいます)はベルギーの音楽学者。19〜20世紀のフランデレン音楽をご専門とし、本国におけるペーテル・ブノワ研究の第一人者です。

PBIで先日作った「ブノワTシャツ」をお届けしたところ、ブノワの胸像と並んでの写真を送ってくださいました。
ヤンさん曰く

“3 x Benoit on 1 picture”

だそうです(*^o^*)

現在フランデレン音楽研究センター・コーディネーター、またアントウェルペン王立音楽院のライブラリアンとしてもご活躍のヤンさんからのサポートが私たちPBIにとっての大きな励みとなっています。

そして ─
もうひとつお知らせがございます。
このたび開催する「ブノワ/レクイエム日本初演」演奏会が駐日ベルギー王国大使館より『日本・ベルギー友好160周年事業』として認定され、後援を賜ることとなりました。
いっそう身の引き締まる思いです。

公演は3月20日、東京・立川のたましんRISURUホールにて。
ペーテル・ブノワの美しい音楽をぜひ皆さまにお聴きいただければと心より願っております。

演奏会の詳細はこちら↓
http://kazuyaozawa.com/s/article/191555712.html

チケットぴあでも取り扱いがございます
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=2542128&fbclid=IwVERDUAPg_sxleHRuA2FlbQIxMABzcnRjBm
posted by 小澤和也 at 10:31| Comment(0) | 日記

2026年01月06日

ブノワを知る10曲(7)

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《我が母国語》

完成: 1889年4月
初演: 1889年5月2日、アントウェルペン、ネーデルラント劇場、ヘンドリク・フォンテーヌ(バス)
出版:Röder社(ライプツィヒ)


§詩人グロートと低地ドイツ語
クラウス・グロート(1819–1899)はドイツ北部、ホルシュタイン地方に生まれた詩人です。生涯を通じて低地ドイツ語文学の発展に尽力し、地域の生活や自然・文化などを詩的に表現しました。
グロートは30歳代のはじめ頃、フェーマルン島での療養中に『クヴィックボルン』と題された詩集を編みました。「我が母国語」はその中に収められています。


§ブノワ歌曲の最高傑作
1889年5月、グロートの生誕70周年を記念した祝賀会がアントウェルペンにて催されました。この式典への協力を依頼されたブノワは即座にこれを引き受け、歌曲「我が母国語」を作曲します。
付曲に際してはフランデレンの作家コンスタント・ハンセンによるアルディーチ(中世オランダ語)訳詩が用いられました。歌はもちろんのこと、ハープと弦五部(ヴァイオリンx2、ヴィオラ・チェロおよびコントラバス)による伴奏も実に魅力的です。

フランデレンの作家で詩人のランブレヒト・ランブレヒツ(1865-1932)はこの曲について次のように書いています。
『その深い情感と詩的な内容、優雅にうねる旋律、そして完璧な形式美により、ペーテル・ブノワの歌はフランデレン精神の目覚めをもたらし、フランデレンにおいて古典的な意義を持つに至った。(...) 私たちがこの地で目にした、母国語を称賛する多くの作品の中でも、これに匹敵するものは一つもない。(...)ブノワが『我が母国語』以外の作品を何も作曲していなかったとしても、彼の名前は不滅のものだったであろう。』


§拙訳「我が母国語」

我が母国語、比類なく愛しきもの

その甘い響きは深く魂をふるわせる

私の心が鋼や石のようであるときも

あなたはその驕りをはらい去ってくれる


あなたは私のこわばった首をやさしく垂れさせる

母がその胸に抱くように

あなたが私の顔を優しく撫でるとき

すべての苦しみはしずまる


私は無邪気な子供のようだ

邪な世界はそこにはない

あなたが春風のように私を包みこむと

喜びがふたたび花開く


「さあ」そして老父はなおも言った

私の手を組ませ「祈りなさい」と

「父なる神よ」と私は始める

その昔にしたように


私は深く感じ そして理解する

真心がそのように語りかける

そして天上の平安が私へと吹き寄せ

すべてがふたたび幸福となる


清く公正なる我が母国語よ

古の民のことばの語り部よ

ただ口に「父よ」と発すれば

それは天使の歌声のように私に響く


これほどに私の心を優しく愛撫する歌はない

これほどに美しく歌う夜鶯はいない

そして涙が頬を伝ってゆく

谷間を流れる小川のように


 
§参考音源
レイチェル=アン・モーガン(メゾソプラノ&ハープ)
ユリウス・サッべによる現代オランダ語訳での歌唱です。
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posted by 小澤和也 at 01:23| Comment(0) | 音楽雑記帳

2026年01月02日

新年のご挨拶

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あけましておめでとうございます。
みなさまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

ペーテル・ブノワ研究会(PBI)による第2回の自主公演『レクイエム』が目前に迫ってまいりました。
この日のために集う素晴らしい仲間たちとともにペーテル・ブノワの音楽の魅力をみなさまにお伝えいたします。
ご期待ください。

【PBIヴォーカルアンサンブル 第2回演奏会】
PETER BENOIT
REQUIEM 〜レクイエム〜
2026年3月20日(金・祝) 14時開演
たましんRISURUホール(立川市市民会館)大ホール
http://kazuyaozawa.com/s/article/191555712.html

本年もよろしくお願い申し上げます。

令和8年正月
小澤和也
posted by 小澤和也 at 23:38| Comment(0) | 日記

2025年11月28日

演奏会のごあんない

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ペーテル・ブノワ
レクイエム 〜日本初演〜

2026年3月20日(金・祝) 14:00開演
たましんRISURUホール(立川市市民会館)大ホール

プログラム:
アヴェ・マリア 作品1
フルートと管弦楽のための交響詩 作品43a(日本初演)
レクイエム(日本初演)
以上すべてペーテル・ブノワ作曲

出演:
PBIヴォーカルアンサンブル
PBI管弦楽団2026
岩下智子(フルート)
小澤和也(指揮)

チケット: 全席自由 3000円 (未就学児入場不可)
主催: ペーテル・ブノワ研究会(Peter Benoit Instituut)
お問い合わせ: ペーテル・ブノワ研究会事務局
pbi340817@gmail.com
posted by 小澤和也 at 07:54| Comment(0) | 演奏会情報

2025年11月26日

「水のいのち」考(2)…「水たまり」

田三郎による不朽の名作、組曲「水のいのち」成立のいきさつについては少し前に拙ブログで触れた。

小澤和也『音楽ノート』より
《「水のいのち」考》


彼が「海」に続いて付曲したのは、同じ詩人による「水たまり」、そして「川」であった。田は次のように述べている:
『私は高野喜久雄さんに電話し、私の考えを話し、彼の詩集「存在」の中から、すでに狙いをつけていた<水たまり>と<川>を「読む詩」から「きいてわかる詩」になおしてもらうことを頼んだのであった。』


以下に「高野喜久雄詩集」(1966年刊)に収められている「水たまり」を掲げる。
田三郎の曲をよく知る方にはその佇まいの違いにすぐ気づかれることと思う。


水たまり
高野喜久雄

轍のくぼみ 小さな
どこにでもある 水たまり
ぼくらは まさにそれに肖ている
流れて行く めあてはなくて
埋めるものも 更にない
どこにでもある 水たまり

ぼくらの深さ それは泥の深さだ
ぼくらの言葉 それは泥の言葉だ
泥の契り 泥の団欒 泥の頷き
泥のetc

しかし
ぼくらにしても いのちはないか
空に向かう いのちはないか
あの 水たまりのにごった水が
空をうつそうと する程の
ささやかな
しかし一途な いのちはないか
うつした空の 青さのように
澄もうと苦しむ 小さなこころ
うつした空の 高さのままに
在ろうと苦しむ 小さなこころ


第一連。
言わんとすることはほぼ同じなのだが、選ばれた言葉やその流れは付曲にあたって大きく変更されている。
田が加えた語句のなかで私が特に印象深く感じたのは
・たまる(溜まる)
・消え失せる
の2つだ。
曲の中ではこのように歌われる。
『くぼみにたまる/水たまり』
『ただ/だまって/たまるほかはない』
『やがて/消え失せてゆく/水たまり』
この作曲家にとって水たまりとはまず「(意に反して)たまり、そして消え失せる(運命にある)」ものなのだろう。


続く第二連では「団欒」が「まどい(円居)」に置き換えられているのが目を引く。
円居とは親しく集まり合うことでありもちろん団欒と同義だが、歌われるべき言葉としてはこちらのほうがはるかに相応しいと思う。
以下、作曲家の言葉:
『ついでながら、この詩に出てくる「やまとことば」の「ちぎり」あるいは「まどい」などを私たちは大切にしたいものである。
これらこそ、聞いてわかる、そして詩情に満ちた美しいことばだからである。』


第三連も詩の大意としては違いはないが、両者を比べて(なるほど!)感じたことが二つある。
詩の5行目
『空をうつそうと する程の』
この「程の」が歌詞の中では削られているのだ。
これはあくまで個人的な思いであるが...
そのためにこれまで私はこの曲を歌っていて
『あの水たまりの にごった水が/空をうつそうとする』
までで段落の区切りを覚えてしまい、その先の
『ささやかな/けれどもいちずな〜』
以降との繋がりをうまく感じられなかったのである。
今回原詩に当たってみて、「〜する程の」を読むことができ、この部分がようやく腹に落ちた。

もう一つは直後の7行目。
ここを田は
『けれどもいちずないのちはないのか』
とする。
この「ないか→ないのか」への変更も私の中では大きかった。
(いのちは“ないのか”......いや、そんなことはない、きっとあるはずだ!)
こんな声がどこからか聞こえてきたような気がしたのだ。


「読む詩」と「きいてわかる詩」。
これらは車の両輪のようなもので、詩の深い理解のためにはどちらも欠かせないものだと改めて思う。

posted by 小澤和也 at 14:27| Comment(0) | 音楽雑記帳