2020年01月21日

我が懐かしの「月下の一群」<5> つづき

 
 
ヴェルレーヌ『秋の歌』、
前回の続きを。
第二連は、原詩→「昨日の花」→「月下の一群・初版」と大學の紡いだ言葉の世界を順にたどってみたい。
 
 
まずはヴェルレーヌの原詩から。
(恥と承知のうえで) 敢えて機械的に、辞書と首っ引きでたどたどしく起こした拙訳を添えて。 
 
Tout suffocant
Et blême, quand
  Sonne l’heure,
時の鐘が鳴り響くと
すっかり息が詰まり
また青ざめて、
 
Je me souviens
Des jours anciens
  Et je pleure;
私は昔の日々を
思い出し
そして涙する。
 
 
処女訳詩集「昨日の花」において
大學はこの部分を次のようにうたった。
 
時の鐘
鳴り出づる頃
息苦しくも青ざめて
わが來し方を思ひ出で
さては泣き出づ。
 
思いのほか原詩に忠実な訳であるように思えるがどうだろう。
5+7+(7+5)+(7+5)+7 と
もの悲しい空気の中にもどこか心地良いリズムがある。
意外だったのが、大學が6行詩の形にこだわっていないこと...「わが來し方を思ひ出で」と一気に綴っている。
 
 
それから7年の月日を経て「月下の一群・初版」に収められた『秋の歌』の当該箇所。
“翻訳” という枠から解き放たれ、情感が自由に飛翔している。
 
時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひ出づる
わが來し方に
涙は湧く。
 
(その後、新潮文庫版においては
・思ひ出づる → 思ひぞ出づる
・わが來し方に →來し方に
と、さらに筆が加えられている。)
 
 
多くの詩集や訳詩集ほどには知られていないようであるが、大學には「ヴェルレエヌ研究」という著作がある。
(1933年、第一書房刊)
その中で、彼が『秋の歌』について言及している数行を自由に引用させていただく。
 
“「秋の歌」の如きは (...)、世の荒波にもまれもまれて、舵緒(かぢを)たえたる破(や)れ小舟の嘆きの節が身にしみる深くも哀れな歌である。(...) そこには内容にぴったりと食い合った音楽があり、そこにはつくりごととは思い難い真実性があって、ひしひしと私たちの胸にせまる、秋の夕のとりあつめたるものの憂いのように。彼が二十歳の日の作であるこの一篇の詩に、ヴェルレエヌの一生の詩風のことごとくは早くもすでに暗示されているのである。ささやくようなその音調、憂いがちなその魂の風景。”
(漢字およびかなづかいは現代のものに改めた)
 
作品への深い愛着、デカダンスの典型であったこの詩人への限りない共感がこの文章からにじみ出ている。
 
 
そして...
クライマックスの第三連へ。
同様に列挙してみよう。
 
(原詩および拙訳)
 
Et je m’en vais
Au vent mauvais
  Qui m’emporte
そして私は去る
この身をさらってゆく
烈風に吹かれて
 
Deçà, delà,
Pareil à la
  Feuille morte.
あちらへ、こちらへ、
まるで
落葉のように。
 
 
「昨日の花」
 
落葉の如く
彼方此方に
われ吹きまくる
逆風に
身をば委せて
やらんかな。
 
 
「月下の一群・初版」
 
落葉ならね
身をば遣る
われも、
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ。
 
第二連同様、それぞれに良さを感じられる大學の二つの訳詩である。
vent mauvais (直訳すると悪い/荒れた・風) が彼に手にかかると「逆風 (さかかぜ)」となる...なんと繊細かつ大胆なセンスであることよ!
 
 
あまりに唐突なたとえであるが、この詩における大學の言葉の選び方から僕は「酒造りにおける精米の工程」を連想した。
日本酒の世界に “米を磨く” という言葉があるそうな。
雑味を除き理想の味に近づけるために米の外側を敢えて “磨き落とす”...
大學が一つの詩を (ときには数十年にわたって) 訳し続けたのは、常に言葉を磨いてその純度を高めていきたかったからだと思えてならない。
『落葉ならね/身をば遣る/われも、』
のくだりなどは、僕にとってはまさに “純米大吟醸” の味わいだ。
 
 
大學によれば、ヴェルレーヌの晩年はまさにこの詩のように “「落葉の如く彼を吹きまくる世の逆風」に追い立てられる” 悲惨なものだったという。
そして今回...これら5つの詩に改めて触れることにより、堀口大學の訳詩の世界が単なる閃きではなく、段階を踏んで構築されていったものであることを学べたのは僕にとって実に大きな収穫であった。
 
(完)
 
 
posted by 小澤和也 at 11:04| Comment(0) | 音楽雑記帳

2020年01月18日

我が懐かしの「月下の一群」<5>

 
 
 
『秋の歌』 ポール・ヴェルレーヌ
 
秋風の
ヴィオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀みに
わが魂を
痛ましむ。
 
時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひぞ出づる
來し方に
涙は湧く。
 
落葉ならね
身をば遣る
われも、
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ。
 
【新潮文庫版「月下の一群」(1955年刊) より引用。原文においては以下のようにルビが振られている。
第3行『節(ふし)』『啜泣(すすりなき)』
第4行『憂(う)き』『哀(かなし)み』
第5行『魂(たましひ)』
第6行『痛(いた)ましむ』
第10行『出(い)づる』
第11行『來(こ)し方』
第14行『遣(や)る』
第18行『逆風(さかかぜ)』】
 
 
有名な、あまりに有名な一編。
明治〜大正期の詩人・上田敏による名訳 (「秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの etc.」訳詩集「海潮音」(1905年刊)所収) をはじめ、金子光晴・窪田般彌の訳も知られている。
 
 
堀口大學の『秋の歌』は「月下の一群」初版に先立って彼の処女訳詩集「昨日の花」(1918年、籾山書店刊) に収められていた。
「月下〜」初版を大學の訳詩のベースラインとするならば、「昨日の花」はさらにそのプロトタイプとでも言えようか。
 
 
詩の第一連、
初版ではこのようになっている。
 
『秋の歌』 ヴェルレエン
 
秋の
ヴィオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀みに
わが魂を
痛ましむ。
 
第1行でいきなり (あっ!) と思った。
〜秋風、ではないのか?!
(前にも書いたが、詩集を手に取るよりも先に「男声合唱曲集・月下の一群」に慣れ親しんでいた僕にとっては、その歌い出しは『秋風の〜♪』以外想像できなかったのである)
 
 
答えは大學訳の「ヴェルレーヌ詩集」(新潮文庫) の中にあった。
注釈において彼はこのように記している。
 
(...)秋風のヴィオロンのーとした本書の訳に驚く読者があるかもしれないが、(...)ふとこのヴィオロンは秋風の音だと気づいた時から、風の一字を加えることにした。(...)
 
その3年前 (1952年) に出たばかりの「白水社版・月下の一群」でもこの部分は『秋の』のままである。
ヴィオロン=風の音、というアイディア、まさに風のように大學の脳裡に吹き込んできたのだろうか。
 
 
ちなみにこの「ヴェルレーヌ詩集」(僕の手元にあるのは第34刷改版 (1973年) ) では、第4行以下が
 
もの憂きかなしみに
わがこころ
   傷つくる。
 
となっている。
あたかも庭の草花を日々世話するかのごとくに、一行一行に常に手を加え続けずにいられない大學のあくなき探求の心が見て取れる。
 
 
第二連以降、この続きは改めて。
posted by 小澤和也 at 09:42| Comment(0) | 音楽雑記帳

2020年01月14日

成人の日雑感

 
 
成人式にはとりあえず出かけた。
式典に参加し、続くアトラクションの部 (芸能人が数名来ていたはずだが全く憶えていない) が始まったところで席を立ったのだった。
 
2000年にハッピーマンデーなる制度が生まれ、そのきまりのもとでは1月15日が祝日となることは決してないのだと知ったときはちょっと寂しかったな。
あれから20年。
僕の中では未だに「成人の日=1月15日」だ。
 
 
昨日のTwitter上で
『#二十歳の自分に言っても信じないこと』
というハッシュタグが盛り上がっていた。
当時のことを思い起こしつつ、僕も二十歳の自分に話しかけてみる。
 
〜自分の夢に気付かないふりをしたまま
ボヤーッと卒業してボヤーッと就職して
まずまず楽しい10年間が待ってるよ。
でもその後、
持っていたものはあらかたみんな手放してしまって...
残ったのは“夢”のかけら。
そしてその夢の中に
お前さんはいまも生きているよ〜
 
自分でもこうなるとは想像していなかった。
よくもまあ無茶をしたものだ。
でもせっかくここまできたのだから、行けるところまでこのまま走って行こうと思う。
 
 
新成人の皆さん、おめでとうございます。
皆さんの前途に幸多からんことを。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
posted by 小澤和也 at 13:27| Comment(0) | 日記

2020年01月04日

新年のご挨拶

 
 
新年明けましておめでとうございます。
 
本年がみなさまにとって
素晴らしい一年となりますように。
 
 
“素直な心” と “微笑み” をもって
仕事に精進したいと思います。
 
本年も「音楽ノート」を
よろしくお願いいたします。
 
令和二年 正月
小澤和也
 
 
 
 
 
 
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posted by 小澤和也 at 21:59| Comment(0) | 日記

2019年12月31日

我が懐かしの「月下の一群」<4>

 
 
 
 
『催眠歌』 アンドレ・スピール
 
海よ、きかせておくれ、お前が轉(ころ)がしてゐた碩(こいし)のことを....、
お前はいつまでも飽きないか?
お前が碎いて砂にする岩のことを
お前の波のことを、お前の沫(しぶき)のことを
お前の泡のことを、お前の匂ひのことを、
お前の露が島に芽生えさせ
お前の風がいぢめる松の木のことを。
 
牛乳のやうなお前の夜明のことを
お前の中に生れ、殖えて、さうして搖れてゐる
魚(さかな)のことを、貝のことを、藻のことを、海月(くらげ)のことを、
さうしてお前の中に死んでゆく諸々(もろもろ)のことを....。
お前は何時までも飽きないか?
きかせておくれ、お前をひきつける青空のことを
お前の水に水鏡したがる星のことを
(お前の波は休みなくその影をくづしてゐる)
夜明にお前をのがれ、お前を呼吸し、お前をひきずる太陽のことを、
夕暮、お前は太陽を自分の臥床(ふしど)に引止めて置きたいのだが
太陽はいつも逃げて了ふ。
 
きかせておくれ、碩(こいし)のことを。
お前はいつまでも飽きないか?
 
【新潮文庫版「月下の一群」(1955年刊) より引用】
 
 
南弘明氏がこの曲集のために選んだ全5編のうち最長の詩。
そして当然ながらその音楽ももっともドラマティックなものとなっている。
 
 
『催眠歌』単独での初出時期は不明。
詩の構成は「月下の一群 初版」からさほど変わっていない。
使われている語句の差異 (主なもの) を挙げると
 
第2行: お前は何時までも飽きぬのか?
(第12、20行も同様)
第6行: お前の露が島の上に生えさせる
第8行: お前の牛乳のやうな夜明のことを
第15行: (お前の波は休みなくその影をこはしてゐる)
第17行: 夕暮、お前は太陽をお前の臥床に引止めたいのだが
etc.
 
第8行、それまでの「お前の〜」で始まるリズムパターンを敢えて打ち切って
「牛乳のやうなお前の夜明のことを」
と語順が入れ替えられている点が (些細なことだが) 印象的である。
 
 
詩の原題は “Berceuse”(子守歌、他にロッキングチェアの意も)。
(cf. berceur[形容詞]: 静かに揺れる、人をまどろませるような etc.)
 
大學の訳詩の題名は上記のとおり『催眠歌』。
なんとも味のある名訳である。
一方、作曲家が男声合唱曲集「月下の一群」第4曲に付けたタイトルは『海よ』。
詩の第1行からそのまま持ってきたのだと思うが...
なぜ『催眠歌』を用いなかったのだろう?
posted by 小澤和也 at 02:40| Comment(0) | 音楽雑記帳