2022年09月29日

江戸川区合唱祭のごあんない

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出演イベントのお知らせです。

§第44回 江戸川区合唱祭
(合唱団あしべ)

3年ぶりにお客さまをお迎えする形で開催のはこびとなりました。
合唱団あしべは出演順がなんと第1番!
さまざまな制約のなかで、感染防止対策に細心の注意を払いつつ「うたうよろこび」を噛みしめながらレッスンに励んできたあしべのみなさん、今回はまど・みちおさんの詩に美智子皇后陛下(当時)が英訳を施された『うたを うたうとき(When I sing a song)』(上田真樹作曲) ほか全3曲を心をこめて歌います。

この日は区内の数多くの合唱団が素敵な歌声を披露されます。
お近くの方、ご都合よろしければぜひお出かけください。


§日時: 2022年10月23日(日) 13:00開演
会場: タワーホール船堀 大ホール (都営新宿線船堀駅下車すぐ)
出演: 合唱団あしべ、小澤和也(指揮)、平岡祐子(ピアノ)
posted by 小澤和也 at 15:46| Comment(0) | 演奏会情報

2022年09月15日

“No” の意味…ラ・トラヴィアータ考

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ヴェルディ「ラ・トラヴィアータ」第2幕。
舞台はパリ、ヴィオレッタの友人フローラの邸宅での華やかなパーティーの場面。
そのクライマックス直前にヴィオレッタとアルフレード、そして宴の参加者たち (合唱) との次のような短いやりとりがある。

Alf. : Or tutti a me.
Tutti: Ne appellaste?.. che volete?..
Alf. : Questa donna conoscete?
Tutti: Chi? Violetta?
Alf. : Che facasse non sapete?
Vio. : (Ah! taci.)
Tutti: No.

アルフレード: さあ皆さん、僕のところへ集まってください。
一同(合唱): 私達を呼びましたか?いったいどうしたのです?
アルフレード: この女性をご存じですね?
一同(合唱): 誰?ヴィオレッタを?
アルフレード: 彼女が何をしたかご存じないでしょう?
ヴィオレッタ: (ああ、黙っていて。)
一同(合唱): いいえ。

この幕の前半...
喧騒のパリを離れ郊外でアルフレードとの同棲を始めたヴィオレッタのもとへ彼の父親ジェルモンが突然現れる。
旧弊氏ジェルモンは愛息と高級娼婦との愛の生活を咎め、彼と別れるようヴィオレッタに強くもとめる。
アルフレードとその家族の幸福のためにとその要求を受け入れた傷心のヴィオレッタは、彼に置き手紙を残し家を出る。
真相を知らぬまま不信感に駆られているアルフレードはヴィオレッタから「いまは男爵を愛している」(もちろん本心ではない) と聞かされ逆上...そして先の場面となる。
嫉妬に怒り狂ったアルフレードは一同の前でヴィオレッタを激しく罵倒、ヴィオレッタは気を失って倒れるのだった。

ここで...
最後に一同が発する「いいえ」、僕はこれを最近までずっと、アルフレードの言葉に対する返答
「いいえ、(彼女が何をしたかを) 知りません」
という意味だと思っていた。
直前の (括弧書きの) ヴィオレッタの言葉が “独白” である、と理解していたのだ。

ところが、である。
先日『ラ・トラヴィアータ』の台本とその対訳を読んでいてあることに気づいた。
そこではヴィオレッタのこの台詞に括弧が付いていないのである。

Alf. : Che facasse non sapete?
Vio. : Ah! taci.
Tutti: No.

そうすると、この “No.” は
「いいえ、知りません」ではなく
「いや、黙っていないで(話しなさいな)」
というニュアンスに変わってくるのでは、という疑問が生じてくる。

どうにも気に掛かって仕方ないので、ネット上で閲覧できるいくつかの楽譜で当該箇所を調べてみた。
以下、出版社名(都市)、出版年、ヴィオレッタの歌詞の順に記する。

Escudier(パリ)、1855 …… Ah! taci.
Hofmeister(ライプツィヒ)、1860 …… (zu Alfred) Ah! taci. *
Escudier(パリ)、1864 …… De gràce! **
Ricordi(ミラノ)、1868 …… (Ah! taci.) ***
Ricordi(ミラノ)、ca.1883 …… (Ah! taci.)

*) 伊/独語歌詞。独語で (アルフレートに向かって) とト書きあり
**) 仏語歌詞。「お願いだから!」
***) 出版社名は正しくは R.Stabilimento Tito di Ricordi

楽譜上でも括弧のない版があった!

少なくとも初期の印刷譜ではヴィオレッタのこの言葉は独白扱いでなかったことがわかる。
そして1868年、Ricordi社版で初めて括弧が付けられる。
印刷ミスとは考えにくい。
やはりヴェルディの指示とみなすのが自然であろう。

“No.”
たったひと声ではあるがこうして見るとさまざまな捉え方ができるものだなと、実に興味深く思えたのであった。


(追記)
今回あれこれ調べているうちに、台本自体にも年代によって違いのあることがわかった。
最初期のものでは、この “No.” がなんと【アルフレードの言葉として】書かれている。

ヴィオレッタ「ああ、黙っていて」
アルフレード「いいや(黙ってなどいられるか)」

こんな感じだろうか。

そのあたりの変遷、機会があればまた深掘りしてみたいと思っている。
posted by 小澤和也 at 14:58| Comment(0) | 日記

2022年07月20日

カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる (5)


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「源流をたどる(4)」の続きです。

『カヴァレリア・ルスティカーナの源流をたどる』
(1) へのリンク↓
(2) へのリンク↓
(3)へのリンク↓
(4)へのリンク↓

[第6場]
【トゥリッドゥ、ローラ、フィロメーナ、ブラーズィ、カミッラ、ヌンツィア】
ヌンツィアの居酒屋の前の広場。
オペラの「シェーナ、合唱と乾杯の歌」にあたる場面。
戯曲では前の第5場から続くシーンであるが、オペラにおいては前景との間に例の有名な「間奏曲」が挿入されているのはご存知のとおりである。

ヌンツィアの居酒屋の前の広場。
皆で一杯やろう、とトゥリッドゥがローラに声をかける。
ブラーズィ、カミッラ、フィロメーナも集まってくる。
オペラではトゥリッドゥ、ローラと合唱が『輝くグラスのなかで泡立つワインに万歳!」と歌うのだが、戯曲ではトゥリッドゥを中心に軽妙な、そして際どい会話が続く。

トゥリッドゥ: (店の中のヌンツィアに向かって) おい、母さん!あの美味い酒はまだあるかな?
ヌンツィア: ああ、あるよ、お前さんがきょうフランコフォルテから買ってきたはずのものならね!
トゥリッドゥ: わかったわかった、復活祭の日だってのに母さんまでそんな話するなよ(...)

ローラ: 兵隊に行ってた先では向こうの女たちをこんなふうに口説いていたのね、見れば分かるわ!
トゥリッドゥ: まったく女ってやつは!俺はいつでもこの村のことばかり考えていたんだ (...)
可哀想な男が遠くへ行って、頭も心もおかしくなって、それでも一人の女のことだけを考えながら...
そこで突然聞かされるんだ、「あの女結婚したんだぞ」って!
ローラ: あんたが遠くにいてそこで他の女に囲まれているときでも「彼女らには一切見向きもせずひとりの女のことだけをずっと考えている」と女は信じてるだなんて思ってるの?
そして帰った後は最初の女に落ち着くとか思いたいわけ?
トゥリッドゥ: 悪かったよ、謝るよ...

〜なんとも散々なトゥリッドゥである。


[第7場]
【アルフィオ、トゥリッドゥ、ブラーズィ、ローラ、カミッラ、およびフィロメーナ】
この場面以降はオペラの「フィナーレ」に相当する。
アルフィオがトゥリッドゥの差し出すグラスを撥ねつけ、二人が決闘の約束を交わすという展開は戯曲においてもほぼ同じであるが、一つ決定的に異なる点がある。

トゥリッドゥ: アルフィオさんよ、何か俺に言いたいことがあるのかい?
アルフィオ: 何も。俺が言いたいことは分かっているだろう。
トゥリッドゥ: それじゃ俺はここであんたの言いたいようにするさ。

(先に席を外していたブラーズィが妻に家へと入るように合図し、カミッラは出て行く)

ローラ: いったいどうしたの?
アルフィオ: (ローラの言葉に耳を貸さず彼女を押しやって) ここでちょっと顔を貸してくれれば、腹を割ってあの話ができるんだがな。
トゥリッドゥ: 村はずれの家のところで待っていてくれ、(...)すぐにあんたのところへ行くから。

(互いに抱き合ってキスをする。トゥリッドゥは彼の耳を軽く噛む)

アルフィオ: よくやってくれた、トゥリッドゥさんよ!お前さんにはその腹づもりがあるってことか。これこそ名誉を重んずる若者の誓約というものだ。
ローラ: ああ、マリアさま!アルフィオさん、どこへ行くの?
(...)

このように、戯曲においてはトゥリッドゥがアルフィオの耳を噛む瞬間をローラも目撃するのだ。
そしてアルフィオだけがこの場を立ち去り、第8場へと進む。


[第8場]
【トゥリッドゥ、ローラ、およびヌンツィア】
「俺がもう持ってこないほうがお前にはいいんだろうが」とアルフィオに突き放されうろたえるローラ。

ローラ: トゥリッドゥさん!あなたまでこのまま私のことを放っておくつもり?
トゥリッドゥ: 俺はあんたとはもう関係ない、二人の仲はすっかりおしまいだ。あんたの旦那と生き死にを賭けて抱き合ってキスしたのを見たろう?

戯曲ではローラのただならぬ心境が克明に描かれ、この終盤における物語中の存在感も確かである。
(この後の最終第9場にも彼女は登場する)
マスカーニがオペラ化にあたり、ローラを “修羅場” から早々に退場させているのも彼なりの考えがあってのことであろう。

ローラとのやり取りのさなかに「まだいたのかい?」とヌンツィアが顔を出す。
そこで、酔いのせいにして「サンタを頼む...」とトゥリッドゥが最後の思いを母親へと託すくだりはオペラと戯曲でほぼ共通である。

alla Santa, che non ha nessuno al mondo, pensateci voi, madre.
サンタのことなんだけど...あいつには頼れる人が誰もいないんだ...だから考えてやってくれないか、母さん。

cf. 前にも触れたが、短編小説においてはサントゥッツァは裕福な農園主コーラ氏の娘という設定になっている。


[第9場]
【ヌンツィア、ブラーズィ、ローラ、フィロメーナ、カミッラ、およびピップッツァ】
以下、台詞の全文を拙訳にて:

ヌンツィア: いったい何が言いたいんだい?
ブラーズィ: ローラ、家にお帰りよ、帰るんだ!
ローラ: なんで帰らなきゃならないのよ?
ブラーズィ: 今お前さんがここに、この広場にいちゃ良くないんだよ!もし誰かについていてほしかったら...おい、カミッラ、ここでヌンツィアさんのそばにいてやってくれ。
フィロメーナ: ああ、神様!
ヌンツィア: 息子はどこへ行ったんだい?
カミッラ: いったい何があったのさ?
ブラーズィ: 見てなかったのか、ばかだなあ、あのとき耳を噛んだろう?あれは俺がお前を殺すか、さもなくばお前が俺を殺すか、って意味なんだ。
カミッラ: ああ、なんてこと!
ヌンツィア: 私のトゥリッドゥはどこへ行ったのさ?もう何がどうなっているんだい?
ローラ: 不幸な復活祭になってしまった、ヌンツィアさん!一緒に飲んだワインがぜんぶ毒になったのよ!
ピップッツァ: トゥリッドゥさんが殺された!トゥリッドゥさんが殺されたよ!

(幕)


こうして戯曲とオペラを比較してみると、マスカーニと台本作家たちによるオペラ作品としての再構成がいかに当を得たものであるかを改めて実感させられる。
同時に、今回の戯曲台本との出会いによって、近い将来再び「カヴァレリア〜」のスコアを開いたときにこれまでとひと味違った楽譜の風景が見えてくるような気がするのだ。
楽しみである。


[参考資料]
カヴァレリーア・ルスティカーナ/河島英昭訳 (岩波文庫)
オペラ対訳ライブラリー カヴァレリア・ルスティカーナ/小瀬村幸子訳 (音楽之友社)
イタリアオペラを原語で読む カヴァレリア・ルスティカーナ/武田好 (小学館)
戯曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」翻訳/武田好 (星美学園短期大学研究論叢第40号)
Cavalleria rusticana/Giovanni Verga (OMBand Digital Editions)
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posted by 小澤和也 at 08:38| Comment(0) | 音楽雑記帳

2022年06月06日

杏仁豆腐とコーヒー、そして…

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読みかけの本を持ってぶらりと喫茶店へ。
とろとろ杏仁豆腐と東ティモール/サントモンテをオーダー。

よくよく思い返すとこの組み合わせでいただいた記憶がほとんど無いのだが、運ばれてきた瞬間に
(これはきっと間違いなく美味しい!)

結果は予想どおり。
自家製杏仁豆腐の優しくなめらかな舌触り、そして当然ながらあんずの果実との相性が抜群!
またコーヒーは豆の選別にこだわっている (お店のメニューより) というだけあってすっきりと純度の高い味わい。
淹れたてよりも少し冷ましてからのほうが味の個性が際立っていた...これはあらゆる品種にいえることだと思うが。


この日携えていたのは若松英輔さんの『種まく人』(亜紀書房刊)。
これまでに僕が手にした若松さんの本はたかだか数冊であるが、どの著作にも、そしてそれらの中のどの文章にも丹精の尽くされたやわらかな手触りのようなものを感じる。

”〜家を失い、路上で暮らしていたあの一人の男性は、その姿をもって生きることの困難を体現していた。〜“
(上掲書所収「賢者の生涯」より)

“〜身を切られるような試練にあって聴いた「フルートとハープのための協奏曲」は、あのときの私にしか訪れることのない慰藉の音楽だった。〜“
(同「音楽の慰め」より)

ページを繰りながら目頭にどうしようもなく熱いものを感じ、心を取り繕おうと咄嗟に傍らのスマートフォンで珈琲豆の銘柄を検索したりして気を紛らわせた。


美味しいコーヒーとデザート、そして良書のお蔭で、この日も豊かな時間を過ごすことができたのだった。
posted by 小澤和也 at 15:13| Comment(0) | 日記

2022年05月23日

没後10年…吉田秀和さん

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日付変わって昨日、5月22日は吉田秀和さんの没後10年の命日であった。
(もうそんなに経つのか...)
これがいまの偽らざる心境である。


中学2年生のときに『レコード芸術』誌を読み始め (生意気なガキンチョである)、吉田さんのことを初めて知って以来、氏は僕にとっての「心の師」の一人となった。
同じ頃、家の近所の小さな書店で偶然見つけた『LP三〇〇選』(新潮文庫)は、和也少年が西洋音楽の深奥へ分け入ってゆくうえでの有り難い地図であり方位磁針であった。


また、NHK-FM『名曲のたのしみ』をラジオで聴くのも毎日曜朝の喜ばしいルーティンだったことを懐かしく思い出す。
《名曲のたのしみ……吉田秀和……きょうも……◯◯を聴きましょう……》
と、まるで小学生の作文の朗読のようにぶっきらぼうに始まるあの番組が大好きだった。


吉田さんの著作は、さしあたって文庫化されたものはひと通り読んだと思う。
もちろん、僕ごときの知識などはひどくちっぽけであり興味も偏ったものであったから、それらのすべてを十分に理解したとは思っていない。
それでも、氏の文章の数々のおかげで好きになった作曲家や作品、あるいは演奏家は枚挙にいとまがない。


それらの中で敢えてひとつに絞るなら...

《けれども、僕のこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた『トリスタンとイゾルデの前奏曲』と『イゾルデの愛の死』だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものではなく、もうそういうふうに生まれついてきているみたいだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を挙げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く》
(『世界の指揮者』(新潮文庫)〜フルトヴェングラー)

“音楽の美” という極めて抽象的・感覚的な事象を言語化する明晰な知性、そしてそこに綴られた言葉の放射するエネルギーに僕は圧倒されたのだった。
いま思えば、この文章が僕にとっての “フルトヴェングラー沼” への入口であった。


もしもあと一つだけ挙げることを許されるなら...

《それから、私の好んでかけたのは、フォレのピアノ四重奏曲ハ短調。(...) 何という美しい音楽だろう!これを聴かずにいなければならないなんて。
(...)
戦争が終わったあと、さっそく私は台所のうらの穴から、[空襲に備えて庭に埋めてあった] 本とレコードを掘りだしてきた。(...)フォレの四重奏曲の第一楽章で、変ホ長調の第二主題が、あの小さな歩幅でおりてくるのをきいていたら、涙が出てきた。これをきいていると、音による、こんなやさしい愛撫は、モーツァルトや、シューベルトさえ書かなかったような気がした。
具合の悪いことに、この愛撫の旋律は、一つの楽器からほかの楽器へと手渡しされながら、十何小節かにわたり、くりかえされる。その間も、そうしてそれが終ってからも、涙はいくらでも出てくる。とうとう、私は、終りまできき通すことができなかった。》
(『私の好きな曲』(新潮文庫)〜フォレ『ピアノと弦のための五重奏曲第2番)
※ [ ] は小澤註

これを読んで...
この四重奏曲を聴きたくならないわけがないではないか!
それまでフォーレといえば『レクイエム』しか知らなかった。そんな僕を彼の室内楽の世界へと誘ってくれたのは、まぎれもなく吉田さんだったのだ。


吉田秀和さん、ありがとうございました。
posted by 小澤和也 at 00:55| Comment(0) | 日記